第5話 ネバーギブアップ
「先生、自衛隊って軍隊じゃないんですか?」
その一言で、この日の社会の授業は大きな混乱を向かえることになった。
「ん? お、高木。さすがだな。いい質問だ」
吉田は翔太を指差して、一見、にこやかな顔を向けた。が、内心は「また、厄介なことを聞いてきやがって」と、苦い思いに駆られた。
質問したのは、高木翔太。二学期になって転校してきたばかりの生徒だ。この子はすこぶる頭がよくていつも感心してしまう。今日はまた、こんなことにまで興味を持っているのか。と、正直驚きを隠せなかった。そんな、吉田信夫は、現在31歳、独身である。
*
先日もそうだった。国語のテストであまりにも見事な回答を書いてきたので、100点ではなく120点とつけて返した。すると翔太は、放課後、職員室へやってきた。
「先生、これ・・・」
翔太が国語の答案用紙を差し出したので、受け取った。
「おう、これか。お前の答えがあんまり素晴らしいから、先生感動して、120点もつけちゃったよ。おまけだぞ」
「こういうの困るんですけど」
「どうした?」
「僕、100点とるつもりで頑張ったんですよ。120点の実力は出してないので・・・これだと、自分を甘やかす事になると思うんですよね」
きた。と吉田は思った。抜群の学力を発揮している翔太だが、それだけではなかった。この子は、単に頭がいいだけでは片づけられない、どこか大人びた行動をとる。
それはあたかも、吉田に対してなにかを挑んでいるように感じた。だがそれは、決して反抗的な態度ではなく、正々堂々としたものだった。ゆえに、子供らしくない、どこか大人びた態度だと感じざるを得なかった。
「お前ってさ、たまにそういう勝負を挑んでくるよね」
顎をさすりながら言った。
「疲れますか?」
素っ気なく聞いてきやがった。
「なんのなんの。これぐらい。60分一本勝負に比べれば・・・」
と、立ち上がり肩と首を回して、体をほぐした。疲れますか?と聞かれて、はい、そうです。と答えるほど落ちぶれちゃいない。学生プロレスで鍛えた体をなめて貰っちゃ困る。今だって、トレーニングは毎日欠かさずこなしている。勝負を挑まれて、ビビるようなレスラーにはならない。と誓った。いつ何時、誰の挑戦でも受ける。が、私のモットーだ。
「で、お前は先生のつけた120点に不満がある。と言うことだな。よ~し、わかった」
吉田は、120点に二重線を引き、その上に100点と大きく書いた。
「これでいいだろう。100点だ。よく頑張りました」
表彰状を渡すように、両手で差し出した。
「有難う御座います」
翔太は答案用紙を両手で受け取り、子供らしい満足気な顔をしていた。
なるほど。こういうやり取りをしたかったのか。水増しした点数を黙って返されるより、はっきり口に出して褒められたかった。と言うことか。ちゃんと子供らしいところもあるじゃないか。いや、それほど今回のテストは頑張った。ということなんだろう。うん、よく頑張った。
翔太は振り返って帰ろうとしたが、立ち止まった。
「あ、もっと不味いことになったな。これ」
「どうした?」
「僕のお母さん、疑り深い性格なんで。これってぱっと見、点数落ちてるじゃないですか。120点が消されて、100点になったわけですから・・・僕が何か不正をしてそれがバレたとか・・・先生のやり方に問題があるとか・・・お母さんが、学校とか教育委員会に乗り込んで騒ぎ出さなきゃいいんですけど・・・」
吉田は少し慌てた。
「おいおい、なんだそれ。でも、あのお母さん、そんな風には見えんがな・・・」
「お父さんが死んでから、たまに様子がおかしいんです」
なるほど、そうか。二学期に転校してきたばかりだから、まだちゃんと把握出来ていないな。と吉田は思った。この子のお父さんは確か、一年前に死んだと聞かされた。お母さんもそのショックから完全に立ち直っておらず、まだまだ精神的に不安定な時があるのかもしれない。その辺も考慮に入れてしっかりと家庭を見守っていかねばならんな。
「困ったなあ」と、翔太が一言。
その姿は、テストで不正をしたと疑われるかも。という自分を擁護したものではなかった。あくまでも、お母さんに余計な心配を掛けたくない。という、健全な心遣いに見えた。
吉田はしばらく考え、
「全部書き直すか?」
と、提案した。
「え?テストを書き直す。いいんですか、そんなことして?」
翔太は驚いた顔でこちらを見た。
「よかないよ。でも、お母さんのことが心配なんだろ。そんなの持って帰ったら、変な誤解が生じるかもしれん。一からやり直して、100点ってだけ書いてあるモノにすれば、すっきりするだろ。お母さんに余計な心配かけることはない」
「でも、先生。それってバレたら大変なことになりませんか?聞いたことありませんよ。テストを書き直すなんて。明るみなったら先生のクビが飛ぶんじゃないですか?」
子供にこんな心配させて、なんなんだよ俺は、
「確かにそうかもな。だけど、これは俺が余計なことをしたからであってな。本来、お前の言う通り、先生がきちんと点数をつけていればだなあ」
と、少し自分に腹が立ってきて、熱くなった。
「わかりました。わかりました。先生の気持ちは十分わかりました。有難う御座います。お母さんには、僕の方で何とか誤魔化しときますから」
「大丈夫か?誤魔化せそうか?」
翔太はしばらく考え、やがて、キッと横一文字に口を結んで言った。
「はい。やってみましょう」
「そうか。じゃあ・・・」
吉田はまず椅子に座り、翔太の目線に自分の目線を合わせてから、深く頭を下げた。
「宜しく頼む」
「分かりました・・・先生、これは貸し一(かしいち)って事で」
「は?」
と、頭を上げた。
「貸し一(かしいち)です・・・さようなら」
と、今度は翔太が丁寧にお辞儀をした。
「えっ?」
戸惑っていると、翔太はそそくさと職員室を出て行ってしまった。
「お、おい、貸し一(かしいち)ってなんだよ・・・高木・・・」
吉田の声はうわずっていた。
翔太は職員室をあとにしながら、口元をわずかに緩ませた。
* * *
今日の授業は『平和主義』についてだ。ズバリ、憲法9条のことである。こんなもの小学生に教えるこっちの身にもなってくれよ。と、文科省を恨む吉田であった。翔太に、いい質問だ。と言ったはいいものの、自衛隊が軍隊かどうかなんて、答えは出てないんだよ。大人だって手をこまねいている問題なのに、まいったなあ。
「高木。さすがだな。いい質問だ。自衛隊はな、軍隊ではないんだよ。あくまでも自衛のための、相手の国が攻めてきたときに我々国民を守るための、防衛する組織なんだぞ。わかったか?」
「う~ん・・・それを軍隊って言うんじゃないのかな・・・わかんないな」
翔太も混乱しているみたいだ。授業で教えておいて、混乱させてはならんよな。
黒板には、憲法9条の条文が貼りだされてある。
日本国憲法 第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「うん。ちょっと難しいよな。じゃ、もう一度説明するぞ。憲法9条には、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。と書いてあるな。つまり、日本という国は、戦争を放棄しているから、二度と戦争をしないためにだ、軍隊を持たない。と決めたんだ。そうやって憲法に書いて約束したんだな。だから、日本に軍隊はないんだぞ」
これで納得してくれ。っと、吉田は願った。
「昨日、自衛隊が訓練しているニュースをたまたま見たんですが、戦車があって、ミサイルがあって、ライフル銃を持っていて、迷彩服を着てました。僕には軍隊に見えるんですけど・・・あれは、自衛隊ではないのかな?」
と、翔太はさらに混乱する姿を見せた。
多分、それは富士総合火力演習のことだな。毎年9月ぐらいに陸自がやるんだよ。学生時代に俺も、ミリオタの友達に無理やり連れて行かされて、見せられたもんな。砲弾ガンガンぶっ放して、派手な演習を見せてくれるんだ。生で見ると迫力あるんだよな。腹にズ~ンっと響いたもんな。あれ、見ちゃったかあ。ありゃ軍隊だよなあ。どう言い訳しようかな・・・。
「はい。私もそのニュース見ました。あれは自衛隊のニュースでした」
ひなのが手を挙げて、きっぱりと言い張った。
川田、お前はいい。参加するんじゃない。頼む。
「やっぱり。あれ自衛隊なんだ。軍隊だよね。どう見ても」
翔太がひなのに聞いた。
「う~ん・・・そう言われれば、軍隊みたいだったわ。先生、あれは軍隊でした」
ひなのがまた、きっぱりと言い切った。
だから、ややこしくするなよ。
「よし、こうしよう。少し難しいかもしれないが、外国の軍隊と日本の自衛隊の違いについて、勉強してみようか。日本の自衛隊は外国の軍隊と違って、防衛に徹しているんだ。相手が攻めてきたときにはじめて、自衛のために武力を使うことが出来る。決してこちらから攻めることはしない。これを専守防衛と言って、平和主義を掲げてる日本のぐんた・・・いや、自衛隊の特徴なんだぞ」
やべえ、やべえ。軍隊って言いそうになっちゃったよ。
あずさが珍しく手を挙げて立ち上がった。
「そ、そ、そんな・・・」
「ん? どうした、松田。なんだ?なんだ・・・」
吉田は驚いた。あずさが発言しようしたのは初めてだった。
あずさが、隣に座っているアンナの服を引っ張った。アンナが代わりに答えた。
「そんなこと言ってたら・・・日本は外国に攻められる。って言ってます。あずちゃん、どうしたの?・・・うん、うん・・・」
あずさが、アンナに耳打ちをした。え?そんなこと言えない、私。と、アンナが嫌がった。が、あずさは、ふんふん、とアンナの体をつついて促した。
「昔、清国はイギリスに侵略されたんじゃ。日本もそうならんように、ちゃんとした軍隊を持たにゃならんのよ。ええから、やっちゃれ。って言ってますけど・・・」
アンナは恥ずかしくて、顔を押さえた。
吉田はピンときた。
「そうか、松田。おじいちゃんがそう言ってたんだな。昔の人はな、そういう意見を持ってる人もいるよな」
あずさのおじいちゃんに家庭訪問であった時、山口の方言で話していたのを思い出した。それにしても、過激な思想に染まっちゃってるぞ。大丈夫かあ。
「先生。先ほどの『専守防衛』って、どういうことですか?」
翔太が聞いてきた。
吉田は、黒板に専守防衛と書いて説明した。
「専ら、守る。と書いて専守だ。防衛に徹している。と言うことだ。決してこちらから、攻めることはしない。相手が攻撃してきて、はじめてこちらも反撃出来る。というのが、専守防衛だ。そこが、外国の軍隊と違って、自衛隊の偉いところなんだぞ」
「ああ、なるほど・・・」
翔太もわかってくれたみたいだ。もういいだろう。この辺で勘弁してくれよ。
「ちゃんと理解したいので、具体的にやってみてもいいですか?」
「なにを?」
「専守防衛を」
と、翔太が言い出した。何をやる気なんだ、この子は。「具体的にって、どうやるんだ?」と、聞いた。
「ちょっとした実験です」
翔太が教室の前に出てきた。
「君と君と君。ちょっと前に出てきてくれるかな」
ひなのとアンナとあずさが呼ばれた。翔太は女子三人を並ばせて、こう言った。
「彼女達は日本国民です。自衛隊が守ってくれる存在です。次に、君、ちょっと前に出てきてくれるかな」
たかしが呼ばれた。翔太はたかしを女子三人の前に立たせた。
「彼を自衛隊員とします。武器を持って、専守防衛で女子達を守ってくれます。僕が悪いヤツを演じます。外国の軍人です。武器を持って日本に侵略しに来ました」
――手を上げろ!
と大声を出して、翔太は指でピストルをつくって向けた。本気で撃ちぬくような鋭い眼だ。
「きゃあ」
と言って、あずさはひなの後ろに隠れた。アンナはたかしの後ろに隠れた。
「なんだよ」と、たかしは顔をしかめた。
「ごめんごめん。これ実験なんだ。ちょっと協力してくれるかな。僕が悪いヤツを演じるから、君は自衛隊員として、彼女たちを守って、僕をやっつけてくれればいいんだけど」
「そういうことか」
「君一人じゃなんだから。もう一人増やそう。君、いいかな」
啓太も呼ばれて、たかしと並んだ。
「この二人が自衛隊員です。二人いれば僕なんか、簡単にやっつけて、彼女たちを守ることが出来る。と思うんだ。あくまでも、お芝居なので、本気にならないで欲しいんだけど。僕、暴力は苦手なんだ」
翔太は啓太とたかしに手を合わせて、お願いした。
「ああ、いいぜ」
と、二人はぶっきらぼうに答えた。
翔太は距離を取って、教室の端に立った。
「先生。質問しながら実験をやりたいと思います。いいですか?」
「ああ、いいぞ」
と、吉田も答えたが、なにが始まるのか。と、不思議な思いだった。クラスのみんなも興味津々で見ている。
「手を上げろ!」
今度は翔太は両手でそれぞれピストルをつくって、向けた。啓太とたかしは構えた。
「先生、この状態で、自衛隊員は僕のことをやっつけられますか?僕はピストルを向けただけで、まだ、撃っていません」
「いや、まだだ」
「じゃあ、このまま近づきます」
翔太は、一歩、二歩と啓太とたかしに近づいた。指ピストルを向けたままだ。
「先生、こんなに近づいても、自衛隊員はまだ、僕のことをやっつけることは出来ませんか?」
「まだだ」
翔太は、啓太とたかしの額にピタッと銃口を付けた。
「先生、この状態でも自衛隊員は、反撃出来ませんか?」
「ん?」
吉田は返事に困った。
――バン!
と、翔太が指ピストルを撃った。啓太とたかしは、ビクッとした。
「なにすんだよ。お前!」
「調子に乗るんじゃねーぞ」
二人は怒鳴った。
「ごめん、ごめん。だから、これは実験で、お芝居だから怒らないで欲しいんだ。専守防衛を理解するためなんだよ。悪かったよ」
翔太は、手を合わせて謝った。
「ビックリしただろうが」
啓太とたかしは、なんとか怒りを抑えた。
翔太はあらためて、吉田に向き合って、聞いた。
「先生、自衛隊員、死んじゃいましたけど・・・どうやって国民を守るんでしょうか?」
吉田は、固まったまま、しばらく考えた。
なんだこれ。 おかしなことが起こったぞ。敵が侵略してきたんだから、制圧して、国民を守るのが自衛隊の役目だ。でも、額面通りに、敵が撃ってくるのを待っていたら、確かに、そういうこともあり得るか。
おお、これは、どう教えればいいんだ? 迷うな。
ヤバい。こんないい加減な授業やってることがバレたら、教頭先生に怒られるぞ。何とかしろ、何とかしろ・・・。
自衛隊も、危ないと思ったら反撃してもいいはずだろ。この俺だって、そうしたぞ。学生時代に酔っ払いに絡まれて・・・あの時はやりすぎて、怪我させてしまったけど・・・確か、正当防衛だよ。って、言われて・・・あ、そうか。正当防衛だ。その手があった。
「ちょっと、ズルいじゃない!こっちが攻撃できないのを知ってて、撃ったでしょ」
ひなのがひどく興奮している。
「落ち着いてくれ。これは専守防衛が何なのか。を知るためにやったんだ。僕だってわからないから、実験したんじゃないか」
翔太は必死でなだめている。
「はいはいはい。静かに」
吉田は手を叩いて注目を集めた。
「世の中には、正当防衛というのがあります。それを説明してなかったな。まず、大前提として、何があっても暴力は許されない。暴力を振るうと、罪になります。ただし、それが許される場合があります。それが、正当防衛です」
「正当防衛は聞いたことがあります」
翔太は頷いた。
「何ですか、それ?」
ひなのが聞いてきた。
「うん。力で反撃することが許される、唯一のケースが、正当防衛だ。身の危険を感じたときは、暴力を使ってでも、相手をやっつけないと、自分や周りの人が殺されてしまうかもしれないからな。それは罪にならないんだ」
「そっか、自衛隊も正当防衛を使えばいいのか・・・え、でも?」
翔太がまた、首を傾げた。
「自衛隊だけじゃないぞ。一般人でも、そういうときは正当防衛が許される。現に、先生が大学生だった時、酔っ払いに襲われて、プロレス技でやっつけたら、正当防衛ということで許された」
「へえ~」と、ひなのが感心して、尊敬の眼差しを向けてくれた。
「そうなんだよ。先生は許された」
「先生、すご~い」
「先生、つよ~い」
パチパチパチパチっと、今度は、クラスのみんなが拍手をしながら、喜んでくれた。
「最後は先生が勝ったんだ」
と、拳を高く突き上げた。
「先生、カッコいい~」
「ありがとう。ありがとう」
やはり、観客アピールして受けると、気持ちがいいな。
「まあ、まあ・・・ただし、何でもかんでも、正当防衛で暴力が肯定されるわけではないぞ。法律で厳密に決まっているからな」
「法律とか、よくわかりませ~ん」
そりゃ、子供には難しいよな。
「よし。じゃあ、もう一度実験しよう。今度は先生が犯人役だ。里中と岡田にピストルを向けて近づくから、もうダメだ。撃たれる。って思ったら、ダブルドロップキックで先生を倒せ。いつもの通りだ」
「え、いいの?」
「先生、ここ教室だぜ」
と、二人が聞いてきた。
「今日は許す。特別だ」
そうか。まさか、こんな日がやってくるとは。
* * *
4月。それは新学期が始まってすぐのことだった。吉田は体育館の用具室の一角でトレーニングをしていた。スクワット、腕立て、腹筋をこなしたあと、マットの上で首ブリッジをしていた。腕を組み、首だけでブリッジをして、その首をクイクイっとひねった。
「先生。なにやってんだ?」
目を開けると、啓太とたかしが、しゃがんで覗き込むようにして見ていた。
「トレーニングだ」
「なんの?」
吉田は腕組みを解き、両手で床を押し上げた。
「よっ。これをブリッジという」
「俺も出来るぞ」
たかしが真似をして、きれいにブリッジをした。
「俺も・・・あれ?」
啓太は、体が堅くて、難しそうだった。
吉田は起き上がった。
「ははは・・・トレーニングすれば出来るようになるぞ」
「でも、これやって何になるんだ?」
たかしがブリッジしたまま、聞いてきた。
「いいか、ブリッジはプロレスの基礎だ。ブリッジを極めるとジャーマン・スープレックス・ホールドという技が出来るようになる。大技だぞ」
「どんな技?」
「ジャーマンは少し危険だから、ブレンバスターを教えてやろう」
と言って、吉田は高跳び用の分厚いマットの上に二人を呼んだ。啓太の首に腕をまわして、ブレンバスターをかけた。啓太は吉田に持ち上げられ、宙高く舞い上がって、静かにマットの上に、ボソッと落ちた。
「おもしれー。もう一回やって」
啓太はすぐに起き上がった。
「今度は俺!」
たかしも、ブレンバスターで高く持ち上げ、静かにゆっくりとマットに落とした。
「ビックリした~。おもしれー」
と、二人は大喜びだった。それが、この二人とのプロレス修行の始まりだった。
それから用具室では時折、吉田と啓太とたかしの三人が並んで、スクワット、腕立て、腹筋をする姿があった。スクワットの時には掛け声があった。
「猪木、ボンバイエ。猪木、ボンバイエ」
と、言いながらすると、気合が入って続く。と、啓太とたかしは習った。
「ボンバイエ。ってどういう意味だ?」
「やっちまえ。とか、頑張れ。って意味だ。猪木のテーマ曲で連呼される言葉だからな。忘れるんじゃないぞ。トレーニングがつらいときは、これを言って乗り越えろ」
「いいか。先生が『ファイト』と声を掛けたら、戦闘開始の合図だ。この声が掛るまで、絶対に手を出すな。これが俺たちのルールだ。ルールは守れよ。わかったか。それじゃあ、ダブルドロップキックでかかってこい。行くぞ――ファイト!」
「だあ!」
啓太とたかしは同時に飛び上がって、吉田にダブルドロップキックをかました。
吉田は微動だにせず、二人を跳ね返した。
「どうした、どうした。それで終わりかあ」
「まだまだ」
「オッシャー」
二人はまたしても、勢いよくダブルドロップキックで襲い掛かった。
「今日は、お前らに言っておくことがある。正座しろ」
啓太とたかしはマットの上にサッと正座した。
「いいか。プロレスをやるということは男を磨くことだ。イジメなんかする奴は男じゃないぞ。プロレス技をそんなことに使うなよ。教室でやってもいかんぞ。いいな」
「はい!」
* * *
教室でプロレスをやることは禁止している。だけど、これは例外だ。子供たちの勉強のためだ。何よりも、変な授業して、教頭先生に怒られたら、シャレにならん。
「先生、岡田君と里中君は自衛隊の役のままですか?」
と、翔太が聞いてきた。
「いや、今から実験するのは正当防衛のことだ。一般人の役でいいだろう。俺が犯人役だ」
そう言うと、吉田はさっと、クラスのみんなに向き合った。
「いいか、みんな。自衛隊も専守防衛も一回忘れろ」
先ほどの拍手喝采で、ある感覚が蘇ってきていた。プロレスラーは見せる試合をする。てヤツだ。よし、もういっちょ、行くか。
「これが正当防衛だ。っていうヤツを見せてやるぞ!」
と、またもや拳を突き上げた。完全に調子に乗っていた。
わあああ。パチパチパチっと、拍手が起こった。
そっか、そっか。専守防衛の前に、正当防衛を教えないといけなかったんだな。正当防衛は法律で決まっている。だから俺は罪にならなかったんだ。
ん? だけど、専守防衛も、法律じゃないのかな?
そういえば、ミリオタが、「専守防衛は法律ではないんだよ」って、言ってたような・・・確か、自主規制みたいなものだと言ってたような・・・だったらなおさら、法律になってる正当防衛の方が上に決まってるな・・・ま、いっか。
「手を上げろ!おとなしくしないと撃つぞ」
吉田が両手で指ピストルをつくって、啓太とたかしに向けた。二人はファイティングポーズをとって構えた。ゆっくりと歩いて、じり、じりっと、近づいて行った。プロレスは見せるスポーツだからな。緊張感の演出だ。そろそろだぞ。もう、二人の目の前までやってきた。
「どうした。ドロップキックは?」
「先生、合図は?」
「は?」
「戦闘開始の合図」
ああ、そうか。律義な奴らだ。そんなルールは、今はどうでもいいのに。ええい、しょうがない。最初からだ。
「手を上げろ!おとなしくしないと撃つぞ。――ファイト!」
啓太とたかしは、待ってましたとばかりに、ダブルドロップキックを放った。
――だああ!
「うわあああ、やられたあ」と、吉田は崩れ落ちるように倒れた。
シーン。と、教室は静まり返っている。あれ?受けてないな。芝居がクサ過ぎたか。
「とまあ、今のが正当防衛だ。二人はよくやった。見事に敵をやっつけることが出来た。こうやって平和が守られるってことだな」
吉田は、ボソボソと言いながら、立ち上がった。
「先生、なんか変です」
翔太が浮かない顔している。
「なにが」
「今の二つの実験でわかったことは、一般人は命を守ることが出来た。だけど、自衛隊は命を守ることが出来なかった。ということになります」
「はあ?正当防衛で守れるだろう」
「僕の質問は、専守防衛って何ですか?って、ことですけど」
「自衛隊も正当防衛で守るんだよ」
「自衛隊のことは忘れろ。って言ったじゃないですか」
「うっ・・・そんなこと言ったか?俺」
啓太とたかしに、こっそり聞いた。
「はい」
「言いました」
翔太が諭すように言ってきた。
「いいですか先生。正当防衛はよくわかりました。敵が撃つかもしれない。って、危険を感じたら、一般人でも反撃出来るんですよね。それはそれで、置いといて・・・」
「そうよ。そうよ」
「先生、話がズレてる」
「なんか誤魔化してる」
クラスの物分かりのいい子たちが、口を揃えて言いだした。
翔太は、まあまあまあ。と彼らを制した。
「対して、自衛隊の専守防衛は、敵が撃ってきて初めて反撃できる。って、言ったじゃないですか。逆を言えば、一発でも撃ってこないと反撃できない。ということになります。でも、その一発で撃たれて死んじゃったら、さっきの実験みたいに国民を守れません。いくら百人自衛隊がいても、横に百人並べて、せーの。で一斉に撃たれたら、みんな死んじゃいますよ。変でしょ。だから、専守防衛って、いったい何なんですか?って聞いているんですけど」
吉田は絶句した。
「先生、私もわかりません」
「ちゃんと教えてください」
「高木君の言う通りだと思いま~す」
クラスのみんなが次々と声を発した。
まずい。まずいぞ。なんか墓穴掘ってる気がする。どうする。どうする。
高木のヤツ、今日の勝負の挑み方は、半端じゃないな。そうか。公衆の面前で俺をやり込めてやろうという魂胆か。だとしたら、相当計算してきたに違いない。もしかしたら、ヤツの罠にまんまとハマったか。クソ~。あり得ない例え話まで出しやがって・・・。
「高木。あり得ない事言っちゃダメだ」
「はい?」
「自衛隊が、横に一列に並んで・・・なんて、あり得ないだろ。いくら、敵が撃つまで手が出せないからって・・・じゃあ、敵もそれを知ってて、堂々と日本に乗り込んできて、『はい、自衛隊さんたち並んでください、どうせ先に撃てないんでしょ。じゃあ、行くよ。せーの バン!』なんてことは、あり得ない。絶対に。自衛隊は我々日本人を守ってくれる、軍隊だぞ。あっ!」
やばい。いっちゃった。
「はあ?」
と、翔太は、耳に手を当てて、ナンデスカマンみたいなポーズをとりやがった。
コイツ。明らかに俺をからかってやがる。初めから俺に、『自衛隊は軍隊だ』と言わせたかったのか。チクショウ。トラップに掛けられた。
「軍隊じゃないって言ったのに~」
「言うことがコロコロ変わる~」
「今日の先生、怪しい~」
ヤバい。文科省の学習指導要綱には、平和主義について理解を深める授業をしなさい。とあるのに、誤魔化してる。とか、怪しい。とか言われてるぞ。シャレにならん。
「いや、今のは言葉のあやだ。忘れてくれ。いいか、みんな。今日の勉強は、平和主義についてだ。日本は平和主義を掲げて、戦争を放棄しているから、軍隊は持たないと約束した。ほら、憲法9条にも書いてある。『陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない』、な。保持しないというのは、持たない。って意味だぞ」
「先生、そこも質問があるんですけど」
翔太が、さっと手を挙げだ。
「なんだ!」
「その他の戦力って、なんですか?」
「はあ?」
「陸海空軍という『軍隊』は保持しない。と言えばいいのに、わざわざ『その他の戦力』をプラスしています。これは、なにを指しているでしょうか?」
今度はなんだ。こいつは何を言い出しているんだ。
「その他の戦力って、自衛隊のことですか?」
「ええ?そんなわけないだろ」
吉田は困惑した。
「そうなんですよ。その他の戦力もこれを保持しない。と言ってるので、自衛隊も保持しない。と言う意味になってしまいます。これも、おかしな話でして・・・」
「それはおかしいよ。軍隊は持たないけど、自衛隊を持っているのが日本なんだからな」
「ちょっと、問題を整理しましょう。先生の言う通り、自衛隊を軍隊ではない。とします」
「ああ、そうだ」
「でも、自衛隊は武器を持ってます。まさに、軍隊以外の、その他の戦力と言っていいと思いますが、いかがでしょうか?」
ほう、そういう解釈を持ってきたか。
「とりあえず、自衛隊がその他の戦力かどうか。という質問です」
はは~ん。俺を困らせようと、いろいろと、ツッコみどころを探してきたんだろうが。甘い。甘いぞ高木。所詮は子供の発想だ。そういうのはな、ミリオタから嫌と言うほど、俺は聞かされてきたんだよ。
「はは、あのな。自衛隊が持っているのは武器ではないんだ。防衛装備品と言うんだ。武器ではないから、戦力じゃないんだよ。ははは・・・」
「先生、屁理屈に聞こえるんですけど~」
「どう見ても武器だよな~」
「なんか、納得できな~い」
「やっぱり誤魔化してる~」
翔太がみんなの声に頷いて、苦笑して言った。
「先生、そんな子供騙しはやめましょうよ。防衛装備品だなんて・・・ふふふ」
う、うまい。この場所でそう言うと、言い得て妙だぞ。俺だって、『防衛装備品』と聞いたときは、思わず、ぷっと吹きだしてしまったからな。悔しいけど、反論出来ねーな。高木よ。いったいお前は、俺をどうしたいんだよ。
「ちょっと、あんた達。先生を困らせてそんなに嬉しいの」
ひなのが口を開いた。
「私は先生の言うことがわかるわ。と、言うより、これは大人の知恵なのよ。大人って、正直に言えないことがあるの。でしょ、先生。あんたたちは子供だからわからないのよ」
ひなのは腰に手を当て、胸を張って、堂々と言い放った。
川田。お前のその感じも問題ありだぞ。何で、そうやっていつも、大人ぶりたいんだ。面倒くさいな。今、お前の相手をしている余裕はないんだよ。頼むから、おとなしくしておいてくれよ。
「先生、私は味方よん」
ひなのが顎を突き出して、翔太に向き合った。
「あんたね。さっきから難癖ばかりつけて、何様のつもりよ。武器を持ってるのは自衛隊だけではないわ。警察だって、ピストル持ってるじゃない。そういう事も気付かないわけ?」
あ~あ、案の定だ。思いっきりズレてる。よくわかってないくせに、度胸だけはあるから、しゃしゃり出てくるんだよなあ。ある種、最強かもしれないよな。参ったなあ。ちゃんと教えないといかんか。やっぱし・・・。
「あ、あのな、川田。先生の味方してくれるのは嬉しいぞ。ありがとうな。でも、味方っていうより、同じ意見です。ってことにしておこうな。我々は議論をしている。っていう意味な。ま、それで・・・警察は、この場合、関係ないかな・・・」
「え、どうして?」
「ちょっと、国語の授業みたいになるが・・・憲法の条文をよく見てな。なんのために武器を持たないって、言ってるか。が大事なんだ。前の文章から、探してみると、『国際紛争を解決する手段としては』とあるだろう。要は、外国と揉め事が起こって、それを解決するためには、戦争もしないし、武器も使わない。さらに、その武器を持たない。って言ってるんだな。わかるか?」
「警察はピストル持ってますよ。武器でしょ」
「警察は国内の犯罪を取り締まるために、ピストルを持ってるんだな・・・外国と戦争するために持ってるわけじゃないんだな・・・」
「ふ~ん・・・」
と、ひなのはわかったような、わからないような、顔をした。
「おわかり、ですか?」
ご機嫌を伺うように聞いた。
「ちょっと、先生」
と、服を引っ張って、ひなのは、アンナとあずさの傍に吉田を連れて行き、四人で円陣を囲んだ。
「そんな弱腰でどうすんのよ。そんなことじゃ高木に負けちゃうでしょ。しっかりして先生。警察なんて、どうでもいいから」
うわぁ。どうでもいいんだ。何だったんだ、今のは。疲れるなあ。
「アンナちゃん、あずちゃん、なんかあいつを、ギャフンと言わせる手はないかしら。見て、高木のあの顔。勝ち誇ったような。ああ、腹立つ。で、今、先生は何を困ってるの。説明して」
やっぱりかあ・・・しかし、訳わかんなくて、よく戦えるなあ。
近くにいた啓太とたかしに、こっそり聞いた。
「川田のファイティングスピリットは見事だな。あの闘志は一体どこから来るんだ?」
「さあ?」
「俺達も、はっきり言って、かなわないんだ」
「先生。説明してってば」ひなのがせっつく。
「はい。え~と、要は、自衛隊は武器を持ってるから、どう見ても戦力なのに、その他の戦力じゃない。というのは、おかしいじゃないか。と責められて、困ってます」
「ったく。しょうがないわね。あずちゃん、なんか考えて。あたしよりずっと頭いいんだから、なんかあるでしょ」
確かに、あずさは女子の中では断トツに成績がいいが、これはちょっと無理だろう。
「あ、はじまった」と、アンナが言った。
あずさが、目を瞑って背筋を伸ばした。メガネの奥の、瞼の下では目玉がグルグルと動いている。何をやってるんだ?吉田は不思議に思って、ひなのに聞いた。
「どうした?」
「今、宇宙人と交信しているから、静かにして、先生」
「はい」
もう、わけわからんな。お前ら子供は平和でいいなあ。
それにしても、よくよく考えて見ると、高木の言う通りだな。憲法のあそこの条文は、二重・三重の意味で辻褄が合ってなかったのか。だからこそ、政府は頑として、自衛隊を軍隊とか戦力として認めないんだな。まったくもって出鱈目だな。憲法なんて。
は~あ。ギブアップしそうだ。もう、無理だよ。こんなツッコみどころ満載の文章を小学生に理解させろなんて・・・ぶっちゃけちゃうか。
憲法なんて嘘っぱちで~す。みんな信じちゃダメだぞ。って、言えたらどれほど楽か。
――あ!
それが狙いか。高木のヤツ。俺に、憲法なんて嘘だ。って、言わせたいのか。
なんてことだ。デカい勝負を挑まれたものだ。
いやいや、待てよ。誰と戦っているんだ、あいつは。俺に挑む勝負の範疇を超えているぞ。
まあいい。そんなことより、やられてたまるか。飲み屋で憲法談議してるのと訳が違うんだ。小学校の教諭が授業で憲法を否定して、教えることを放棄しました。なんて、教師としてのプライドが許さん。負けてたまるか。
ネバ―ギブアップだ。
「あ、戻った」と、アンナが言った。
「た、た、たかぎ・・・」
あずさは、自分で言葉を発しようとしたが、途中で諦め、アンナに耳打ちした。
あずさの代わりに質問するアンナ。
「うん、うん・・・高木君。あなたが自衛隊をその他の戦力だと言い切る根拠は何?」
「武器を持っているからさ。戦車とか戦闘機とかミサイルとかライフル銃とか、人を殺す為の武器を持っているじゃないか。どう見ても、軍隊に見えるけど、軍隊じゃないと言い張るなら、その他の戦力だよ」
あずさが、自分の机に向かって歩き出し、筆箱を取り出して、教室の前に戻ってきた。
「ひ、ひ、ひとを・・・」
一度、自分で喋ろうとはしたあずさだったが、やはりアンナに耳打ちして言って貰った。
「人を殺す為の武器を持ってるから、その他の戦力・・・じゃあ、今日から私も、その他の戦力と呼んで貰おうかしら・・・あずちゃん、なに言ってんの?」
アンナは目を見開いて驚いた。
あずさは筆箱からおもむろに、コンパスを取り出し、振りかぶって教壇に突き刺した。
カンっと、鋭い音が響いた。
クラスの全員が、ビクッとして驚いた。あずさの異様な行動に釘付けになった。
「それは文房具だよ。人を殺す為の武器じゃない。どうかしてるよ。君」
翔太は呆れたような顔をした。
あずさが長いこと、アンナに耳打ちをしている。
クラスのみんなは、次にあずさが何を言い出すのか、気になっている様子だ。
ところがアンナが、「そんなこと言えない」と、首を振って嫌がっている。あずさは、アンナのお腹を指で、ふんふん、と突いてしゃべる様に促した。
アンナがとうとう重い口を開いた。
「コンパスだって、使いようによっては人を殺せます。おじいちゃんが言ってました。あずさ、いざっちゅう時はのう、なんでも武器にして戦えよ。工夫次第じゃあ、身の回りの、ありとあらゆるモノが武器になるんじゃ。長州藩はそねーして、強大な幕府軍にたった一藩で勝った。楠木正成は糞尿を巻き散らして、敵がひるんだすきにやっつけた。日本人は古来より、工夫に工夫を重ねて、戦ってきたんじゃ。負けちゃ、つまらんぞ。いざっちゅう時は、やっちゃれ!・・・あずちゃん、もう許して・・・」
アンナは顔を押さえて、しゃがみ込んだ。
「話が飛躍しすぎだ。その他の戦力をそんなに拡大解釈したら、誰も何も持てなくなるじゃないか。バカバカしい」
翔太はそっぽを向いた。
「松田、よく勉強したな。でも、ちょっと落ち着こうか。そう言えば、おじいちゃんは歴史が好きだったな。歴史から教訓を学ぼう。と言うことで、多分、お話をしてくれたんだな。今度、先生とおじいちゃんと三人で話をしような。あ、楢崎もいたほうがいいな。その方が安心だよな。俺も安心だし。勉強は出来てて、偉いぞ~」
吉田はあずさの過激な思想の方が心配になってきた。
「あずちゃんはそれを言ってるのよ!」
ひなのが、翔太をビシッと指差し、絶叫した。
「あんたが、その他の戦力を、自衛隊にまで拡大解釈するから、そんなことをしたら、際限なく広がって、文房具だって武器となる。でも、そうならないのはどうしてか?それは、私たちに理性があるから。文房具を人殺しの道具になんか利用しない。という、理性がある。日本人は自衛隊を決して戦力とは見ない。理性がある。あんたの言ってることは日本人の理性を踏みにじる、下劣な行為なのよ。あずちゃんは、それを言ってるのよ。バカバカしい。とは、それをそっくりあんたに返すわ。タカギイイ!!」
ひなのの絶叫が、教室の窓ガラスを震わせた。
しばしの沈黙。
「川田。大したもんだ・・・」
吉田が見ると、ひなのがボーとしている。たった今、はち切れんばかりの勢いで糾弾したものとは思えないほど脱力して、抜け殻のようになっていた。
「おい、どうした?」
「はい?わかんない。でも、気持ちよかった。すっとした」
「お前、今何言ったか覚えてるか?」
「あれ?私、なに言いました」
聞いたことがあるぞ。頭より先に口が回る女。屁理屈を屁理屈でねじ伏せる女。人を罵るときに天賦の才を発揮する女。女子プロレス界に現われる十年に一人の逸材と言われているモンスター。こやつ、もしかして、北斗昌の再来かぁ―――て、バカな関心している場合か。
憲法論議なんて所詮、煮ても焼いても食えない不毛な議論だ。とミリオタも言っていた。憲法に書いてある事と実態が、あまりにもかけ離れているので、いつまでもたっても噛み合わないんだと。結局、声のデカいヤツが勝った気分になる。言ってることは滅茶苦茶だけど、川田のように、相手に噛みつくしかないのか。負けないためには。
あずさが、教壇に刺さっているコンパスを引き抜いて筆箱に、そっとしまった。
「うん。なかなか説得力があったよ。特に女子三人のチームワークが抜群だ。将来が楽しみだね。日本人の理性を踏みにじるつもりはないが、その理性を疑う余地はあると、僕は思うな。まあいいよ。自衛隊がその他の戦力かどうかは不問にしよう。僕が折れるよ」
と、翔太が切り出した。
「だけどね。僕は先生に聞いているんだ。社会科の、この『平和主義』の授業の中で、唯一の大人である、先生に聞いているんだ。まだ、質問があるんですけど、先生、いいですか?」
とうとう化けの皮を剥がしたか。やはり狙いは俺か。
「ああ、いつ何時、誰の挑戦でも受ける。が、俺のモットーだ。お前が、俺に何をやらせたいのか、わかったよ。少し体をほぐさせて貰うぞ」
吉田は、肩を回して、スクワットを二回した。首を回して、コキコキっと鳴らした。
「さあ、来い。戦闘開始だ。ファイト!」
「では、質問です」
と言って、翔太は、黒板に張り出されてある、憲法9条の条文を指差した。
日本国憲法 第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「ここに、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は・・・とあります。武力による威嚇とは、何ですか?」
武力による威嚇? 気を付けろ。答えようによっては、どんなトラップが待ってるかわからんぞ。普通に考えれば、ピストルを向け、或いは、空に向かって撃って、「動くな。それ以上動くと撃つぞ!」と、犯人を威嚇する事じゃないのか。クソ~、安易にそう答えていいのか。どうなんだ。
「先生。だいぶ迷っているようですね。では、こうしましょう。そのあとの文言。国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。とありますので、日本は、戦争と共に、武力による威嚇と行使を、永久に放棄した。と、解釈した場合の、武力による威嚇とは、何ですか?と、こういい変えましょう。どうでしょう?」
そうか。武力による威嚇すら、放棄した。と、憲法に謳ってしまっているのかこの国は。じゃあ、敵が侵略してきたときに、自衛隊は威嚇もできないのか?そんなバカな。
「お気づきですか。そうなんです。自衛隊は、侵略者に対して、武力の行使だけではなく、威嚇すら禁止されている。憲法にはそう書いてあります。どうやって、国民を守るんでしょうか?・・・先生の言う通り、自衛隊は軍隊でもその他の戦力でもない。としましょう。持っているモノも、武器ではなく防衛装備品と認めましょう。でも結局、侵略者に対して威嚇すら出来ない。と書いてあります。終いには、国の交戦権を認めない。とあります。大学教授の伊勢山先生に言わせれば、『交戦権を認めない。とは国際法上、自衛権も認めない。ということになる。拳で殴り返すことも許されない』と仰ってます。この憲法は、どこまで自衛隊をバカにしているのでしょうか?武器を持って、ただ突っ立って見てろ。と言っているのでしょうか?」
そういうことか・・・自衛隊は一体どういう解釈をしているんだ。わからん。
「生徒が先生に授業の中で質問しているんです。答えられなければ、この憲法は出鱈目だ。ということになりますが、いいですか?」
「まあ、そう急ぐなよ高木。難しい問題だ。一緒に考えようじゃないか。先生が答えるばかりが授業じゃないぞ。一緒に答えを導き出そうじゃないか・・・どうだ?」
「確かにそうですね。では、一緒に考えましょう」
ふ~。とりあえず凌いだぞ。あとは、なるようになれだ。
「先生。それでは実験3と行きましょう。僕が敵となって、日本に侵略してきます。先生は自衛隊員として、国民を守ってください。憲法9条の制約のもと、どうやって自衛隊が国民を守るのか。僕はそれが知りたいです」
「私も知りた~い」
「勉強になるな~」
「先生。頑張って」
また実験かよ。みんな見てるしな。よし、なんとしても国民を守らねば。
「手を上げろ! 再び、侵略に来ました。日本国民の皆さん、全員立って、教室の後ろに並んでください。早くしろ!」
「なに、もう」
「やだ、高木こわい~」
「面白くなってきたぞ~」
翔太はまるで銀行強盗のように、指ピストルを振り回して、クラスのみんなを教室の後ろに追いやった。吉田は一人、教室の前に取り残された。
「さあ、先生。僕にピストルを向けて威嚇してください。『動くと撃つぞ!』と、ピストルを向けてください。専守防衛がありますから、僕が攻撃するまで反撃できないでしょう。だから、威嚇して僕を止めてください。そうすれば、僕は降参します。僕だってピストルを向けられれば恐いですからね。でもそれは、憲法違反を意味します」
なに? 降参するから、威嚇しろ。だと、自衛隊をなめやがって! だが・・・。
「さあ、早く。威嚇してください。ピストルを向けるんだ。じゃあないと全員、殺すぞ!」
翔太が次々と女子の頭に、ピストルを当てて脅して回った。
「殺すぞ。殺すぞ。皆殺しだ!」
――きゃああああ。
ピストルを当てられた女子たちが頭を抱えて、しゃがみ込んだ。
すでに、迫真の演技を通り越して、翔太は、異様な殺気を放っている。
「高木よせ。お前!」
翔太のピストルがこっちに向いた。
「先生!もう、嘘を教えるのはやめて貰えませんか?」
なに?
「自衛隊は軍隊ではない。武器ではない防衛装備品だ。専守防衛で国民を守る。全部、嘘ですよね。どうしてそんな嘘を教えるんですか?学校の先生が嘘を教える。こんなことがあっていいんでしょうか?―――みんなは、どう思いますか?」
翔太は、先ほどの、殺気に満ちた態度を一変して、クラスのみんなに投げかけた。
「高木の言う通りじゃねえか?」
「今日の先生は嘘くさい事ばっかり言ってるぜ」
「やっぱり、自衛隊が軍隊じゃないなんて、嘘だよな~」
「こんな授業意味ねーんじゃねえか?」
「授業ボイコットして、外に出るか」
「なんか、いい感じに、盛り上がって来たな~」
クラスのみんなの不審な眼差しが、胸をえぐる様にして突き刺さった。そうか、俺は嘘を教えているのか、この子達たちに。何をやっているんだ、俺は・・・。
「みんな。さっきは悪かった。皆殺しだ。なんて言って脅かして。この実験にリアルさを増すために、あえて、あんな風に過激に演技してみたんだ。ほんとにごめん」
翔太はクラスのみんなに対して、深々と頭を下げて謝った。
「いいのよ。高木」
「おかげで、私たちも目が覚めたわ」
「悪いのは先生だよ。高木じゃないって」
「授業で、嘘はダメだよな、嘘は・・・」
「嘘やめろ。嘘やめろ。嘘やめろ!」
誰かが始めた手拍子にのって、みんなが揃って手を叩き、やめろコールがはじまった。
「先生、どうします?クラスのみんながこれだけ言っているんです。そろそろ本当の事を言ってください。もう、嘘も限界ですよ」
翔太はまたしても、指ピストルを吉田に向けて、最後通告のように告げてきた。
「げんかい・・・」
吉田は、呆然と突っ立ったまま、血の気の引いた面持ちで、呟いた。確かに、このまま嘘だらけの授業をすすめるのは、もう、限界かもしれん・・・。
今日の俺の授業の取り組み方はどうだった?
授業中に受けた生徒の質問に対して、事なかれ主義でかわそうとした。都合のいい大人の嘘で誤魔化そうとした。生徒の疑問に対して、真剣に向き合っていなかった。こんなもん、教師と名乗っていいはずがない。
――教師失格だ。
頭に浮かんだこの言葉に、吉田は押しつぶされそうになり、言葉を失った。
「どうしたんですか?先生。黙ってたらわかりませんよ。このまま黙っていると、先生廃業ってことになりますよ。授業を続けて下さい。みんな、嘘じゃない、先生の、本当の答えを待っています」
翔太がダメ押しとばかりに、吉田を問い詰めた。
その時、啓太とたかしがお互いを見合わせて、「うん」と頷いた。二人して、教室の後ろから飛び出し、吉田のもとに駆け寄ってきた。
「先生、とりあえず座ってよ」
「肩、凝ってんぞ」
啓太が椅子を置いて、吉田を座らせ、向かい合ってしゃがみ込んだ。たかしは吉田の後ろに回って、一生懸命肩を揉んでほぐし始めた。
「おい、君たち何をやっているんだ。今回、君たちは自衛隊員の役じゃないだろ。勝手なことをするな」
翔太が、いぶかし気に言った。
「うるせえな。俺たちはセコンドだよ。自衛隊の役なんか、やるか」
たかしが、肩を揉みながら、言い放った。
啓太が、吉田の両膝に手をついて言った。
「先生、俺、あれ好きなんだ。先生が教えてくれた、あの言葉・・・ありもしない限界にこだわるなって、ヤツ」
「俺も好きだ。あれ言ったのは、先生の神様だったよな?」
たかしが、肘で肩をほぐしながら聞いてきた。
「ああ、猪木だ。アントニオ猪木。俺の、神だ」
吉田は虚空を見つめて呟いた。
「そうだよ先生、猪木はなんて言ったんだっけ?もっと詳しく」
啓太が聞いた。
「限界なんて言葉はこの世にはない。限界と言うから、限界が出来る。何故、自分から限界という一線をひかねばならないのか?もともとありもしない限界にこだわるな・・・」
吉田は虚空を見つめたまま、ぶつぶつと呟いた。
「そう、それだ。それを言いに来たんだ。俺達」
バンっと、啓太が吉田の両膝を叩いた。
「俺達、今日の授業、中身はさっぱりで、わかんないけど、先生が今、この言葉を必要としているのだけは、わかったぞ」
と、たかしも、両肩をパンパンっと叩いた。
「あれは、プロレスの話だ。これは学校の授業だから・・・高木の言う通りかもしれない。俺は教師としては・・・」
「先生!らしくねーぞ」
「俺たちに教えてくれたことは何だったんだよ」
啓太とたかしは、吉田の肩と膝を同時に揺さぶったが、吉田は、操り人形のようにただ揺れるだけだった。
「嘘やめろ。嘘やめろ。嘘やめろ!」
クラスのみんなの、やめろコールがまた始まった。手拍子と共に大合唱になって、さらに教室中に響いた。
「さあ、先生。実験はまだまだ続いていますよ。授業を続けてください」
翔太が煽ってくる。
「嘘やめろ。嘘やめろ。嘘やめろ!」
やめろコールがさらに盛り上がって、吉田の上に降り注いできた。押しつぶされそうになり、思わず頭を抱えてしまった。
「先生、ボンバイエ!」
啓太が、吉田の耳元で叫んだ。
吉田は、ピクッと反応した。
たかしが啓太を見て「よし!」と、頷いた。二人して、同時に手を叩いて連呼した。
「先生、ボンバイエ。 先生、ボンバイエ。 先生、ボンバイエ!」
吉田の頭の中で、猪木のテーマ曲『炎のファイター 猪木ボンバイエ』がトランペットの音と共に、高らかに鳴り響きだした。猪木の掛け声「ファイッ」入りバージョンの曲だ。体中の血が逆流するかのように巡りだし、『燃える闘魂』がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
「嘘やめろ。嘘やめろ。嘘やめろ!」
「先生、ボンバイエ。 先生、ボンバイエ。 先生、ボンバイエ!」
二つのコールが教室中に響いて、興奮のるつぼと化した中、またしても、翔太がピストルを吉田に向けた。
「先生。自衛隊がどうやって国民を守るのか。それを聞いているんです。さあ、僕にピストルを向けて、威嚇してください。それで僕は降参します。そして、先生は憲法の嘘を暴いてください」
1998年4月4日の東京ドーム。アントニオ猪木の引退試合の後に行われた、有名なスピーチ、通称「猪木の道」が吉田の頭の中に克明に蘇った。
この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
踏み出せば
そのひと足が道となり
そのひと足が道となる
迷わず行けよ 行けばわかるさ ありがとうおおお!
そうか、俺はやっぱり教師だ。
教師だ!
吉田は、ガバッと立ち上がった。そのまま走りだして、教室の後ろまで来た。いくつかの机をかき分け、クラスのみんなと翔太の前までやってきた。その際に、たかしの机から野球のボールが落ちて床に転がった。ピストルを構えている翔太の目の前で仁王立ちになって、おもむろにTシャツを脱ぎ、上半身裸になった。
「撃てるものなら、撃って見ろ!」
と、拳を握り、筋肉にグッと力を入れ、見せつけた。
翔太は、おっ?と、驚いた顔をした。
「なるほど。それが先生の、武力による威嚇ですか。確かにそうだ。先生の鍛え抜かれた肉体は、武力そのものですね。そう言えば、それで、酔っ払いをやっつけたんでしたね」
「違う。これは体力だ!武力ではない」
「はあ?何を言っているんですか?」
「だから、体力だ。俺は武力を使わずに、お前を止めて見せる。憲法違反ではない!」
「冗談はよしてください。立派な武力だ」
「体力だ」
「武力だ」
「体力だ」
「武力だ」
「体力だ」
「武力だ」
「体力だ。体力だ。体力だ」
「武力だ。武力だ。武力だ」
「体力だ。体力だ。体力だ。体力だ。体力だ」
「武力だ。武力だ。武力だ。武力だ。武力だ」
二人は、顔を突き合わせて、言い張った。「はあはあはあ」っと、息が切れた。
「なんか、くだらな~い」
「バカバカしい~」
「結局、子供の喧嘩かよ」
翔太は、足下に転がっている野球のボールを拾った。
「なんてことだ。こんな一休さんみたいなトンチ問答をするために、僕は質問しているんじゃないぞ。こうなったら、これでどうだ!」
と、窓ガラスにボールを投げつけた。
ガシャン!と、ガラスが割れ、ボールは床に落ちて、転がった。
――あっ!
全員が目を見張った。
「さあ、攻撃をしました。侵略者がとうとう、家屋を破壊する。という攻撃に出ました。もう、専守防衛を気にしなくてもいいですよ。先生、武力を行使して、僕を制圧してください」
コイツ。とうとう最終手段に出やがった。でもそれで、武力の行使をした場合、自衛隊を、憲法違反だと訴える気だな。どこまで、自衛隊は手足を縛られているんだ。
「さあ、みんなを助けてヒーローになってください。攻撃を受けたら、反撃出来るんでしょ。専守防衛で僕をやっつけてください。自衛隊はこんなに見事に国民を助けた。というところを見せてください。みんなは自衛隊に感謝するでしょう。でも、変な話ですよね。それは憲法違反だぞ。って、9条に書いてあるんですから。もう、こんな憲法は嘘だ。って、言ってくださいよ。先生!」
こうなったら。
「岡田。里中。先生にダブルドロップキックを十連発だ!」
「え、どうして?」
啓太とたかしは戸惑った。
「あくまでも先生は、体力を見せつけて、高木を止めてやる。武力は使わん。遠慮せんでいい。来い、ファイトだ!」
「オッシャー!」
「先生、行くぞ!」
1発。2発。3発。4発。5発。6発。7発。
と、立て続けに、啓太とたかしはドロップキックを放った。吉田はビクともしない。
啓太とたかしが逆にバテテきた。床に寝転がって、「はあはあはあ」と、息があがった。
「どうした。どうした。お前らのファイティングスプリットはそんなもんか!川田の方が凄かったぞ。お前らは女子にも劣るのか。今までのトレーニングはなんだったんだ」
「クソー」っと、二人は根性を振り絞って、再度立ち上がり、ドロップキックをしてきた。だが、勢いがない。ガシッと二人の足を掴んで、ジャイアントスイングで振り回した。
「プロレスをなめんな! まだまだ修行が足りんぞ!」
――吉田先生! 何をやってるんですか!
「あ、教頭先生・・・」
* * *
「関係ないよね。社会科の授業と、プロレスは、関係ないよね!」
教頭先生が耳元でがなり続けている。ああ、いつまで続くかなあ、今日は・・・。
「はい・・・」
吉田は校長室で、背中を小さく丸め、ずっと立たされたまま説教を受けていた。
校長は椅子に座ってあまり喋らず、様子を伺っている。普段は「ホテイサマ」と、先生達の間ではあだ名で呼ばれている。まん丸い顔に福耳、でっぷりとした太鼓腹、いつもニコニコ笑っているので、縁起物の置物ような存在だ。それが今は、ムスッとした顔で睨みつけている。チラッと見ると、静かな殺気が漂っていた。
一方、さっきからギャンギャンと耳元で怒鳴っているのが、「カマキリメガネ」の異名を持つ、教頭だ。息がクサい。神経性の胃炎で年中悩んでいるからだろう。そんなに近くでまくし立てられると、二重に辛い。
「プロレスを教える学校がどこにあるんですか!」
「ありません・・・」
「それとも、今年から、学習指導要綱に『プロレス』という授業が新しく加わって、私が知らないだけなのかな!」
「そんなバカな・・・」
「禁止です。プロレスは、今後一切禁止!」
「確認ですが、生徒に怪我はなかったんですよね?」
校長が念を押すように聞いた。
「校長先生、それが微妙でして・・・生徒二人が膝を擦りむいていましたので、保健室に連れて行こうとしたのですが、本人たちが平気だと言い張っておりまして・・・」
「本人が平気だと言うんじゃ、問題ないじゃないですか」
「校長先生。しかし・・・」
「教頭先生。先日、こども家庭庁が文科省に勧告権を発動しましたよね」
「あ、はい・・・」
「上も下もみんなピリピリしている時なんです。そんなときに、うちの学校は問題だらけなんですとは言えないでしょう」
「それはそうですけど、吉田先生は・・・問題ですよ。この場合」
バン!と、校長が机を叩き、
「教頭先生。それはあなたの指導力にも問題あり。と判断されますよ」
聞いたことのないような低い声を出した。
「私は・・・さして、問題はなかったと思いますけど・・・」
* * *
すっかり日も暮れて、吉田はようやく解放された。やっと帰れる。と思い、自転車置き場に行くと、翔太がランドセルを背負って立っていた。
「おお、高木。どうした?こんな遅くまで」
「先生を待っていたんだ」
「そうか。悪かったな、遅くなって。お母さん心配してなきゃいいけどな・・・」
「先生に謝りたくて・・・」
「今日のことか?」
「なにはともあれ、ガラスを割ったのは僕だから・・・」
「あれは、先生の肘が当たったことにしておいた。心配するな」
「それはダメですよ。僕がわざとやったんだから・・・」
「高木。お前、誰と戦っているんだ?」
「誰って?」
「今日の勝負は、いつもと違ったぞ。いつもはもっと、ウィットに富んだ感じだろ。一本取ったり、取られたりってヤツは、先生は好きなんだがな。今日の相手は俺じゃないだろ。どういうことだ?」
「深い意味はないよ。『憲法の矛盾』って動画をネットで見て、何だこりゃって、思って・・・」
「そっか。今日の勝負はドローってことにしよう。またやろうな。授業中は勘弁だけどな」
と言って、吉田は、自転車のカギを外した。
「乗れ。送っていってやる」
翔太を後ろに乗せて、ペダルをゆっくりこぎだした。
翔太は、吉田の服を掴んで、言った。
「先生、やっぱり、ガラスのこと、明日、教頭先生に僕が言うよ」
「あのな高木。俺はあの時、ほっとしたんだ。お前が、攻撃を、家屋の破壊に留めたことに、ほっとした。ピストルを撃たなくて、ほっとした。ガラスの一枚や二枚がなんだ・・・」
「でも、悪かったなと思ってる・・・」
「じゃあ、借りは返すぜ」
「え?」
「貸し一(かしいち)あったからな。これでチャラだ」
翔太は、吉田の服を掴んだまま、上を見上げた。星が輝いていた。
「先生、今日は・・・」
「なんだ」
「僕の、ギブアップだ」
翔太が、ぎゅっと抱き着くと、吉田は力強くペダルをこいで、走り出した。
第5話 終
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