第7話 九回裏 ツーアウト満塁
運転席のシートを限界まで倒し、山崎鉄平はタクシーの中で寝ていた。
ただ、眠りこけてはいない。天井を睨みつけ、手を頭の後ろに組み、耳をラジオの競馬中継に集中させて、鉄平は呪文のように、ある騎手の名をブツブツと呟いていた。
「安田、安田、やすだ・・・」
競馬中継からは、各馬ゲートイン目前の模様が聞こえてくる。
コンコンと窓ガラスを叩く音。
見ると、笑顔の優しいおばあちゃんが、「タクシー。いいですか?」と、にっこり笑っていた。――ダメダメ。
鉄平は、ボタンを押して空車から回送へ切り替え、「今、休憩中」と口を大きく開けて言い放ち、両手で×をつくった。それどころじゃねーんだよ。と吐き捨てた。
各馬ゲートインから一斉にスタート。
「来い、来い、来い」
鉄平は両手を握り締め、眉間に皺を寄せて、呪うように祈った。
コンコンと窓ガラスを、もう一度、叩く音。
今度は、黒いサングラスをしたスーツの男が立っていた。
「山崎さん。山崎鉄平さん」
ゾクッと悪寒が走ると同時に、鉄平は、即座にドアロックボタンを押した。
「こら、開けろ。山崎」
男は運転席のドアを開けようと強く引っ張る。窓ガラスを叩く。かなり強引だ。
クソ、まいったな。と思った鉄平は、一拍置いて、男の引っ張るタイミングに合わせて、自らドアをバンっと開けた。男は勢いあまって、そのまま尻餅をついた。
「あらら、お気の毒・・・ご苦労様」
そう言い残して、鉄平はアクセルを踏んで車を出した。
「こら、山崎。金返せ!」
サングラスの男の声があたりに響いた。
* * *
九回裏。ツーアウト。一・二塁。
ザッザッザッっと、マウンドの土を蹴る。いつもより柔らかく感じた土の感触。
伊東守は、足場が定まらず不安定なまま、セットポジションに入った。
ランナーは、ファーストとセカンドにいて、ジリジリとリードを広げる。
目のはしで動くファーストランナーが妙にイラつく。守は一度プレートから足を外し、一塁に牽制球を投げる真似をした。ランナーはそれぞれ塁に戻る。
川北中と城南中の練習試合は、九回裏まできて、三点差で川北中が勝ち越している。
マウンドにいる守が、目の前のバッターを三振か凡打で打ちとれば、川北中の勝ちだ。
練習試合とはいえ、川北中と城南中は因縁のライバルだ。本番前のこの試合で、相手の力量を推し量る絶好の機会である。
「ツーアウト。ツーアウト。あと一人」
キャッチャーの吉岡豪太が、マスクをとって立ち上がり声を掛けた。
あと一人。そうだ。必ず俺が抑えてみせる。そう自分に言い聞かせ、守は深く息を吸い込んだ。そして、もう一度足場を慣らす。
セットポジション。
もう、ランナーは気にしない。目の前のバッターに集中するのみ。
投げる。
カキン。乾いた打球音。ボテボテのサードゴロだ。よし、打ち取った。
サードが前進して真正面でゴロをさばいた。
「ファースト!」
守は、グローブでファーストを差し、叫んだ。
――あっ!
サードの手から白いボールが滑り落ちた。すぐさま拾い直すが、間に合わず、ランナー一塁、二塁、三塁、オールセーフ。ツーアウト、満塁と化した。
ベンチでは、マネージャーの浅田詩織が口に手をあてて硬直している。が、すぐさま取り直し、膝の上のスコアブックに向かって、記入した。
* * *
場外馬券場ウィンズ立川。
鉄平は、二階の券売機の前で記入したマークカードを、睨みつけている。先程、競馬新聞とにらめっこして、丹念に記入したマークカードだ。あとは券売機に差し込んで馬券を購入するだけなのに、ふと、止まった。馬券を買う直前になって、躊躇していた。
いや、己を見つめ直したと言った方が、この場合あてはまる。
「ここまで来て何やってんだ、俺は」
鉄平の後ろに並んでいる競馬女子の二人組が、遠慮がちに声を掛けてきた。
「あの~、まだですか?」
「私達、待ってるんですけど」
鉄平はおもむろに振りかえって、彼女たちを睨みつけた。
「わかってる。ブレてる。ブレてるよ。俺」
競馬女子二人組は、ビクッとしておののいた。
「な、そういうことだろ。結局は!」
そう言って、彼女たちの目の前で、鉄平は手に持ったマークカードを引き裂いた。
「初志貫徹。原点回帰」
虚空を見つめた鉄平は、自分に言い聞かせるように、そう噛み締めた。
「あの~、いいですか?」競馬女子が、恐る恐る声を掛ける。
「あ、どうぞどうぞ。失礼しました。自分なんかは、一から出直しですわ。ハハハ」
鉄平は、頭を擦りながらその場を離れた。
* * *
九回裏。ツーアウト満塁。
「タイム」
豪太がタイムをかけ、マウンドの守のところに駆け寄って来た。
内野手もぞろぞろと集まってきた。マウンドの周りに円陣が出来た。
守は俯いたまま、誰とも目を合わさず、土を蹴り続けている。スパイクのつま先に、さっきより固い感触がようやく返ってきた。
サードの新井が、先ほどファンブルしたボールを素手で磨いて、守に差し出した。
「すまん、守・・・」
「すまんじゃねーよ!」
バンっと、守が、そのボールを思いっ切りはたき落とした。マウンド上の空気が一瞬にして凍り付く。
ボールが転々と転がる。豪太が、すぐさま走ってボールを拾いに行った。
ファーストの渡辺が、守をなだめる。
「守、落ち着け・・・」
「うるせえ!この満塁、お前らのせいだろうが。エラーばっかりしやがって」
渡辺に噛みつかんとばかりに突っかかる、守。
「なんだよそれ。お前何様だよ!」
「はあ、誰のおかげでここまで勝ち上がって来たと思ってるんだよ。俺が投げて、俺が打ったからだろうが。お前ら足引っ張てるだけじゃねーか!」
守は、顔を真っ赤にして、怒髪天を衝くような形相になった。
「もう、よせ」
豪太が、守と渡辺の、あいだに割って入った。
「まだ点は取られてない。あと一人押さえればいいんだ」
そう言って、豪太は、拾ってきたボールを守に渡した。
*
「何やってんだ。守のヤツ」
「あいつ、おかしいよ」
ベンチでは、控え選手の清水と杉山がいぶかしげに口を開いた。
「やっぱあれか。父ちゃんが原因か?」
「多分な・・・」
「ったく。どうしたらいいんだよ」
「さあな。俺達に出来ることなんてないよ」
「だいたい、失踪って何だよ。失踪って」
「いなくなっちゃった。ってことだろ。突然」
杉山の冷めた返答に、明らかにカチンときた清水。
「わかってるよそんなことは。どうしてかって、聞いてんだよ」
「知らねーよ。そんなこと!」
杉山も杉山で、カチンときた。
「お前、冷てーヤツだな」清水がなじった。
「じゃあ、お前がその辺走って探して来いよ」杉山が強弁した。
――なんだと、この野郎。
――上等だ、この野郎。
清水と杉山がエスカレートして、一触即発だ。そもそもこの野球部には、血の気の多い輩が多い。些細なことで言い争いになるのはしょっちゅうだ。
しかし、この瞬間の清水と杉山の衝突は、いつものじゃれ合いではなかった。些細なことではなかったからだ。絶大な信頼をおいている守の、異常なまでの乱れ。二人には、それが見ていられなかった。
最近起きた、守のプライベートにおける大事件。父親が失踪して家に帰ってこなくなった。という噂が野球部内に蔓延している。だが、誰も詳しいことを守に聞くことは出来なかった。また、守もそんな話を自ら言うわけでもなかった。結局、野球部では練習中もその後も、あえてその話題は出さないようにと、暗黙のルールが出来ていた。
そして、清水と杉山は、そんな守の苦悩を横目に、自分たちはただベンチにいることしか出来ない。という自らの非力さにも無性に腹が立っていた。
「やめてよ。そんな話、大きな声で・・・」
詩織が、清水と杉山の目の前に立っていた。
ああ、ゴメン。と清水と杉山は、トーンダウンして落ち着いた。
詩織はベンチに座り直し、スコアブックを開いて、思った。
美咲、どうしてここにいないの。守がピンチなんだよ。
*
「ツーアウト、ツーアウト、しまっていこうぜ!」
豪太が、ホームベースの前でマスクを片手にナインに激を飛ばした。
次のバッターが打席に立ち、守がキャッチャー豪太のサインに目をやる。
違う。違う。違う。と、守は3回首を振った。
プレートからスパイクを外し、もう一度土を蹴りながら呟いた。
「分かってねーな、豪太のヤツ、バカッ」
セットポジション。
全力投球。
――カキーン。
バッターのフルスイングと共に大きな音がして白球が舞う。
サヨナラホームランだ。
城南中は全員グランドに出て蜂の巣を突いたような大騒ぎだ。
ホームベースの傍で呆然としている豪太の所に、ベンチから清水と杉山がやって来た。
「豪太。守のヤツ、サイン無視したな」
清水が聞いてきた。
「あ、いや・・・」
豪太は返答に困った。
「見てればわかる。無視した」
杉山が答えた。
「あいつやっぱおかしいぞ」
「ああ、父ちゃんがいなくなってからだ」
清水と杉山が愚痴るように言った。
「やめろよ。家庭の事情だ。俺達が首突っ込んでいいわけないだろ」
と豪太は、彼らの話を遮った。
* * *
場外馬券場ウィンズ立川。
鉄平は、一階入り口すぐの映像ホールに来ていた。140インチの大型モニターにレースが映し出されている。目の前には人だかり、むさ苦しい男たちの頭越しに見えるレースは、向こう正面を回った。
「そっから行け。行け。かぶせろ!」
丸めた競馬新聞で手を叩きながら、白熱する鉄平。
さあ、第三コーナーから第四コーナーを抜け、最後の直線コースだ。
追い込み勢が、怒涛の如く追いかける。外から覆いかぶさるようにやって来た。
逃げ切れるか。逃げ切れるか。最後のひと伸びだー。
――よし!
パンっと、鉄平は、一発大きく手を叩いた。
モニターに向かって、丸めた新聞を差し棒のように突き出し、
「愛してるぜ。安田!」
と、絶叫した。
* * *
「クソー、クソー!」
守はベンチに帰ってくるやいなや、グローブやバッグを、何度も地面に叩きつけた。
豪太が守の手を押さえて、言った。
「よせよ。モノにあたるな」
守は豪太の手を振り払い、
「お前のサインが悪いんじゃねーかよ」と、完全に八つ当たりだ。
「サイン通りに投げてりゃ打たれてねーよ」
豪太がやり返した。根拠はなかった。
「はあ、お前は野球の神様なのか?なんでも知ってんのかよ。たられば言ってんじゃねーよ!」
守は炎上し、豪太もさすがにキレた。
「いい加減にしろ!お前、家庭の事情を持ち込み過ぎだぞ」
「はああ、関係ねえだろ。関係ねえだろそんなことは。俺はなにも言ってねえぞ」
「顔に書いてあるんだよ。はっきりと」
「ふざけんな。てめえ!」
守が豪太に飛び掛かり、取っ組み合いになった。
野球部員全員で止めに掛かるが、両者の掴み合いは止まらない。
――やめてえええ!
詩織が大声で叫んだ。ベンチの中が静まりかえり、全員が止まった。
「もうやめて、やめて、やめて・・・」
詩織はスコアブックを抱えたまま、泣きじゃくりながら、崩れ落ちた。
* * *
野球場の近く道を歩いて帰りながら、啓太がたかしに聞いた。
「あれが、守兄ちゃんか?」
「ああ。今日は調子悪かったみたいだ」
啓太とたかしは二人して練習試合を見に来ていた。たかしが啓太を誘ったのだ。守の雄姿を一度、啓太に見せてやろうと思っていたたかしだったが、今日は残念な結果に終わった。
「普段はすげえんだ。鞭のように体がしなって、ズバーンと剛速球を投げるんだ」
「そっか。見たかったけど、調子悪かったならしょうがないな」
啓太はもう一つ気になったことを聞いた。
「試合が終わって、泣いていたのが、たかしの姉ちゃんか?」
「違う。アレは詩織姉ちゃん。オネエの友達」
「ホントの姉ちゃんは?」
「オネエは、来てなかった」
「なんで?」
啓太は率直に聞いてみた。
たかしはしばらく考えて、
「よくわからん」
と、首を振って答えた。
* * *
「これ全部、使い古した千円札にしたいのですが」
鉄平は銀行の窓口を訪れていた。
一万円札を十枚、計十万円を出して、両替をお願いした。
「お客様。両替なら、両替機で行えますが」
窓口のお姉さんが、にこやかな笑顔で受け答える。
「機械じゃ、ピン札出てきちゃうでしょ。それじゃ困るのよ。使い古した千円札が欲しいんだ。皺や折り目が入ってるヤツね」
「はあ、少々お待ちください」
窓口のお姉さんは、やや怪訝そうな顔つきになって対応した。
ハリウッド映画に出てくる犯人が、身代金の要求をする際に、「新札ではなく使い古した20ドルで用意しろ」と言うシーンがあるが、鉄平も、そんな誘拐犯の気分を少し味わった。
「早くしてね」
と声かけながら、鉄平は近くのリーフレットを手に持った。それには、振り込め詐欺にご注意ください。とか、マネーロンダリング防止などの注意喚起が促してあった。
* * *
「分かってる。俺が言い過ぎたよ」
夕焼け空のもと、豪太と詩織は河川敷の土手の上を、帰宅の途についていた。詩織は自転車を押しながら、豪太はスポーツバックを肩に担いで、自転車の横に並んで歩いていた。
「男子って、すぐに暴力に訴えるからダメなのよ」
詩織はプイっと、そっぽを向いた。
「だから反省してるって」
豪太がトボトボと歩みを進めると、詩織が自転車を押すのを止めて佇んでいた。
「どうした。詩織」
「豪ちゃん。守のお父さん、どうしちゃたんだろう」
詩織が、改めて思い詰めたように聞いた。
「わからん。でも、うちの父ちゃんが言うには、本当に帰ってこないらしい。会社も無断欠勤が続いているって。もう、かれこれ一週間以上にはなるって言ってた」
「警察には相談したのかしら?」
「そんなことまで聞いていいかどうかも、わからん」
「無事だったらいいのに・・・」
「まったくだ」
豪太と詩織、俯いたまま二人して言葉を失った。
「それはそうと、美咲は?」
豪太が顔を上げた。
「そう。聞いてよ、豪ちゃん!」
詩織も顔を上げた。
「この間、美咲の家に行ってきたのよ。夜だったから、おばさんは仕事でいなくて、たかし君が出てきたの。お姉ちゃん、いる?って聞いたら、たかし君、二階に上がって美咲を呼びに行ってくれたの」
「居たのか?」
「居ないって言われたの」
「どこ行ってんだ。あいつは」
豪太は、ため息をついた。
「違うの。居たのよ。美咲は」
「はあ?居なかったんじゃないのか」
「居たのに、居ないって言われたの。雰囲気でわかるでしょ。居留守を使われたのよ」
「なんで?」
「そ・れ・を、わたしが知りたいの。なんで居留守を使われなきゃいけないの。私が美咲に何したって言うのよ。ちょっとは気を使って、美咲の好きなカヌレを手土産に、わざわざ買って持って行ったのよ。たかし君が喜んでいたからいいけど。居留守ってどういうことよ」
詩織は矢継ぎ早にまくし立てた。
「なにが、どうなってんだ。ったく・・・」
豪太のため息が、一段と深くなった。
「豪ちゃん、後ろに乗って」
詩織は自転車にまたがり、豪太を促した。
「二人乗りか。だったら俺がこぐよ」
「いいの。なんか私がこぎたい気分だから。それに豪ちゃん、試合で疲れてるし」
じゃあ。っと豪太は荷台にまたがった。
「しっかり、掴まってね」
と言って、詩織はペダルを踏みだした。
* * *
陽が沈んでも、まだ空がやや明るい状態を「薄明(はくめい)」という。英語ではトワイライト。薄明からしばらくすると、空は徐々に暗くなっていく。
プルルルルっと、伊東家の電話が鳴った。
「はい。伊東です」
守の妹、伊東奈々が受話器をとった。奈々は小学二年生だ。
「うん。うん。ヤッター。お母さん、鉄平おじちゃんが来るって、お寿司買って」
「はは~ん。競馬に勝ったな」
伊東裕美子はキッチンで夕飯の支度をしていた。包丁で野菜を切っている最中だ。
「うん。うん。お母さん、晩御飯、作るなって」
「じゃあ、お味噌汁だけね」
裕美子は、トントントンっと、音をたてて包丁を動かした。
*
椅子の上に、鉄平が仁王立ちに立って目を瞑っている。
鉄平に向かい合う形で、守と奈々が正座の姿勢で鎮座している。神妙な面持ちだ。
鉄平が、クワッと目を見開いて、口を開いた。
「下々の民よ。今宵、豊穣の神が舞い降りた・・・」
「はは~・・・」
と、守と奈々は、何かの儀式のように、そろって鉄平にひれ伏した。
「うぬたちは、いにしえより伝わる神の御業を目にするだろう」
「はは~・・・」
守と奈々は、もう一度ひれ伏した。
「よいか。徳を積めば、必ず功徳がやってくる。功徳は嫌いか。好きだよなぁ」
「はは~・・・」
守と奈々、大きく両腕を振り下ろし、思いっきり低く、ひれ伏した。
鉄平は抱えていたショルダーバックの中に手を突っ込んだ。
ガサガサっと何かを掴んで、
「ほ~れ~、功徳じゃー」と言って、上に向かってほうり投げた。
ひらひらと舞う千円札。
鉄平は、バックの中から千円札を何枚も掴んで投げる。さらに、千円札がひらひらと空中を漂う。椅子の上に立って投げているから、千円札は部屋中に舞い上がって広がる。
「さあ、貧乏人のせがれ達、狂喜乱舞して掴み取れ!」
鉄平、さらに、投げる。投げる。
「ほれ~、ほれ~・・・」
守と奈々が必死になってお金を拾う。
「神様、仏様、鉄平おじさん・・・」守は、巣っ転んでドタバタと部屋の中を転げまわった。
「キャー、キャー・・・」奈々は、飛んだり跳ねたりして、駆けずり回っている。
「あははは、醜いの~・・・」
鉄平は腕組みをして、二人を見下ろしていた。
「ちょっと、鉄平! あんまり変なこと教えないでよ・・・」
裕美子はキッチンで、残ったお寿司をお皿に移して、ラップを被せていた。
* * *
「ひい、ふう、みい・・・」
鉄平が椅子に座って、指を舐め舐め千円札を数えている。
「おじちゃん、もう一回、もう一回」
奈々が、駄々っ子のように体を振って、鉄平におねだりしている。
「もう、この瞬間が冷めるなあ。続けてやろうよ、かみさま~」
守も、奈々と同じく、この儀式に味をしめたようだ。何回やっても面白い。
「あ、一枚足りない!お前ら、よく探したか?」
「ええ?もう落ちてなかったけどな・・・」
守がかがんで畳の上を見渡すと、背中と腰のズボンの隙間に、千円札が一枚引っ掛かっていた。
「ああ、オイ!それだ。そこ!」
鉄平は、電光石火の早業で、守の腰から千円札を引っ手繰った。
「油断も隙もあったもんじゃない。神の目を誤魔化そうとするな」
してねーし。と守がぼやく。
もう、お仕舞な。その中のモノやるから、開けてみろ。と、鉄平が置いてある紙袋を顎でしゃくった。守と奈々が紙袋の中を確認してみると、新しいグローブと女の子用の洋服が入っていた。
「やった、グローブじゃん」
「かわいい、これ!・・・着てみよ」
「俺もワックスかけよ・・・」
二人は、それぞれの部屋に戻った。
*
裕美子がお茶を入れて持ってきた。
「あんたが来ると家の中が明るくなるわ」
「そうか・・・」
鉄平は千円札の皺を丁寧に伸ばしながら、素っ気なく返事した。
「無理してお金使わなくていいよ」
「無理してねーよ。大穴が来たんだ・・・で、警察から何か連絡は?」
「何も。毎日聞きに行ってたら、嫌な顔されるようになっちゃったから、待つしかないわ」
「なんだそれ。俺が行ってやろうか?」
「やめてよ。大丈夫。必ずあの人は帰ってくるから。とりあえず私は、前の職場にも復帰出来そうだし、心配かけてゴメンね」
「謝ることはないよ。あっ」
ビリっと、手元の千円札に切れ目が入った。
「鉄平おじさん、これ試したいんだけど」
守がグローブを持ってやって来た。
* * *
満月にほぼ近い月が煌々と輝いている。月のまわりには雲が流れるように漂う。
近くの公園にやって来た。
この月明かりと外灯の明かりがあれば、充分キャッチボールは可能だった。
キャッチャー座りした鉄平に、守が振りかぶって投げる。『ズバン』という音。
「暫く見ないうちにいい球投げるようになったな。今、エースで4番だって?」
「いくら俺が投げて打ってもダメさ・・・」
「どうして?」
鉄平がボールを返し。守が捕る。
「うちのチームの奴ら、どん臭くて・・・あいつら野球が分かってないんだ」
守が投げ、鉄平が捕る。
鉄平が立ち上がって歩き出し、守に近寄った。
「守・・・俺はな、単なる競馬好きじゃねーぞ。勝負師だ。男が勝負する時、何が一番大事か知ってるか?」
「なに、急に・・・」
「信じることだ」
ぷっと、守は吹きだした。クサッと思ってしまったのだろう。
「クサいよな。このセリフ。俺もそう思う。普段だったら」
「今日は違うの?」
「ああ、今日はな、実は信じられなかったんだ。安田豊という騎手をな。もうこんなヤツを信じても、ろくなことがない。何べん裏切られたら気が済むんだ。と一回匙を投げた。でも、直前で踏みとどまった。もう一度だ。もう一度、信じてみようと。で、来た。だから、お前は今、それを手にしている」
守の持つグローブを指した。
「なんで、もう一度と思ったの?」
「なぜかな。初志貫徹。原点回帰。とも思ったが、やっぱり『信じる』だ。理屈じゃない、それが必要だと思った・・・お前が今、大変な思いをしているのは、わかってる。お父さんのこと、不安だろう。だけど、『信じる』しかないんじゃないか」
守の目から涙がどっと溢れ出した。同時に、コクっと頷いた。
* * *
九回裏 ツーアウト満塁。
練習試合で負けた城南中との公式戦。
一回から八回まで共に零点。九回表に川北中が一点入れて、勝ち越している。
城南中の最後の攻撃。ランナーは一塁、二塁、三塁。すべてが埋まっている。
詩織は、スコアブックを膝の上に開いたまま、ベンチで祈るように手を合わせている。
豪太がマスクをとって、思いっきりナインに声を掛けた。
「ツーアウト、ツーアウト、あと一人」
バッターボックスの外では巨体の中学生が、ぶんぶんバットを振っている。
守が豪太に向かって目配せをすると、豪太は審判にタイムを要求した。
「タイムお願いします」
そう言って、マウンドに駆け寄って来た豪太に、守が聞いた。
「あんな代打いたか?」
「あいつは転校生だ・・・最近、横浜からやってきた・・・え~と・・・」
といい、豪太がポケットからメモ帳を出してめくる。びっしりと細かい字が書いてある。
「お前、いつの間に・・・」
「ああ、俺の役目だからな・・・」
「お前に任せる。サインをくれ」
「おお・・・」
豪太、振り返って、ホームベースに戻る。
*
場外馬券場ウィンズ立川。
140インチの大型モニターに、ゴールする馬群が映りだされた。
鉄平は頭を抱えて呆然としていた。が、
モニターに向かって、丸めた新聞を差し棒のように突き出し、
「安田!この野郎!裏切り者!」
と、絶叫した。
*
豪太がマスクをかぶって座り。サインを出す。
守がマウンドで大きく頷いた。
「行くぞ!豪太!!」
「よし、来い!」
豪太がミットを構える。
振りかぶって、全力投球。
第7話 終
となりのとなりの物語 福本銀太郎 @gintaro-f
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。となりのとなりの物語の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます