永遠の代償 ― プロメテウス・プロトコル ―
来栖とむ
第1話
静寂が、あまりに重かった。
東京都郊外に位置する高級老人ホーム「悠久苑」。そこは本来、老い先短い富裕層が、静かな死を待つための「終着駅」のはずだった。早朝の廊下には、本来なら乾いた咳や、吸入器の駆動音、あるいは深夜徘徊を咎める介護士の低い声が響いているはずだった。
だが、今のここには、生命の爆発を凝縮したような、不気味なまでの「熱」が満ちている。
藤沢誠(ふじさわ まこと)は、シーツの中で自分の右手をじっと見つめていた。
八十年間使い倒し、茶色のシミと浮き出た血管に覆われていたはずの皮膚が、驚くほど滑らかに変貌している。透き通るような白磁の肌の下で、強靭な筋肉が躍動を待っている。
一ヶ月前まで、彼はペンを握ることさえままならなかった。末期のパーキンソン病。震える指先は、かつて社会を震撼させた硬派なジャーナリストとしての矜持を、無慈悲に削り取っていった。
それが、どうだ。
今、彼はシーツを掴み、指先に力を込める。布が悲鳴を上げ、容易く引き裂かれた。
「……馬鹿げている」
掠れた声が出ると思った。だが、喉から溢れたのは、少年のように瑞々しく、かつ鐘のように澄んだテノールだった。
藤沢は震える足取りで――いや、羽が生えたように軽い足取りで、洗面台の鏡の前へ向かった。
鏡の中にいたのは、一人の「怪物」だった。
年齢は二十歳そこそこに見える。彫刻のように整った顔立ち、長く尖り始めた耳の先端。そして何より、その瞳だ。見た目は若々しいが、その奥底には八十年の歳月がもたらした「澱(おり)」のような絶望と知恵が、どろりと沈殿している。
「これが、『プロメテウス』の力か」
ミライ薬研の研究責任者、榊悠人(さかき ゆうと)が、一週間前の回診で漏らした言葉を思い出す。 『藤沢さん、おめでとう。あなたは死を卒業し、人類の新たな地平、ノヴァ(新人類)の一員となるんです』
その時、藤沢は突如として襲ってきた猛烈な熱気に意識を失った。そして目覚めた今、肉体は完全に作り変えられていた。
不意に、口の中に鋭い疼きを感じた。
痒(かゆ)い。いや、痛い。
歯茎の奥から、何かが肉を突き破り、強引に外の世界へ出ようとしている。かつて乳歯を失ったとき、あるいは永久歯が生え揃ったときのような、生命が形を変えるときの不快な鼓動。
「ああ、ぐ……っ!」
藤沢は洗面台に指をかけ、鏡に顔を近づけた。
口を開き、指で歯茎に触れる。
そこには、真新しい白磁の破片が、槍の先端のように顔を出していた。
乳歯でもない。永久歯でもない。
人類がこれまで経験したことのない、三度目の萌出。
「……三度目、か」
その白く輝く「武器」を見た瞬間、藤沢の中に眠っていたジャーナリストの血が、氷のような冷たさで沸騰した。
この薬は、ただの若返り薬ではない。
これは、人類という種を、根本から「別の何か」に作り変えてしまう禁忌の引き金だ。
カチリ、と背後で電子ロックが解除される音がした。
「おはようございます、藤沢さん。……いえ、『ノヴァ被験者・ナンバー・ゼロ』」
白衣を纏った男――榊悠人が立っていた。その傍らには、漆黒のスーツに身を包み、氷のような眼差しでこちらを射抜く女、氷室麗華の姿もある。
彼女の腰には、老人ホームには似つかわしくない、実弾入りの拳銃が備わっていた。
「体調はいかがですか? その三度目の歯が疼くのは、あなたが『永遠の春』に足を踏み入れた証拠ですよ」
榊は、まるで名画を鑑賞するような陶酔の表情で、若返った藤沢を見つめた。
藤沢は、疼く歯を剥き出しにし、野生動物のような笑みを浮かべて見せた。
「……榊先生。この歯は、何を喰うために生えてきたんだ?」
榊の微笑みが一瞬だけ凍りついた。
藤沢は確信した。
この「悠久苑」という名の監獄を脱出し、世界にこの奇跡の化けの皮を剥いでやる。それが、この若返った肉体に与えられた、唯一の、そして最後の使命だ。
窓の外では、東京の街並みが朝日を浴びて輝いていた。
だが、その光の届かない場所で、人類の歴史は音を立てて崩壊を始めていた。
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永遠の代償 ― プロメテウス・プロトコル ― 来栖とむ @yutaka963
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