第2話:聖なる目覚めと皇国の寵愛

どこからか、甘い花の香りが漂ってくる。

私は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど高い天井と、繊細な彫刻が施された白い漆喰の壁だった。柔らかな朝日がレースのカーテン越しに差し込み、部屋全体を淡い黄金色に染め上げている。


(ここは……天国、でしょうか?)


ぼんやりとした頭でそう思った。

あの猛吹雪の中で意識を失ったはずだ。手足の感覚はなくなり、心臓が凍りつくような冷たさを感じていた。それなのに、今の私は信じられないほど温かく、ふわふわとした雲のようなものに包まれている。


身じろぎをすると、滑らかな絹の感触が肌を滑った。驚いて自分の体を見ると、清潔な白いナイトドレスを着せられており、最上級の羽毛布団の中に埋もれていることに気づく。


「……夢?」


そっと頬をつねってみる。痛い。夢ではない。

では、なぜ私は生きているのだろうか。あの極寒の森で、死ぬはずだったのに。


「お目覚めになられましたか」


不意に、落ち着いた女性の声が響いた。

驚いて視線を向けると、部屋の隅に控えていたメイド服の女性が、音もなくベッドサイドに歩み寄ってくる。彼女の服装は、実家のメイドたちが着ていた簡素なものとは比較にならないほど上質で、その所作は洗練されていた。


「あ、あの……私は……」


声を出すと、喉が乾いて張り付いているのが分かった。メイドはすぐに察して、銀の水差しからグラスに水を注ぎ、差し出してくれた。


「どうぞ、少しずつお飲みください。まだお体が弱っておりますので」

「ありがとうございます……」


震える手でグラスを受け取ろうとすると、彼女はそっと手を添えて支えてくれた。冷たくて美味しい水が喉を潤し、身体の奥に染み渡っていく。生き返る心地がした。


「ここは、神聖皇国の離宮でございます。貴女様は三日前、国境の森で倒れていたところを、我が国の皇太子殿下に保護されたのです」

「しんせい……こうこく?」


耳を疑った。神聖皇国といえば、フロンティア男爵領の隣に位置する大国だ。厳格な規律と強大な国力を持ち、私たちのような小領地の人間にとっては雲の上の存在である。


「皇太子殿下が……私を?」

「はい。すぐに殿下をお呼びしてまいります。皆様、貴女様のお目覚めを心待ちにしておられましたから」


メイドは優しく微笑むと、深々と一礼して部屋を出て行った。

取り残された私は、呆然とシーツを握りしめる。状況が飲み込めない。あの意地悪な義母に捨てられ、雪の中で野垂れ死ぬはずだった私が、なぜ隣国の離宮で寝ているのか。


数分後、扉がノックされ、許可を待たずに開かれた。

入ってきたのは、見上げるような長身の青年だった。流れるような銀髪に、宝石のアメジストを思わせる紫紺の瞳。その身に纏うのは、仕立ての良い軍服風の衣装だ。彼が入室した瞬間、部屋の空気がきりりと引き締まったような気がした。


あまりの美丈夫ぶりに、私は息を呑む。彼が誰であるか、説明されずとも分かった。その全身から放たれる圧倒的な気品とオーラは、王族のそれ以外の何物でもない。


私は慌ててベッドから降りようとした。


「ご、御前失礼いたします……!」

「そのままでいい! 無理をするな」


青年――皇太子ルシアンは、ベッドから転げ落ちそうになった私を素早く支えた。その手は大きく、温かかった。


「まだ熱が下がったばかりだ。安静にしていてくれ」

「申し訳ありません、殿下。このような……汚れた身で、殿下の御手に触れるなど……」


私は反射的に身を縮め、謝罪の言葉を口にした。実家では、私の存在そのものが「汚らわしい」と言われ続けてきたからだ。私の手が触れた家具は拭き直され、私の歩いた床は塩で清められた。だから、高貴な方に触れられるなど、あってはならないことだった。


しかし、ルシアンは眉をひそめ、私の顔を覗き込んだ。その瞳にあるのは軽蔑ではなく、深い懸念と、どこか痛ましげな光だった。


「汚れてなどいない。貴女は、私が森で見つけた時、誰よりも美しく輝いていた」

「え……?」

「覚えていないか? 貴女が倒れていた周囲だけ、雪が溶け、花が咲いていたことを」


ルシアンの言葉に、薄れゆく意識の中で見た光景がフラッシュバックする。身体から溢れ出した黄金の光。温かな奔流。


「あれは……私の、魔力暴走では……」

「暴走ではない。あれは『覚醒』だ」


ルシアンはベッドサイドの椅子に腰を下ろし、真剣な眼差しで私を見つめた。


「宮廷魔導師と大神官に貴女を診せた。彼らの見立ては一致している。貴女が持っているのは、数百年に一度現れるかどうかの、稀有な『浄化の光』だ。つまり、貴女は伝説に謳われる『大聖女』の資質を持っている」

「だい……せいじょ?」


あまりに現実離れした言葉に、私はポカンと口を開けてしまった。

聖女。それは神聖皇国において信仰の対象となる存在だ。癒やしと豊穣をもたらし、国を守護する要。


「私が……聖女? そんなはずはありません。私は、家族から『呪われている』と言われてきました。魔力が漏れ出て、気持ち悪いと……」

「それは、貴女の器に入りきらないほどの聖なる力が溢れていただけだ。無知な者たちが、その尊い光を『呪い』と履き違えたのだろう」


ルシアンの声には、静かな怒りが滲んでいた。


「貴女の名は?」

「……エリーゼと申します。フロンティア男爵家の……いえ、元養女です」

「元、か」

「はい。三日前の夜、義母により家を追放されました。血が繋がらない他人には、家を継ぐ資格はないと」


私は淡々と事実を告げた。同情を引くつもりはなかった。ただ、なぜあのような場所にいたのかを説明しなければ、不審者として扱われると思ったからだ。


ルシアンは私の手を取った。その手が、私の荒れた指先をなぞる。


「……これが、男爵令嬢の手か」


私の手は、長年の酷使で節くれ立ち、ペンだこや小さな切り傷が無数にあった。冬場に冷たい水で洗濯をし、薪を割り、夜遅くまで書類仕事をしていた証だ。義妹のマリアの白魚のような手とは比べるべくもない。

恥ずかしくて手を引っ込めようとしたが、ルシアンはそれを強く握りしめて離さなかった。


「どれほどの苦労をしてきたのか、この手が語っている。……許し難い」


彼の手が震えているのが分かった。


「貴女のような至宝を、あろうことか雪の中に捨てるとは。フロンティア男爵家の者たちは、自分たちが何を失ったのか、いずれ思い知ることになるだろう」


ルシアンの言葉は、私の心の奥底に染み込んだ。

今まで、誰も私を認めてくれなかった。誰も私の痛みに気づいてくれなかった。養父でさえ、最後は私を守りきれなかった。それなのに、出会って間もない異国の皇太子が、私のために怒ってくれている。

目頭が熱くなり、視界が滲んだ。


「泣いてもいい。ここはもう、貴女を虐げる場所ではない」


その優しい声に、堰を切ったように涙が溢れ出した。私は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。ルシアンは何も言わず、私が泣き止むまで、その背中を優しく撫で続けてくれた。


それからの日々は、まるで夢の中にいるようだった。

私は「聖女候補」として、離宮で最上級の待遇を受けることになった。

提供される食事はどれも温かく、味わい深かった。実家では使用人の残飯のような冷めたスープと硬いパンしか与えられなかった私にとって、湯気の立つシチューや焼きたてのパンは、それだけで涙が出るほどのご馳走だった。


「エリーゼ様、本日のドレスはこちらになります」


専属となった侍女たちが、毎日美しいドレスを持ってきてくれる。絹やレース、ベルベット。肌触りの良い生地に身を包むと、自分が自分ではないような気がした。鏡に映る私は、肌の色艶も良くなり、以前の亡霊のような姿とは別人のようだ。


そして何より、私の心を癒やしたのは、自身の能力が「役立つ」と認められたことだった。

ある日、宮殿の庭園で枯れかけていた花壇に手をかざすと、私の掌から淡い光が溢れ、瞬く間に花々が蘇り、満開の花を咲かせたのだ。

それを見ていた庭師や近衛兵たちは、畏怖ではなく、感動の面持ちで私に跪いた。


「おお、なんと神々しい……!」

「これぞ聖女様の奇跡だ!」


「気味悪い」ではなく「神々しい」。

その評価の違いに、私は戸惑いながらも、胸が満たされるのを感じた。私が私であっていいのだと、初めて世界に許された気がした。


午後のティータイム。

私はルシアンと共に、テラスでお茶を楽しんでいた。

彼は公務で忙しいはずなのに、時間を見つけてはこうして私の様子を見に来てくれる。


「体調はどうだ、エリーゼ。まだ疲れやすいのではないか?」

「いえ、おかげさまで、もうすっかり元気です。……殿下には、感謝してもしきれません。命を救っていただいただけでなく、生きる意味まで与えてくださって」


私が深く頭を下げると、ルシアンは苦笑して首を横に振った。


「礼を言うのは私のほうだ。貴女の浄化の力は、我が国にとっても大きな希望だ。先日、貴女が祈りを捧げた水源の泉、あそこの水質が劇的に改善したとの報告があった。長年の課題だった疫病の予防にも繋がるだろう」

「お役に立てたのなら、嬉しいです」


素直にそう思えた。誰かに必要とされる喜び。それがこれほどまでに心を満たすものだとは知らなかった。


「……だが、エリーゼ。私は貴女を、単なる『便利な聖女』として国に縛りつけるつもりはない」


ルシアンの表情が真剣なものに変わる。アメジストの瞳が、私を射抜くように見つめた。


「貴女には自由がある。もし、故郷に戻りたいと願うなら、私が全力でその環境を整えよう。あの男爵家を処罰し、貴女が当主として返り咲けるようにすることも可能だ」


故郷。

その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、吹雪の中で閉ざされた重い扉と、嘲笑う義母たちの顔だった。そして、燃やされた父の形見のペンダント。


胸の奥が冷えるのを感じた。

あそこに戻る?

いいえ、あそこはもう、私の家ではない。


「……戻りたくはありません」


私はきっぱりと答えた。


「私は捨てられたのです。彼女たちは、私を不要だと判断して追放しました。ならば、私も彼女たちを『過去』として捨てます。あそこで過ごした日々も、苦しみも、すべて」


私の言葉に、ルシアンは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに頷いた。


「そうか。……潔いな、貴女は」

「ただの強がりかもしれません。でも、今の私には、この国の皆様の温かさのほうが大切なのです」

「ならば、ずっとここにいればいい」


ルシアンが身を乗り出し、テーブル越しに私の手を取った。その不意の行動に、心臓が大きく跳ねる。


「私は、貴女のその気高さに惹かれている。聖女としての力だけでなく、虐げられても品位を失わず、自らの足で立とうとする貴女の魂が、私には何よりも美しく見えるのだ」

「で、殿下……?」


彼の熱い視線に、顔が火のように熱くなるのが分かった。これは、期待してもいいのだろうか。彼にとって私は、単なる保護対象以上の存在になれるのだろうか。


「そばにいてほしい、エリーゼ。聖女としてではなく、一人の女性として。……嫌だろうか?」


その真っ直ぐな言葉に、どうして拒絶などできるだろう。

私は涙をこらえながら、そっと彼の手を握り返した。


「……はい。私が、自分でいられる場所がここにあるのなら……喜んで」


ルシアンは破顔し、私の手の甲に口づけを落とした。

その温もりに触れながら、私は確信していた。

もう、あの凍えるような冬は終わったのだと。

そして同時に、遠く離れたフロンティア男爵領の行く末を案じた。私という「管理システム」を失った彼女たちが、これからどうなるのか。

私を追放したときに私が残した言葉――『後悔なさいませんように』。

その言葉が現実となる日は、そう遠くないはずだ。


その時、一陣の風がテラスを吹き抜けた。風に乗って、遠い北の空から不穏な雲が流れてくるのが見えた。まるで、没落していく男爵家の未来を暗示しているかのように。

私はルシアンの手の温もりを感じながら、冷然とした瞳でその空を見つめていた。私の心の中に、かつての家族に対する情けは、もう一欠片も残っていなかった。


(お義母様、マリア。……精々、足掻いてくださいね)


それは聖女としてではなく、復讐者としての、静かで冷たい決意だった。

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2026年1月17日 19:00
2026年1月18日 19:00

『血が繋がらない』と極寒の森へ捨てられた養女ですが、隣国の聖女として覚醒しましたので、今更『家族』と擦り寄られても存じ上げません @jnkjnk

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