第二章 異世界の現実
森は深く、正配の歩みを阻んだ。
下生えが膝の高さまで伸び、蔓草が行く手を塞ぐ。一歩進むごとに、枝葉が顔を打つ。五十五歳の身体には、なかなか堪える道のりだった。
それでも、正配は歩き続けた。
局舎を出てから、すでに二時間ほどが経っていた。太陽はゆっくりと西に傾きつつあるが、木々の隙間から見える二つの月は、変わらず空に浮かんでいる。この世界では、月は沈まないのだろうか。
ふと、木々が途切れた。
正配は足を止め、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
焼け野原だった。
かつては村があったのだろう。石造りの建物の残骸が、黒ずんだ地面に点在している。焦げた木の臭いがまだ残っていた。火事があってから、そう時間は経っていない。
その中央に、数軒の建物だけが無事に残っていた。周囲を柵で囲い、辛うじて集落としての体裁を保っている。
人影が見えた。
正配は慎重に近づいた。柵の前に、槍を持った男が立っている。見張りだろう。痩せこけた顔に、警戒の色が濃い。
正配が姿を現すと、男は槍を構えた。
「止まれ! 何者だ!」
言葉が、分かった。
先ほどの声が言っていた「万物配達権」の効果だろうか。この世界の言語が、自然と理解できる。
「私は——」
正配は両手を上げ、敵意がないことを示した。
「旅の者だ。この森で迷った。危害を加えるつもりはない」
男は槍を下ろさなかった。
「森から来た? あの化け物どもの森から?」
化け物。正配は二時間の道のりを思い返した。幸い、何者にも遭遇しなかった。運が良かったのだろう。
「化け物には会わなかった。ただ森を歩いてきただけだ」
「嘘だ。あの森を、武器も持たずに抜けられるはずがない」
男の目には、恐怖と疑念が入り混じっている。
その時、柵の向こうから声が聞こえた。子供の泣き声だ。
男の表情が変わった。槍を握る手が、わずかに震えている。
「何かあったのか」
正配の問いに、男は答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。
正配は男の脇をすり抜け、柵の中に入った。
「おい、待て!」
制止の声を無視し、泣き声のする方へ歩いていく。
集落の中央、井戸のそばに人だかりができていた。その中心に、女性が一人、子供を抱えて座り込んでいる。子供の腕からは、血が流れていた。
正配は人垣をかき分け、近づいた。
「どうした」
女性が顔を上げた。涙で濡れた目が、正配を睨みつける。
「あんた、誰。よそ者が——」
「腕の怪我だな。見せてくれ」
正配は膝をつき、子供の腕を見た。十歳くらいの少年だ。傷は深くないが、かなり出血している。このままでは感染症の危険がある。
「布と、綺麗な水が必要だ」
「そんなもの、うちにはない」
女性の声は震えていた。
周囲を見回す。人々の顔には、疲弊と絶望の色がある。ろくな物資もなく、日々をしのいでいるのだろう。
正配は立ち上がった。
「待っていろ」
そう言い残し、来た道を戻る。
見張りの男が、呆然と立ち尽くしていた。
「俺の家に、必要なものがある。すぐ戻る」
「家? 森の中にか?」
正配は答えず、森へと駆け出した。
二時間かかった道を、一時間で戻った。五十五年生きてきて、これほど走ったことはなかった。心臓が破裂しそうなほど鳴っている。
局舎が見えた時、正配は心底安堵した。
中に飛び込み、救急箱を探す。局舎には、いざという時のために基本的な医療用品が備えてあった。包帯、消毒液、塗り薬。それに、水筒と清潔な水。
荷物を抱え、また走り出す。
帰りは、不思議と早く感じた。
*
少年の傷の手当てを終えた時、日はすっかり暮れていた。
正配は井戸の縁に腰を下ろし、息を整えた。
少年——名前はルカというらしい——は、母親の腕の中で眠っている。傷は塞がり、熱もない。峠は越えたようだ。
「助かった」
声をかけてきたのは、見張りをしていた男だった。名前はダルク。この集落のまとめ役らしい。
「すまなかった。あんたを疑って」
「当然だ。見知らぬ者を警戒するのは」
正配は疲労困憊だったが、それでも話を聞く余力はあった。この世界のことを、知らなければならない。
「この村は、何があった」
ダルクは長い沈黙の後、ぽつりぽつりと語り始めた。
この世界には、四つの大きな王国があった。北のヴァレン王国、東のイストリア公国、南のメルディア連邦、西のカルム共和国。それぞれが独自の文化を持ち、時に争い、時に協力しながら、数百年にわたって共存してきた。
しかし、十年前、状況が一変した。
魔王軍の出現。
どこから現れたのかは誰も知らない。ただ、彼らは圧倒的な力で大陸の中央部を制圧し、四王国の連絡を断った。街道は破壊され、飛脚は殺され、魔法通信は妨害された。
人々は孤立した。
この村も、かつては交易路沿いの宿場町だった。だが今は、魔王軍の前線からほど近い、危険な辺境となっている。先日の火事も、魔王軍の斥候が放ったものだ。
「俺たちには何もできない。ただ、いつ滅ぼされるかを待つだけだ」
ダルクの声は、乾いていた。
「王国の軍は来ないのか」
「来るわけがない。俺たちがどこにいるかすら、もう分からないんだろうからな。連絡手段がないんだ。狼煙を上げても、誰も見ない。使者を出しても、途中で殺される」
連絡手段がない。
正配はその言葉を反芻した。
「手紙は?」
「手紙?」
「手紙を書いて、誰かに届けることは」
ダルクは苦笑した。
「あんた、どこから来たんだ? 手紙なんて、貴族の遊びだ。それに、届ける人間がいない。この大陸には、もう郵便制度なんてものは存在しない」
郵便制度がない。
正配は静かに立ち上がった。
「俺が届ける」
ダルクが目を見開いた。
「何だと?」
「俺は郵便局員だ。いや——郵便局長だ。手紙を届けるのが、俺の仕事だ」
「正気か? 魔王軍の支配地域を抜けて? 化け物の跋扈する荒野を越えて? 無理に決まっている」
「無理かどうかは、やってみないと分からない」
正配は空を見上げた。二つの月が、静かに光っている。
万物配達権。
どこへでも、何でも、必ず届ける力。
まだ使ったことはないが、あの声が嘘をついたとは思えない。
「俺の家に来い。郵便局を見せてやる」
*
翌朝、正配はダルクと数人の村人を連れて、森の中の局舎に向かった。
彼らは最初、この建物を見て困惑した。
「何だ、これは」
「郵便局だ」
「見たことのない建築様式だな。それに、この文字は——」
看板の文字が、また光った。村人たちの目に映る文字は、この世界の共通語に変換されているようだった。
正配は村人たちを中に招き入れた。
カウンター、仕分け棚、窓口。すべてが昨日のままだ。
「ここで、手紙を受け付ける。届け先と差出人を書いてくれれば、俺が届ける」
ダルクは半信半疑だった。
「本当にできるのか」
「できる」
根拠はなかった。だが、やらなければ始まらない。
その時、入口から小さな影が駆け込んできた。
昨日、手当てをした少年、ルカだった。
彼は正配の前に立ち、両手で紙切れを差し出した。
「これ、届けてほしいの」
正配は紙を受け取った。幼い字で、短い文が書かれている。
『おかあさんへ。ぼくはげんきです。はやくあいたいです。ルカより』
「お母さん? お前の母親は——」
ダルクが口を開きかけた。ルカの母親は、昨日子供を抱いていた女性だ。
「ちがうの。あれは、おばさん。本当のおかあさんは、戦争が始まった時に、遠くの町に逃げたの。それきり、会えてないの」
十年前。ルカはまだ赤ん坊だったはずだ。彼は母親の顔を覚えていないのかもしれない。それでも、手紙を書いた。届くかどうかも分からない手紙を。
正配は紙を丁寧に折り、胸ポケットに入れた。
「分かった。必ず届ける」
ルカの目が輝いた。
正配は窓口に立ち、目を閉じた。
届けたい。
この手紙を、ルカの母親に届けたい。
どこにいるか分からない。生きているかさえ分からない。それでも、届けたい。
胸ポケットの手紙が、熱を帯びた。
光が溢れた。
正配の視界に、地図のようなものが浮かび上がった。大陸の俯瞰図。その中の一点が、脈打つように光っている。東の果て。山に囲まれた小さな町。
分かった。
届け先が分かった。
正配は目を開いた。
「この手紙の届け先は、東の山脈の向こうだ。アルデナという町に、リーナという名の女性がいる。それがお前の母親だ」
ルカが目を見開いた。ダルクも、他の村人たちも、言葉を失っている。
「どうして、そんなことが——」
「説明は後だ」
正配は手紙を取り出し、宙に掲げた。
届け。
この想いを、届け。
手紙が光に包まれた。
そして、消えた。
*
しばらくの沈黙の後、ルカがポケットをまさぐった。
何かを取り出す。
小さな紙切れだ。
「おかあさんから、お返事が来た」
正配はその紙を受け取り、読み上げた。
『ルカへ。生きていてくれて、本当によかった。必ず、会いに行くから。ずっとずっと、あなたを愛しているから。おかあさんより』
ルカの目から、涙が溢れた。
十年分の想いが、たった一通の手紙で繋がった。
正配は空を見上げた。
二つの月が、静かに光っている。
廃局寸前の郵便局が、異世界で最初の配達を完了した瞬間だった。
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