第五章 水の奇跡
ヴェルニアへの旅は、馬車で三日かかった。
勝男にとって、馬車に乗るのは初めての経験だった。日本では軽トラックを運転していた男が、今は荷台で揺られている。
皮肉なものだ、と思った。
リーゼは窓の外を見つめていた。
「城下町……初めてよ」
「緊張してますか」
「少しね。五万人もいるなんて、想像がつかない」
エルデ村は百人に満たない集落だった。その五百倍。
勝男にとっては、むしろ小さい方だった。日本では百万人規模の都市の水道を手がけたこともある。
しかし、この世界では——
何もかもがゼロからだ。
「着いたら、まず現地調査をします」
勝男は言った。
「水源がどこにあるか。人々がどうやって水を使っているか。糞尿をどう処理しているか。全部調べないと、対策が立てられない」
「糞尿……?」
リーゼは顔をしかめた。
「汚い話だけど、重要なんです。人間は毎日水を飲んで、毎日出す。その『出す方』を管理しないと、水は汚れる。これが下水道の基本です」
リーゼは真剣な顔で頷いた。
「下水道……それも作るの?」
「作らないと意味がない。上水道だけ作っても、街が糞尿だらけじゃ疫病は止まらない」
三日目の午後、ヴェルニアが見えてきた。
丘の上に城がそびえ、その麓に城下町が広がっている。
街の規模は確かに大きかった。石造りの建物が密集し、教会の尖塔がいくつも見える。
しかし——
近づくにつれて、異臭が漂ってきた。
「何この匂い……」
リーゼが鼻を押さえた。
勝男は表情を変えなかった。
この匂いは知っている。腐敗臭。糞尿臭。そして——死臭。
馬車が城門をくぐると、街の惨状が目に飛び込んできた。
道端に倒れている人々。彼らを避けて歩く住民たち。窓から捨てられる汚物。路上に積み上げられたゴミの山。
十四世紀のロンドンか、十九世紀のパリか。
勝男が歴史の教科書で見た「疫病蔓延中の中世都市」そのものだった。
「ひどい……」
リーゼは蒼白になっていた。
「エルデ村より、ずっと……」
「規模が違うからです。人が多ければ多いほど、汚物も多くなる。それを処理する仕組みがなければ——」
勝男は街を見渡した。
「こうなる」
馬車は城へと向かった。
城門の前で、勝男とリーゼは降ろされた。
「辺境伯様がお待ちです。こちらへ」
案内の兵士に連れられて、城の中に入る。
城の内部は、街とは対照的に清潔だった。
磨かれた石の床。明るい窓からの光。そして——
たらいに溜められた水。
城の住人たちは、街の井戸水ではなく、別の水源を使っているのだろう。
辺境伯ヴェルナーは、謁見の間で待っていた。
五十代くらいの男。白髪まじりの髪と、疲れ切った目。
「お主が『水の聖者』か」
辺境伯は椅子から立ち上がらずに言った。
「聖者ではありません。ただの水道屋です」
「すいどうや、か。珍しい呼び名だな」
「俺の世界ではそう呼ばれていました」
辺境伯の目が光った。
「転生者か」
「はい」
「ふむ。それで、本当に水を綺麗にできるのか」
「できます。ただし——」
勝男は一歩前に出た。
「条件があります」
「条件だと?」
辺境伯の声には不快が滲んでいた。
貴族に条件をつけるなど、この世界では不敬なのかもしれない。しかし、勝男は日本の水道屋だった。必要なことは言う。
「この街の水を綺麗にするには、上水道と下水道の両方が必要です。上水道だけでは意味がない」
「下水道?」
「糞尿を処理する設備です」
辺境伯は顔をしかめた。
「汚い話だな」
「汚い話をしないと、人は死にます」
勝男は遠慮なく言った。
「この街で疫病が蔓延しているのは、水が汚れているからです。水が汚れているのは、糞尿が適切に処理されていないからです。この二つを同時に解決しないと、何度でも疫病は発生します」
辺境伯はしばらく黙っていた。
そして——
「わかった」
彼は言った。
「お主の言う通りにしよう。必要な人員と資材を用意する。好きなようにやれ」
勝男は驚いた。
もっと抵抗されると思っていた。
「よろしいのですか」
「私は既に手を尽くした」
辺境伯は疲れた声で言った。
「医者を呼んだ。神官に祈らせた。何をしても効果がなかった。もはや藁にもすがる思いだ。お主の方法でうまくいくなら、何だってやる」
勝男は頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず結果を出します」
こうして——
勝男のヴェルニア改造計画が始まった。
*
最初の一週間は、調査に費やした。
街全体を歩き、水源を確認し、汚水の流れを追い、住民の生活習慣を観察した。
わかったことは——
この街は、水の管理において完全に破綻していた。
水源は三つあった。
城の井戸(城内専用)。市場広場の井戸(富裕層専用)。川(一般市民用)。
しかし、そのどれもが汚染されていた。
城の井戸は城内の厩舎から離れているため比較的マシだったが、それでも完全ではなかった。
市場の井戸は、周辺の家々から捨てられる汚物で汚染されていた。
川に至っては、上流で皮なめし場や屠殺場が操業しており、汚水が垂れ流しになっていた。
「これは……」
勝男は頭を抱えた。
「予想以上にひどい」
リーゼが横で言った。
「どうするの?」
「まず、汚染源を止める。それから、清潔な水を供給する仕組みを作る。並行して、下水道を整備する」
「全部やるの? 同時に?」
「やらないと間に合わない。毎日人が死んでるんです」
勝男は辺境伯に詳細な計画書を提出した。
必要な人員——五百人。
必要な資材——木材、石材、陶管、炭。
必要な期間——三年。
辺境伯は計画書を見て、眉をひそめた。
「三年だと? それでは遅すぎる」
「本来なら十年かかる工事です。三年でも無理をしている」
「だが、今この瞬間にも人が死んでいるのだぞ」
「だから——」
勝男は言った。
「応急処置から始めます。まず、汚染された井戸を封鎖する。市場の井戸は使用禁止にする。川からの取水点を上流に移し、浄化装置を設置する。これで疫病の新規発生は抑えられます」
「それにどれくらいかかる」
「一ヶ月」
辺境伯は少し安堵したように見えた。
「一ヶ月か。それならなんとか——」
「ただし、応急処置だけでは根本的な解決にはなりません。本格的な上下水道システムを完成させないと、いずれまた同じことが起きます」
辺境伯は頷いた。
「わかった。一ヶ月で応急処置。三年で本工事。その計画で進めろ」
勝男は礼をして、謁見の間を出た。
廊下で、リーゼが待っていた。
「どうだった?」
「許可は下りた。明日から工事開始だ」
「明日から……」
リーゼは不安そうな顔をした。
「本当にできるの? 一ヶ月で?」
「やるしかない」
勝男は歩き始めた。
「俺一人じゃ無理だ。だから——」
彼は振り返った。
「あなたに手伝ってほしい」
「私?」
「エルデ村で三週間一緒に働いた。あなたなら、俺の言いたいことがわかるはずだ。作業員への指示出し、資材の管理、進捗の確認。俺は全体を見ないといけないから、現場はあなたに任せたい」
リーゼは目を見開いた。
「そんな大役……私に務まるかしら」
「務まる。俺が保証する」
勝男は真剣な目で言った。
「あなたは頭がいい。度胸もある。それに——」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「俺には信頼できる人が必要なんだ。この街で、俺を信じてくれるのは、今のところあなただけだ」
リーゼは黙っていた。
そして——
「わかったわ」
彼女は言った。
「やる。あなたを信じる」
こうして——
水道屋と、その弟子の戦いが始まった。
*
工事は困難を極めた。
まず、市場の井戸を封鎖しようとしたところ、住民の猛反発を受けた。
「この井戸は百年も使ってきたんだぞ!」
「よそ者が何を言う!」
石を投げられ、罵声を浴びせられた。
勝男は動じなかった。
「この井戸の水を分析しました」
彼は住民たちに向かって言った。
「汚れています。飲むと病気になる水です」
「嘘だ!」
「嘘だと思うなら、俺が浄化した水と、この井戸の水を並べて見てください。どちらが綺麗か、一目でわかる」
勝男は二つの容器を取り出した。
一つは市場の井戸水。濁っていて、かすかに臭う。
もう一つは、勝男が浄化した水。透明で、無臭。
住民たちは黙った。
「俺は嘘をつきません。水道屋は嘘をつかない。水は嘘をつかないからです」
その言葉が、何人かの心を動かしたようだった。
反発は完全には収まらなかったが、工事は続行できた。
川の取水点を上流に移す作業は、さらに困難だった。
皮なめし場と屠殺場の所有者が、取水点の移動に反対したのだ。
「うちの商売の邪魔をするな」
「汚水を流す権利は昔からあるんだ」
彼らは辺境伯の命令にも逆らった。
結局、辺境伯が軍を出動させて強制的に移動させることになった。
その間、勝男は別の作業を進めた。
浄化装置の建設。
エルデ村で作ったものの大型版だ。木箱ではなく、石造りの濾過槽。砂利、砂、炭の三層構造は同じだが、規模が違う。
一日に処理できる水量は、エルデ村の百倍。
それでも、五万人の都市には足りない。
勝男は毎日、濾過装置の出口で浄化を行った。
朝と夕方、二回ずつ。
【水質浄化】のスキルを限界まで使い、体力を削りながら——
それでも、病人は減り始めた。
工事開始から二週間。
新規の疫病患者は半減した。
一ヶ月後。
新規患者はほぼゼロになった。
住民たちの態度が変わった。
かつて石を投げてきた者たちが、今は頭を下げてくる。
「『水の聖者』様……」
「聖者じゃない」
勝男は繰り返し言った。
「俺はただの水道屋だ」
しかし、その言葉は聞き入れられなかった。
ヴェルニアの住民たちにとって、勝男は「聖者」以外の何者でもなかった。
疫病を止めた男。綺麗な水をもたらした男。
その名は、やがて城下町を超え、王都にまで届くことになる。
しかし、それは——
まだ先の話だった。
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