郵便局員×異世界転生_転生郵便局は世界を繋ぐ ~配達不能な想いはございません~
もしもノベリスト
第一章 廃局の日
窓口のカウンターに、三十五年分の埃が積もっている気がした。
郵川正配は拭き布を手に、もう何度目かわからない往復を繰り返していた。実際には毎日欠かさず掃除をしてきたのだから、埃など残っているはずがない。それでも、最後の日くらいは隅々まで綺麗にしておきたかった。
午後四時。本来なら窓口業務が終わる時刻だが、今日はとうに閉めてある。最後の客が帰ったのは午前十一時のことだった。山の向こうの町に転居する田所のばあさんが、転居届を出しに来たのだ。
「局長さん、長いことお世話になりました」
皺だらけの手が正配の手を包んだとき、不覚にも目頭が熱くなった。
この村に郵便局ができたのは、正配が生まれるよりもずっと前のことだ。父の代から続く局長の座を継いで三十五年。配達区域は村の全戸と、山向こうの集落を少々。最盛期でも百世帯に届かなかったが、それでも確かに、この小さな建物は村の中心だった。
年賀状の季節になれば、書き方を教えてくれと子供たちが押しかけた。誰かが亡くなれば、香典を届ける家族の道案内をした。都会に出た息子や娘からの仕送りを届けるたび、受け取った老人の目に涙が滲むのを見てきた。
届けるという行為が、どれほど人の心を動かすものか。正配はこの仕事を通じて、嫌というほど知っていた。
だからこそ、廃局という現実が、錆びた釘のように胸に刺さっていた。
窓の外では、西日が山の稜線にかかりはじめている。この時間の光が好きだった。局舎の古い木の床を橙色に染めて、埃の粒子がきらきらと舞う。まるで金粉を撒いたようだと、若い頃に妻が言っていた。
その妻も、五年前に逝った。
正配は拭き掃除の手を止め、カウンターの向こうに目をやった。ずらりと並んだ仕分け棚。かつては毎日、手紙や小包で埋まっていた場所だ。今は空っぽの升目が、格子状の影を落としている。
ポケットから封筒を取り出した。本部からの廃局通達。事務的な文面には、長年の勤務への謝辞が一行だけ添えられていた。一行で片付けられる三十五年。
別に恨んでいるわけではない。過疎化が進み、住民が減り、届ける先がなくなれば、郵便局を置いておく意味がない。それは正配自身が一番よく分かっている。
ただ——。
ただ、寂しいのだ。
「さて」
声に出して自分を奮い立たせる。感傷に浸っている暇はない。明日には本部から人が来て、設備の撤去が始まる。それまでに、やるべきことを終わらせなければ。
事務机の引き出しを開け、私物を段ボールに詰めていく。三十五年分の私物といっても、大したものはない。ボールペンが数本。卓上カレンダー。妻の写真。
写真立ての裏には、一通の手紙が挟まっていた。
正配はそれを手に取り、しばらく眺めた。消印は二十年前。差出人の欄には、娘の名前が書かれている。
『お父さんへ。私、東京で頑張るね。いつか絶対、立派になって帰るから』
娘の香織は今、都内で編集者として働いている。年に一度、正月に帰ってくるかどうか。立派になったと言っていいのかは分からないが、少なくとも自分の道を歩んでいる。
手紙は結局、この一通きりだった。電話、メール、そして今はスマートフォンのメッセージ。連絡手段は増えたが、手紙を書く人間は減った。それが時代というものだろう。
正配は手紙を段ボールに入れ、蓋を閉じた。
窓の外が暗くなってきた。
最後の夜だ。
冷蔵庫から日本酒の瓶を取り出し、湯呑みに注ぐ。つまみは裂きイカだけ。質素な晩酌だが、これが正配の流儀だった。
カウンターに腰掛け、薄暗い局内を見渡しながら杯を傾ける。
あちこちに、思い出が染みついていた。
この床板は、大雪の年に補修した。あの柱の傷は、配達用の自転車をぶつけたときのものだ。天井のシミは、台風で雨漏りしたときにできた。
どれも些細なことだ。だが、些細なことの積み重ねが、正配の人生そのものだった。
湯呑みが空になり、また注ぐ。
普段は一合で止めるところを、今夜だけは好きなだけ飲んでいい。誰に遠慮することもない。ひとりの晩餐を、ひとりで楽しむ。それだけのことだ。
酔いが回ってきた。
瞼が重い。このまま寝てしまおうか。明日は早いが、どうせ寝過ごしたところで困る客もいない。
正配はカウンターから降り、窓口の前に置いた古いソファに身を沈めた。スプリングが軋む。このソファも、明日には処分される。
目を閉じる。
遠くで、風の音がした。
山から吹き下ろす風だ。この季節特有の、冷たくて透明な風。
——届けたい。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。何を届けたいのかは分からない。ただ、届けたいという気持ちだけが、酔った頭の中でぐるぐると回っている。
まだ届けたい。
まだ、届けていないものがある。
誰かの想いを、どこかへ届けたい。
それが、郵便局員としての——いや、郵川正配という人間としての、最も深い願いだった。
意識が沈んでいく。
薄れゆく視界の端で、何かが光った気がした。
窓の外だ。
月明かりにしては強すぎる、青白い光。
おかしいな、と思う暇もなく、正配の意識は闇に沈んだ。
*
鳥の声で目が覚めた。
見慣れない鳥の声だった。
正配はゆっくりと目を開け、天井を見上げた。見慣れた局舎の天井だ。雨漏りのシミもそのまま。夢を見ていたらしい。妙に頭が重い。飲み過ぎたか。
身体を起こし、首を回す。相変わらずソファのスプリングは背中に食い込み、節々が痛む。五十五歳の身体には、こういう寝方は堪える。
窓から差し込む光が、やけに緑がかっている。
正配は眉をひそめ、窓の方を見た。
カーテンを閉めたはずだが、開いている。その隙間から漏れる光は、確かに緑色だった。木漏れ日だろうか。だが、局舎のすぐそばに木などなかったはずだ。
嫌な予感がした。
立ち上がり、窓に近づく。カーテンを掴み、一気に開け放つ。
正配は息を呑んだ。
窓の向こうには、見たことのない森が広がっていた。
巨大な木々が空を覆い、地面には苔がびっしりと生えている。太陽の光が枝葉の隙間から差し込み、幻想的な緑の空間を作り出していた。
そして、空。
その空には、月が二つあった。
白い月と、青い月。
二つの月が、昼間の空に並んで浮かんでいる。
「何だ、これは」
声がかすれた。
正配は窓を開け、外の空気を吸い込んだ。冷たく、湿った空気。土と草の匂い。遠くで、また知らない鳥が鳴いている。
夢ではない。
五感が告げている。これは現実だ。
正配は窓から身を乗り出し、局舎の外観を確認した。建物はそのままだ。古い木造の局舎が、そっくりそのまま森の中に立っている。まるで最初からここにあったかのように、しっかりと地面に根を下ろして。
「どういうことだ」
郵便局が、建物ごと、どこかへ移動した。
それも、二つの月がある世界へ。
あり得ない。
だが、現実として目の前にある。
正配は窓を閉め、局舎の中を見回した。すべてが昨夜のままだ。カウンター、仕分け棚、湯呑み、日本酒の瓶。段ボールに詰めた私物。何一つ変わっていない。
変わったのは、外の世界だけだ。
玄関に向かう。引き戸を開けると、むっとした森の空気が流れ込んできた。一歩、外に出る。土を踏む感触が、足の裏に伝わる。
夢じゃない。
正配は振り返り、局舎を見上げた。
看板には「郵便局」の文字。ただし、その下に見慣れない文字が追加されている。くねくねとした、読めない文字。象形文字のような、しかしどこか幾何学的な。
文字が、淡く光った。
正配の頭に、声が響いた。
《転生完了。万物配達権、付与》
男とも女ともつかない、無機質な声だった。
「誰だ」
《私はこの局舎に宿る意思です。あなたとともに、この世界に転生しました》
「転生?」
《はい。あなたの願いに応じ、この郵便局は新たな世界に転生しました。以後、あなたには「万物配達権」が与えられます》
正配は言葉を失った。
願いに応じた。
昨夜、眠りに落ちる直前、確かに願った。まだ届けたい、と。
まさか、それが。
《この世界では、人と人との繋がりが断たれています。あなたの力が必要とされています》
「俺の、力?」
《配達する力です。どこへでも、何でも、必ず届ける力。それが万物配達権》
正配は局舎を見上げた。
看板の文字が、また光った。今度は読める。日本語だ。
『転生郵便局』
この郵便局は、異世界に転生した。
そして、正配もまた。
五十五歳の郵便局長は、二つの月が浮かぶ空を見上げ、深く息を吐いた。
廃局のはずだった。
もう届ける先などないはずだった。
だが、今、目の前には広大な森が広がっている。この森の向こうには、何があるのだろう。届けるべき想いを待っている人が、いるのだろうか。
正配は、一歩を踏み出した。
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