第3話

記憶の蓋は開けようとする度に冷えて固まっていて、頑固に口を閉じている。まるで暫く使っていなかったジャムの瓶のようだ。幼い頃はどうにかしてこじ開けようとしても中身がこびりついてびくともしなかったのに、歳を重ねる程、無理矢理こじ開けることができるようになった。もしかしたら子供の頃は事実を直視するのが恐ろしかっただけかもしれないが、今となってはもう、その頃の思いなんて推測することしかできない。

 そうして取り出した記憶は、長いこと引き出しにしまわれていたせいか、取り出してすぐは決まって他人のように余所余所しい。


 あれは俺が4歳になって1ヶ月も経たない冬の日…その時期にしては暖かい小春日和だった。父親が運転する車で、クリスマスプレゼントを買うためにショッピングモールへ向かっている間の出来事だった。助手席には母親が座り、俺は母親と会話がしやすいようにと、運転席の真後ろの座席に取り付けられたチャイルドシートに座っていた。そこまでは思い出せるのに、その時に話していた内容も、母親の表情も、父親の声色も、自分が買って欲しかったおもちゃさえ…事故前後の仔細には全て濃い霧がかかっていた。肝心の交通事故に至っては全体が黒く塗りつぶされていて、その後の警察や医師から聞いた内容を繋ぎ合わせて漸く薄っすら輪郭が見えた程度だ。どこでどんな風に、どんな衝撃を受けたのか…幸か不幸か、自分ごととしての記憶はすっかり欠落していた。

 そんな中で唯一鮮明なのは、強い衝撃の後に自分の名前を呼ぶ父親と母親の声だ。繰り返し呼ばれたお陰で、病院のベッドで両親の死を知ってなお、父と母が近くにいるような心強さを感じた。


 不幸中の幸いで、俺の怪我は最小限で済み、両親の葬儀に参列することができた。

 その後、一時的な保護役として白羽の矢が立ったのは母方の遠い親戚…歓迎されていないことはすぐに分かった。その上名前も知らなかったような親戚にすぐに心を許せるわけもない。それでも必要な世話はしてもらったことはありがたく、なるべく目立たないように息を潜めてひっそりと過ごしていた。寂しくて泣きたくなったら、布団をかぶればきっと大丈夫だ。そう思っていたのに、どんなに母親や父親を恋しく思っても、不思議と涙は一滴も出なかった。

「私もねぇ、施設の入居が決まっとってなぁ」

「あっちはあっちで、なんのかんの言いよるし」

 そんな囁きに気づくようになったのは、そこで暮らし始めて2週間程経ってのことだ。家人が受話器に向かって次々に文句を口にしていたのは、それまでも何度も目撃していた。けれどそれが間接的に自分に向けられていたとは思いもよらず、気付いた瞬間に胸が内側から撫でられるような気色悪い感覚に襲われた。その場から逃げ出すか、耳を塞ぐかしたくても、手も足も凍りついたように動かない。

 電話の相手は具体的には分からなかったが、恐らく親戚の誰かだろう。直ぐ傍で俺が聞いているにも関わらず、溜息と共に吐き出される愚痴は一度始まるとなかなか終わらない。内容が理解できないほどに子供だと思われていたのか、あるいは俺の事なんて見えていなかったのかは分からないが…とにかくそういう時はいつも、決して大きくない筈の背の曲がった影が、何か恐ろしい化物のように見えていた。

 そしてその声は四十九日の法要の場でも聞こえてきた。酒を飲んで大きくなった声、ひそひそと伺うような声、断定的に響く男性の声、芯の強そうな女性の声、件の親戚の声…聞こえてくる声は様々だった。そしてそのどれもが知らない声だった。血縁関係はあったのかもしれないが、生まれてからの4年間で顔を合わせたことがない相手が殆どだったのだろう。耳の奥がざらつく。その頃にはもう毎日のように聞いていた文句にすっかり疲弊し、うんざりしていた俺は、少しでもその声から離れたくて大人達が精進料理をつつきグラスを傾ける部屋を抜け出した。

 寺の庭池の縁で、水底でじっと動かずにいる暗い色の鯉を眺める子供を心配して声を掛ける親戚はいなかった。明るい昼下がりの空とは対照的に、どんよりと重い周りの空気。

 俺が「コジイン」に行けばいいんだろう、と投げやりな気分だった。孤児院が具体的にどういうものかは知らなかったと思うが、薄く血の繋がっただけのほとんど見知らぬ「親戚」に厄介者のように扱われながら日々を過ごすよりかは幾分マシなんじゃないかと思ったのは、生前の母親に「シンデレラ」の絵本を読んでもらったことがあったからだと思う。

「…お父さん、お母さん」

 全部、全部、悪い夢であってほしいと祈っても、早く目を覚ましたいと願っても、父親も母親も帰ってこない。ほんの少しの温もりさえも。どこを探しに行けば逢えるだろう。いい子にしていたら帰ってきてくれるかもしれない。両親が死んだことは理解していた筈なのに、同時に本気でそんなことを考えていた。

「あいたいよ…」

 涙の代わりに口から2人を呼ぶ言葉が口から溢れたその時、体の横にだらんと垂らしていた右手に温度が返ってきた。思いも寄らない体温に呼吸が止まり、反射的に振り向いた。右手に宿った温度を辿った先にいたのは、

「あのねー、すずのとぅととかぁかも迷子なんだぁ!」

見知らぬ女の子…3歳の涼夏だった。

「え、と…きみは…」

「すずは涼夏っておなまえなんだ。おにいちゃんは?」

「り、理人」

「りひと!ねぇねぇ、おいけのおさかなうごかないねぇ?」

「う、うん」

 久しぶりに温度のある会話だったことに加えて、その内容はとりとめなく、聞かれたことに答えるのが精一杯だった。それまで頭の中の大半を占めていた雲は晴れこそしなかったが、屈託なく喋る涼夏を前に、勝手に隅っこに追いやられてしまった。勢いに呆気にとられていると、したり顔で身体の前で人差し指を立て…

「すず分かった、おなかすいてるのかも」

たかと思うと今度はその場にしゃがみこんで雑草をぷちぷちとむしり始めた。幼い涼夏の足元から「ぷぴぃ」「ぴぴっ」と幼児用の靴の間の抜けた鳴き声が聞こえる。忙しい。目が回りそうだ。

「えっと」

「おさかなもはっぱ食べるかな」

「た…食べないと思う」

「えーすずはそう思うのになぁ」

 そう言いつつも、握りしめた雑草をパラパラとその場に落とし、そのまま鯉に視線を向ける涼夏。一瞬会話が落ち着いたことで、その間ずっと手が繋がれたままだったことにようやく気づけた。その手につられ、同じようにしゃがみ込む。つやつやと肩まで伸びている髪の半分は、後頭部でちょこんと結ばれていて、犬の尻尾みたいだと思った。

「どんぐりは食べる?」

 鯉はまだ底に潜ったままだし、親族の声も変わらずざわめいているのだろう。俺を取り巻く環境は何一つ変わっていない…それでも、その時やっと、息ができたような気がした。

 2人で並んでなんでもない話をしていると、暫くして、建物の方からジャッジャッと砂利を踏む音が聞こえてきた。涼夏といっしょに振り返ると、母親と同じくらいの女性がこちらに向かってくるのが見えた。きちんと整えられていたであろう髪はいくらかほつれ、足はもつれそうになりながら小走りで向かう様子に、余程慌てていたんだろうと子供心に思った。

「涼夏!ここにいたの!?もう、勝手に…」

「あ!かぁか!どこ行ってたの?ちゃんとすずとおててつないでないとダメってゆったでしょ!」

 ませた口調で手を自分の母親を叱りつける涼夏に、さっきの発言が虚勢でなく本心だったということを知って驚いた。本気で、自分ではなく、大人である親が迷子になったと思っていたとは。涼夏の母親は溜息を吐き、呆れた口調で文句を言いかけたが、隣で手を繋ぐ俺を見て息を呑んだ。後ろから遅れてやってきた涼夏の父親もハッとした顔をして足を止めた。

「アナタねぇ…あ、理人君…」

「…こんにちは」

 どちらも知らない顔だったが、自分が名乗る前に名前を呼ばれたということは、親戚だろうと思って頭を下げる。と、涼夏の母親は土で汚れることをまるで気にせず、その場に両膝をついて俺の空いている方の手を両手で包みこんだ。涼夏の手と同じように温かかったが、涼夏の手と違って守られているような錯覚をする大きさだった。何度か口を開き、迷って、ようやく絞り出された声はわずかに震えていた。

「理人君のお母さんの友達の、佐倉沙希です。理人君にも何度か逢ったことがあるんだけど…憶えてないかな」

「…ごめんなさい」

「ううん、小さい頃に少し逢っただけだから、憶えてないのが普通だったね。変なこと言っちゃって私こそごめんなさい」

 友達。親戚じゃないと知って、少しだけがっかりした。友達ということは、母親がいなくなった今はもう他人だ。きっと、この子とはここでお別れになってしまうんだろうと思うと、心の中にまた黒く重たい雲が立ち込め始めた。

「連絡をもらったのが最近でね…お葬式で見送ってあげられなかったから、今日来させてもらったの」

 今にも零れそうなほど、目尻に涙を浮かべた大人なんて返せばいいか分からなかった。

「お父さんとお母さんがいなくなっちゃって、とっても…と、っても…悲しいね…」

「…うん。悲しい」

 目と、鼻の頭が赤い。正面から大人の顔を見るのはいつぶりだっただろう。この人達の前でなら、本当の気持ちを口に出していいんだと分かってほっとした。それでも、いつまでもこうしていられないということも分かっていた。優しく頭を撫でられて、鼻の奥がツンと痛む。

「…それなのにすずと遊んでくれてありがとうね」

「ううん、へーき」

「ね!すず、またあそびたい!」

 その言葉に、ふわっと明かりが差したが、すぐにそれは雲に覆われてしまう。

「でも…ぼくはきっと、遠いところのコジインに行くから」

「え…親戚のお家に行くんじゃ…」

「…だってみんな、ぼくのことキライだもん」

 口に出して認めると、胸に剣を突き刺すような鋭い痛みが広がった。俺の言葉は俺だけじゃなく、涼夏の母親にもひどくショックを与えたらしい。包み込む両手に緊張したように力が入る。

 愛されて育った自覚があったからこそ、愛情が無限に、無条件に与えられるものでないという認識は、幼い俺を絶望させるのに充分な痛みだった。

「すず、りひとのこと好きだよ!」

 そんな中で自分を必要だと訴える、小さくて、柔らかくて…温かい手。その手の温もりに幼い俺の心はどれだけ救われただろう。かけがえのない両親の死を経、時が止まったように一滴も涙が流れることがなかった目から、涙の雫がひとつだけ落ちたかと思うと、堰が壊れたかのように次から次に大粒の涙が零れ、地面を濡らした。視界が滲み、2月の冷たい空気が涙に触れ頬を冷やす。

「っう、あ…うわぁぁあああん…!!」

 突然の慟哭に驚き、涼夏は目を丸くした。が、俺が自分より小さな腕に縋るように声を上げたものだから、おろおろと戸惑い、そして、

「りひと、だいじょぶだよ。いいこ、いいこね〜…」

たどたどしい手つきで頭を優しく撫でられた。次の瞬間、涼夏ごと涼夏の両親に痛いぐらいに抱き締められ、肺の中の空気と涙が身体の中から絞り出される。それでも、その苦しさが頼もしかったのをよく覚えている。

 気持ちが落ち着くまでずっと泣いて泣いて、堰き止められていた全ての涙を出し切ってからかけられた言葉は、涼夏の両親からもらった最初のプレゼントになった。

「理人君、涼夏のお兄ちゃんになってくれない?」


 今にして思えば、個人を偲ぶ四十九日の法要でうろちょろと歩き回り、鯉の池に雑草を入れかけ、挙げ句に交通遺児を泣かせるなんて、涼夏の行動は幼児とはいえ非難されてもおかしくない。でも俺はあの時、間違いなく救われた。そして数え切れない、かけがえのないものをもらった。他の誰でもない、3歳の涼夏に。


 ざばんと水面を揺らして立ち上がる。肌寒かった浴室は風呂で温まった身体には寧ろ心地良いくらいだ。ファンヒーターをつけている脱衣所の空気は暑いぐらいだ。一通り部屋着を身に着けても、なお髪から滴る雫をガシガシと雑に拭っていながらそっと耳を澄ませてみる。

 扉の向こうからはもう、事故のニュースは聞こえてこなかった。

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2026年1月21日 21:00
2026年1月28日 21:00

うつろう名無しの交差点 桐沢 胡桃 @kurumik_pb

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