第三章 水の記憶

村に戻った勝男は、まず川の調査結果を報告した。


 村長の家に集まったのは、わずか十人ほど。病人を除けば、これが動ける村人のほぼ全員だった。


「ゴブリンが川を汚している。それは間違いない」


 勝男は村の簡易な地図を広げながら説明した。


「しかし問題はそれだけじゃない。井戸の位置と家畜小屋の位置関係も悪い。地下水が汚染されている」


 村人たちはざわめいた。


「じゃあ、どうすりゃいいんだ」


 井戸番の男——ハンスという名前だと後でわかった——が不機嫌そうに言った。


「川も駄目、井戸も駄目じゃ、水が飲めねえじゃねえか」


「だから水道を作ると言ったでしょう」


「すいどうって何だ。さっきからそればっかり言いやがって」


 勝男は深呼吸した。


 この人たちに水道の概念を理解してもらうには、時間がかかりそうだった。


「簡単に言えば、川から綺麗な水だけを引いてくる仕組みです」


「引いてくる? どうやって」


「管を通して。竹を繋げて、川から村まで水を流す」


 村人たちは顔を見合わせた。


「竹を……繋げる?」


「そうです。竹を割って中の節を取り除けば、水を通せる管になる。それを何本も繋げて——」


「馬鹿馬鹿しい」


 ハンスが吐き捨てた。


「そんなことができるわけがねえ。水は下から上には流れねえんだぞ」


「だから高低差を利用するんです」


 勝男は地図を指さした。


「川の位置は村より高いところにある。その高さを利用すれば、ポンプがなくても水は流れる。ローマ帝国は——いや、昔の人は、そうやって水道を作っていたんです」


「ローマなんか知らねえ」


「じゃあ忘れてください。とにかく、俺が言いたいのは——」


 勝男は一人ひとりの顔を見回した。


「俺には水を綺麗にする力がある。さっき川でリーゼさんに見せました。本当のことです。その力を使えば、汚れた川の水でも、飲める水に変えられる」


 リーゼが頷いた。


「私は見た。本当だったわ。カツオさんが手を水に浸すと、水が光って、綺麗になった」


 村人たちの視線が勝男に集まった。


 懐疑と希望が入り混じった目。


「神官様の奇跡みたいなものか?」


「そうかもしれません。でも俺は神官じゃない。水道屋です」


「すいどうやって何だよ」


「水の職人です。水を扱う仕事を四十年やってきた」


 ハンスは鼻で笑った。


「お前、何歳だ。四十年も生きてねえだろう」


「これでも六十五歳なんですよ、元々は」


 村人たちは困惑した顔をした。


 これ以上説明しても仕方がない、と勝男は判断した。


「とにかく、明日から工事を始めます。手伝ってくれる人は、朝日が昇ったら村の入口に集まってください。できれば、斧と縄を持ってきてほしい」


「工事って……」


「竹を切る。節を抜く。繋げる。それを繰り返すだけです。難しいことは何もない」


 勝男は立ち上がった。


「俺は村を歩いて、もう少し調べてきます。川からどうルートを取るか、どこに浄水装置を置くか、決めなければならないことがたくさんある」


 リーゼも立ち上がった。


「私も行くわ」


「いいんですか? 疲れているでしょう」


「平気よ。座っているより動いている方がまし」


 二人は村長の家を出た。


    *


 夕暮れの村は静かだった。


 あちこちの家から咳き込む声や呻き声が聞こえてくる。病人たちだ。彼らを助けるには、一刻も早く綺麗な水を供給しなければならない。


「この辺りの地形について教えてください」


 勝男は歩きながら言った。


「村の周囲に湧き水はありませんか? 山の中腹から水が染み出しているとか」


 リーゼは考え込んだ。


「湧き水……昔はあったって聞いたことがあるわ。でも、三十年くらい前に枯れたって」


「三十年前? 何かあったんですか」


「知らないわ。私が生まれる前のことだから」


 勝男は頷いた。


 湧き水が枯れた原因は色々考えられる。地下水位の変動、地震による地層の変化、あるいは——


「森が減りましたか?」


「え?」


「村の周りの森。昔より小さくなったとか」


 リーゼは目を丸くした。


「どうしてわかるの?」


「当たりですか」


「……おばあさんが言っていたわ。昔は村のすぐ近くまで森があったって。でも開墾して畑にした」


 勝男は溜め息をついた。


「それだ。森がなくなると、雨水を蓄える場所がなくなる。地下水位が下がって、湧き水が枯れる。典型的なパターンです」


「カツオさん……本当に水のことに詳しいのね」


「四十年やってきましたから」


 勝男は村の外れにある小高い丘に向かって歩いた。


 この丘の上から見れば、村全体の地形がわかるはずだ。


 丘の頂上に着くと、夕陽に照らされた村が一望できた。


 勝男は目を細めて地形を観察した。


 村は浅い谷間にあった。北側と南側に丘があり、東側には川がある。西側は森だ。


 水の流れを想像する。


 雨が降ると、北と南の丘から水が流れ下りてくる。それが村の中央を通って、東の川に注ぐ。


 問題は、その流れの途中に家畜小屋があることだった。丘から流れてきた水が家畜小屋を通過し、糞尿を含んだまま井戸の方に向かう。


「井戸の位置が悪い」


 勝男は呟いた。


「え?」


「井戸は、家畜小屋より上流にあるべきなんです。つまり、丘に近い側に。ところが今の井戸は、家畜小屋より下流にある。地下を通った汚水が井戸に流れ込む構造になっている」


 リーゼは顔をしかめた。


「そんなこと、誰も考えたことがないわ」


「だから病気になるんです。水系感染症は——いや、難しい言葉はやめましょう。汚い水を飲むと病気になる。それだけ覚えておいてください」


 勝男は丘を下り始めた。


「計画を立てました。まず、川から竹の管を引いて、村に水を供給する。途中に簡単な濾過装置を作って、ゴミを取り除く。そして俺のスキルで最終的な浄化を行う」


「濾過……?」


「水を砂や砂利に通すと、汚れが取れるんです。完璧じゃないけど、かなり綺麗になる」


「へえ……」


 リーゼは感心したように頷いた。


「じゃあ、井戸はもう使わないの?」


「使いません。というか、使っちゃいけない。病気の原因ですから」


「でも……あの井戸は、村人にとって神聖な……」


「神聖でも何でも、汚れた水は飲めません」


 勝男の声は厳しかった。


「俺の世界では、かつて川の水を『神聖だ』と言って生のまま飲んでいた人たちがいました。結果、毎年何万人も死にました。コレラ、赤痢、チフス。全部、汚れた水が原因でした」


 リーゼは黙り込んだ。


「すみません、きつい言い方をしました」


 勝男は少し落ち着いた声で言った。


「ただ、わかってほしいんです。水は命です。だから、水を正しく扱わないと、命を奪うものにもなる」


 リーゼは小さく頷いた。


「わかったわ。私からも村人に説明する」


「お願いします。俺一人の言葉じゃ、誰も信じてくれませんから」


 二人は村の中央に戻った。


 そこには古い井戸が、夕陽に照らされて佇んでいた。


 百年の歴史。村人たちの信仰。


 しかし今、その井戸は死をもたらしている。


 勝男は井戸の縁に手を置いた。


「明日、この井戸を封鎖します」


「封鎖?」


「蓋をして、誰も使えないようにする。それが最初の仕事です」


 リーゼは不安そうな顔をした。


「村人が反発するわ」


「するでしょうね。でも、綺麗な水が供給されれば、井戸がなくても困らない。それを証明するまでの辛抱です」


 勝男は井戸から手を離した。


「さて、今夜は休ませてもらいましょう。明日から忙しくなりますから」


 リーゼは勝男を自分の家に案内した。


 小さな藁葺き屋根の家。中には粗末な寝台と、煮炊き用の竈があるだけだった。


「狭いけど……」


「十分です。ありがとう」


 勝男は寝台に腰を下ろした。


 体は若返っているはずなのに、疲労は感じた。


 別の世界に転生する。


 そんな非現実的な出来事が、今、自分の身に起きている。


 まだ信じられない気持ちが半分。しかし、残りの半分は——


 むしろ燃えていた。


 四十年間培ってきた技術を、この世界で試せる。水道のない世界で、ゼロから水道を作れる。


 これほどやりがいのある仕事があるだろうか。


 勝男は横になりながら、明日の計画を頭の中で練った。


 まず井戸を封鎖する。それから竹を切りに行く。管を作る。濾過装置を作る。


 どれくらいかかるだろうか。


 日本なら、重機と既製品のパイプがあれば数日で終わる工事だ。


 しかしここには何もない。


 手作業。手探り。試行錯誤の連続になるだろう。


 それでも——


 やるしかない。


 勝男はそう決意して、目を閉じた。


 疲労に沈んでいく意識の中で、水の音が聞こえた気がした。


    *


 翌朝。


 朝日が昇ると、勝男は村の入口に立っていた。


 集まった村人は——たった五人だった。


 リーゼ。ハンス。それから名前も知らない老人が二人と、十代半ばくらいの少年が一人。


「これで全員ですか」


「まあ、動けるのがこれだけだからな」


 ハンスは渋い顔で言った。


「本当に水が綺麗にできるんだろうな」


「できます。見ていてください」


 勝男は川に向かって歩き始めた。


「まず竹を切ります。それから節を抜いて、管にする。何本必要か——」


 勝男は歩きながら計算した。


 川から村までの距離は約二キロ。竹の長さを三メートルとすると、七百本近く必要になる。


 五人で一日に何本切れるだろう。十本? 二十本?


 全部を竹管にするのは現実的ではないかもしれない。途中まで溝を掘って、水路にする方が効率がいいだろう。


「計画を変更します」


 勝男は立ち止まって言った。


「竹管は最後の百メートルだけにします。川から村までの大部分は、地面を掘って水路を作る」


 老人の一人が不安そうに言った。


「水路……? 開渠ということかね?」


「おっ、詳しいですね。そうです、開渠です。蓋のない溝のことです」


「わしは若い頃、城下町で働いたことがあってな。あちらには水路があった」


「それはありがたい。経験者がいると助かります」


 勝男は少し希望を感じた。


 この世界にも、水路の概念はあるのだ。完全にゼロからではない。


「では、まず水路を掘りましょう。川から村に向かって、緩やかな傾斜を保ちながら」


「傾斜? どのくらいじゃ」


「一キロあたり五センチから十センチ。急すぎると水が暴れるし、緩すぎると流れない」


 老人は感心したように頷いた。


「お主、本当に水のことに詳しいのう」


「四十年——いや、色々あってね」


 勝男は言葉を濁した。


 一行は川に向かって歩いた。


 昨日と同じ森の道。しかし今日は、勝男の目は違うものを見ていた。


 地形。土質。植生。


 どこを掘れば水路に適しているか。どこに濾過装置を置くか。どこで管に切り替えるか。


 頭の中で設計図が浮かび上がってくる。


 川に到着すると、勝男は水際に立った。


「まず、取水口を決めましょう。ここがスタート地点になります」


 周囲を見回す。


 川幅は約十メートル。流れは穏やかだ。岸辺には石が散らばっている。


「ここがいいですね」


 勝男は少し上流の、岸が緩やかに傾斜している場所を指さした。


「ここに石を積んで、小さな堰を作る。水を一箇所に集めて、そこから水路に流す」


 ハンスが腕を組んだ。


「堰か。それなら作れなくもないな」


「お願いします。石は川から取れるでしょう」


 作業が始まった。


 男たちは川に入り、石を運び始めた。


 勝男は岸に立って指示を出す。どこに石を置くか、どのくらいの高さにするか。


 意外とスムーズに進んだ。


 村人たちは、普段から石を扱う仕事——畑の石垣を積むなど——に慣れているようだった。


 午前中のうちに、小さな堰ができた。


 川の水が、堰によって一箇所に集められ、そこから勝男が指定した場所に流れ込むようになった。


「よし、次は水路だ」


 勝男は鍬を手に取った。


 本当は土木機械が欲しい。バックホー一台あれば、この工事は数時間で終わる。


 しかし、ないものねだりをしても仕方がない。


 鍬を振り下ろす。


 土を掘り返す。


 掘った土を横に積む。


 これを、二キロ続ける。


 気が遠くなるような作業だった。


 しかし——


「一人じゃない」


 勝男は自分に言い聞かせた。


 隣では、リーゼが鍬を振っている。その向こうではハンスが、さらに向こうでは老人と少年が働いている。


 一人じゃない。


 仲間がいる。


 それだけで、心は軽くなった。


 太陽が真上に来る頃、最初の百メートルが完成した。


 細い溝。幅は三十センチほど。深さは二十センチ。


 たったこれだけの距離で、全員がへとへとになっていた。


「休憩しましょう」


 勝男は言った。


「それから——」


 堰の方を見た。


 溜まった水が、ゆっくりと水路に流れ込んでいる。


「試してみましょうか。俺のスキルを」


 勝男は水路の入口に立った。


 手を水に浸す。


 水は命だ。


 昨日と同じ感覚が蘇る。何かが体を通って流れ出ていく。


 水が光り始めた。


 しかし今回は、昨日よりも長く続けた。


 十秒。二十秒。三十秒——


 限界を感じた。


 手を引き上げると、目眩がした。


「大丈夫?」


 リーゼが駆け寄ってきた。


「ああ……ちょっと疲れた」


 勝男は息を整えながら、水路を見た。


 光は消えていた。しかし、その効果は残っているはずだ。


「誰か、この水を飲んでみてくれないか」


 沈黙が落ちた。


 誰も動かない。当然だ。川の水が危険だと、さっき自分で言ったのだから。


「俺が飲むよ」


 勝男は水路から水を掬い、口に含んだ。


 冷たい。


 そして——透明な味がした。


 不純物のない、純粋な水の味。


「美味い」


 勝男は呟いた。


 村人たちは顔を見合わせた。


 少年が恐る恐る水を掬い、舐めてみた。


「……美味しい」


 少年は驚いた顔で言った。


「本当に美味しい! 井戸の水と全然違う!」


 その言葉で、他の村人も水を飲み始めた。


 ハンスは何度も水を飲み、目を丸くした。


「確かに……今まで飲んだどんな水より美味い……」


 勝男は立ち上がった。


「これが浄化された水です。この水なら、病気にはならない」


 村人たちは黙って勝男を見つめた。


 懐疑の目は消えていた。代わりにあるのは——敬意か、あるいは畏怖か。


「すげえな……」


 ハンスが呟いた。


「お前、本当に……何者なんだ」


「だから言ったでしょう」


 勝男は笑った。


「俺は水道屋だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る