第九章 想いの重さ
その手紙は、見るからに重かった。
重さではない。物理的には、一枚の紙切れに過ぎない。だが、それを持ってきた女性の表情が、手紙の重さを物語っていた。
窓口に立っていたのはエリナだった。
「どちらに届けますか」
「夫に」
女性は俯いたまま答えた。
「遠くにいるのですか」
「いえ。同じ村にいます」
エリナは困惑した。同じ村なら、直接渡せばいい。なぜわざわざ郵便局を使うのか。
「あの、もしよろしければ——」
「離縁の手紙なんです」
女性が顔を上げた。目には、涙の跡があった。
「直接渡す勇気がなくて。だから、届けてほしいんです」
エリナは言葉を失った。
「少々お待ちください」
エリナは正配を呼んだ。
*
「離縁の手紙、か」
正配は手紙を見つめた。
封はされていない。中身を見ようと思えば見られる。だが、正配はそうしなかった。
「届けます」
「本当に?」
女性は驚いたように言った。
「こんな手紙でも、届けてくれるんですか」
「郵便局は、手紙の中身で差別しません。どんな手紙でも、届けるのが仕事です」
女性は目を伏せた。
「ありがとうございます」
正配は手紙を預かり、女性を見送った。
*
その夜、正配は考え込んでいた。
離縁の手紙。
届ければ、一つの家庭が壊れる。届けなければ、女性の決意は宙に浮く。
どちらが正しいのか、正配には分からなかった。
「局長」
シルフィアが声をかけた。
「何を考えているんですか」
「手紙の重さ、だ」
「重さ?」
「手紙には、いろいろな想いが込められている。嬉しい想い、悲しい想い、怒りの想い。俺たちは、それを全部届けなければならない」
「当然では」
「だが、届けることで誰かが傷つく場合もある。今日の手紙は、まさにそうだ」
シルフィアは考え込んだ。
「届けない、という選択肢は?」
「ない」
正配は首を振った。
「届けるかどうかを決めるのは、差出人と受取人だ。郵便局が判断することじゃない」
「でも、届けることで不幸が——」
「不幸になるかどうかも、俺たちが決めることじゃない。手紙を受け取った人が、どうするか。それは、その人の自由だ」
シルフィアは黙った。
正配は続けた。
「俺たちにできるのは、届けることだけだ。その後のことは、当事者に任せるしかない」
「……分かりました」
「だが」
正配は立ち上がった。
「届ける前に、一つだけ確認する」
「確認?」
「差出人に、本当にこれでいいのか聞く。後悔がないか、確かめる」
「それは、郵便局の仕事ですか」
「仕事じゃない。俺個人の、おせっかいだ」
*
翌朝、正配は女性の家を訪ねた。
小さな家だった。庭には、枯れかけた花が植えられている。かつては手入れされていたのだろう。
女性は、正配の訪問に驚いた。
「どうしてここに」
「昨日の手紙の件で。少し話を聞かせてもらえますか」
女性は戸惑いながらも、正配を家に招き入れた。
*
「夫は、三年前から変わってしまったんです」
女性は、ぽつりぽつりと語った。
「戦争で怪我をして、前線から戻ってきた。体は治ったけど、心が——」
「心が?」
「何をしても、楽しくないみたい。仕事もしないし、私にも、子供にも、冷たくて」
女性の目に、涙が浮かんだ。
「もう、限界なんです。でも、直接言う勇気がなくて」
正配は黙って聞いていた。
「だから、手紙にしたんです。これなら、ちゃんと伝えられると思って」
「手紙の中身は、離縁のことだけですか」
「……はい」
「これまでの感謝とか、未練とか、そういうことは書きましたか」
女性は首を振った。
「書けませんでした。書いたら、出せなくなると思って」
正配は立ち上がった。
「一つ、提案があります」
「提案?」
「手紙を、書き直しませんか」
女性は戸惑った。
「でも——」
「離縁の手紙でも構いません。でも、その前に、伝えたいことを全部書いてください。感謝も、後悔も、怒りも、悲しみも。全部」
「そんなことをして、何になるんですか」
「分かりません。でも、後悔はなくなると思います」
女性は長い沈黙の後、頷いた。
「分かりました。書き直します」
*
三日後、女性が新しい手紙を持ってきた。
前のものより、ずっと厚い。何枚もの紙が、丁寧に綴じられている。
「書きました。全部、書きました」
女性の目は、まだ赤かった。だが、表情には、前にはなかった清々しさがあった。
「これでいいですか」
「はい」
正配は手紙を受け取った。
「届けます。必ず」
*
手紙を届けたのは、その日の午後だった。
女性の夫——中年の男性は、家の前で薪を割っていた。無表情で、機械的な動作だった。
「失礼します。郵便局です」
男性が顔を上げた。
「郵便? 俺に?」
「はい。奥様からです」
男性は手紙を受け取り、しばらく見つめていた。
「妻から……」
「お読みになりますか」
「……ああ」
男性は手紙を開き、読み始めた。
最初は無表情だった。だが、読み進めるうちに、表情が変わっていった。
最後のページを読み終えた時、男性は泣いていた。
「俺は……馬鹿だった……」
正配は何も言わず、その場を離れた。
*
その後のことは、正配には分からない。
二人が離縁したのか、それとも和解したのか。
だが、一か月後、女性が郵便局を訪れた。
「ありがとうございました」
女性は深々と頭を下げた。
「手紙を書き直したおかげで、夫と話ができました。まだ、元通りとは言えないけど、少しずつ——」
「そうですか」
正配は笑った。
「よかった」
「あなたがいなければ、私たちは終わっていたと思います。本当に、ありがとうございました」
女性は涙を浮かべながら、帰っていった。
*
その夜、正配は局舎の屋上で星を見ていた。
「局長」
シルフィアが隣に来た。
「今日の件、聞きました」
「ああ」
「あなたのしたことは、郵便局員の仕事を超えていると思います」
「そうかもな」
「でも、間違っていたとは思いません」
正配は笑った。
「ありがとう」
「手紙は、想いを届けるもの。でも、想いは一方向じゃない。届ける側にも、届けられる側にも、想いがある」
「その通りだ」
「だから、時には立ち止まって、考える必要がある。それが、あなたの言う『想いの重さ』なんでしょう」
正配は頷いた。
「俺たちは、ただ機械的に届けるだけじゃダメなんだ。想いの重さを知って、その責任を背負わなきゃいけない」
「重い仕事ですね」
「ああ。だが、やりがいはある」
二つの月が、静かに光っている。
転生郵便局は、また一つ、成長した。
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