第6話 モンシロチョウのように飛べ
モンシロチョウが飛んでいる。
パタパタと白いハネを羽ばたかせて、時より風に流されるのか、ふわふわと右に左に飛ぶ方向を変えながら。公園の花壇に咲く、花と花の間を飛びまわっている。ようやく黄色い花にとまった。
「チョウチョさんだ」
小さな女の子がモンシロチョウを追いかけるように走り出した。モンシロチョウはふわりと身をかわし、上に飛び上がった。が、飛んだ先の木の枝にクモの巣があり、引っ掛かった。
「あ、おじいちゃん。チョウチョさんが―」
「おや。クモの巣に引っ掛かったか。可哀そうだな。外してあげなさい」
おじいちゃんは女の子を肩車して持ち上げた。クモの巣は木の枝の高いところにあった。肩車された女の子の目の前ではモンシロチョウがもがいていた。
女の子が外してあげようと、手を伸ばした時、ジョロウグモが現れた。ジョロウグモは黄色と黒の毒々しい縞模様を全身にまとって、お腹の部分を真っ赤に染めていた。いかにも悪役然とした風貌だ。大きな胴体と長い足はゆうに4センチは越えている。
「クモが来たぞ。早く、早く逃がしてやれ」
おじいちゃんは肩車しながら、女の子を急かした。
ジョロウグモは、チョウから離れた30センチぐらいのところで、エサの値踏みをするかのように、モンシロチョウの動きを伺っている。女の子は手を止めた。伸ばした手をすうっと引っ込めて、もがいているチョウと構えているジョロウグモを両方見つめながら、息を殺してじっと動かなくなった。
「どうした?クモが怖いのか?」
「わかんない・・・」と女の子は呟いた。
ジョロウグモが足早に進んで、モンシロチョウを抱きかかえた。お尻から糸を出してグルグル巻きにして捕食していく。
おじいちゃんは女の子を肩車から降ろした。頭を撫でながら言った。
「残念だったな。一足遅かった。クモが怖かったか。よしよし」
ううん・・・と女の子は首を振った。
「わかんなかったの。どうしたらいいか、わかんなかった。おじいちゃん、どうすればよかったの?」
「なにが?チョウチョさんを助けたかったんじゃないのか?」
「でも、そうしたら、クモさんが困っちゃうよ。どうしたら、よかったの・・・」
女の子は半べそを掻き始めた。
「どうしたらよかったの。ねえええ」
足をバタバタとならして、地団駄を踏んだ。
おじいちゃんは眼を丸くして、息を飲んだ。
どうもこうもない。もしかしてこの子は!と思い、念のために聞いた。
「おじいちゃんに教えてくれ。チョウチョさんの気持ち、クモさんの気持ち、両方わかったのか?」
「うん。チョウチョさんは逃げたい。クモさんは捕まえたい。どうしたら、よかったの?わかんない。わかんないよ~」
女の子は、泣き出してしまった。
「わかった。泣くな。泣かないで、おじいちゃんの話を聞いておくれ。ほら、ちゃんと、おじいちゃんを見て・・・」
女の子は泣き止まない。
「どうしたら・・・よかったの~・・・え~ん・・・」
おじいちゃんは、女の子の両肩を掴んで揺すって言った。
「いいかよく聞け!」
女の子はビクッとして黙った。
おじいちゃんは、女の子をじっと見つめて、静かに話しかけた。
「どうしたらよかったかなんて。そんなことは、どうでもいいんだ」
おじいちゃんは女の子の前にしゃがみ込んで、目線を合わせて真剣に見つめた。
「そんなことよりも、お前はもっとすごいことをやったんだぞ。それをしっかり覚えておきなさい」
女の子は、キョトンとしている。
さらに、おじいちゃんは静かに話を続けた。
「チョウチョさんとクモさんの気持ち、両方わかったってことなんだな。それが凄いことなんだぞ。普通はチョウチョさんの気持ちしかわからないんだ。チョウチョさん、クモさんから逃げて。って思うのが普通なんだ。でも、そうじゃなかったんだな。クモさんの食事を邪魔したら、クモさんも困ってしまう。と、そうも思ったんだな」
女の子はコクンと頷いた。
「そう考えたのは、すっごいこと、なんだぞ」
ここで、クモさんの気持ちがわかる5歳児なんて、聞いたことがない。この娘はそれだけ視野が広いんだ。こんな客観視が出来る子だったとは。と、おじいちゃんは驚いた。
「お前は、凄い能力を持っているんだぞ。いいか。おじいちゃんが褒めていたことを、絶対忘れるな。チョウチョさんの気持ちも、クモさんの気持ちも、ネコさんの気持ちも、おサルさんの気持ちも、気が付くものは全部考えなさい。いろんな人の気持ちが考えられるように、出来るだけ遠くから見なさい。舞い上がって空から眺めるんだ」
二匹目のモンシロチョウがやってきて、二人の横をかすめて飛んでいった。
「あの、モンシロチョウのように飛べ。わかったか」
「よくわかんない。むずかしい・・・」
おじいちゃんは、うんっと、深く頷いて言った。
「難しいよな。難しいことは、後から考えればいい。チョウチョさんを助けたほうがいいのか。クモさんの食事を邪魔していいのか。むずかし~い問題なんだ。答えはどっちでもいい。答えなんか出なくてもいい。長い人生かけて悩んでいいんだ。とにかく、チョウチョさんとクモさんの気持ち、両方考えたお前は凄いんだ。両方わかったお前は偉いんだ。おじいちゃんが今日、それを褒めたことを、心に刻んでおきなさい。それだけはしっかり覚えておきなさい」
「うん・・・」
女の子はコクリと頷いた。
「えらいぞ。美咲」
おじいちゃんは美咲の頭を撫でながら、目を潤ませていた。
* * *
「麦茶とスポドリ。熱中症に気を付けて、こまめに水分補給、お願いね!」
女子マネージャーがよく通る声でグランドに向かって叫ぶ。
――あざーす!
野球部員が元気に答える。マネージャーに向かって、全員必ず帽子をとって挨拶する。
川北中野球部、中3の女子マネージャー二人組は頼もしい。練習の時は麦茶とスポドリが入ったジャグをグランド横に運ぶのが日課だ。ジャグとは、野球のベンチなどに置いてある、蛇口等が付いた飲料用タンクである。
ひとつで10リットル入るので、相当重い。親友同士の女子マネ、里中美咲と浅田詩織は二人掛かりで、麦茶用のジャグ2個、スポドリ用のジャグ2個、計4個を運んで並べ終えたところだ。
美咲は、ふ~と、腰を降ろし右腕を擦った。肘を曲げて力を入れると、二の腕にはほのかに力こぶが現れる。「あっ!」と詩織が声を発して、練習場の一角にいる一年生の方に向かって走り出した。
タイヤ押しにへばって止まりそうになっている部員が一人いた。タイヤ押しは、大きなタイヤを雑巾がけのようにして押していくトレーニングだ。グランドが濡れていると、土が重くて相当きついと言われている。が、途中で止まらず一気に駆け抜けるのが練習の目的だ。
「ラスト、ラスト。自分に負けない。自分に負けない。もういっちょー」
詩織が傍に駆け寄って、ハッパを掛けると、一年生はなんとか頑張ってやり切った。詩織はムードメーカーとして絶品の素質を持っている。男子の選手達より、声が通って元気がいい。おまけに可愛いから男子部員たちは大概発奮する。ムードメーカーなら詩織に任せておけば大丈夫。と美咲は改めて思った。
次の瞬間。カキン!「ううっ!」とうなり声があがった。グランドの方がざわついている。見ると、選手の一人が足首を押さえてうずくまっている。バッティング練習で自打球が足に直撃したようだ。今度は美咲が素早く走って、アイシングバックを取りに行った。
怪我をしたのはキャッチャーの吉岡豪太だ。美咲は豪太をベンチに座らせて、シューズとソックスを脱がし、アイシングをした。「どう、冷たい?感覚ある?」と聞くと、あるある。と豪太は顔を歪めながらも声を出さずに頷いた。
「じゃあ、大丈夫。しばらくそのままね。冷たくても外さない。わかった」
と言って、美咲は豪太と並んでベンチに腰掛けた。
試合前のこの時期、一番気を付けなければいけないのは怪我だ。盛り上げ役は詩織に任せて、自分はそっちを特に気を付けなくちゃ。と美咲はグランドにしばらく目を配り、アイシングバックを外して、豪太の足首の腫れを確認した。それほどでもない。どうやら心配なさそうだ。
「美咲。俺、スランプかもしれない。打球がミートしないんだ。変につまるんだ。勘がズレているっていうか。もう、試合も近いのによ。早く感覚を取り戻さなきゃまずい」
周りには聞こえないような小声で、アイシングで押さえた足を見ながら豪太が言った。
「それは無理だよ」素っ気なく美咲は返した。
「どうして?嫌なこと言うなよ」
「豪太は過去に戻れると思ってるの?」
「はあ?何言ってんだよ」
「スランプ脱出しようと苦しんでいるのはわかるよ。だけど、人は過去には戻れないんだから。以前の感覚を取り戻すって、過去に戻りたいって言ってるように聞こえるよ。拘ってるところが違うんじゃないかな」
「新しいフォームを試している時間なんてないよ。だから焦ってんだ」
「じゃあ、タイムマシンでも作ればいいじゃん」
「無理に決まってんだろ」
「わかってるじゃん。無理なことはそろそろやめたら。バッカじゃない」
美咲は、グランドを見渡して、淡々と言った。
「ちっくしょう。おまえな・・・いいかた!」
豪太はムッとしてそっぽを向いた。
向いた所に詩織が、睨んで立っていた。
「豪ちゃん!何やってんの。怪我してる場合じゃないでしょ。大事な時期なんだから。ちょっと見せて」
詩織の第一声は「大丈夫?」ではない。「何やってんの!」だ。
他の選手だったら、「大丈夫?」と心配している。ところが、豪太に対しては「何やってんの!」である。美咲は、はじまったと思った。
美咲と詩織、豪太と守の4人は幼馴染だ。
幼稚園から小学校へと、いつも一緒に遊び、一緒に育ち、中学にあがって野球部も一緒だ。ゆえに、お互いが家族同然に思っている。表面的な会話をすっ飛ばして本音をぶつけ合うことがしょっちゅうだ。特に、感情の赴くままに生きている詩織にその傾向が強い。今、怪我をした豪太に対しても、心配が行き過ぎて腹が立っている。
「骨に異常はないのね?」
詩織がアイシングを外してそう聞くと、
「そんな大袈裟なもんじゃねえよ。ちょっと腫れてるだけだ」
と豪太が答えた。
「じゃあ、この上から、私が愛情光線送って、早く治してあげる。早く治れ、明日には治れ、今すぐ、なおれ~・・・」
アイシングの上から手をあてて念を送る詩織。真剣にやっている姿が微笑ましい。
そこに、エースで4番、チームの大黒柱の伊東守がやってきた。
詩織の頭を軽くグローブで叩いた。
「なにやってんだお前は?」
「愛情光線送って、早く治してるの。昔から手当てするって言うでしょ。邪魔しないで」
「お前はバカか。だったら、アイシングの上からじゃなくて、足の裏から手をあてろよ。サンドイッチした方が、効き目が高そうだろうが。アッタマわりな~」
お前もだよ。同類同種がここにもいた。と美咲は思った。
「あ、そっか」と言って詩織が足の裏に手を回した。
「詩織。どけ。お前の手より、俺の黄金の右腕の方が威力があるから、俺がやってやる」
「守は練習してなさいよ。豪ちゃんの足は私が治すの」
「いいからどけよ。俺に貸せって」
案の定、豪太の足の取り合いになった。
あ~あ、成長しないなあ、この二人は。と美咲は次の展開が手に取るように読めた。
「もう!痛ってなあ。いい加減にしろよ。お前ら!」
豪太が足を振って逃げた。「ほっといてくれよ、もうっ」と、自分でアイシングをし直した。ったく、イッテエなぁ。ちくしょー・・・と豪太が嘆く。読み通りだった。
私が見ておくから、もういいよ。と美咲は守と詩織を追いやった。
豪太が愚痴る。
「何なんだよ。あいつら。まったく・・・なあ、美咲」
うん、そうだね。と美咲は相槌だけうった。
スランプの原因なんかわからない。ふとしたことで起こるし、また直りもする。大事な試合の前なので焦る。という気持ちもわかるが、豪太の場合は大丈夫。少し後ろ向きになっている部分を修正するだけで、復活する。いざという時は必ずなんとかする。そういう豪太を何度も見てきた。美咲には確信めいたものがあった。
豪太が最近、詩織を妙に意識し始めたことを美咲は感づいていた。家族のような感覚から、頭ひとつ抜け出した想いが溢れ、接し方にぎこちなさが出てきていた。豪太が気付かれないように振舞っても、美咲には通じない。バレバレだった。
美咲はハッと、息を飲んだ。もしかして、スランプの原因は、詩織なのかも。告白するかどうか迷って、夜も寝られない。バイオリズムを崩してスランプ突入。なんて、可愛いじゃん豪太。と美咲は豪太に視線を送った。豪太は、真剣な眼差しでアイシングに集中している。ゲスの勘繰りって、こういうことね。と美咲は少し反省した。
でも、そうやって悩んでいる姿が、美咲はなんだか羨ましかった。スランプの原因は何であれ、ちゃんと青春してるんだもんね豪太は。そういう意味では、詩織も守も、羨ましい。いつも剥き出しになって泣いて、笑って、喜んで、思いっきり生きている。
美咲は、彼等といつも一緒にいるのに、あんな風に感じたことはない。空気を壊さないように、なんとなく歩調を合わせるけど、どこかいつも冷めてる。守とは一応付き合っているけど、これも、小っちゃい頃からなんとなくほっとけなくて、面倒見ている感じだった。ほんとに好きって言えるのかどうかわからない。と思うことがしばしばある。
もう一度、ゲスの勘繰りをさせて貰えば――スランプになるほど詩織を好きなっちゃった、あんたが羨ましいよ――豪太。
* * *
6月、梅雨空が続いていたある日の夕方だった。
相変わらずの雨が降りしきる中、美咲が帰宅して玄関を開けようとした時だった。
「美咲、みさき」と、声がした。
ふと見ると、おじいちゃんが傘を差し、物陰から手招きしていた。
「おじいちゃん。どうしたの?」
「しっ!。ダメダメ。礼子にバレる」
人差し指を立てたおじいちゃんは、美咲を手招きして少し離れた場所に移動した。
小さい頃よく遊んでくれたおじいちゃん。会うのは10年ぶりぐらいだろうか。白髪だらけの頭になっていた。
「美咲、大きくなったな。たかしはいくつになった?」
「たかしは、11? 五年生だよ」
「そうか。赤ん坊の頃しか知らないから、随分大きくなっただろう」
おじいちゃんとお母さんが、縁を切るほどの大喧嘩をしたのを、美咲は知っていた。ここ10年の間、美咲は事あるごとに、母親の礼子におじいちゃんとの喧嘩のいきさつを聞いてみたが、答えてくれなかった。何故、おじいちゃんが姿を見せなくなったのか、皆目見当もつかず、徐々に、おじいちゃんとの思い出は薄れていっていた。
「たかしの誕生日が近いだろ、美咲の誕生日も先月だった。ちゃんと覚えていたんだ。これ、大したもんじゃないが、二人に。と思ってな・・・」
おじいちゃんは、持ってた紙袋を広げて見せた。プレゼントが入ってる。
「あ、ありがとう。おじいちゃん、今、どうしてるの?」
「俺は心配ない。元気でやってる」
「・・・・・・」
美咲は聞きたいことが、次から次へと湧いてきて、言葉のまとまりがつかない。
「いいか。礼子にバレないように、たかしに渡してな。俺は急ぐからこれで」
おじいちゃんは振り向いて、雨の中、駆け足で離れた。
「ちょっと待って!」
美咲は追いついて、引き留めた。
「連絡先は?電話番号は?ラインでも、メールでも、なんでもいいけど」
美咲はスマホを取り出して、聞いた。
「それはまずい。礼子にバレたら、まずい」
「なに言ってんの。スマホ出して。お願いだから!」
美咲は声を荒げて、懇願した。
おじいちゃんは仕方なく、スマホを出した。
「くれぐれも礼子には内緒だぞ」
「わかった。今度、ゆっくり話を聞かせてね。連絡するからね」
美咲は、駆け足で去っていくおじいちゃんの背中に声を掛けた。
* * *
礼子と美咲とたかし、三人でいつもの様に夕飯を囲んでいる時だった。
「オッカー、オネエが誕生日プレゼントをくれた」
たかしがおもむろに口を開いた。
「バカッ・・・」
思わず美咲も漏らした。
当然、このことはお母さんには内緒だからね。と何度も念を押す様にたかしには言い聞かせていたつもりだったからだ。
でもまあ、しょうがないか。と美咲は瞬時に諦めた。たかしには、プレゼントを貰ったことがなんで内緒なのか?なんて、理解出来るはずもない。それよりも、お母さんに隠し事してバレたら相当怒られる。その方が、たかしにとってはリスクが大きい。
「へえ。で、たかしはお姉ちゃんに、ちゃんと、ありがとうってお礼を言ったの?」
礼子は何食わぬ顔でたかしに聞いた。
「え、俺、オネエに言ったよね」
たかしはたかしで、その場しのぎをしてきた。おかあさんに怒られないように取り繕っているのは見え見えだった。本当は、美咲からプレゼントを渡された時、たかしはキョトンとした顔をして目を丸くしていただけだった。ありがとう。のあの字も口に出していない。多分、お礼を言うなんて発想は湧かなかったはずだ。驚いていただけだった。気持ちはわかる。美咲だって、気色の悪い思いで渡したのは間違いなかった。
美咲もたかしに合わせて言った。
「うん、ちゃんと言ったよ。ありがとうって。たかしも成長してきたんじゃない」
「ほらね。ちゃんと言ったんだよ。な、オネエ」
調子に乗せちゃったか。と美咲は思った。
「でも、よくわかったな。俺が遊戯神カードのセットボックスを欲しがっていたの。オネエも気が利くぜ。見直したぞ。ありがとな。ゴチっ」
たかしはそう言って、足早に食卓を離れた。
そうなんだ。おじいちゃんはたかしの欲しいものを調べて買ってきてたんだ。でも、どうやって調べたのかしら。そういえば、私のプレゼントも『ドリトル先生航海記』だったけど、昔の訳本じゃなく、福岡伸一先生が訳した最新版だった。
YouTubeで福岡伸一先生の分子生物学の講演を見て興味を持った。福岡伸一先生の本を買ってみよう思い、本屋さんで立ち読みしたけど、難しくって諦めた。大学教授の書いた本はまだまだ壁が高いと感じた。でも、ドリトル先生だったら、私にも理解できる。偶然にも福岡伸一先生の訳したモノとは。と美咲は思っていた。
その時、美咲の胸の奥に、小さな考えが芽を出しかけた。
――今言えばいいのかもしれない。
おじいちゃんが来たの。プレゼントを持って。
そう、正直に言えば、お母さんだって――
前を見ると、礼子が箸を置き、黙って美咲を見ていた。
――無理だ。
そう思った瞬間に、その考えは、音もなく引っ込んだ。
美咲は、礼子の、『沈黙の視線』に耐えられなくなった。
「なによ」
「誰からもらったの?」
「なにが?」
「ダメよ。しらばっくれても。会ったのね」
「誰と?」
「あの人よ」
「なに言ってるかわかんない。私がたかしに、プレゼントしちゃいけないの」
美咲は席を立った。この異常な反応を示した時の母親は歯止めが効かない。おじいちゃんの話題になるといつもそうだ。頭ごなしにすべてを否定してくる。いつからか、美咲の方から、おじいちゃんの話題を避けるようになっていた。
* * *
美咲はおじいちゃんと連絡をとりあい、今、住んでいるというアパートに向かった。
築50年は経つ木造モルタルの古びたアパートだった。おばあちゃんは美咲が生まれるずっと前に病気で死んだと聞いていた。そのまま一人暮らしなのか、それとも、再婚かなにかで同居している人がいるのか。それだったらそれで一安心なのだけど。とモヤモヤした思いを抱えたまま、美咲はアパートを訪れた。
おじいちゃんは一人暮らしだった。
64歳になっていたおじいちゃんは、タクシーの運転手をして生計を立てていた。どう見ても裕福な暮らしぶりではないので、少ないお給料でやり繰りしているのは間違いない。孫とはいえ、10年ぶりに会って、ズケズケ上がり込んで、中学生の身でどこまで聞いていいか、わからない。いろいろ聞きたいけど、これも聞いていいのかどうかと、逡巡しながら口に出る言葉は、歯切れが悪く、ぎこちなかった。
特に聞きたかったのは、お母さんと、どうして喧嘩しちゃったの?だった。だが、地雷を踏んでしまいそうな気がして、言えずに、美咲は戸惑っていた。
「美咲。礼子を責めないでおくれ。悪いのはおじいちゃんなんだ」
おじいちゃんの方から、切り出した。
「お母さんと、なにがあったの?」
「礼子からは何も聞いてないのか」
「なにも・・・」
美咲はそう言って、首を振った。
「そっか。礼子から聞いた方がいい。礼子が言うまで、俺も何もしゃべってはいかんと思うから。ゴメンな」
美咲はそれ以上聞くことが出来なかった。
「ところで、みんな元気か?」
「誰?」
「美咲のお友達さ。近所の仲のいい子供たち。なんと言ったっけ・・・」
「詩織と豪太と守のこと」
「そうそう。詩織ちゃん、豪太君、守君だ。よく一緒に遊んだな。守君は一番泣き虫だったからな。ひやひやしながら相手してたんだ。あの子はちゃんとやってるか?」
「守は今、野球部のエースで4番。チームの大黒柱。豪太は守とバッテリーを組むキャッチャー。こっちも5番を打つ強打者。詩織と私は、その野球部を支える、敏腕マネージャーなのよ」
「なに?そんなことになってるのか。よく聞かせてくれ」
おじいちゃんは食い入るように私達4人の話に耳を傾けた。あれこれと質問されて、美咲は答えていった。おじいちゃんは、うんうん。と頷いては、懐かしさを噛み締めるような表情と驚きを隠せない様な仕草を繰り返し、満足気な笑みを湛えた。と同時に潤んでいた瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「美咲、よくやった。よくやった」
おじいちゃんは、手で涙を拭きながら、よくやった。を繰り返した。
「やめてよ。私は何もしてないよ。思ったことを言ってたぐらいで」
「それでいい。それでいいんだ。だから、守君も豪太君も詩織ちゃんも、各々の花を咲かせていけてるんだ。そうかそうか・・・」
やだ、こっちも目が潤んできた。と美咲は思った。普段、滅多に人前で泣かないのに。懐かしい気持ちが止めどなく湧き上がり、涙腺から涙を押し上げて、瞳から溢れさせた。
おじいちゃんと二人して、泣きじゃくった。
ティッシュをボンボン抜いて、鼻をかみながら、二人で泣いていたら、そのうち可笑しくなってきて、仕舞には二人して大笑いしていた。
「さて、そろそろ仕事に行く時間だ。今日は夜勤なんだ」
そう言って、おじいちゃんは立ち上がった。
美咲が玄関を出て、ドアを閉めようとすると、おじいちゃんが言った。
「美咲。今日はありがとう。また来てくれるか?」
「おじいちゃんさえ、よければ」
「くれぐれも礼子には内緒だぞ」
「うん。わかってる。お母さんに言うのは、ずっとあとになりそう」
「じゃあ、体に気をつけてな」
「おじいちゃんもね」
そう言って、玄関を閉め、美咲は歩き出した。
すると、後ろでドサっという大きな音がした。美咲の心臓が一瞬跳ね上がった。
振り返って玄関を開けると、おじいちゃんが倒れていた。
* * *
急性胆のう炎で緊急手術。胆のうに詰まった胆石を取り除く手術だ。
胆石が詰まると、相当な激痛を伴うらしい。
おじいちゃんは、美咲と話をしている間、ずっと我慢していたことになる。そんな素振りは一切見せず、美咲との時間を大切にしてくれた。だが、痛みが限界に達した。
病院で先生から説明を受けた。手術をすれば、命に別状はないとのことだった。ほっとくと危ないらしい。
ベットの上で、のたうち回るような痛みに耐えながら、おじいちゃんは美咲に言った。
「み、美咲。今日はもう帰りなさい」
「ダメよ。これから手術なんだから」
「だ、だからだ。先生も言ってたじゃないか。手術をすれば問題ないと。遅くなると礼子に心配かけることになる。それは、お、おじいちゃんが耐えられんよ」
「でも、どうしよう・・・」
美咲は、ハンカチで目を抑えた。
「礼子にはくれぐれも内緒でな」
ハンカチを目に当てながら、美咲はコクンと頷いた。
* * *
次の日、雨の降りしきる中、美咲は病院に向かった。
おじいちゃんの手術は無事、成功した。
但し、急性胆のう炎が重症だったらしく、開腹手術になりました。と説明を受けた。
通常では、腹腔鏡手術といって、お腹に三か所の穴をあけ、カメラと細い器具を入れて行う手術をするらしい。術後の痛みや出血が少なく回復が早いとのことだ。
おじいちゃんの場合は、胆管損傷の危険が高いため、開腹手術の方が安全であると判断されたようだった。
術後のおじいちゃんは、声を出すのも辛いらしく、まともな会話は出来なかった。
美咲は、おじいちゃんの着替え、財布、スマホなど、身の回りの必要なものをアパートに取りにいった。その際に、タンスの中の貯金通帳を発見した。おじいちゃんの貯金がいくらあるのか?なんて、普通だったら覗き見しない。そんなのは、はしたない行為だと自尊心が許さない。でも、今は気になっていることがある。
入院費だ。
おじいちゃんの経済状況を何も把握してないので、入院費があるのかどうか?それが気になって、通帳の中を確認した。
病院の総合受付に行って、大体の入院費をたずねてみた。足りなかった。おじいちゃんの貯金では、少し足りない。入院期間が長引けば長引くほど、それだけ費用が増す。
美咲は、どうしたらいいかわからず、思い詰めたまま、雨の中、帰宅した。
*
食事の支度をしている礼子の背中に向かって、美咲は遠慮がちに声を掛けた。
「あのさ、私のお年玉貯金って、いくらになってるのかな?」
美咲とたかしは、毎年のお年玉を礼子に預け管理して貰っている。自分がどうしても必要なものを買いたいときは、礼子に相談して、その貯金を使う。
美咲はこれまで、お年玉貯金を使ったことがないので、いくらあるのかを、まずは聞いてみた。
礼子がボソッと言った。
「何を買いたいの?」
「いや、いくらになってるのかな。と思っただけだけど」
「あんたが欲しいものを、ちゃんと言いなさい」
礼子は振り返って、静かなトーンと凛とした態度で聞いてきた。
まいったなぁ。と美咲は思った。
母親のこのパターンは正論を振りかざしてくる。あなたが今欲しいもの、それが本当に必要で、役に立つものなら、金額に関係なく買ってあげます。お年玉貯金だけで足りなくても、本当に必要なものなら買います。だから、なにが買いたいのか、はっきり言いなさい。という含意がある。
めんどくさっ。いくらあるのか知りたいだけなのに。もう! と美咲は歯噛みした。
「あんた。変な人にタカられてないだろうね」
礼子はフライパンを振りながら、言った。
「はああ?」
美咲はカチンときた。
変な人とは、明らかにおじいちゃんのことだ。察しのいい母親のことだ。プレゼントの件いらい、おじいちゃんと美咲が接触しているのではないか。と疑いを持っているのは明白だ。タカられているなんて、冗談じゃない。現に、おじいちゃんは今、まともに会話も出来ないほどだ。どこまでねじ曲がっているの、この人は。と美咲は逆に腹が立ってきた。
「なに言っての!ゲスの勘繰りしないでよ」
「ゲスだろうが何だろうが、変な人があんたのまわりをうろつくようなら、私は警察に相談するよ。そう言って、離れなさい」
「なんの話。お金を聞いているだけじゃない」
「だから言ってるのよ。大変なことになる前に」
「私のお金でしょ。何に使おうが私の自由じゃない」
「中学生が、生意気なことを言うんじゃない」
礼子は、持っていたオタマを美咲に突き出して、言い張った。
「もういい!」
美咲は、走って二階の部屋に駆け込んだ。
* * *
梅雨が明けると同時に夏休みに入った。
川北中野球部の練習は、間近に迫った大会に向けて、一段と激しくなった。
練習が終わり、水飲み場でジャグを洗っている詩織に、豪太が聞いてきた。
「詩織。美咲のヤツどうなってんだ?」
「ダメ。全然連絡帰ってこない」
詩織は、ジャグを洗う手に力を込めて苛立ちを隠せない。
「昨日も休んで、今日もなんて。美咲らしくないぞ」
「お陰で、これ全部私が洗わなくちゃいけないのよ。豪ちゃんも手伝って」
「ああ、わかったわかった」
と、豪太はスポンジを手に取った。
*
美咲は、大人っぽく見える洋服を買いにショッピングモールに来ていた。
店員さんに流行りのデザインや素材を聞いて、いろいろ迷った挙句、ネイビーのトップスを選んで、試着してみた。
「うん。よくお似合いですよ。デコルテを強調すると、大人っぽくなりますね」
「はい。十八歳になったので、これぐらいの服にチャレンジしてみたくて」
と、美咲は鏡の前でくるっと、回って、店員さんの顔を伺った。
鏡越しの店員さんの顔が少しでも、『くもった表情』をしてないかを確認した。
大丈夫。いける。
これだったら、十八で押し切れる。と安堵した。
「じゃあ、これください」
と、美咲は両肩をつまんで引っ張った。
トップスの胸元には、モンシロチョウのワンポイントがデザインされていた。
第6話 終
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