第2話
玄関のドアを開けた先にいたのは、やっぱり七瀬だった。
「……やっぱり」
思わず口から出る。
「何、そのやっぱり」
コンビニの袋を片手に、七瀬が少しだけむくれた顔をする。
いつもと同じ制服で、いつもと同じポニーテールで、でも目の下にうっすらとした影だけが違って見えた。
「おじゃまします」
「どうぞ」
形式だけのやり取りを挟んで、七瀬は靴を脱いで上がる。
ここまでの動きは、十年以上繰り返してきたものと同じだった。
「おばさんから連絡来たんだよね」
廊下を歩きながら、七瀬が言う。
「今日は早く帰ってくると思うから、よかったら顔出してあげてって」
「母さん、余計なことを」
「とりあえず、入ってもいい?」
いつもの調子に聞こえたけど、その声の裏に緊張みたいなものが混ざっているのは分かった。
◇
部屋のドアを開けると、散らかった床が目に入る。
「……ちょっと散らかってるけど」
思わず言い訳が出る。
プリント、教科書、脱ぎ捨てかけのパーカー。
病院に行く前に片づけようとして、中途半端なまま止まった残骸だ。
「いつも通りじゃない?」
七瀬は、特に驚いた様子もなくそう言うと、机の横にしゃがみ込んだ。
「そこ座って。ベッド半分だけ空けるから」
足元のものを手際よくまとめて、ベッドの端に積んでいく。
俺は言われるまま、ベッドの角に腰を下ろした。
七瀬はローテーブルの向こう側、床に正座に近い格好で座る。
病院帰りの部屋にしては、空気は驚くほどふつうだった。
「これ、とりあえず」
七瀬がコンビニの袋をテーブルの上に置く。
中から出てきたのは、ペットボトルのお茶と、ポテチと、プリンと、カップスープ。
「統一感ないな」
「考えてないからね。適当に祐介が好きそうなもの詰めてきた」
「感謝しづらい言い方やめろ」
「ほら、お茶」
ペットボトルを一本渡される。
受け取ってキャップをひねると、ようやく喉が渇いていたことに気づいた。
◇
ペットボトルの半分くらいが減ったところで、七瀬が視線を落としたまま口を開いた。
「……ねえ、祐介」
「ん」
「今日の病院の話、ちゃんと聞いていい?」
逃げ道のない聞き方だった。
ごまかすなら、ここしかない。
でも、さっき診察室で聞いたことを思い出しても、都合のいい言い換えは見つからなかった。
「……余命一年らしいよ、俺」
言ってみたら、思ったよりもすっと言葉が出た。
「一年、らしい?」
七瀬の指先が、ペットボトルのラベルを一周触りながら止まる。
「先生の言い方だと、うまくいって一年くらい、って感じだったけど」
「……そっか」
それだけ。
励ましの言葉も、「大丈夫だよ」も出てこなかった。
その「そっか」の二文字で、逆に現実がはっきりした気がした。
「でもさ」
自分で空気を重くした自覚があって、口が勝手に動く。
「正直、死ぬ実感とか、全然ないんだよな」
口にしてみても、やっぱりどこか他人事みたいだった。
七瀬は、すぐには返事をしなかった。
ペットボトルを持った手が、ほんの少しだけ強くなる。
「……だろうね」
少し間を置いてから、静かにそう言う。
「さっきおばさんと電話した時に、ちょっと聞いちゃって」
視線をテーブルの上に落としたまま、言葉を続ける。
「今目の前にいる祐介は、いつもと同じ制服着て、普通に座ってるから……」
そこで一度、息を吐いた。
「実感ないの、わたしも同じ」
「そっか」
たぶん、それ以上は言えなかった。
◇
「さっきさ」
ベッドの上に置いてあったスマホに目をやる。
「家帰ってきて、なんとなく検索したんだよ。遺書 書き方って」
七瀬のまぶたが、かすかに揺れた。
「……うん」
それだけ返ってくる。
「そしたらさ、出てくるの、だいたい同じなんだよ。
家族への感謝を書きましょう、とか、これまでの人生を振り返りましょう、とか」
画面に並んでいた文章を思い出しながら言う。
「言ってることは全部正しいんだけどさ。なんか、模範解答だけ並べられてる感じで」
七瀬が、ゆっくりとこっちを見る。
「そういうの、ちゃんと読んだんだ」
「読むだけはな」
笑おうとして、うまく形にならない。
「俺が真面目にやったら、夏休みの作文の延長みたいになると思う」
冗談みたいに言ったつもりなのに、声は少しだけ掠れていた。
七瀬は、その部分には何も触れない。
ただ、膝の上で組んだ指先に、すこしだけ力を込めたまま、じっと黙っていた。
「なあ、七瀬」
「なに」
「俺がさ、遺書書いたら……読む?」
自分で聞いておいて、変な質問だと思う。
でも、聞いてみたかった。
俺の「最後の文章」を、七瀬がどう扱うのか。
それくらいは、知っておきたかった。
七瀬は、少しだけ目を伏せてから、ちゃんと顔を上げた。
「……一応、読むよ」
「一応ってなんだよ」
「でも、多分何回も読みたくはない」
「なんで」
「きっと泣くから」
あまりにも普通の声で言うから、余計に何も返せない。
言い方は淡々としているのに、テーブルの下で組んだ指先に力が入っているのが分かった。
「俺も、遺書なんて正直書きたくないしな」
言いながら、自分の胸のあたりを軽く指で押す。
「そういう紙書いて、最後の言葉ですって渡されてもさ。読む側、つらいだけだろ」
「うん。そう思う」
七瀬は、はっきり頷いた。
短い沈黙が落ちる。
プリンのスプーンをいじる音だけが、小さく鳴った。
◇
「だったらさ」
七瀬が、ふっと顔を上げる。
「遺書じゃなくて、別のもの残したら?」
「別のもの?」
「うん」
少しだけ考えるみたいに視線を泳がせ、それから俺を見る。
「祐介ってさ、よく恋愛相談されてない?」
「……されてるな」
否定はできなかった。
同じクラスのやつとか、部活の後輩とか。
告白するかどうかとか、振られたとか、そういう話を、なぜかよく持ち込まれる。
「そういうの聞くの、嫌そうじゃないし。
ちゃんと整理して返してくれるじゃん、こう言ったほうが伝わるとかそれはやめとけとか」
少しだけ、目元が柔らかくなる。
「だったらさ」
そこで、七瀬ははっきりした声になった。
「遺書代わりに恋愛相談箱でも設置してみれば?」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「恋愛相談箱?」
「うん」
七瀬は真面目な顔で頷く。
「匿名で相談入れられる箱を、どこかに置いとくの。恋愛の話限定で、できるだけちゃんと答えますって書いて。来た相談に、祐介が返事を書く」
「それを、遺書代わりに?」
「そう」
間髪入れずに返ってくる。
「自分の人生をきれいにまとめた紙一枚よりさ。
誰かの恋がちょっとだけ上手くいった証拠とか、失恋が少しだけマシになった証拠とか。
そういうのがノートにたくさん残ってるほうが、祐介っぽいと思う」
「俺っぽい、ね」
「悪い意味じゃないよ」
少しだけ笑って、言葉を継ぐ。
「そういうノートだったらさ。
私は多分、何回でも読めると思う。
このときこんな相談来てたんだって、ちょっと笑いながら読めるもの」
遺書のページを開く自分の姿は、どうしても想像したくなかった。
でも、見知らぬ誰かの恋バナが並んだノートをめくる七瀬は、簡単に想像できた。
「……遺書書くよりは、だいぶマシかもな」
気づいたら、口がそう言っていた。
「でしょ」
七瀬の表情が、少しだけ明るくなる。
「でも、そんな都合よく相談なんて来るか?」
「そこは祐介の人望と、校内のヒマ人の多さに期待」
「期待要素が心配なんだけど」
「じゃあ、私も一緒に手伝うから。
相談読むのとか、内容整理するとか、女の子側の気持ち補足するとか」
「補足前提なんだ」
「祐介一人だと分からないとこ多いでしょ」
「反論できないのが悔しいな」
でも、その「一緒に手伝うよ」の一文が、思っていた以上に心に引っかかった。
◇
「設置って、どこに?」
「例えば……三階の端の空き教室とか?、他の人からは見られたくないでしょ」
「もう目星つけてんのかよ」
七瀬は一枚のルーズリーフを取り出した。
「とりあえず、看板書こ」
「看板?」
「恋愛相談箱だけだと、怪しすぎるでしょ」
「十分怪しいけどな」
「担当者をはっきりさせたほうが、まだまし」
さらさらと、ペンが紙の上を走る。
『恋愛相談箱
担当:篠原』
「……本当に書いた」
思わず声に出る。
「最初はこれでいこ。嫌になったら書き直せばいいし」
七瀬は紙を持ち上げて、少し離れたところから眺めた。
「明日の放課後、空き教室でしょ。
祐介はそれ持って、あと箱っぽいのどこかから調達してきて」
「決定事項なのな、それ」
「祐介が遺書書くよりマシって言ったからね」
逃げ道をふさぐ言い方をしてから、ふっと表情をゆるめる。
「最後まで、一緒にやるから」
一年、という言葉はそこにはなかった。
それでも、そこまでの時間のことを言っているのは分かった。
◇
七瀬が帰ったあと、部屋にはお茶とお菓子の匂いだけが残った。
空になったプリンのカップを片づけて、ベッドにひっくり返る。
天井の白さが、さっきまでとは違って見えた。
(遺書の代わりに、恋愛相談箱、ね)
自分の人生をきれいにまとめる文章を書くより。
誰かの「好き」とか「しんどい」とかが並んだノートのほうが、確かに俺には似合っている気がする。
余命一年の篠原祐介が残したものが、自分語りじゃなくて「誰かの相談と、その答え」だけだとしたら。
「……それも、悪くないか」
小さく呟いて、目を閉じる。
まだ死ぬ実感はない。
一年という数字も、遠い未来のテストの日付みたいにしか思えない。
それでも明日の放課後、三階の端の空き教室に、段ボール箱をひとつ運んでいく自分の姿は、はっきり想像できた。
遺書なんて書きたくない。
その代わりに始まるもののことを考えながら、ゆっくりと呼吸を整えた。
次の更新予定
遺書代わりに始めた恋愛相談箱の最後の相談者は、幼馴染だった。 Re.ユナ @Akariiiii
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