第十一章 勇者への手紙

魔王城への訪問から、一週間が経っていた。


 正配が持ち帰ったのは、意外な結論だった。


 魔王との会談は、予想に反して穏やかなものだった。魔王は正配の話を聞き、郵便局の中立性を認め、攻撃の中止を命じた。条件は、魔王軍にも平等にサービスを提供すること。それだけだった。


「信じられない」


 シルフィアは何度もそう言った。


「魔王が、こんな簡単に折れるなんて」


「簡単じゃなかったさ」


 正配は苦笑した。


「三日三晩、話し合ったんだ。お茶を何杯飲んだか分からない」


 魔王との詳細な会話は、正配は誰にも話さなかった。ただ、魔王が「ある依頼」を持っていることだけは伝えた。


 その依頼を果たすのは、もう少し先のことになりそうだった。


 今は、別の問題が山積みになっている。


   *


「勇者への手紙が、溜まっています」


 エリナが報告した。


「今日だけで、五十通以上。全部、勇者宛てです」


 勇者。


 この世界には、魔王を倒す使命を持つ「勇者」がいるらしい。だが、勇者は数年前から行方不明になっていた。


「宛先不明で返送するしかないか」


 ダルクが言った。


「勇者の居場所が分からないんじゃ、届けようがない」


「いや」


 正配は手紙の束を見た。


「届ける」


「でも、居場所が——」


「探せばいい」


 正配は目を閉じ、意識を集中した。


 万物配達権。どんな場所にも届ける力。


 だが、それには「届け先」が必要だ。相手が生きていて、どこかに存在していること。


 地図が浮かぶ。


 大陸の全体像。その中に、淡く光る点を探す。


 ——あった。


 北の山岳地帯。雪に閉ざされた深い谷。そこに、一つの光が灯っている。


「見つけた」


 正配は目を開けた。


「勇者は、北の山にいる。生きている」


「本当ですか」


 ミミが目を輝かせた。


「届けられるんですか」


「届けられる。だが——」


 正配は少し考え込んだ。


「この量の手紙を届けるのは、俺一人では難しいな」


 五十通以上の手紙。一度に転送するには多すぎる。しかも、勇者の居場所は山岳地帯の奥深く。直接会いに行く必要があるかもしれない。


「俺が行く」


「また一人ですか」


 シルフィアが眉をひそめた。


「いや、今回は護衛がいた方がいいだろう。シルフィア、一緒に来てくれ」


「分かりました」


「ミミ、お前もだ。何かあった時、連絡役が必要だ」


「はい!」


 三人で、勇者のもとへ向かうことになった。


   *


 北の山岳地帯は、厳しい環境だった。


 雪は膝まで積もり、風は容赦なく体温を奪う。正配の五十五歳の身体には、かなり堪えた。


「大丈夫ですか、局長」


 シルフィアが心配そうに言った。


「大丈夫だ。まだ動ける」


 嘘だった。足は棒のようで、息が上がっている。だが、弱音は吐けない。


「あと少しです」


 ミミが前方を指差した。


「あの谷の奥に、人の気配がします」


 獣人の鋭い感覚だ。正配には何も感じられないが、ミミを信じるしかない。


 谷を下り、奥へ進む。


 やがて、小さな小屋が見えてきた。


 雪に埋もれかけた、粗末な木造の小屋。煙突からは、細い煙が上がっている。


「ここか」


 正配はドアをノックした。


 返事はない。


 もう一度ノックする。


「誰だ」


 低い声が返ってきた。若い男の声だ。


「郵便局です。手紙を届けに来ました」


 沈黙。


「……郵便局?」


「はい。勇者殿宛ての手紙を、たくさんお預かりしています」


 長い沈黙の後、ドアが開いた。


 そこに立っていたのは、二十代半ばの若者だった。


 金髪に青い瞳。端正な顔立ちだが、髭は伸び放題で、目の下には濃い隈がある。痩せこけて、生気がない。


「お前たちは——」


「転生郵便局の局長、郵川正配です。こちらは局員のシルフィアとミミ」


「転生郵便局……噂は聞いた。どこにでも手紙を届けるという」


「はい。あなたに届ける手紙があります。入れてもらえますか」


 若者は少し迷った後、道を開けた。


   *


 小屋の中は、質素だった。


 ベッド、机、椅子、暖炉。最低限の家具だけがある。壁には、一本の剣が掛けられていた。だが、刃は折れている。


「俺は——」


 若者は暖炉の前に座り、俯いた。


「ユリウス。かつての勇者だ」


「かつての?」


「今は違う。俺は、もう勇者じゃない」


 正配は黙って話を聞いた。


 ユリウスは、五年前に魔王と戦った。だが、敗れた。仲間は全滅し、自分だけが生き残った。


「俺には、資格がない。仲間を死なせて、自分だけ逃げた。そんな奴が、勇者なんて名乗れるわけがない」


「それで、ここに隠れていたのか」


「ああ。誰にも見つからない場所で、静かに死のうと思っていた」


 正配は、手紙の束を取り出した。


「これを読んでくれ」


「手紙?」


「あなた宛ての手紙だ。全部で五十三通。この一週間で届いたものだけでも、これだけある」


 ユリウスは手紙を見つめた。


「誰が、俺なんかに——」


「開けてみれば分かる」


 ユリウスは、震える手で最初の手紙を開いた。


   *


『勇者様へ。私の息子は、あなたを目標にして剣の稽古をしています。いつか、あなたのように強くなりたいと言っています。どうか、諦めないでください。息子のために、私たちのために』


『勇者殿。私は足が不自由で、戦うことができません。でも、あなたを応援することはできます。いつか、あなたが魔王を倒してくれると信じています』


『勇者様。あなたが生きているという噂を聞きました。本当でしょうか。もし本当なら、どうか戻ってきてください。私たちには、あなたが必要です』


   *


 ユリウスは、手紙を読み進めた。


 一通、また一通。


 やがて、涙が頬を伝った。


「俺は……」


 声が震えていた。


「俺は、忘れられていると思っていた。もう、誰も俺のことなんか——」


「忘れていない」


 正配は静かに言った。


「みんな、あなたを待っている。あなたが戻ってくるのを、信じて待っている」


 ユリウスは手紙を抱きしめ、泣いた。


 五年分の涙だった。


   *


 しばらくして、ユリウスは顔を上げた。


「届けてくれて、ありがとう」


「仕事だ」


「いや、仕事以上のことをしてくれた。こんな山奥まで来て——」


「手紙を届けるのに、距離は関係ない」


 正配は立ち上がった。


「返信を書くなら、預かる。届け先を教えてくれれば、全員に届ける」


「返信……」


 ユリウスは考え込んだ。


「書いてもいいのか。俺みたいな奴が」


「書いていい。誰にだって、手紙を書く権利がある」


 ユリウスは机に向かった。


 そして、長い時間をかけて、一通の手紙を書いた。


   *


『みなさんへ。


 手紙をありがとう。正直に言うと、俺は死のうと思っていた。でも、みなさんの手紙を読んで、考えが変わった。


 俺は弱い。仲間を守れなかった。魔王に負けた。


 でも、それでも、みなさんが俺を待っていてくれるなら——


 もう一度、やり直してみようと思う。


 すぐには無理かもしれない。でも、いつか必ず、みなさんの前に立てる男になって戻る。


 その日まで、待っていてほしい。


 ユリウスより』


   *


 正配は手紙を受け取った。


「届ける。必ず」


「頼む」


 ユリウスは、初めて笑った。


 五年ぶりの笑顔だった。


   *


 山を下りながら、シルフィアが言った。


「あの人、立ち直れるでしょうか」


「分からない。でも、きっかけにはなったはずだ」


「手紙一つで、人は変われるものでしょうか」


「変われる」


 正配は断言した。


「手紙には、そういう力がある」


 ミミが尻尾を振った。


「局長さん、かっこいいです」


「褒めても何も出ないぞ」


「えー」


 三人は笑いながら、郵便局への道を歩いた。


 ユリウスの返信は、その日のうちに届けられた。


 五十三人の差出人、全員に。

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