第六章 配達不能地域

その少年は、泥だらけだった。


 窓口に現れた時、局員たちは一瞬言葉を失った。髪は乱れ、服は破け、顔には引っ掻き傷がいくつもある。何日も歩き続けてきたことは、一目で分かった。


 ミミが慌てて駆け寄った。


「大丈夫? 怪我してない?」


 少年は首を振った。


「大丈夫。それより、手紙を——」


 声がかすれて、最後まで言えなかった。


 正配は水を持ってこさせ、少年に飲ませた。


「落ち着いてから話せ。急ぐな」


 少年は水を飲み干し、ようやく口を開いた。


「俺、カイっていいます。東の村から来ました」


「東? どのくらい歩いた」


「五日です。途中で魔物に襲われて、三回迂回しました」


 五日。この辺りから東に五日となると、かなり危険な地域に入る。魔王軍の支配圏に近い。


「よく来れたな」


「郵便局の噂を聞いて。どうしても、手紙を届けてほしくて」


 カイは懐から、汚れた紙を取り出した。


「これを、お父さんに届けてください」


 正配は紙を受け取った。子供の字で、短い文が書かれている。


『お父さんへ。お母さんが死にました。帰ってきてください。カイより』


 正配は紙を見つめた。


「お母さんが……」


「先月、病気で。お父さんは、二年前に魔王軍に捕まって、それきり……」


 少年の目に、涙が浮かんだ。


「お父さんがどこにいるか、分からなくて。でも、郵便局なら届けてくれるって、村のおばさんが……」


 正配は目を閉じ、意識を集中した。


 地図が浮かぶ。


 だが——


 光る点が、見つからない。


 いや、違う。光る点はある。だが、それは黒い霧に覆われている。魔王軍の支配地域だ。万物配達権でも、直接その場所を見通すことができない。


「カイ」


 正配は目を開けた。


「お父さんは、生きている。だが、魔王軍の領域にいる。正確な場所は分からない」


 少年の顔が、一瞬で絶望に染まった。


「じゃあ、届けられない……」


「届ける」


 正配の声に、少年が顔を上げた。


「届けられないなんて言っていない。正確な場所が分からないだけだ。行って、探せばいい」


「行くって、魔王軍の領域に?」


「そうだ」


 局員たちがざわめいた。


「局長、それは——」


 シルフィアが口を開きかけた。


「危険すぎます。魔王軍の領域に入れば、命の保証はない」


「分かっている」


 正配は立ち上がった。


「だが、届かない手紙はない。俺はそう決めた」


「でも——」


「シルフィア、俺がいない間、局を頼む。ダルク、グロム、ミミ、お前たちも。通常業務は続けてくれ」


 正配は少年の肩に手を置いた。


「俺が必ず届ける。待っていろ」


 少年の目から、涙がこぼれた。


   *


 翌朝、正配は出発した。


 装備は最小限。水筒、食料、そしてカイの手紙。武器は持たなかった。


「武器くらい持っていけ」


 グロムが短剣を差し出した。


「いらない」


「なぜだ」


「郵便局員は、武器を持たない。それが俺の流儀だ」


 グロムは呆れたように溜息をついた。


「頑固な男だ」


「お前に言われたくない」


 正配は歩き出した。


 森を抜け、荒野に出る。


 東に向かって、ひたすら歩く。


   *


 三日目の夜、正配は魔王軍の領域に入った。


 空気が変わった。重く、冷たく、どこか腐敗した匂いがする。


 月明かりの下、遠くに砦が見えた。黒い石で作られた、威圧的な建造物。あれが魔王軍の拠点だろう。


 正配は砦に向かって歩いた。


 警戒の声が聞こえた。


「誰だ!」


 魔族の兵士だ。灰色の肌、尖った耳、赤く光る目。


 正配は両手を挙げた。


「私は郵便局員だ。手紙を届けに来た」


 兵士たちは顔を見合わせた。


「郵便局員? 何の冗談だ」


「冗談ではない。この砦に、シュウ・タケハラという名の捕虜がいるはずだ。彼に、息子からの手紙を届けたい」


 兵士たちは笑った。


「人間の捕虜に手紙だと? 頭がおかしいのか」


「おかしくない。届けるのが俺の仕事だ」


 兵士の一人が、槍を正配の喉元に突きつけた。


「殺されたいのか」


「殺すなら殺せ。だが、その前に手紙を届けさせてくれ」


 沈黙が流れた。


 その時、砦の奥から声がした。


「何の騒ぎだ」


 現れたのは、魔族の将校らしき男だった。筋骨隆々とした体躯に、深紅の鎧。目には、知性の光が宿っている。


「報告します。人間が一人、手紙を届けに来たと——」


「手紙?」


 将校は正配を見た。


「お前、名は」


「郵川正配。転生郵便局の局長だ」


「転生郵便局……噂には聞いている。どんな場所にも手紙を届ける、とか」


「その通りだ」


「で、わざわざ魔王軍の領域まで来たと。捕虜に手紙を届けるために」


「そうだ」


 将校は、しばらく正配を見つめていた。


 やがて、口元に笑みが浮かんだ。


「面白い。通せ」


「将校殿!」


「通せと言った。手紙を届けるだけなら、害はない。それに——」


 将校は正配に向き直った。


「俺も、届けてほしい手紙があるかもしれない」


   *


 砦の地下牢。


 薄暗い通路を進み、格子の前で立ち止まった。


 中に、男がいた。


 痩せこけて、髭は伸び放題。だが、目には光がある。


「シュウ・タケハラさんですね」


 男が顔を上げた。


「誰だ、あんた」


「郵便局員です。息子さんから、手紙を届けに来ました」


 男の目が、見開かれた。


「カイから——」


 正配は格子の隙間から、手紙を差し入れた。


 男は震える手でそれを受け取り、読んだ。


 そして——


 泣いた。


 声を上げて、泣いた。


「妻が……サエが……」


 正配は黙って見守った。


 やがて、男は涙を拭い、顔を上げた。


「あんた、本当に郵便局員か」


「はい」


「俺からも、手紙を出せるか」


「出せます」


 正配は紙とペンを渡した。


 男は、長い時間をかけて手紙を書いた。


 正配はそれを受け取り、懐に仕舞った。


「必ず届けます」


「頼む。カイに、俺は生きてると……必ず帰ると……」


「伝えます」


 正配は踵を返し、地下牢を後にした。


   *


 砦の出口で、将校が待っていた。


「届けられたか」


「はい」


「お前、変な奴だな。捕虜のために命を懸けるとは」


「捕虜のためじゃない。息子のためだ」


 将校は笑った。


「同じことだ」


 沈黙が流れた。


「俺の名はバルガス。魔王軍第三軍団の副官だ」


「覚えておく」


「俺からも、頼みがある」


 バルガスは懐から、一通の手紙を取り出した。


「これを、届けてほしい」


 正配は手紙を受け取った。


「宛先は」


「南の島。俺の故郷だ。母がいる。十年、連絡を取っていない」


「魔王軍にも、故郷があるのか」


「馬鹿にするな。俺たちも生き物だ。家族がいる。帰りたい場所がある」


 正配は手紙を懐に仕舞った。


「届ける。必ず」


「頼む」


 バルガスは道を開けた。


「行け。次に会う時は、敵同士かもしれないがな」


「郵便局員に、敵も味方もない」


 正配は砦を後にした。


 背後で、バルガスが笑う声が聞こえた。


   *


 五日後、正配は郵便局に戻った。


 カイは待っていた。五日間、一歩も離れずに。


「届いた」


 正配は父親からの手紙を渡した。


「お父さんは生きている。必ず帰ると言っていた」


 カイは手紙を抱きしめ、泣いた。


 正配はその背中を見守りながら、考えていた。


 魔王軍にも、届けるべき想いがある。


 敵と味方。人間と魔族。


 そんな区別は、手紙の前では意味がない。


 届けるべき想いは、どこにでもある。


 それを届けるのが、郵便局の仕事だ。


 正配は空を見上げた。


 二つの月が、静かに光っていた。

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