珈琲を一緒に

小径 散歩

珈琲を一緒に

 純喫茶「花ことば」が休業してから三週間。

 私はその店の前に立ち、―店主急病のためしばらく臨時休業いたします―と書かれた張り紙をじっと見つめていた。

 時刻は午後13時過ぎ。本来なら平日の今日みたいな日は休憩中のオフィスワーカーや近くにある大学の学生たちで店内は賑わっているはずだった。

 だが、今お店の中は暗く静まり返り、私の目の前にある張り紙が寒空の下カタカタと冷たい風に揺れているだけ。

 私はため息を一つこぼすと、その張り紙をペリペリと剥がして、小さく折りたたんだ。

 三週間前に急病で倒れた店主こと私の祖父は、もういない。亡くなったのだ。

 本当にあっという間だった。

 寝室のサイドテーブルに置いていたスマートフォンが震え、見知らぬ番号から架かってきた電話に出ると、「はい、もしもし」と言う間もなく、入院先の病院職員は祖父の容態が急変したことを口早に告げ一方的に電話を切った。

 慌てて駆け付けた時にはもう、祖父は暗い部屋の中に一人寝かされていた。

 悲しみに暮れる間もなく、その日から私は現実に追われた。

 遠い異国でスローライフを満喫している父も母も当てには出来ず、葬儀を済ませて諸々の処理が落ち着いたのが二日前。なんとか葬儀には間に合った両親は、お店の事は任せるからと言い残して昨日朝一番の便で帰っていった。

 私は、祖父が遺したお店の前で立ち尽くす以外出来なかった。

 この店は、私の唯一の心の拠り所だった。悲しい事や辛いことがあると、私は店のカウンターの隅っこで祖父が挽く豆の音を聞いていた。幼い頃から人間関係が苦手で親しい友人もおらず、どこにも居場所なんて無かった私の、安息の地。

 それが、こんなにも呆気なく消えてしまうなんて……。

 ひゅうっと北風が吹き抜けるたび、木彫りで彫られた「花ことば」の看板が、カランカランと小さな鈴を鳴らしながら揺れた。

 私はポケットから鍵を取り出し、中に入った。

 そこは、ひっそりと静まり返ってはいたがいつも通りの「花ことば」だった。昭和の香りを残した空間。薄い照明の下、磨かれた木目調のカウンターの向こうでいつも祖父は静かに豆を挽いていた。奥にある小さな焙煎機、ポットや手挽きのコーヒーミル。どれも使い込まれているが丁寧に磨かれていて、道具たちはすぐにでも働き出せるよとでも言うように、静かに出番を待っているように思えた。

 私はカウンターの椅子に腰を下ろし、厨房の奥にあった祖父のレシピノートを開いた。

 コーヒー豆の種類、焙煎時間。沢山のメモが書き込まれたその最後のページには、二年前に亡くなった祖母と一緒に笑う祖父の写真が張り付けられ、その下に鉛筆書きで、―ハーデンベルギア・花言葉、運命の出会い―と書かれていた。

「おじいちゃん……これから私、どうすればいいの……」

 ノートを閉じて途方に暮れたその時、背後から小さな声が聞こえた。

「……あの、すみません」

 振り返るとそこには、背の高い細身の男性が、手に小さな胡蝶蘭のような、紫色の可愛らしい花の鉢植えを持って立っていた。

 年のころは私と同じくらいか少し上だろうか。

 白いシャツに茶色いコートを羽織った青年の大きな瞳に見とれて、私はしばらく彼の顔をぼうっと眺めていた。

 彼がもう一度、「あの、すみません」と尋ねた声で私は我に返って、「えっ?あっはい。何でしょう?」と間の抜けた声で返事を返した。

「この店、今日から開けるんですか?いや、その前にマスターは、マスターはどうされたんです?張り紙でご病気だって知りましたけど、容体は……」

 勢い込んで尋ねる彼に、私はうつむいたまま首を振った。

「祖父は……いえ、この店のマスターは先日亡くなりました。私はその孫娘です」

「亡くなった?そ、そんな……」

 それきり絶句して黙ってしまった彼は、虚ろな目をしたまま鉢植えをカウンターに置くと、私の隣に腰を下ろした。

 しばらく重い空気が流れて、沈黙に耐え切れなくなった私が「あの……」と切り出した時だった。

「地方から上京してきた僕は、周りの人たちと上手く馴染めずに、大学でもバイト先でも、いつも独りぼっちでした。そんなある日、ふと大学の帰りに偶然入ったのがこの店です。ここはマスターが挽く豆の音だけが時間を刻んでいて、それが妙に心地よくって……」

 彼は、誰に語るでもなく静かにそう話だした。

「『今日は深煎りがいいかな』確かそんな風に声をかけられて、僕はカウンター席に腰掛けました。しばらくして出されたコーヒーは淡い香りを漂わせていて、それを口に含んだ瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった気がしたんです。いつも沈んでいた心に、温かさが沁みてくる。そんな感じでした。マスターは多くを語らなかった。ただお会計の時に一言、『悩む時間も、決して無駄じゃありません』そう言ってくれたんです。その言葉が心に深く響いて、当時の僕の支えになりました」

 テーブルの木目を撫でながら彼は続ける。

「それから、何かにつまづくたびにこの店に来ました。失恋した夜、雨に濡れながら扉を開けると、マスターは「今日は少しビターなものを」と微笑んで僕のために特別なコーヒーを出してくれた。人生の苦みを、その一杯は教えてくれました。就職活動がうまくいかなくて自己嫌悪に沈んでいた時も店に入るとマスターはいつも通りに豆を挽きながら『君のその浮かない顔を、豆たちが慰めるって言ってますよ』と冗談のように言って注いでくれたコーヒーの香りは、まるで何をしてもダメな僕を抱きしめるように包んでくれた。卒業式の前日、お礼を述べる僕にマスターは言ったんです。『君が淹れるコーヒーも、きっと誰かを救うはずです』僕はその言葉に決意して、コーヒー修行の旅に出たんです。それでやっと先日この街に戻ってきて、荷物を置くよりも先にこの店に来たら、あの張り紙を見て……」

「…………………」

 私が何も言えずに黙っていると、店に差し込んできた午後の光が、彼の持ってきた鉢植えを静かに照らした。

「あの……そう言えばこの鉢植えは?」

「ああ、これ……」

 彼は優しい目で鉢植えの花を見た。

「二年ほど前だったか、厨房にこの花が飾られていたことがあったんです。マスターに尋ねたら、なんでも亡くなった奥さんが好きだった花らしくて……二人が出会った時の思い出の花だって言ってました。花の名前は、ハーデンベルギア。お見舞いのつもりで持ってきたんですけど……」

「……ハーデンベルギア」

 それは、さっき見た祖父のノートに書きこまれていた、花の名だった。

 たしか花言葉は……。

「花言葉は、―運命の出会い―だそうです。ロマンティックですよね」

 私の心の中の声を聞いたかのように、彼がそう続けた。

「運命の……出会い」

 私が呟くと、彼は深く頷いた。

「もしよかったら、この花、お店に飾ってください。すみません、大変な時に尋ねて来てしまって。それじゃあ僕はこれで……」

 彼が席を立つ。

 その背中に、自分でも信じられないけれど、私は思わず勇気を振り絞って声をかけた。

「あの……」

「はい?」

「もう少しここにいて、お話していきませんか?」

「えっ?」

「よかったら、祖父の道具を使って……ここでコーヒーを淹れてくれたら嬉しいです」

 私が頬を赤らめてそう言うと、彼は驚いた顔で私を見た。

「僕がここでコーヒーを作っても?」

「ええ、あなたさえ良ければ……」

 彼は今度は優しい目で私を見た。そして、

「じゃあ、僕が淹れたコーヒーを一緒に飲んでもらえますか?」

 そう言うと羽織っていたコートを脱いで、カウンターの椅子に掛けた。

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