ハロー、同じ星のきみ。

hibana

ハロー、同じ星のきみ。

 母が亡くなった日は、病室に嗚咽混じりの声が響いていて、泣けない自分だけがひどく場違いに思えた。

 事故があってからずっと母は、いわゆる植物状態で眠ったまんまだったから、私には死ぬということと眠り続けることの違いがわからず、なんとなく実感がわかなかったのである。

 場違いな私は病室を出て、病院の中庭を歩いた。そのままどこか遠くへ行きたかった。見事なまでに現実逃避だった。


 歩いていると、突然後頭部がチクリと痛んだ。足元に何かが落ちる。先の尖った紙飛行機だった。

 子供でもいるのかと辺りを見渡すが、誰もいない。ただ、2階の病室らしき窓が開いていた。カーテンが風に揺れている。

 紙飛行機を拾うと、どうも文字が書いてあるらしかった。私はそれを広げて何が書いてあるかを見る。


『ハロー、地球。こちらは火星。酸性の雨が降っています』


 もう一度辺りを見渡すが、誰もいない。だから私は、唯一開いている病室の窓を見た。


 学校を早退きしてきたので、私はスクールバッグを持っていた。ノートとペンケースがある。文字を書き、ページを破って、紙飛行機を作った。


『ハロー火星の人。酸性の雨は、当たると痛いですか?』


 勢いよく飛ばすと、上手いこと窓の開いている病室に滑り込んだ。しばらくして、誰かが前のめりに窓から顔を出す。私はどうしてだか木陰に隠れて、その様子を見た。


 歳は、私と同じくらいだろうか。パジャマ姿で、痩せた少年だった。

 少年は一度引っ込んで、今度また顔を覗かせた時には紙飛行機をその手に持っていた。それが地面に着地した時、私は迷いながらもそれに手を伸ばした。


『ハロー、お返事ありがとう。火星人はみんな肌が強いので大丈夫です』


 私はもう一度二階の病室を見上げる。少年は、ちっとも肌が強そうには見えなかった。


 その場でまたノートを開き、『火星の人と交信したのは初めてです。地球へは何をしに?』と書いて飛ばした。返事はすぐに来る。『観光に』と書かれていた。なんだかちょっと可笑しくて、私は笑いたい気持ちになった。


『だけど地球の空気は火星人にはあまりよくなくて、来たはいいものの宇宙船から出られないのです』


 そのような文章の続きを見て、私はまた少年を見た。少年は私のことを見ていない。そうするのがマナーだとでも言うように、まるで関係ない素振りをして空なんかを見ていた。

 私は迷いながらも、ノートにこう書いた。


『もし宇宙船から出られるようになったら、地球をご案内します。また明日、これくらいの時間にお会いしましょう』


 それを投げて、私はそそくさとその場を後にする。返事も聞かなかったし、彼の反応も見なかった。嫌なら明日、私が来ても窓を閉じていればいい。それで私も今日のことはなかったことにして、風変わりな火星人のことは忘れるだろう。


 病室に戻ると父は何も言わなかったけれど、叔母に「どこへ行っていたの、こんな時に」と叱られた。母の葬儀は二日後になるとのことだった。






 次の日病院の中庭に行くと、昨日と同じように病室の窓が開いていた。私は今日は便箋を持ってきていたので、文章を書いて飛行機を飛ばした。


『ハロー火星人さん。こちらはくもり。そちらの天気はいかがですか』


 しばらくして、紙飛行機が返ってきた。


『ハロー、地球人さん。こちらは昨日よりは幾分か晴れ。ちょうどよいお天気です』


 私は空を見る。地球こちらはどんよりとした曇り空だったので、あの病室の内側で薄い青空が広がっているのを夢想する。

 それから私は火星人と何度かやり取りをした。私が地球の高校生であることや、帰宅部が許されなかったため将棋部に入ったが、弱すぎて誰にも相手にされていないことを話した。


『本当に火星人なんですか?』

『本当ですよ。その証拠に、腕が八本ぐらいあります』


 八本“ぐらい”とはなんなのか。それに“その証拠に”と言う割には全く見せるつもりがないじゃないか。

 そう思ったものの指摘するのはやめて、私は『昨日あなたが飛ばした偵察機が私の頭に刺さりましたよ。これは星間問題じゃないでしょうか』と書いてみる。

 ややあって飛んできた返事には、『それは大変失礼しました。火星を代表して謝罪します』と書いてあった。この人が飛ばしたのに、星のせいにしているのが面白かった。






 母の葬儀にはたくさんの人が集まった。二十年前に卒業した学校の、クラスメイトだったという人たちまで来た。一体どこで話を聞きつけたのか、よくわからない。父は明らかに無理した笑顔でそういう人たちを迎えていて、家族だけの葬儀ではなぜいけなかったのか私にはよくわからなかった。


 みんな、私に一言声をかけていく。まるでそれが葬式におけるマナーの一つだとでも言うかのようだった。

『しっかりね』

『これからよ』

『お父さんのこと、支えてあげるんだよ』

 みんなあまりにも同じことを言うので、私は途中から言葉の意味なんか考えないようにした。それで私は、私の子ども時代はもう終わったのだなと思った。


 父はひどく疲れて見えた。この人を早く休ませないといけない、確かに私はこの人のことを支えないといけないんだなと思う。

 近づいていくと、父は私を見て「大丈夫か」と訊いてきた。私は驚いてしまって、何も言えないでいた。


 父は私の頬を撫で、もう一度「大丈夫か、寝れてるか」と尋ねてきた。

 大丈夫じゃないのはお父さんの方だ。私はたまらなくなって、「大丈夫だよ」と言って踵を返した。


 歩いて、歩いて、気づいたら病院の中庭にいた。


 この大きな病院は人の出入りが自由で、この中庭を散歩コースにしている近隣の住民もいる。今日は日曜ということもあり、人が何人か歩いていた。

 私は喪服代わりの制服のままで、手には何も持っていない。ただじっと、彼の病室の方を見つめていた。

 瞬きして、俯いて、私は諦めて歩き出す。


 ふと、私の頭の上に何か載った。まさかと思ったが紙飛行機だった。あの人は随分、これを飛ばすのが上手くなったものだ。

 紙飛行機を開くと、『ハロー、地球の人。今日は来ないのかと思った』と書かれている。私は振り向いて、人目もはばからず「今日の天気は!?」と呼びかけていた。周囲の人たちが一斉に私のことを見たが、しかしすぐ気まずそうに視線を逸らしている。


 しばらくして、紙飛行機が降りてくる。


『晴れ。雲一つない、青空ですよ』


 今にも雨が降り出しそうな鉛の空の下、私はどうしてだかほっとして、きっとそうなんだと思うことができた。たぶんあの病室の向こう、彼の星には美しい青空が広がっている。


「悩みを聞いてもらえませんか」


 しばらくして、病室から彼が身を乗り出して私のことを見た。私はそれを肯定と受け取って、何度か唇を舐めた。


「悲しいことがあったんだけど、たぶんすごく悲しいことなんだけど、それを悲しいと思えないんです。泣いた方がいい気がするけど、泣いた方がいい気がすると思って流す涙って嘘だと思って。私、人の心ないんですかね。自分がなんだかすごく冷たい人間の気がします。あなたに……こんなこと言ったってしょうがないと思うんだけど、でも火星人さん。地球人にこんなこと相談したら、エイリアンだと思われちゃうかも。だから、」


 彼は黙って私の言葉を聞いていたけれど、やがて奥に引っ込んだ。それからまた紙飛行機が飛んでくる。

 それを開いて見て、私はしばらくその場に突っ立っていた。それからぺこりと頭を下げて、その紙を大切にポケットにしまいながら歩き出す。






『実は火星人も泣きません。火星人は悲しいとき、笑います。体がそういう風にできています。わーっと泣くのと同じように、わーっと笑うのです。あなたも、もしかしたら火星人と同じかもしれません。そうだとしたら、他の人より二倍笑えるのでお得だと思います。悲しいときも嬉しいときも、わーっと笑って、それで、それが全然間違いじゃないって忘れないでください。あなたは実は火星人なのです』


 火星人じゃないよ、と私は歩きながら小さく呟く。なんだか勝手にエイリアンにされてしまった。だけどそれがなんだか本当に可笑しくて、私は一人で笑ってしまった。

 彼が言うように、わーっと笑ってみたくて、私は口を大きく開けて「あはは」と言ってみる。

 無理やりに、どこかで聞いたことのあるような笑い声を作ってみる。

 不思議だ。嘘の涙は不誠実の極みのように思ったが、嘘の笑いはあってもいいような気がした。


 それで、私は、そのどこかで聞いたことのあるような笑い声が、母のものであると思い出した。


 母は、よく笑う人だった。

 それも、くだらないことでよく笑った。

 笑っては、自分の膝や人の腕をバシバシ叩く人だった。


 そんなことを思い出した。どうして今の今まで忘れていたのか、わからなかった。

 いつの間にか私は涙を拭いていて、喉から漏れる嗚咽に溺れる気さえして、うずくまるようにして泣いた。


 私を探して歩き回っていた父を見て、また泣いた。父が私を抱き寄せて、「大丈夫か」とまた訊いてくる。私は止まらない涙を何とかしようとして、でも何とかできなくて、世界一説得力のない「大丈夫だよ」を返して、父が苦笑しながら「うん」と言うのを聞いていた。






 紙飛行機を飛ばす。病室のすぐ横の壁にぶつかって、落ちる。それを拾い上げ、もう一度飛ばす。今度はちゃんと病室に入った。


『ハロー火星の人。残念ながら私は火星人じゃなかったみたいです。でも、ありがとう』


 しばらくして返事がある。『お役に立てたのならよかったです。これでこの前の星間問題はチャラでよろしいでしょうか? 上司に怒られてしまいます』と書いてあった。私は思わず吹き出してしまって、そのままケラケラ笑った。


 それからも私たちは毎日、決まった時間に紙飛行機のやり取りをした。新しい便箋を買った。私の部屋には、彼からの紙飛行機が積みあがっている。妙に几帳面な折り目を見て真似すると、私も随分紙飛行機を飛ばすのが上手くなった。


 ある日いつものように病院の中庭を訪れると、彼の病室は窓が閉まっていた。今日はいないのか、と残念な気持ちになる。

 それからチクリと胸が痛む。それは“かなしい”とはまた別の感情で、焦りに似ていた。


 次の日学校が終わってすぐ走って病院へ向かうと、彼の病室の窓は開いていた。迷ったけれど、私は学校ですでに作ってあった紙飛行機を飛ばす。


『ハロー火星人さん。昨日はお留守でしたか? 上司の方に怒られていなければいいけど』


 返事はすぐに来た。


『ハロー、地球人さん。上司にはよく怒られていますが、気にしないでください。僕も今ではあまり気にしていません』


 気にした方がいいですよ、と思う。彼の言う“上司”が何を指しているのかはわからないけれど。


 私たちは何度か、他愛ないやり取りを繰り返した。

 私は未だ迷っていて、肝心なことを言い出せないでいた。

 だけど勇気を出して、私は紙飛行機にこう書いた。『もしご迷惑でなければ、そちらの宇宙船にお邪魔できないでしょうか。火星人さんとお会いしたいと思っています』と。


 それから数分待ったけれど、返事がなかった。私は内心で冷や汗をかきながら、慌ててまた便箋を出し、文字を書いて飛ばす。


『失礼しました。ご迷惑であれば、忘れてください』


 それが病室に入ったことすら確認せず、私は踵を返した。明日からどうしようという気持ちでいっぱいだった。

 すると後ろから「待っ……!」と声がする。


「っ、こちら火星、こちら火星、応答願います」


 振り向くと、少年が病室の窓から身を乗り出してこちらを見ていた。

 じっと見つめ合っていると、彼は気まずそうにちょっと俯く。緊張しているのか、何度か瞬きした。


 紙飛行機が飛んでくる。そこにはこう書いてあった。


『実は僕はもう百歳になるので、体を交換しなければなりません。火星人はそんな感じで何度も体を交換して、ほぼ不老不死です。だけどこれには問題があって、失敗すると厄介です』


 私はその紙飛行機の裏に『失敗するとどうなるんですか?』と書いて飛ばし返す。すると返事はすぐ来て、そこには端的に『爆発します』と書いてあった。

 思わず私は吹き出して、吹き出していいことだったのか一瞬考えてから、やっぱりこらえきれずに笑ってしまった。

 すると少年は些かほっとした顔をして、それから迷ったそぶりを見せながら右手を振って見せる。私も片眉を下げて、彼に手を振った。


 どう見たって彼の腕は、八本もなさそうだった。








 慣れないパンプスで踵が痛い。人通りの多い道で空を見上げれば、誰かとぶつかって「すみません」と呟く。


 そういえば結局、彼と会っていた日々の中で地球こちら側が青空であったためしはなかったな、なんて。どうして今そんなことを思い出したのだろう。


 あれから七年が経って、高校を卒業し、大学も卒業し、私は社会人となっていた。


 あの後すぐに彼は病院を移ったのか、あの病室の窓は開かなくなった。今どうしているのかな、相変わらず風変わりな火星人をやっているのかな――――と、祈るくらいなら許されるだろう。

 彼のことを考えると、おそろしくなる。おそろしくて、彼が今どこでどうしているのか調べる勇気もない。


 私は火星人ではないので、悲しかったら泣く。そして私は自分の心を守るために、取り返しのつかないような悲しみとは直面したくないと思っている。あの頃と同じ。見事なまでに現実逃避だ。

 どんな曇りでもどんな雨でも、私は彼のおかげでそれを越えることができたのに。


 今日は顧客への謝罪のために、久しぶりにスーツとパンプスを履いた。実際にやらかした本人はその日から欠勤中で、私はなんだかスケープゴートにされたような気になったが、先方もそう感じたのか私には随分と当たりが柔らかかった。

 会社から大事にされていないんだな、と思う。こういう時は父と話がしたくなるけれど、いつまでもあの人を心配させたくないという気持ちもある。


 だから私は笑う。できるだけ大きな声で笑う。そのうちに、実は私は悲しかったのだ、とか、実は怒っていたのだ、ということがわかる。そうじゃなくても笑っていた方がお得だと思うから。


 ふと、後頭部に何か刺さった。チクリというその感触が、妙に懐かしくて。

 足元に落ちた紙飛行機を拾った。


『ハロー、地球の人。そちらの天気はどうですか?』


 息を呑む。

 手紙には、

『きみのために、きみのためだけに、ずっと晴れでありますように』と続いていた。


 すべての音が、遠ざかっていく気がする。


 私は周りを見渡した。

 さっきぶつかった人の、その姿に見覚えがあった。私は鼻の奥がきゅっと熱くなるのを感じる。

 どうして気づかなかったんだろう。世界が狭まっていて、何も見えていなかった。


 火星人は、悲しいときに笑うんだって。嬉しいときも悲しいときも笑うから、二倍笑えてお得なんだって。

 地球人は嬉しいときにも泣くらしい。泣き虫の星だね。


 私は走っていって、その手を掴んだ。「火星人つかまえた」とはっきり声に出す。

 その人は些か動揺した様子で、「人違いですよ」と言った。


「ほら、腕も八本ないですし。生粋の地球人です」


 その言い回しで、私は改めて確信した。風変わりな火星人は、目を逸らしたまんま、身振り手振りで人違いであることを訴えている。

 私は構わず、涙を拭きながら言った。「ハロー火星人さん」と、笑う。


「あなたのおかげで、私の空はずっと晴れでした!」


 彼が動きを止めて、それからゆっくり私の目を見た。

 そうして彼の唇が、僕もだよと動くのを、私はずっと見つめていた。

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