回想13
空気というものは不思議なもので、常に同じもので構成されているはずなのに、呼吸しやすい日もあればこんなにも粘性で呼吸しにくい日もある。これは雨の前兆だ。ベタベタする空気が喉にへばりついて、私はそう感じた。二週間ぶりにあった先生は歪んだ顔をしていて、私の前で無理に笑おうとしたせいで、今までにないほど最悪な顔をしていた。それは、今まで何度も鏡で見たことのある、生きる理由のない人が死ぬ理由を探すときの顔に似ている気がした。
「なんでいるの。」
先生は困ったようにそう呟いた。まるで罪悪感とか嫌悪感とかいろんな感情を同居させながら口にしたような、そういう声だと思った。
「ここにいることが、今の私の生きる理由です。」
求めていた答えがなんなのかは無視して、とりあえずパッと思い付く答えを答えた。恐らく先生が聞きたかったのはそういうことじゃなくて、だけれど先生はそれ以上は私になにも聞かずに、ひどく歪な顔をしてカフェに入った。私もその後ろに続く。
「何を飲みたい?」
以前の反省をいかしてか、早くなにかを飲みたかったのか、それとも気まずさを消すためか、全部当てはまりそうでどれかわからなかったけど、私が口を開くより先にそう聞いた先生はとりあえずそう言って微笑んでいた。それがいつもの柔和な笑顔でないことはいくら表情に乏しい私でもわかった。無言でココアを指差すのを見届けた先生は店員さんを呼んで、コーヒーとココアを一つずつ頼む。せっかくここ二週間でコーヒーを飲む練習をしてたのに先生の前で強がらなかったのは、本当に理由なんてなくて、強いていうならいわゆる「気分じゃなかった」ってだけだ。店員さんはとても可愛い営業スマイルで「かしこまりました。」と答えて、店の奥に消えた。飲み物が来るまで私たちは終始無言だったけど、この無言は価値のある無言なんだと思った。言葉なんて紡げば紡ぐ分だけ軽く薄くなるんだから、これは言葉に価値を持たせるための無言だ。さっきと違う店員さんが飲み物を持ってきたけど、この店員さんは好みじゃないなと無愛想にカップをおく店員さんに対して心の中でけちをつける。最初に飲み物を飲むか、言葉を掛けるか迷ったけど、粘性な空気に流動を与えるために空気を湿らせる必要を感じたので、私は先にココアを一口飲んだ。先生は黙って運ばれてきたコーヒーを眺めている。
「どういう答えを求めてるのか知らないですけど。」
ココアの入ったコップをテーブルにおいて、私は一呼吸置く。
「私はさっきもいった通りここに生きる理由を求めに来ているので、ここに来ること以外に私の生きる時間の有効な利用価値なんてせいぜい紙にペンを走らせるくらいしかなくて、それすらないとなると文字通り「死ぬほど」暇なんですよね。それに、私は先生の一種の真面目さを信じてますから。」
「信じてる、か。そうか。」
先生はわずかに顔を上げたが、その虚ろな瞳が私のココアを映していたのか私を映していたのか、それとも先生の回想を映していたのかはさっぱりだった。それでも、先生が鞄からおもむろに私の作った原稿用紙を取り出してくれたのだから、答えとして不正解ではなかったんじゃないかと勝手に思う。
「結莉ちゃんは…」
ゆっくり、問いかけるように喋る先生はまだ空気で口を動かしにくそうで、だったらその苦い飲み物でも飲めばいいのにと私はそう感じた。
「結莉ちゃんは、さ。俺のこと、どう思ってくれてるの。」
先生は困ったように私に笑いかけた。随分とひどい顔だった。また一つ、先生の作れる顔を知った。
私が黙ったままだったのは、何て答えるのか迷ったとか、あるいは難しい言葉を使いたかったとか、そういう理由じゃなくて、単にこの会話はまだ先生のターンであることを知っていたからだ。先生は続ける。
「結莉ちゃんは、なんでこの小説を書いたの?」
先生が私にそう聞いてくれたことに、もはや一種の安堵まで感じる。先生は、小説を読んだのだ。最後まで。そのうえで、感想を言いに来てくれたのだ。いや、先生ならきっとそうしてくれると最悪な信頼を押し付けたのは私なんだけど。この最悪をもし先生が裏切ってくれていたら、私は私の生きる理由を、白紙に戻せたのに。その方が、きっとよかったのに。先生は私を見た。私は、先生の手元にある原稿を、その拙い文字列を見る。私の生きる理由は、あまりに中身がなくて、泣きそうになった。今なら多分まだ、立ち止まれる。それが私たちの生きる理由だったと結末にして、新しい生きる理由を、あるいは死ぬ理由を考えることができると思う。先生はそれを、望むだろうか。先生は私を見ている。運ばれてきたコーヒーが冷めるのも気にせずに。やっぱり先生は大人で、私は子供だと思った。
「私の小説は、先生のものなんです。」
続けようと思ったけど、うまく言葉を選べない。これじゃあ、小説家にはなれないだろう。ココアを飲んで、一呼吸置いた。先生は、未だコーヒーに手を着けない。
「でも、私の小説も書きたかったんです。それに。」
私は極力、先生に嫌われないように言葉を選ぶ。嫌がらせのようなことをしておいて、嫌われたくないなんて、ひどく矛盾してるなと思った。だから、嫌がらせという文字に嫌うという漢字を使わないようにしてほしい。コップを手に取って口まで持ってきてから、そのコップの中が空なことに気づく。自分はいつの間に飲み干したんだろう。口の中が乾いてるけど、仕方なく私はコップを置いて、そのまま続けた。
「それに、先生を待ち惚けた日はちゃんと先生のことを心配しましたし、不安にもなりました。前に言った、私は何があっても先生の味方で、あの件については先生は悪くないと思っているのは本心ですが、味方でありたいからこそ、私は、私が、先生と会話をしたかったんです。」
先生が黙ったままだったのは、きっと、単にまだ私のターンだと知っていたからだと思う。最初にこんな前置きの理由で保険を掛ける私に付き合ってくれる先生に、感謝する。店員さんに、追加でココアをお願いした。それから、ゆっくりと呼吸を意識して行う。まばたきを意識して行う。そして、意識して口を開く。私の言葉に、重みを持たせるために。
「先生が私にあの件の話を初めてしてくれたとき、最初は私に相談してくれているのかと嬉しく思いましたが、私とその生徒を重ねてるんだろうなってことはすぐ気づきましたし、当然ショックを受けました。」
ここまで言えば、先生も私が何を言いたいか気づいていそうだ。そう、これは本当に単なる嫌がらせだ。仕返しなのだ。こんなことでしか私は私のわがままな感情を先生に伝えられない。胸に渦巻く嫌悪感は、私に向けられたものだ。ぐるぐると、今もまだ渦巻いている。もう一度空のコップを口まで近づけた。口は乾いたままだ。先生の中で、私は生徒の一人でしかないんだとわかってはいた。でも、それでもやっぱり、正直生徒の中では特別扱いされるくらいには関係は深いんじゃないかと期待していた。いや、そうでなくても、先生は生徒を一人一人全員を特別に見ているものだと思っていた。それが、「先生」だったから。だから、先生が、生徒の姿を別の生徒に重ねるなんて、何よりも悲しかった。自殺した生徒と私を重ねるなんて、耐えられなかった。
「ごめん。」
謝罪は、肯定だった。私の小説の。認めないでほしかった。先生が、私くらい卑怯であったらと思わずにはいられない。今からでも、全部嘘にならないだろうか。私に手を伸ばすほどの優しさも、あのお人好しな微笑みも、教師という職業も、生徒の自殺も、あの発言も、私の小説も。実はコーヒーなんて嫌いで、私と同じでかっこいいからやせ我慢で飲んでいたりしないだろうか。再び私たちは無言になる。今度は価値のない無言だ。気まずいだけの。嫌悪感がぐるぐるする。胸に渦巻く嫌悪感は、私と、先生に向けられたものだ。今の先生に。気まずさに耐えかねた先生は冷めたコーヒーを手に取って、口にした。私の願望は打ち砕かれた。
「...先生は、先生の教え子に生きていてほしいと思いますか。」
それは、個人的な確認だった。
「私にも、あの生徒にも。生きていてほしいと思っていますか。」
「……ああ、思ってるよ。」
先生はわずかな間の後、静かに肯定する。肯定でも否定でも、どっちでもよかった。どっちでも私は嬉しかったし、悲しかったから。私も、先生に生きていてほしいと思っている。だから、そんな死ぬ理由を探しているような顔をしないでほしい。
「私は先生に救われましたよ。きっかけがどうあれ、私は今、小説を書き終わらせるために生きていると断言できます。先生は、間違いなく私の生きる理由でした。」
先生は答えない。別に答えてほしいと思っていたわけじゃないから特に問題はなくて、私は言葉を続ける。
「私の小説はきっと、私が死ぬまで完成しないんです。そして、私は小説が終わるまで死ぬつもりはないです。生きる理由が何かはまだわからないですし、今ではわかりたくないとすら思いますが、少なくとも生きなきゃいけない理由なんてないんだと思います。そして、私が母に教えられてたのが生きなきゃいけない理由で、先生に教えてもらったのが生きる理由だと、私はそう認識してます。」
私は店員さんが持ってきてくれたココアを一気に飲み干す。とても、とても甘かった。
「もしよければ、少しでかけませんか?」
私は先生に手を差し出した。先生は不意の私の提案に一瞬だけ戸惑ったようだけど、流れに身を任せることにしたのかはたまた気分転換が必要だと先生も思ったのか、先生は残りの冷めたコーヒーを飲み干して、私の手を取った。とても、とても苦そうな顔だった。私は先生のその顔を、きっとコーヒーを飲む度に思い出すと予感した。確信に近かった。お会計をすませて店をでると、ちょうどのタイミングで雨が降り始めて、運がいいなと思った。私は傘を持ってきていたけど先生は持ってなさそうで、困ったように「どうしようかな」と笑う先生に私は悪びれもなく傘置き場の見ず知らずの傘を一本先生に渡す。
「こんなこともあろうかと、先生の傘を予備で一本、持ってきていたんです。」
私のあまりに堂々とした態度に善良な先生はすっかり信じたようで、ありがたくその傘を使うことにしたようだった。雨は先生の持つ傘に当たって跳ねる。跳ねた雨粒は私の傘に当たって、また跳ねる。それが私の前の水溜まりに着水して波紋を広げる。その水溜まりの表面には私と先生が反射して写っていて、背の低い私が先生との身長差を感じるのはいつもこういう、下らない瞬間だけだった。
「どこいくの?」
駅まで歩いた頃、先生はようやく、私にそう聞いた。さすがに電車に乗る前に、行く場所は知っておきたいと思ったのか。それともこれまでの意味のない無言に耐えきれなくなったのか。はたまた意味なんてなかったのか。先生の質問に私は「内緒です」といって悪戯っぽく微笑んでみせる。私の笑顔がかわいいのは、あとにも先にも今日だけだとおもう。先生はなにか言いたそうだったけど、諦めて成り行きに身を任せることにしたようで、「内緒か。楽しみだな。」と無理に微笑んだ。
「目的の電車が来るまでまだ少し時間があるんです。あそこのコンビニ寄りません?」
「いいよ。わかった。」
私はコンビニでココアとフライドチキンを買って、そのココアを早速一口含む。カフェで飲んだのと味の違いが判らない。それから小さく一口、チキンを囓る。
「おいしそうで衝動的に買ったはいいのですが、私はそんなにお腹空いてないみたいです。先生がこのチキン食べてくれませんか。」
私がそうお願いすると先生は「なんだそれ」と笑って、それから「じゃあ貰おうかな。」チキンに豪快にかぶりついた。先生がそれを食べ終わる頃、気づいたら電光掲示板の表示が変わってて、私は先生の手を引いて、三番線に向かう。すれ違う人たちは、私たちをどういう関係だと思っただろうか。親子?年の離れた兄弟?従兄弟?それとも、彼氏彼女と思う人もいたかもしれない。まさか、もともとただの他人だったとは想像できないだろうな。そんなことを考えながら、私の先生を見上げる。私と目があった彼はいまだに優しそうな顔をしようとしていて、それが少し癪で、少し嬉しかった。雨はやむどころかますます強くなって、駅舎の屋根をひどく強く叩いてる。電車が発ってすぐ並びにきたから、無事先頭を確保することができた。線路を眺めてる私の肩を引いたあの愚かな男性は今は隣で同じく線路を眺めていて、これじゃあまるで二人で自殺するみたいだと一人心の中で小さく笑った。電車を待つ間、暇をもて余す私たちは他愛のない雑談をし続けた。それは、確かにあった、私と彼の時間だった。もともとそこそこ人の多くなる駅だったけど、今日は雨だからか、電車が来る時間が近づくにつれ、いつもよりたくさんの人があつまった。私はこの人たちにも生きる理由があるのか考える。それは意味の有無に問わず、ただ、駄々をこねるようなものだった。アナウンスがまもなく電車が来ることを知らせて、私は先生にばれないように欠伸を噛み殺す。それから言葉をこぼした。
「先生は私の生きる理由でした。そしてそれだけでなくて、生きる形でもありました。先生は間違いなく私より大人になる分だけ生きていて、数えられないほど私にその差を与えてくれました。」
雨音。喧騒。徐々に近ずく電車の走行音。そんな中で私の言葉は先生に聞こえているのだろうか。先生なら聞いていそうだなと思う。まあ、どっちでもよかった。
「私はこの恩の返し方をずっと考えていました。いえ、今も少し考えています。私は先生の生きる理由にはなれないでしょうから。同時に、死ぬ理由にもなれないんだと思います。」
私は後ろからそっと先生に手を触れる。頼れる大きさで、優しいあたたかさだ。
「だからせめて。」
屋根が雨をはじく音。人が零す雑音の塊。徐々に近ずく電車の走行音。私の頬を伝う水滴が雨か涙かわからない。私は今さら子供らしく、泣けているのだろうか。私は触れた手に力を込め、前に押し出す。私のふさがれていた視界は、急に広くなった。
「だからせめて、生きる理由に縛られている先生がこれ以上何者でもなくなる前に、私が先生の死ななきゃいけない理由として先生の背中を押します。ねえ先生。先生は私の小説で、かけがえのない主人公でしたよ。」
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