水道屋×異世界転生_水道屋、異世界で神と呼ばれる ~配管一本で文明を変えた男の物語~
もしもノベリスト
第一章 最後の現場
水の音が聞こえる。
蛇口から零れ落ちる雫の、規則正しい振動。パイプの中を流れる水流の、かすかな唸り。便器のタンクに水が溜まっていく、あの静かな充足の音。
田所勝男は六十五年の人生で、その音を誰よりも多く聴いてきたと自負していた。
三月の終わり。勝男は事務所の窓から、桜の蕾が膨らみ始めた並木道を眺めていた。デスクの上には「田所水道設備株式会社 代表取締役 田所勝男」と記された名刺が散らばっている。今日でこの名刺を差し出すことも最後になる。
「社長、いや、会長か。もう帰っちまうのかい」
作業服姿の男が事務所のドアを開けた。白髪まじりの頭を掻きながら、照れくさそうに笑っている。入社三十年になる番頭格の棟方だった。
「そんな顔するなよ、棟方。明日からお前が社長だろう」
「急に言われてもなあ。俺はずっと現場の人間だから」
「だから頼んだんだ」
勝男は窓際から離れ、使い込まれた革のカバンを手に取った。中には何も入っていない。四十年間この会社に置いてきた工具も、図面も、思い出も、全てここに残していく。
「水道屋ってのはな」
勝男は事務所を見回しながら言った。壁には創業当時の白黒写真が飾られている。まだ二十代だった自分が、スパナを握って笑っている。
「地味な仕事だ。誰も普段は水道のことなんか考えない。蛇口をひねれば水が出る。そんなの当たり前だと思ってる。でもな、その当たり前を支えてるのが俺たちだ」
棟方は黙って頷いた。
「水は命だ。清潔な水がなければ人は死ぬ。そんなことは江戸時代の人間だって知っていた。なのに現代人は忘れちまってる。蛇口から出る水が、どこから来て、どこへ流れていくのか」
「社長らしい説教だな」
「元社長だ」
二人は笑った。事務所の片隅に置かれたコーヒーメーカーが、カチリと音を立てて止まる。水道管を通った水が、豆を通り抜けて香りに変わる。その一連の流れを、勝男は四十年間見つめてきた。
「じゃあな、棟方。会社は頼んだ」
「ああ。たまには顔出してくれよ」
握手を交わし、勝男は事務所を出た。
駐車場に停めた軽トラックに乗り込む。助手席には紙袋が置いてあった。孫娘への誕生日プレゼント。今日で三歳になる。
娘の優子からは「もう少しちゃんとした車で来てよ」と言われていたが、勝男はこの軽トラックが気に入っていた。荷台には何度も塗り直した「田所水道」のロゴ。錆びたスパナの絵が描かれている。
エンジンをかけると、かすかに水の匂いがした。この車で何百回と現場を回った。団地の詰まった排水管、オフィスビルの漏水、古い民家の井戸水検査。全ての記憶が、この狭い運転席に染みついている。
信号待ちをしながら、勝男は手のひらを見た。何十年も工具を握り続けてできた、硬いタコ。指先は切り傷の痕だらけで、右手の中指は関節が少し曲がっている。三十年前、凍結した配管を叩き割ろうとして骨折したのだ。
これが俺の勲章だ、と勝男は思った。
誰にも見えない場所で、誰にも知られない仕事をしてきた。それでも街の人々は毎日水を使い、顔を洗い、飯を炊き、風呂に入る。その全てを支えてきたのだ。
信号が青に変わった。
アクセルを踏み込んだ瞬間、視界の端で何かが光った。
トラックだ。
赤信号を無視して突っ込んでくる大型トラック。運転手の顔は見えなかった。ただ、フロントガラスに映り込んだ午後の陽光だけが、妙に眩しかった。
衝撃。
金属が潰れる音。ガラスが砕ける音。そして——水の音。
ラジエーターから噴き出す冷却水が、勝男の顔にかかった。ぬるい。少し錆の匂いがする。
ああ、この配管は交換時期だったな。
そんな場違いなことを考えながら、勝男の意識は遠のいていった。
*
水の音が聞こえる。
川のせせらぎ。どこかで聞いた懐かしい音。子供の頃に遊んだ、故郷の用水路の音に似ていた。
目を開けると、木漏れ日があった。
見知らぬ森。巨大な広葉樹が頭上を覆い、苔むした岩の間を細い川が流れている。空気は澄んでいて、少し冷たい。土と草の匂い。鳥の声。
勝男は仰向けに倒れていた。
起き上がろうとして、自分の手を見た。
タコがない。
傷跡もない。三十年前に折った中指も、真っ直ぐに伸びている。
何だこれは。
勝男は飛び起きた。体が軽い。膝の痛みがない。腰も背中も、どこも痛くない。
川面に自分の顔を映して、息を呑んだ。
四十代の自分がそこにいた。
白髪もない。皺も少ない。ただし、あの頃よりも目つきは鋭くなっていた。何十年も水道管と格闘してきた男の眼だ。それだけは変わっていなかった。
「死んだのか、俺は」
声に出してみた。自分の声だった。少し若返っているかもしれない。
「死んではおらぬ。むしろ、新しく生まれたと言うべきじゃな」
背後から声がした。
振り返ると、白いローブを纏った老人が立っていた。長い白髪と髭。杖を持っている。どこかで見たことがあるような——そう、ファンタジー映画に出てくる魔法使いのような出で立ちだった。
「誰だ、あんた」
「名乗るほどの者ではない。強いて言えば、この世界の管理者のようなものじゃ」
「この世界?」
「そなたは死んだ。元の世界で言うところの交通事故とやらでな。しかし、そなたの魂は消えるには惜しいと判断された。故にこの世界に送られた」
老人は杖で地面を叩いた。すると、空中に青白い文字が浮かび上がった。
見たこともない文字。しかし、なぜか読める。
『田所勝男 四十二歳(肉体年齢)
技能:【配管敷設】Lv.MAX 【水質浄化】Lv.MAX 【圧力制御】Lv.MAX
称号:なし
所持金:銅貨十枚』
「何だこれは」
「そなたのステータスじゃ。この世界では、全ての者が神から授かった技能を持っておる。そなたの場合は——ふむ、少々変わっておるな」
老人は首を傾げた。
「配管? 水質浄化? 圧力制御? 戦闘向きの技能ではないの」
「当たり前だ。俺は水道屋だ」
「すいどうや?」
「水を——ああ、なんて説明すればいいんだ。川から水を引いて、人々の家に届ける仕事だ。汚れた水を綺麗にして、使い終わった水を処理する仕事だ」
老人の目が細くなった。
「ほう。それは——」
しばらくの沈黙の後、老人は深いため息をついた。
「面白い。非常に面白い。じゃが、この世界では役に立たぬじゃろうな」
「どういう意味だ」
「この世界では、戦闘技能こそが価値を持つ。剣術、魔法、弓術。魔物を狩り、ダンジョンを攻略できる者だけが、社会的地位を得られるのじゃ。配管? そんなものは奴隷の仕事じゃな」
勝男は拳を握った。
「馬鹿を言うな。水道がなければ人は死ぬ。どんな立派な剣士だって、水がなければ三日で干からびる」
「それは理屈じゃ。じゃが、この世界の者たちはそうは考えておらぬ。水は川から汲めばいい。井戸を掘ればいい。そう考えておる」
「だから疫病が流行るんだ」
勝男は思わず言った。
老人の眉が動いた。
「そなた、何を知っておる」
「水が汚れていれば病気が蔓延する。当たり前のことだ。コレラも赤痢もチフスも、全ては不衛生な水が原因だった。俺の世界ではな、十九世紀に上下水道が整備されてから、疫病による死者は激減した。それまでは王様だって貧乏人だって、同じように糞尿まみれの水で死んでいったんだ」
老人は長い髭を撫でながら、じっと勝男を見つめた。
「なるほど。そなたは面白い。非常に面白い」
同じ言葉を繰り返す。しかし、先ほどとは声の調子が違った。
「本来ならば、戦闘技能を持たぬ転生者は辺境の農村に送られ、そのまま埋もれていくのが常じゃ。じゃが——」
老人は杖を振った。風景が歪む。森の木々が透明になり、遠くに見えたのは小さな村だった。
いや、村と呼べるかどうか。
傾いた小屋がいくつか並んでいる。畑は荒れている。道端には何かが転がっている。人だった。動かない。
「あれは——」
「疫病じゃ。エルデ村と言っての、辺境伯領の最果てにある集落じゃ。三ヶ月前から病が蔓延し、住民の半数が死んだ」
勝男は息を呑んだ。
「原因は?」
「わからぬ。神官たちは呪いだと言っておる。治療の祈りを捧げても効果がなかったからの」
「馬鹿な」
勝男は走り出そうとした。しかし、体が動かない。老人が何かの力で押さえつけているようだった。
「待て。まだ話は終わっておらぬ」
「何を待てって言うんだ。あそこで人が死んでるんだぞ」
「そなたの気持ちはわかる。じゃがな、そなたはこの世界では無力じゃ。剣もなければ魔法も使えぬ。行ったところで何ができる」
「水を綺麗にできる」
勝男は言い切った。
「俺の技能を見ろ。【水質浄化】レベルマックスだ。意味がわからないが、たぶん水を綺麗にする力があるんだろう。それと【配管敷設】。これは水を運ぶ管を作る技術だ。【圧力制御】。水を送り出す力を調整できるはずだ」
「それで何をする」
「上下水道を作る」
老人は目を丸くした。
「上下水道?」
「川から綺麗な水を引いてくる。使った水は別の場所に流す。飲み水と排水を分ける。それだけで疫病の大半は防げる」
勝男の目は真剣だった。
四十年間培ってきた知識と経験。それが今、この異世界で必要とされているのだと直感していた。
「面白い」
老人は三度、同じ言葉を言った。今度は笑っていた。
「よかろう。そなたをあの村に送る。じゃが、忠告はしておくぞ」
「何だ」
「この世界の者たちは、水を『神聖なもの』と考えておる。特に神殿は、『聖なる水』の独占販売で莫大な利益を得ておる。そなたの技術は、彼らの既得権益を脅かすことになるじゃろう」
「だから何だ」
「命を狙われるかもしれぬ、ということじゃ」
勝男は鼻で笑った。
「水道屋ってのはな、命がけの仕事だ。ガス管を切り間違えれば爆発する。汚水管に入れば有毒ガスで死ぬ。凍結した管を叩き割れば骨を折る。そんなことを四十年やってきた」
右手の中指は、もう曲がっていない。しかし、あの痛みは今でも覚えている。
「神殿だか領主だか知らないが、そんなものを怖がってたら、現場は務まらない」
老人は深く頷いた。
「そなたのような者を待っておったのかもしれぬな、この世界は」
杖が振られた。
世界が光に包まれる。
最後に聞こえたのは、水の音だった。
*
目を開けると、そこは村の入口だった。
木製の粗末な門。その向こうに、先ほど見た光景が広がっている。傾いた小屋。荒れた畑。そして、道端に転がる人々。
死臭が鼻を突いた。
勝男は顔をしかめながら歩き始めた。足元の土は湿っている。排水が悪いのだ。雨水が溜まりやすい地形。病原菌の温床になる。
村の中央に井戸があった。石造りの、古びた井戸。その周りに人だかりができている。
「お水をください——」
弱々しい声が聞こえた。
痩せこけた女が、赤ん坊を抱いて井戸の前にうずくまっている。しかし、井戸番らしい男が女を押しのけた。
「駄目だ。水は残り少ない。病人には分けられん」
「お願いします。この子が——」
「うるさい。去れ」
勝男は二人の間に割って入った。
「何をしている」
井戸番は見慣れない男を睨んだ。
「誰だ、お前」
「旅の者だ。この井戸の水を見せてくれ」
「見せる? 何言ってんだ。ここは村の井戸だ。よそ者には——」
勝男は井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。
臭かった。
腐敗臭。それに混じって、動物の糞便の匂い。井戸の中は暗くてよく見えないが、水面が異様に濁っているのがわかった。
「この水は飲めない」
勝男は断言した。
「何だと?」
「見ろ。濁っているだろう。匂いもする。この水を飲んでいるから、村人が次々と病気になるんだ」
井戸番は勝男の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな! この井戸は百年前から村を支えてきた聖なる井戸だ。お前のようなよそ者に何がわかる」
「わかるさ。俺は——」
水道屋だ、と言いかけて、勝男は口を噤んだ。
この世界には水道という概念がないのだと、先ほどの老人が言っていた。説明したところで理解されないだろう。
「俺は水のことを知っている」
勝男はそう言い換えた。
「この井戸は、上流からの汚水が混入している。おそらく——」
勝男は周囲を見回した。井戸から少し離れた場所に、家畜小屋があった。豚が数頭、柵の中でうずくまっている。その足元は糞尿でぬかるんでいた。
「あれだ。家畜の糞尿が地下水を汚染している。井戸との距離が近すぎる」
「汚染? 何を言っているんだ」
井戸番には理解できないようだった。それはそうだろう。十九世紀のヨーロッパでさえ、水系感染症の原因を理解するのに何十年もかかったのだから。
勝男は赤ん坊を抱いた女に向き直った。
「お前さん、その子に井戸水を飲ませたか」
女は怯えながら頷いた。
「昨日……少しだけ……」
「煮沸したか」
「に、にふつ?」
「火にかけたか。水を沸騰させたか」
「いいえ……そのまま……」
勝男は舌打ちした。
煮沸という概念さえないのか。いや、薪が貴重なのかもしれない。水を沸かすだけの燃料を確保できないほど、この村は貧しいのだ。
「聞いてくれ」
勝男は村人たちに向かって声を上げた。
いつの間にか、周囲には何人かの村人が集まってきていた。皆、顔色が悪い。痩せている。目に光がない。
「この井戸の水は飲んじゃいけない。病気の原因はこの水だ」
「馬鹿な!」
井戸番が叫んだ。
「この井戸は神聖な井戸だ。百年も——」
「百年前は、あの家畜小屋はなかったんじゃないか」
井戸番は言葉に詰まった。
「地下水ってのは、想像以上に広く繋がっているんだ。井戸から離れた場所で汚れた水が地面に染み込めば、それが地下を通って井戸に流れ込む。距離と時間の問題でな、百年前は問題なくても、今は問題があるかもしれない」
村人たちはざわめいた。
「そ、そんな……」
「じゃあどうすればいいんだ」
「死ぬしかないのか」
絶望の声が上がる。
勝男は両手を上げて静かにさせた。
「落ち着け。解決策はある」
「解決策?」
「綺麗な水を手に入れる方法がある。俺が——俺がやってみせる」
勝男は自分の手を見た。
四十年の経験を刻んだタコは消えている。しかし、その手が覚えている技術は消えていない。
そして今、この手には新しい力が宿っている。
【配管敷設】【水質浄化】【圧力制御】。
言葉の意味はまだわからない。しかし、直感で理解していた。これは神から与えられた力ではない。自分が四十年かけて培った技術が、この世界の法則に合わせて翻訳されただけなのだと。
「俺は水道屋だ」
勝男は宣言した。
誰にも理解されないとわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「この村に、綺麗な水を届ける。それが俺の仕事だ」
村人たちは呆然と勝男を見つめた。
どこからともなく、水の音が聞こえた。
遠くを流れる川の音。
勝男の新しい戦いが、今、始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます