第三章 最初の配達
噂は、野火のように広がった。
森の中に現れた奇妙な建物。どんな場所にも手紙を届ける男。母と子を再び繋いだ奇跡。
ルカの手紙から三日後、郵便局には行列ができていた。
正配は窓口に立ち、次々と手紙を受け付けていた。
戦争で生き別れになった家族への手紙。行方不明の恋人への手紙。遠く離れた故郷への手紙。届くはずがないと諦めていた想いが、小さな紙切れに込められて持ち込まれる。
「次の方」
列の先頭にいたのは、初老の女性だった。震える手で、封筒を差し出す。
「息子に、届けてほしいの。戦争に行ったきり、消息が分からなくて——」
正配は封筒を受け取った。目を閉じ、意識を集中する。
地図が浮かぶ。
だが今度は、光る点がない。
代わりに、暗い影が広がっている。届け先が存在しない。つまり——
正配は目を開けた。女性の顔を見る。期待と不安が入り混じった表情。
「申し訳ありません」
その言葉だけで、女性は全てを悟ったようだった。膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らす。
正配は何も言えなかった。
届けられないものもある。それは、現実として受け入れなければならない。
だが——
「この手紙は、お預かりします」
女性が顔を上げた。
「息子さんがどこにいるか、引き続き探します。見つかり次第、必ず届けます」
嘘ではなかった。万物配達権が示した「不在」は、死を意味するとは限らない。何らかの遮蔽魔法で隠されている可能性もある。
女性は涙を拭い、深々と頭を下げた。
「お願いします。お願いします——」
その背中を見送り、正配は次の客を呼んだ。
*
日が暮れ、窓口を閉めた。
受け付けた手紙は、七十三通。うち、即日配達できたものは四十八通。残りは届け先の調査が必要か、または届けられなかったもの。
正配は仕分け棚の前に立ち、溜息をついた。
三十五年間、郵便局員をやってきた。だが、これほど多くの手紙を一日で処理したことはない。しかも、通常の郵便とは違う。一通一通に、切実な想いが込められている。
疲労が、骨の髄まで染みていた。
「局長さん」
声をかけられ、振り返る。
入口に、ダルクが立っていた。
「村の者たちで話し合った。あんたに協力したい」
「協力?」
「一人で全部やるのは無理だろう。配達の手伝いをさせてくれ」
正配は少し考え、首を振った。
「配達は、俺でないとできない。万物配達権は俺に与えられたものだ」
「なら、他のことを」
ダルクは部屋を見回した。
「この建物の掃除、来客の案内、手紙の仕分け。俺たちにできることは、いくらでもある」
正配は黙っていた。
確かに、このままでは身体が持たない。手伝いは必要だ。
だが——
「報酬は出せないぞ」
「いらない。あんたはルカを救ってくれた。それだけで十分だ」
正配は、長い沈黙の後、頷いた。
「分かった。ただし、一つ条件がある」
「何だ」
「ここで働く以上、郵便局員だ。局員としての矜持を持ってもらう」
ダルクは笑った。
「矜持、か。難しい言葉だな」
「簡単なことだ。手紙は必ず届ける。どんな手紙でも、差別しない。中身を盗み見ない。それだけだ」
「了解した、局長」
初めて、そう呼ばれた。
局長。
廃局したはずの郵便局の局長。
正配は、不思議な感慨を覚えていた。
*
翌日から、村人たちが手伝いに来た。
最初は二人だけだった。ダルクと、若い娘のエリナ。エリナはルカの叔母——つまり、昨日まで母親代わりをしていた女性だ。
正配は彼らに、郵便局の基本的な業務を教えた。
窓口での受付方法。手紙の仕分け方。切手——この世界には存在しないが、代わりに料金を記録する台帳の書き方。
「この世界では、手紙を出すのにお金がかかるのか」
エリナが尋ねた。
「本来はな。だが、今は無料だ」
「なぜ」
「取る意味がないからだ。この村に、余分な金を持っている者はいないだろう」
エリナは黙った。
正配は続けた。
「郵便というのは、金のためにやるものじゃない。人と人を繋ぐためにやるものだ。金はあくまで、そのための手段だ」
「手段、か」
エリナの目が、少し変わった気がした。
*
午後、新たな来客があった。
窓口に現れたのは、フードを被った細身の人物だった。フードの下から覗く肌は、淡い緑色。耳が、人間よりも長く尖っている。
エルフ、という言葉が浮かんだ。異世界の物語でよく登場する種族だ。
「ここが、噂の郵便局か」
声は若い女性のものだった。
「はい。手紙のご用ですか」
「いや」
エルフの女性は、フードを下ろした。銀色の長い髪が、肩にこぼれる。切れ長の目が、正配を見据えている。
「私は、ここで働きたい」
正配は驚きを顔に出さないよう努めた。
「働く? なぜ」
「あなたが、ルカという少年の母親に手紙を届けたと聞いた。東の山脈の向こうへ。あの山脈を越えるには、普通なら一か月はかかる。それを、一瞬で」
「それが何か」
「私の故郷は、北の森の奥にある。十年前に出てきたきり、一度も帰れていない。魔王軍のせいだ」
女性の声が、わずかに震えた。
「家族がいる。母と、妹が。生きているかどうかも分からない。手紙を出したい。でも、届くかどうか——」
「届く」
正配は断言した。
「北の森の奥だろうと、魔王軍の支配地だろうと、届ける。それが俺の仕事だ」
女性は目を見開いた。
「本当か」
「本当だ。ただし、条件がある」
「条件?」
「手紙を書け。今すぐ。家族に、何を伝えたい。それを、紙に書け」
女性は一瞬躊躇し、それから頷いた。
正配は紙とペンを差し出した。
*
女性——名前はシルフィアという——は、三十分かけて手紙を書いた。
何度も書き直し、何度も涙を拭い、ようやく封筒に入れた。
正配はそれを受け取り、目を閉じた。
地図が浮かぶ。北の森の奥。光る点が、二つ。
生きている。
「届け先は、北の森の奥、エルフの集落。イレーネとナターシャ。お前の母親と妹だな」
シルフィアが息を呑んだ。
「生きて——」
「生きている。今から届ける」
手紙が光に包まれ、消えた。
数秒後、シルフィアのポケットが光った。
返信だ。
シルフィアは震える手で紙を取り出し、読んだ。そして、崩れ落ちるように泣いた。
十年分の涙だった。
正配は黙って見守った。
しばらくして、シルフィアは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとう。ありがとう——」
「礼はいらない。仕事だ」
「それでも、言わせてくれ。私は、この恩を返したい。だから、ここで働かせてくれ」
正配は考えた。
エルフ。長命で、魔法に長け、身体能力も高い。配達要員として、これ以上の適性はないだろう。
だが——
「配達は、俺でないとできない。万物配達権は俺に与えられたものだ」
「分かっている。だから、それ以外のことをさせてくれ。私は弓が使える。護衛ができる。この森には魔物が多いと聞いた。村人だけでは、対処できないこともあるだろう」
確かに、一理あった。
「それに——」
シルフィアは続けた。
「私は、この世界のことを知っている。四王国のこと、魔王軍のこと、各地の地理のこと。あなたは、この世界に来たばかりだろう? 案内が必要なはずだ」
正配は苦笑した。
見抜かれていたらしい。
「分かった。採用だ」
シルフィアの顔が、初めて綻んだ。
「ありがとう。局長」
二人目の局員が、こうして誕生した。
*
その日の夜、正配は局舎の屋根に上り、星を眺めていた。
この世界の星座は、当然ながら見知らぬものばかりだ。だが、星の輝きは変わらない。遠い世界の、遠い時代の、人々も、同じ星を見ていたのだろう。
ルカの手紙を届けた時、初めて万物配達権を使った。
あの感覚は、言葉では表現しにくい。強いて言えば、世界と一体になるような感覚だった。大陸の隅々まで、意識が広がっていく。そして、届け先を見つけた瞬間、手紙がそこへ向かって飛んでいく。
自分の力で届けているのか、郵便局の力なのか、それとも別の何かなのか。正配には分からなかった。
分かるのは、ただ一つ。
届けられる。
どこへでも、何でも、必ず届けられる。
それが、今の自分に与えられた力だ。
「局長」
声がした。下を見ると、シルフィアが立っていた。
「何か」
「聞きたいことがある。上がっていいか」
「ああ」
シルフィアは軽々と屋根に上がり、正配の隣に座った。
「聞きたいこと、というのは」
「あなたは、どこから来たのか」
正配は黙った。
この質問は、いずれ来ると思っていた。
「遠い場所から、だ」
「それは分かっている。でも、この世界の人間じゃない。それは確かだろう」
「なぜそう思う」
「言葉遣いが違う。服装も違う。何より、この建物が違う。こんな様式は、四王国のどこにもない」
正配は星を見上げたまま、答えた。
「俺は、別の世界から来た。この郵便局と一緒に」
「別の世界?」
「俺のいた世界では、郵便制度が発達していた。誰でも、どこにでも、手紙を出せた。それが当たり前だった」
「当たり前……」
シルフィアの声に、羨望が滲んでいた。
「だが、俺の郵便局は廃局が決まっていた。届ける先がなくなった。誰も手紙を書かなくなった」
「なぜ」
「時代が変わったからだ。手紙を書かなくても、遠くの人と話せるようになった。俺の仕事は、必要なくなった」
星が、静かに瞬いている。
「それで、こちらに来たのか」
「来たくて来たわけじゃない。気がついたら、ここにいた」
「後悔しているのか」
正配は考えた。
後悔。
していないと言えば、嘘になる。故郷を失った。娘とも、永遠に会えないかもしれない。
だが——
「後悔していない」
「なぜ」
「ここには、届けるべき手紙がある。待っている人がいる。俺の仕事は、まだ終わっていない」
シルフィアは何も言わなかった。
ただ、並んで星を見上げていた。
二つの月が、静かに光っている。
転生郵便局の、長い夜が更けていった。
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