第二章 神々の悪戯

村の惨状は、勝男の想像を超えていた。


 人口はかつて二百人ほどだったらしい。しかし今は百人を切っている。三ヶ月で半数以上が死んだのだ。


 生き残っている者たちも、半数は寝込んでいた。下痢、嘔吐、発熱。典型的な水系感染症の症状だった。


 村長の家は村の奥にあった。他の家よりは少しましな造りだが、それでも日本の基準で言えば掘っ立て小屋に近い。


 勝男は村長の前に立っていた。


 村長は痩せた老人だった。ベッドに横たわり、顔色は土気色。彼もまた病に冒されていた。


「旅の方……とのことですが……」


 村長の声はかすれていた。


「はい。勝男と申します」


「珍しい名前ですな……遠くから来られた」


「ええ、とても遠くから」


 別の世界から、とは言えなかった。


「井戸の水が原因だとおっしゃっていたそうですが……」


「間違いありません」


 勝男は村の見取り図を頭の中で組み立てながら答えた。


「井戸の位置と家畜小屋の位置関係、地形の傾斜、土質。全てが汚染の可能性を示しています」


「しかし……あの井戸は我らの祖先が掘った神聖な……」


「神聖かどうかは関係ありません。水は物理的な存在です。汚れれば病気を運ぶ。それだけのことです」


 村長は弱々しく首を振った。


「そのようなことを言われても……我々には他に水源がない……川は遠く、山からの湧き水も枯れて久しい……」


「川まで水を引きます」


 勝男は断言した。


 村長の目が見開かれた。


「引く……? 水を……?」


「水道というものを作ります。川から村まで、管を通して水を運ぶのです」


「管? しかし、そのようなものをどうやって……」


「俺に任せてください」


 勝男は自分の手を見た。


 この世界に来てから、まだ自分のスキルを試していない。本当に使えるのかどうかもわからない。しかし、試すしかなかった。


「まず、川の水を調べてきます。上流に汚染源がないか確認しないと」


「一人で行かれるのですか。この辺りには魔物が……」


「魔物?」


 勝男は眉をひそめた。


 そうだ、この世界には魔物がいるのだった。老人が言っていた。戦闘スキルがないと役に立たないと。


「どんな魔物が出るんですか」


「森にはゴブリン……川沿いにはウォーターリザード……危険です」


 勝男は考え込んだ。


 剣もなければ魔法も使えない。魔物と戦う術がない。しかし、川の調査をしなければ何も始まらない。


「誰か、案内してくれる人はいませんか」


「案内……」


 村長は困った顔をした。体力のある男たちは皆病に倒れているか、残った少数は村を守るのに精一杯だという。


「私が行きます」


 声がした。


 振り返ると、入口に若い娘が立っていた。


 赤茶色の髪を後ろで束ね、簡素な服を着ている。顔立ちは整っているが、頬はこけ、目の下には濃い隈があった。この村の惨状を一人で支えてきたのだろう。


「リーゼ……! お前は駄目だ」


 村長がベッドから身を起こそうとした。


「動かないで、お父様」


 娘——リーゼは村長を寝かしつけながら言った。


「私しかいないでしょう。病気になっていないのは、私と数人だけ。その数人も、村を離れるわけにはいかない」


「しかし……」


「この方は水を綺麗にできると言っている。本当なら、村を救えるかもしれない。確かめる価値はあるわ」


 リーゼは勝男を見た。


 その目には、疲労と絶望の中に、かすかな希望の光があった。


「あなた、本当に水のことがわかるの?」


「四十年、水を相手にしてきました」


「四十年……?」


 リーゼは怪訝そうな顔をした。当然だろう。勝男の肉体は四十代前半に見える。四十年の経験があるとは思えないだろう。


「信じてもらえなくても構いません。結果で証明します」


 勝男はそう言って、村長の家を出た。


    *


 川は村から約二キロ離れた場所を流れていた。


 森の中を歩く間、リーゼは黙っていた。勝男も特に話しかけなかった。互いに相手を値踏みしているのだ。


 森の空気は澄んでいた。鳥の声が聞こえる。時折、何か大きな動物が茂みを駆け抜ける音がした。魔物だろうか。しかし、襲ってくる気配はなかった。


「あなた、どこから来たの」


 リーゼが唐突に聞いた。


「遠くからです」


「遠くって?」


「この世界の外からです」


 リーゼは足を止めた。


「転生者……?」


 勝男も立ち止まった。


「知っているんですか」


「話に聞いたことがある。別の世界で死んだ人が、この世界に生まれ変わって来るって。普通は強力な戦闘スキルを持っていて、冒険者になったり、貴族に仕えたりするって」


「俺は違います」


「違う?」


「戦闘スキルはありません。俺が持っているのは——」


 勝男は自分のステータスを思い出した。


「【配管敷設】【水質浄化】【圧力制御】。水に関係するスキルだけです」


 リーゼは目を丸くした。


「そんなスキル、聞いたことがない」


「でしょうね。この世界には水道がないんですから」


「スイドウ……?」


「水を運ぶ設備です。川から水を引いて、町や村に届ける。使い終わった水は別の場所に流す。それを管理するシステム全体を水道と言います」


 リーゼは首を傾げた。


「それって……井戸と何が違うの?」


「規模と衛生です。井戸は一箇所から水を汲むだけでしょう。水道は広い範囲に綺麗な水を届けられる。それに——」


 勝男は歩き始めた。


「井戸水は地下水です。地上で何が起きているかによって、簡単に汚染される。あなたの村の井戸がいい例だ」


 リーゼはついてきながら言った。


「でも、川の水も汚れているかもしれないでしょう?」


「その通りです。だから調査に行く」


 勝男は歩きながら説明を続けた。


「川の水が綺麗かどうか、上流に汚染源がないか。それを確認しないと、せっかく水道を作っても意味がない」


「作る……? 一人で……?」


「一人じゃ無理です。だからあなたたちに手伝ってもらいたい」


「私たちは水のことなんか……」


「教えます。俺が教えます」


 勝男は立ち止まり、振り返った。


「四十年かけて覚えたことを、全部教えます。そうすれば、俺がいなくなっても水道は維持できる」


 リーゼは勝男を見つめた。


「なぜ……そこまでするの?」


「水道屋だからです」


 勝男は笑った。


「地味な仕事でしょう。でも、誰かがやらないと人は死ぬ。あなたの村で何が起きているか見たでしょう。あれが水の怖さです。逆に言えば、水さえ綺麗にできれば、あの惨状は止められる」


 リーゼは何か言おうとしたが、その時——


 茂みが揺れた。


 緑色の小さな影が飛び出してきた。


 人間の子供ほどの大きさ。しかし肌は緑色で、顔は醜く歪んでいる。手には錆びたナイフを持っていた。


「ゴブリン!」


 リーゼが叫んだ。


 勝男は本能的に後ずさった。


 戦闘経験はない。武器も持っていない。相手が何であれ、戦って勝てる見込みはなかった。


 しかし——


 ゴブリンは勝男たちには向かってこなかった。


 彼らの狙いは別にあった。


 川だ。


 ゴブリンは川に向かって走っていく。そして川岸にたどり着くと、腰に下げた袋から何かを取り出した。


 糞だった。


 動物の糞と、何かの腐った肉片。ゴブリンはそれを川に投げ込み、ケタケタと笑いながら走り去っていった。


「何をしている……!」


 勝男は叫んだ。


 リーゼが勝男の腕を掴んだ。


「追いかけないで! ゴブリンは群れで行動する。あれはたぶん偵察隊。本隊が近くにいるわ」


「川に——川に糞を捨てやがった——!」


 勝男の怒りは、ゴブリンに対してだけではなかった。


 この光景に既視感があった。


 日本でも、つい数十年前まで、川に糞尿を垂れ流す習慣があった。それが水系感染症を蔓延させ、多くの命を奪った。


 ゴブリンがやっていることは、かつての人間がやっていたことと同じだった。


「これが……原因かもしれない」


 勝男は川を見つめながら呟いた。


「え?」


「井戸の汚染だけじゃない。川そのものが汚れている可能性がある。ゴブリンや他の魔物が、日常的に川を汚しているなら……」


 リーゼは青ざめた。


「だから村に疫病が……?」


「可能性はあります。川の水を飲んでいる人はいますか?」


「いるわ。井戸水が足りないとき、川まで汲みに行く人がいる」


 勝男は頭を抱えた。


 問題は想像以上に複雑だった。


 単に浄水設備を作るだけでは足りない。川の上流全体を管理しなければ、汚染の連鎖は止まらない。


 しかし、ゴブリンを相手にどうすればいい? 魔物を駆除する力は自分にはない。


「考えましょう」


 勝男は自分に言い聞かせるように呟いた。


「今できることを考えましょう。完璧な解決策がなくても、少しずつ改善していけばいい」


 リーゼは不安そうな顔で勝男を見た。


「本当に……できるの?」


「やるしかないでしょう」


 勝男は川に近づいた。


 水は一見すると澄んでいた。しかし、注意深く見ると、わずかに濁りがある。匂いを嗅ぐと、かすかだが腐敗臭がした。


 ゴブリンが投げ込んだ糞は、既に流れに乗って見えなくなっていた。しかし、その痕跡は水の中に残っている。


「試してみましょう」


 勝男は川岸にしゃがみ込んだ。


「スキルを——【水質浄化】を」


 右手を水に浸した。


 何も起きない。


 当然だ、と勝男は思った。スキルの使い方など誰も教えてくれていない。念じればいいのか、呪文を唱えるべきなのか、何かの動作が必要なのか——


「水は命だ」


 勝男は呟いた。


 無意識に出た言葉だった。


 四十年間、何度も口にしてきた言葉。新入社員に教えるとき、現場で汗を流すとき、行政の役人と折衝するとき。何度も何度も繰り返してきた言葉。


「水は命だ。清潔な水がなければ人は死ぬ」


 手のひらが熱くなった。


 いや、熱いのではない。何かが流れ込んでくる感覚。エネルギー。魔力? 言葉では表せない何かが、勝男の体を通して川の水に注ぎ込まれていく。


「これは……!」


 リーゼが息を呑んだ。


 勝男の手を中心に、川の水が光り始めていた。淡い青白い光。それが広がっていく。半径一メートル。二メートル。三メートル——


 光が消えた時、その範囲の水は明らかに変わっていた。


 透明度が増している。濁りがない。匂いもない。


 勝男は手を引き上げ、水滴を舐めた。


 純粋な水の味がした。


「成功だ」


 勝男は呟いた。


 スキルは使えた。この世界の力と、自分の知識。二つが結びついた瞬間だった。


 しかし——


 三メートル。


 たった三メートルの範囲しか浄化できなかった。


 川全体を浄化するには、この何万倍もの力が必要だ。それは今の勝男にはない。


「でも、これで——」


 勝男は立ち上がった。


「これで希望は見えた。スキルは使える。あとは、どうやって効率よく使うかを考えればいい」


 リーゼは目を輝かせていた。


「本当に……水が綺麗になった……!」


「ほんの少しですけどね」


「それでも……! それでも、これは奇跡だわ……!」


 リーゼは勝男の手を握った。


 その手は冷たく、骨ばっていた。十分な食事も取れていないのだろう。


「村に帰りましょう。皆に伝えなければ」


 勝男は頷いた。


 しかし心の中では、まだ計算を続けていた。


 川の水を浄化するには、この範囲では全く足りない。かといって、毎日川に通って少しずつ浄化するのは現実的ではない。


 ならば——


 水を引く。


 川から水道管を通して水を引き、途中で浄化する。そうすれば、最小限の労力で綺麗な水を供給できる。


 問題は、その管をどうやって作るかだった。


 この世界には、塩ビ管もポリエチレン管もない。鋼管を作る技術があるかどうかもわからない。


 しかし、古代ローマでは陶器や石で水道を作っていた。この世界にも、何らかの素材はあるはずだ。


「リーゼさん」


「なに?」


「この辺で、土器や焼き物を作る職人はいますか?」


 リーゼは考え込んだ。


「村には……いないけど、城下町まで行けば……ヴェルニアには大きな窯があるはずよ」


「城下町は遠いですか?」


「馬車で三日。歩きなら一週間」


 遠すぎる。村人たちは一週間も待てない。


「では、別の方法を考えましょう。土を掘って、竹のようなものを——いや、竹はあるんですか?」


「竹? あの、節のある植物? 森の奥にあるわ」


「それだ」


 勝男の目が光った。


「竹を使えば、簡易的な水道管ができる。腐りやすいのが難点だが、応急処置としては十分だ」


 リーゼは首を傾げた。


「竹を……繋げるの?」


「そうです。節を抜いて、竹を繋げて、川から村まで水を引く。途中に浄化装置を作る。そうすれば——」


 勝男は空を見上げた。


 太陽が傾き始めている。もうすぐ夕方だ。


「今日は無理だ。まず村に帰って、計画を立てましょう。明日から工事を始める」


「工事……?」


「水道工事です。この村に綺麗な水を届ける工事だ」


 リーゼは呆然とした顔で勝男を見た。


「あなた……本気なの? たった一人で?」


「一人じゃできません。だから——」


 勝男は微笑んだ。


「あなたにも手伝ってもらいます。それから、動ける村人にも。俺の指示に従ってくれるなら、素人でも構わない」


「私が……?」


「あなたは頭がいい。さっきの会話でわかりました。それに、村のことをよく知っている。俺一人より、あなたがいた方がずっと効率がいい」


 リーゼは何も言わなかった。


 しかし、その目には涙が光っていた。


「三ヶ月……」


 彼女は呟いた。


「三ヶ月、誰も助けてくれなかった。神官に祈りを頼んでも効果がなかった。領主に使いを出しても、返事すらなかった。村人は次々に死んでいって……父も倒れて……私は……私は……」


「もう大丈夫です」


 勝男はリーゼの肩に手を置いた。


「俺が来ました。水道屋が来ました。綺麗な水さえあれば、人は生き延びられる。そのための技術が、俺にはあります」


 リーゼは涙を拭った。


「わかった。信じるわ。あなたを——信じる」


 二人は森を抜け、村へと戻り始めた。


 背後で、川の流れる音が聞こえていた。


 まだ汚れた水。しかし、いつか——


 勝男はそう思いながら、一歩一歩を踏みしめた。


 この世界に来て、まだ一日も経っていない。


 しかし、やるべきことは見えていた。


 水道を作る。


 綺麗な水を届ける。


 それが自分の仕事だ。


 四十年間そうしてきたように。


 これからも、そうするのだ。

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