第3話 大事なもの

 ピンポーン。

 たかしが玄関のチャイムを鳴らすと、啓太が釣り道具一式を持って出てきた。

「おお、たかし。今から海に行くんだ。ちょうどよかった。たかしも一緒に行こうぜ」

 啓太のテンションはマックス上がっている。

 たかしは面食らった。そりゃあ夏だし、海には行きたい。釣りもやってみたい。でも、オッカーに何も言わないで行ったら、絶対怒られる。


 前に、こうやって映画に連れて行ってもらったことがあった。うっかり、オッカーに報告するのを忘れていたら、さんざん怒られた。「こっちからお礼のご挨拶をしなきゃいけないのに。何考えてんの!」と、すごい剣幕だった。

「見てくれよ。新しい竿なんだ」

 啓太は買ったばかりの、袋に入った竿を取り出して見せてくれた。ピカピカだ。

「俺はこれを使うから、たかしはこれを使えよ」

 古いヤツを渡された。と言っても、見た目には、まだまだ十分使えそうな竿だった。これがあるのに、新しいのを買って貰ったのか。コイツ。

「たかし君、一緒に行くか。道具なら揃ってるぞ」

 啓太のオットーが車に荷物を積みながら、声を掛けてくれた。

「でも、オッカーに黙って行ったら怒られるし・・・」

「じゃあ、このままたかし君ちによって、お母さんに言ってみよう」

「オッカーは今日出掛けてて、いない」

「そっか・・・」

 啓太が割って入った。

「オットー。たかしはまだ、海釣りしたことないんだ。今度、連れて行ってやろうぜ」

「よし、そうしよう」


 啓太のオットーはいつも優しい。普通の大人よりずっと話しやすい。何より、啓太の態度が、父親と接しているというより、お兄ちゃんと接しているように見える。


 たかしには父親もいなければ、お兄ちゃんもいない。母子家庭で、オッカーとオネエがいるだけだ。この二人が喧嘩になると、いがみ合いが凄まじい。女とは、かくも過激な戦闘民族なのか。と、目を覆う時もある。普段家の中では、平和で牧歌的な、男同士の会話を交わせる相手はいない。

 そのせいか、啓太と父親のやり取りを見ていると、なんとなく、羨ましいのか寂しいのか、よくわからない気持ちになった。


 啓太のオットーが提案してくれた。

「じゃあ、今度みんなで三浦海岸の極楽マリンパークに行ってみるか。あそこはキャンプも出来るし、温泉もある。カヤックも乗れたんじゃないかな?海水浴場もあるし、もちろん釣りも出来るぞ。泊まりで行かないと遊びきれないな」

「おい、聞いたか。キャンプだぞ」

 啓太のテンションがさらに上がった。

「夜はバーベキュー食って、花火だ。なあ、たかし。おっと」助手席の窓から身を乗り出して、落ちそうになりやがった。――おいおい、大丈夫か。そんなに興奮するなよ。と啓太を支えた。

「キャンプだってよ。たかしー」

「あああ、それはいいなあ」

 と返しはしたが、たかしは戸惑っていた。いきなり、キャンプの話に展開したのもビックリだったが、それだけではなかった。

 啓太は際限なく盛り上がっている。

「オットー、絶対だぞ。約束な!」

「ああ、ちゃんと計画を立てて、たかし君のお母さんに了解もらってからな」

 啓太のオットーもニコニコしていた。

「じゃあな、たかし。ちゃんと言っておけよ」

 車が発進しても、啓太はしばらく手を振っていた。


 もちろん。キャンプに行けるなら嬉しい。誘ってくれるのは有難い。

 でも、なんだろう?

 啓太のオットーは何であんなこと知っているんだ。父親ってみんな、ああいうこと知っているのかなあ――。

「ちぇっ」と漏らして、たかしは歩き出した。


 *   *   *


 なんか面白いことないかな。と、たかしは川に来ていた。海に行けなかったので、せめて川で・・・。と思ったが、釣り竿も網もないので、たいしてやることもなかった。


 川の近くのグランドでは中学の野球部が練習をしていた。カキーン。という音が響いて、足下に野球のボールが転がってきた。グランドの横の小径を歩いていたたかしは、その軟球を拾って手にした。遠くの方から、真っ白なユニフォームを着た中学生が走ってやってきた。

「ごめんごめん。ありがとう。うん?・・・たかし、たかしか?」

「守兄ちゃん?」

 よく見ると、近所に住む、守兄ちゃんだ。小学生の頃は良く遊んでくれた。中学に上がって、めっきり会わなくなっていた。随分背が伸びたな。大人みたいだ。

 守も自分を見てそう思ったのか、頭を撫でてきた。

「何年生になったんだ?」

「五年生」

「そっか・・・ところで、お姉ちゃんは元気か?夏休みになってから部活に来てないんだ」

「う~ん、オネエのことはよくわかんない」

 守兄ちゃんとオネエはともに中学三年生で幼馴染だ。小さい頃は、オネエとよく一緒にいたから、自分も遊んでもらっていた。そう言えば、オネエは野球部のマネージャーをやっていたっけ?


「ま、いいや。たかし、ボール投げてみろよ」

 そう言って、守は距離をとってグローブを構えた。ほら、思いっきり。と、グローブを拳で叩き、バンバンと鳴らしてこちらに向けた。思いっきりかよ。


 こんな感じかなっと。 おりゃ!


 投げると同時に前につんのめった。おっとっと。

 バン!

 という音がしたので前を見た。守の顔が驚いていた。が、すぐに、にたりと笑って、「たかし!」と叫んで、走ってこちらにやってきた。ボンっと、頭にグローブを被せられて、オッと、のけ反った。

「コントロールはイマイチだけど筋は悪くないじゃん。お前、中学入ったら野球部に入れ」

 前が見えない。が、何故か、守兄ちゃんの声が弾んでいるのはよくわかった。それにしてもこれって、グローブの匂いか。ふ~ん、妙に鼻をくすぐる感じだ。


 ほかの野球部員の声が遠くでした。

「守。そろそろ試合始まるぞ」

「おう!」

 守が右手に持ったボールを目の前に差し出し、

「ほら、これやるよ。内緒だぞ」と、渡してくれた。さっきまで単なる薄汚れたボールだと思っていたのに、何か違う、別なものを貰った気分になった。

「守兄ちゃん!」

「ん?」

「野球って面白い?」

「もちろん。だって俺は、エースで4番だからな。じゃあな」

 と言って、守は走り去った。

 なんだ、あの自信に満ちた笑顔は。エースで4番って、どういう意味だろう。野球ってそんなに楽しいのかな?


 バックネット裏に立って練習試合を見てみた。

 守兄ちゃんがピッチャーマウンドに立った。振りかぶって、足を上げた。あんなに高く足を上げるのか。と思ったら、鞭のように体がしなった。

 ――ズバーン!

 キャッチャーミットがうなった。

「あ!」と、思わずバックネットを両手でつかんだ。なんて速い球だ。あっという間にバッターは三振してしまった。次のバッターも三振だ。次も――。守兄ちゃんの球を打てる人はいなかった。

 今度は守兄ちゃんがバッターボックスに立った。外野の選手達が後ろに下がった。

 ――カキーン!

 ボールははるか上を越えて、飛んで行った。淡々と塁を回ってホームに帰ってくる守。ベンチの仲間達は大喜びしている。守は軽く手を挙げてハイタッチに答えていた。

「エースで4番」

 自然と口から言葉が漏れ、たかしの目はきらきらと輝いていた。


 *   *   *


 ガシャンガシャンとフライパンが音をたて、野菜炒めが踊っている。

「グローブ買ってくれよ」と、たかしがフライパンを振っている腕にすがりついてきた。さっきからうるさい。

「ああ、もうっ」と一旦手を止め、たかしの母・里中礼子は、すがりついてきたたかしを振りほどいた。


「いつまでも寝ぼけたこと言ってないで、宿題やんな」

「なあ、オッカー。頼むよ」

「なに言ってんだい。そんなお金がどこにあるんだよ」

「じゃあ、俺のお年玉貯金を使うよ。だったらいいだろ」

 礼子は一瞬眉をひそめた。そんなことばかり言って。と思い。

「あれはイザという時に使うんだよ。あんたの大事なお金なんだからね。無駄遣いなんかさせやしないよ」

「今がイザという時なんだよ」

 今日のたかしは粘り強い。何があったのか知らないが、普段より強情だ。足をガニ股に開き、両手を握りしめて、ドタバタと床を踏み鳴らして訴えてきた。

「なあ、オッカー」

「いい加減にしな!」

 たかしの腕をつかんで、こっちへおいで。と、隣の部屋に連れて行った。部屋の隅では作りかけのガンプラが、無造作に箱の中で転がっている。

「この間買ったこれだって、結局つくりゃしないじゃないか」

「これは・・・これから仕上げるんだよ」

「うそ!半年もこのままじゃないか。すぐ飽きるんだから。無駄遣いはダメだよ」

「俺のお年玉なんだからいいだろ」

 たかしは、口をとんがらかして不貞腐れた。


「たかし、無駄だよ。あんたのお年玉はもうないよ」

 二階からたかしの姉、里中美咲が、手首に巻いたビーズブレスレットをジャラジャラと鳴らしながら下りて来た。

 礼子は「はあ?」と、目を見張った。デニムのショーパンに大きく肩を出したトップス。なんて派手な格好をしているの、この子は。余程、中学生には見えない。と、言葉を失ってしまった。


「何言ってんだよ。俺まだ全部使ってないぞ」

 たかしは、お年玉の事が気になってしょうがないらしい。

「違うよ。あんたじゃなくて、この人が全部使っちゃったんだよ」

 美咲が礼子をギロリと睨んだ。

「なに言ってんの。ちゃんととってあるわよ!」

「うそ。じゃあ、見せてよ」

「お金は銀行に入れてあるわよ。うちに置いとくわけないでしょ。記録はあるわよ。あんたの分とたかしの分」

「そんなのただの紙っ切れよ。意味ないから。たかし、諦めな」

 と、捨て台詞を吐き、厚底のサンダルを履いて美咲は出て行った。


「ちょっと、あんた今日は何処行くのよ」

 礼子の声も虚しく、玄関の引き戸がガシャンと音をたてて閉まった。

「美咲!」

 右手に持ったオタマを振り上げて、礼子は、ワナワナと震えて玄関先に立ち尽くすしかなかった。はあはあはあっと、鼻息も荒く興奮冷めやらぬまま、振り返ってキッチンに戻り、作りかけの野菜炒めのフライパンを握り直した。


「オッカー。オネエの言ったこと、ホントか?」

 たかしが半信半疑で聞いてきた。お年玉のことだ。

「バカ言ってんじゃないよ!」

 とっさに、たかしに向かってオタマを突きだし、威嚇する形になった。

「あんたのお年玉はちゃんと大事にとってあるわよ。お姉ちゃんの言うことなんて信じちゃダメよ。今のあの子は、私を困らせようとしているだけなんだから。そのくらいのことはあんたもわかるでしょ!」

 ただただ、腹が立ってしょうがなかったので、八つ当たりするかのようにたかしに向かって激高した。手に持ったままのフライパンが激しく揺れて、中身が飛び出しそうな勢いだった。

 カンカンカンっと、オタマをフライパンに叩きつけるようにして、野菜炒めを皿に移したあと、再度怒りが込み上げて、「ったく!」と、流し台に放り投げた。


 ――ガーンガラガラ、ガラン、ガラガラ・・・。


 フライパンとオタマがステンレスの上で転がって、激音が響いた後、虚無感が漂った。

 たかしは呆気にとられたのか、固まっていた。

 礼子はエプロンを外しながら、

「私もう仕事に行くから、ご飯食べたら、お風呂入って、宿題やるんだよ!」

 と、たかしを睥睨威圧して、出掛ける支度を始めた。


 テーブルの上には、湯気の立ちのぼる野菜炒めが一つ。もうひとつの野菜炒めには、ラップが巻いてあった。


 *   *   *


 この町の繁華街にスナック『止まり木』という店がある。こじんまりとした、どこにでもあるような場末のスナックだ。たかしの母、礼子がママを勤める店である。

 カランカランっとドアベルが鳴って、常連客の立花浩輔がやってきた。

「うぃーす・・・」

「いらっしゃいませ」

 と、カウンターの下から、図体のデカい男がにゅっと顔を出した。

「わ、ビックリした。・・・大久保ちゃん、何やってんの?」


 常連仲間の大久保がカウンターの中にいる。真っ白なTシャツを着て、大きな体の上に身につけたエプロンが妙に小さく見えた。学生時代、相撲部だった大久保は長身で体はゴツイが、笑うと愛嬌のある顔になる。38歳独身だ。その大久保が頭を掻きながら言った。


「いや~、それが・・・ママが、この調子で」

 見ると、カウンター席の真ん中で40前後の艶っぽい女が突っ伏している。ショートカットに見覚えのあるイヤリングからして――。

「ママか?」と、たずねた。

「あ、社長。おせーぞこの野郎。待たせやがって」

 礼子はむっくりと起き上がり、呂律の回らない舌で、立花に向かっていきなり絡んだ。


 立花はこの界隈では『社長』と呼ばれている。とは言え、貫禄ある大企業のそれではない。街のスポーツショップを営む零細企業の社長であって、身なりも豪奢な成りではなく、モスグリーンのシャツとスラックスで身を包んでいる。体型は細く、一見、栄養不足かと思うぐらいに痩せていた。体格のいい大久保と並ぶと、大根とキュウリが並んでいるぐらいの差がある。


 その社長が、「待たせやがって」と言われたので、え?という顔をして恐る恐る聞いた。

「アレ?なんか約束してたっけ?」

「つべこべ言うな。このハゲ!いいから飲むぞ」

 礼子は、目の前の空のグラスをわしづかみにして、

「おい大久保。ハイボールって言っただろうが。さっさと作れよ、逮捕するぞ。デブ!」

 と、今度はカウンターの大久保に絡んだ。

「はいはい。ただいま」

 大久保はたまらず、グラスを手に取った。

「まったく。役立たずが・・・う~」と、再び礼子は突っ伏してしまった。


 社長はほとんどスキンヘッドのような自分のハゲ頭を撫でながら、大久保に尋ねた。

「凄い荒れっぷりだな。なんかあったの?」

「いや、まだ何も聞いてないんですよ」

「相当なことがあったな。こりゃ」

「多分・・・僕が来た時には、結構出来上がってて」

「で、攻守逆転してそっちに回ったと・・・大変だね」

「でも、なんか、今日はいいかなって。いつもママに愚痴を聞いてもらっているから」

「なるほど・・・じゃ、俺はオツマミ作るよ」

 社長がカウンターに入ってエプロンを着けると、ドアが開く音がした。

 カランコロン。

「いらっしゃいませ」

 大根とキュウリが並んで声を揃えていた。


 *   *   *


 甲子園のアルプススタンドが画面に映っている。

 応援団がメガホンをふって「かっ飛ばせー」っと、連呼している。

「甲子園球場ってどこにあるんだろう?」

 たかしは最近、野球に関することが気なってきて、目に留めるようになった。


 ガラス張りの店構えのスポーツショップ。外から見えるように大画面のテレビが置いてある。高校野球真っ盛りの夏。甲子園球児たちの雄姿が映し出されていた。たかしは足を止めて見ていた。

 ふと、店内を見渡すと、奥の棚にずらっとグローブが並んでいる。あ、グローブだ。たかしはふらふらとした足取りで、自動扉をくぐって店の中に入った。


 グローブっていろんな色があるんだな。茶色のヤツ。赤っぽいヤツ。黄色のヤツ。ブルーのヤツ。「へえ~」あ、この黒いヤツがカッコいいな。手に取ってみた。光沢のあるブラックにゴールドのラインが走っている。


 手にはめてみた。――わ、硬いなあ。新品のグローブってこんなに硬いのか。おお、握ってもすぐに跳ね返してくる。右手の拳でボンボンボンとグローブを叩いてみた。指が奥に食い込んでいって、だんだんと手に馴染んでいった。

 グローブを顔に被せて、大きく深呼吸してみた。これが新品のグローブの匂いか。何とも言えないいい匂いだ。守兄ちゃんにグローブを被せられた時の、あの時の匂いとはちょっと違っていた。ふと、練習試合の時の、守の姿が脳裏に蘇った。


 バッターの手元でグーンと伸びる球筋。大きく振りかぶって、足を高く上げ、鞭のようにしなって剛速球を投げる守。投げた後に右足が跳ね上がるところが特にカッコよかった。

 バッターボックスに立った時の守は、はじめやる気がないのかなと思ったが、そうではなかった。ピッチャーの投げるタイミングに合わせやすいように、リラックスして立っているんだ。と、3打席目でなんとなくわかった。そうか、そういうことか。と、わかってみるとさらにカッコよく感じた。


 レジ横の電話が鳴り、店員の皆川里奈が出た。

「はい、スポーツショップタチバナです。はい、ちょっと在庫見てきます。少々お待ちください。社長~・・・」

 里奈が受話器を置いて、店の奥に入っていった。


 たかしがグローブを顔から外すと、さっきまで、レジのところにいたお姉さんがいない。

 レジはこの店の出入り口のところにある。人がいなくなると抜けがよくなって、出口に対する圧迫感というか、緊張感というか、そういうものがなくなった。


 辺りを見回した。店内には誰もいなかった。

 店のあちこちにある大小のテレビ画面には甲子園のアルプススタンドが映っている。

 応援団がメガホンをふって、「かっ飛ばせー」っと、連呼している。


 誰もいないぞ。ここには今、俺だけだ。


 手にはめているグローブを見つめた。じっと見た。喉がゴクリと鳴った。呼吸が荒くなり、ドクドクドクと、心臓の鼓動も早くなってきた。

 もう一度、店内を見回した。誰もいない。店の外はどうだ。ガラス張りだから、外から丸見えだ。ガラスの外、道路にも、その向こうにも、人の気配はない。


 よし、今だ。


 グローブをTシャツの中に隠した。もう一度、辺りを見回した。誰もいない。

 えい。っと踏ん張って、走り出した。自動扉が開くのが遅く感じて舌打ちをした。早くしろよ。半分開いたところで体をよじって店を出た。なりふり構わず、走って逃げた。


 *   *   *


「いいだろう新品だぜ」

 たかしはグローブを上に掲げて見せた。

「いいなあ」

 啓太は物欲しそうな顔で見上げた。

 右手に持った球を上に高く放り投げ、オーライと叫んで、たかしはボールをキャッチしようとした。バボッという音がして、ボールはグローブをはじいて下に落ち、公園の砂場に転がっていった。啓太がボールが追い掛けて拾いに行く。

「啓太もグローブ買って貰えよ。キャッチボールしようぜ」

「ああ、俺もそうしようかな。このボールはどうしたんだ」

「守兄ちゃんに貰ったんだ。守兄ちゃんは川北中の野球部なんだぜ」

「ふ~ん・・・」

 啓太がボールを拾って戻ってくると、たかしはもう一度グローブを見せつけた。

「このゴールドのラインが気に入っているんだ。かっこいいだろ」

「ああ、キラキラしてていいな」

 と、啓太は覗き込むように見ている。たかしは優越感に浸れて気持ち良かった。

「俺、中学行ったら、野球部に入るんだ」

「え、もう決めたのか?」

「ああ、エースで4番になるんだ」

「何だそれ?」

「ま、いいよ。啓太、ボール投げて見ろよ。向こうから」

「いいぜ。ちゃんととれよ」

 啓太はボールを持って、公園の奥に走って行った。


 *   *   *


「間違いないよなあ・・・」

 社長はパソコンのモニターを見ながら、椅子に座ったまま腕を組んで、苦虫を噛み潰したような顔をした。

「たかし君だ!」

 中腰でモニターを覗き込んでいる、大久保は、目を丸くして驚いた。でっかい図体で社長の隣に並んで、ケツを突き出すような形で見ているその身体には、警察官の制服を纏っている。両手で持っている警帽が、ミシミシっとうなってよじれた。


 スポーツショップタチバナとは、社長、立花浩輔の店だ。店の奥にある事務所の中で、社長と大久保は防犯ビデオの映像をチェックしていた。社長はたかしに会ったことはあるが、防犯ビデオに映った万引き少年が、果たしてそうなのか。イマイチ自信がなかった。何かの用でスナック止まり木に来た時に偶然会ったが、一年ぐらい前のことだ。子供の成長は早い。この少年がママの息子のたかしかどうか。念のため、大久保にも見てもらって確認した方がいいと思った。


「まいったな~・・・」

 社長がぼやいた。大久保の一声で、やはりそうだったか。と、目の前が真っ暗になってしまった。一時停止のボタンを押して、がっくりとうなだれて黙りこくった。

 大久保は、モニターに映ったたかしの顔と、うなだれている社長の顔を交互に見ながら、どうしたらいいのか、わからなくなってしまったようだ。キョロキョロとしている。この野郎は、図体のわりに肝っ玉が小さいんだよな。と社長は思った。

 社長が黙っているので、大久保は口ごもりながら、聞いてきた。

「ど、どうします?社長・・・ひ、被害届って・・・わけじゃ・・・」


 ――違うよ!


 立ち上がって、怒鳴った。怒髪天を突く。とはこのことだ。

「この野郎。よりにもよって、俺がたかし君を警察に売るとでも思ったか。あくまでもスナック止まり木の常連仲間として相談してるんだよ!」

 だいたい、こいつが店にやってきた時から気に食わなかったんだ。いかにも俺が、警察を呼んで万引き少年を突き出すような構図になってるじゃねーか。そんな了見の狭いことするか。相手はママの息子だぞ――。

「良かった~・・・」

 大久保がほっと胸をなでおろした。その、他人事みたいな反応に対して、社長は何故か、大久保に対する怒りが増幅してしまった。

「なめんじゃねーぞ!この野郎。そんな恰好で来るんじゃねーよ」

「いや、勤務中なんで・・・」

「勤務中だろうが何だろうが、ちょっとは気を利かして来い。素っ裸で店に入ってこい!」

「そんなに怒らなくたって」

 大久保は激詰めされて、へなへなっとしゃがみ込んでしまった。


「社長!何やってんですか」

 店員の里奈が騒ぎを聞きつけ駆け込んできた。社長は後ろから羽交い絞めにあいガシッとロックされた。里奈はボルダリングの選手なので、体が締まっており、そこそこ力が強い。ガリガリにやせ細った社長は持ち上げられて、椅子にドスンと座らされた。

「やめてください。お店の中にはお客さんがいらっしゃるんですから」

 里奈の正論には口答え出来なかった。

「ああ、そっか」

「大久保さんも、いいですね。お店営業中ですから」と、里奈は店内に戻っていった。

 大久保は警帽で顔を半分隠して、うんうん。と頷いていた。


 社長も、大久保に怒ったところでしょうがないかと思い、モニターを見て呟いた。

「ほっとくわけには行かないよな・・・」

「とりあえず、ママに電話しますか?」

 大久保が恐る恐る聞いてきた。

 社長は、はあ~と、深くため息を吐いた。


 *   *   *


 カシャカシャカシャと、菜箸でボールの中の卵を掻きまわしていると、テーブルの上のスマホが鳴った。礼子はボールを置いて、スマホをとって耳に当てた。

「社長、どうしたの?今日、お店は休みよ・・・」


 カシャーンっと、菜箸が右手から滑り落ちて、床を鳴らした。

 スマホを耳に当てたまま固まった。顔面から血の気が引いていく思いだった。社長の声はまだ、スマホから聞こえていたが、何を言っているのか、頭には入ってこなかった。


 ゆっくりと階段を踏み鳴らして二階のたかしの部屋に向かった。老朽化がひどい借家の、二階に上がるこの階段は、一歩一歩上がるたびにギシギシ、ギシギシとうめくように鳴く。そのうめき声を、まるで自分のモノのように感じながら、礼子はのぼった。

 たかしの部屋の前で、ドアノブに手をかけて、躊躇した。なんと言って接したらいいのか、頭の整理がつかない。ふ~、と息を吐いて、まずは、声を掛けた。


「たかし、入るよ」


 ドアを開けると、たかしは寝そべってマンガを読んでいた。なに?という顔をするたかし。礼子はゆっくりとたかしの横に正座して、じっと見つめて、静かに言った。


「グローブ出しな」

「えっ!」

 たかしの表情が強張った。

「グローブ、出しな」

 もう一度、静かに言った。

 表情を強張らせたまま、マンガを閉じ、立ち上がって、机の横にあるランドセルを開け、中からグローブを取り出した。たかしは、おびえたような眼つきをして、恐る恐るそのグローブを礼子に差し出した。

「それ持って、ついてきな」

 静かに言った。

 *

 蝉の声がうるさい。耳をつんざくようだ。

 オッカーが俺の手を引いてひたすら無言で歩いている。うつむき加減で、しかも、歯を食いしばっているみたいだ。ただ、歩く。歩く。

 ザッザ、ザッザ、ザッザ、ザッザ、と足音だけは勇ましく響く。

 おかしい。と、たかしは思った。

 こういう時は、まず、間違いなくゲンコが飛んでくる。バレたときは2・3発喰らうかも。と覚悟したのに。どうしたんだろう。

 おおっと。

 たかしは足がもつれて、つんのめった。手に持っていたグローブを落とした。

「いけね・・・」

 礼子は気付かず、たかしを引っ張って連れて行く。

「オッカー、グローブが・・・」

 礼子は立ち止まって、顎をしゃくった。グローブを取ってこい。ということらしい。たかしは、走ってグローブを取りに行き、再び礼子のもとに戻った。礼子はそれでも何も言わず、また、手を引いて歩き出した。

 蝉の鳴き声。勇ましい足音。そして、オッカーの背中。

 たかしは不安を募らせながらも、歩調を合わせるので精いっぱいだった。


 *   *   *


「うちの子がとんでもないことをしました」

 礼子はたかしの手を握ったまま、社長と大久保に対して、深く頭を下げた。


 社長の店の事務所の中に入った時だった。大久保がスナックに来るときの普段着と違い、警察官の制服を着ていたのには動揺の色が隠せなかった。が、それが本職なんだからしょうがない。と覚悟を決めた。とにかく、あらいざらい全部話してあとはお任せしようと思った。

 その前に。

 たかしをキッと睨んで、握っていた右手を離した。

「たかし!」

 と、叫んで、思いっきりゲンコを喰らわせた。ゴン!っという音が響いた。

 たかしは瞬間、目を瞑って首を引っ込めたまま、中腰になった。ゲンコが来るのを察知して覚悟して頭で受け止めた。「ううう」っと、喉を鳴らしてうめき声をあげた。けれど、しっかりと踏ん張って、歯を食いしばって痛みに耐えた。


 よし!終わり。今度は私の番だ。


 礼子はおもむろに土下座した。

「社長。大久保ちゃん。話を聞いて。聞いて下さい。この子はグローブをお年玉で買うと言いました。私がダメと言いました。この子のお年玉貯金だったら充分グローブは買えます。でも、私が使っちゃって、今ないんです。お店の支払いが苦しいときは、ちょくちょく、子供のお金に手を出します。先月が丁度そうでした。だから、今、お金がないから、ダメと言いました。頭ごなしにダメと言いました。この子はお年玉で、自分のお金でグローブを買うと言いました」

「ママ、ママ・・・」

 と、社長と大久保が困ったような顔をしている。土下座なんてよして顔を上げて。とでも、言ってくれるつもりなんだろう。甘えちゃいけない。

 土下座のところから、頭の位置を一旦持ち上げて、思いっきり床に打ち付けた。


「私がやらせたんです!」


 ガン!っと音がした。衝撃音がそのまま頭に響き、鼻の奥に金属臭が走った。額に熱いものが込み上げてくると、頭の芯が締め付けられるように痛み出した。思わず、「ううううう」と声が漏れた。だが、まだまだ。


「これは、私がやらせたんです!私がやらせたんです!私がやらせたんです!」


 今度は、何度も何度も、ガンッ!ガンッ!ガン!と、額を床に叩きつけながら叫んだ。

 気が付くと、額から血がボタボタと滴り落ちていた。

 ドサっという音がした。たかしの手からグローブが滑り落ちた。

 *

 社長は考えた。必死で考えた。

 目の前でママが血みどろになってぶっちゃけた。そりゃ、普通だったら、もうやめなさい、そんなこと。と止めている。そこまでしなくていいから。となだめる。

 だが、違う。これは、そんなもんじゃない。


 俺は、問われている。

 今、この時、この状況で、お前に何ができる?

 と、問われている。


 ママに、そのつもりがないことは百も承知だ。が、そんなことは関係ねえ。

 そうか、逆だ。俺は自分に問うぞ。問わねばならん。

 ママがここまでやったんだ。男の俺に何ができる。通り一辺倒なことでお茶を濁してたまるか。考えろ。考えろ。おい、ハゲ。お前に何が出来るか、考えろ。


 ――あった!


「お、お、俺。ママの店に、ツケが無かったか?」

「この間、清算して貰った・・・」

 礼子は下を向き、額から血が滴り落ちているのもそのままに、声を絞り出して言った。

「くそ~・・・」

 社長は、天を仰いで、思いっきり悔しがった。うちの経理を恨んだ。


 次の瞬間、大久保がハッと目を見開いた。社長の言葉に刺激され何か閃いたようだ。

「ママ、俺、今日ボトル入れるよ」

 ビシっと、手を挙げて宣言した。

「まえばらい、しようかな~・・・」

 ズボンの後ろポケットから、財布を取り出して、おもむろに開いた。

「あ、二千円しかないや・・・」

 大久保は、へなへなっとしおれて、しょぼくれた。


 いいぞ、デブ。その手があったか。芝居はくさかったが、充分だ。よく言った。骨は後で俺が拾ってやる。今は、その辺で死んでろ!

「俺に任せろ!」

 社長も、財布を取り出し、ガバッと見せつけるように、開いた。

「今晩ボトルキープ、二本するぞ。前払いで二万。ほらっ!」

 と、二万円を抜き取ると、大久保がむくっと生き返って、受け取った。

「お買い上げ、ありがとうございまーす。ママ、売り上げです」

 すぐさま、土下座している礼子の手を取って、大久保が二万円を握らせた。


 わかってるじゃねーか。デブ。相変わらず芝居はくさいが、この後の流れは打ち合わせなしで、いけるな。いいか、今度は俺が仕掛けるぞ。一世一代の芝居を見せてやる。下手打つんじゃねーぞ。いいな。


「な~に~・・・たかしく~ん。グローブが欲しいのか~・・・」

 社長は声を裏返して、キョロキョロしながら、たかしの周りを歩き始めた。明らかに挙動不審なおっさんだ。自分では名演技だと思っている。

「おじさんの店にいいグローブがあるぞ~。高級なヤツだぞ~。買ってくれるのかな~」

 見るに堪えない三文芝居とはこれだ。うつろな目をして首を振っていた。

「買います。買います。買いまーす!」

 大久保がビシっと手を挙げて、社長とたかしの間に割って入った。ノリノリだ。

「たかし君は、じぶんのお年玉で、グローブを買います」

 こっちも相変わらずくさい芝居だ。がきデカの『死刑』ようなポーズで指を差した。

「お母さんが、ちょーど、持ってます!」

 大久保は、今渡した二万円を礼子の手から、引きちぎる様にひったくり、

「はいいい」

 と、すごいスピードで社長に渡した。

「お買い上げありがとう御座います」

 社長もしっかり受け取った。二万円を頭上に掲げて「ははあ」と、仰いだ。

 素早くお釣りを用意し、

「1万5900円ですので、お釣りは4100円になります」

 礼子の手を取って、お釣りを握らせた。

 大久保は、たかしの足下に落ちているグローブを拾い、パンパンとほこりをはらって、

「いいグローブ買ったな。たかし君。かっこいいな」

 と、たかしの手を取り、こちらも強引に握らせた。


「社長。大久保ちゃん・・・」

 礼子は呆気に取られて一部始終を見ていた。

 *

 たかしは、何が起きているのかわからなかった。オッカーが血を流しながら謝っている。おじさん達はわあわあ、わあわあ騒いでいる。この大騒ぎは自分が招いたことなんだ。それだけは紛れもなくはっきりしている。だんだん、呼吸が荒くなってきた。とにかく、ここにいることがいたたまれなかった。グローブを持ったまま走り出した。

「たかし!」

 と、礼子の叫び声が響いたが、たかしは振り向きもせずに店を出て行った。


 *   *   *


 陽が西に傾き、吹く風は秋の気配を漂わせていた。

 いつしか、耳をつんざくような蝉の鳴き声が止み、ヒグラシの鳴き声が柔らかく辺りに響いていた。


 たかしは、市中を流れる川の橋の上に立っていた。グローブを手にして、川の流れを見ていた。川の中では、本流から外れた吹き溜まりで、落ち葉が一枚くるくると回っていた。石と枝にはさまれて、水の流れが滞留している。その中でくるくる回って、出口を失った葉っぱを、ただ、ボーっと眺めていた。


 自分が、グローブを買ってくれと言ったから、オッカーがあんなことになったんだ。あんなに血が出るまで。俺は、何でこんなことをしてしまったんだろう。どうしようもないヤツだ。野球なんてやる資格はない。

 思いつめたような顔をしていたたかしだが、意を決して、グローブを川に投げ込もうと、振りかぶった。

 が、誰かに手を掴まれて止められた。


「守兄ちゃん」


 真っ白なユニフォームを着た守兄ちゃんだった。

「どうするつもりだ。それ」

 そう聞かれて、守の顔から眼をそむけた。

「グローブは投げるもんじゃないだろ・・・」

 手からグローブを取り上げられた。守は、グローブとたかしの顔とを交互に見た。何か言いたそうな顔をした守だったが、さらに様子を伺うように、中腰になりたかしに目線を合わせて顔を覗き込んできた。

 たかしは、黙って下を向いているしかなかった。


 守はスポーツバックからワックスを取り出し、グローブに塗りはじめた。

「いいか。こうやって手入れするんだ。買ったばかりのグローブには、ワックスは薄く薄く塗って、丁寧に布でふき取るんだぞ。塗るのは、手のひら側だけでいいからな。紐にも軽く塗るんだ」

 布でふき取るところも見せてくれた。


 暫くそれを見ていたたかしは、ふいに口を開いた。

「俺がグローブ買ってって言ったら、オッカーが大変な事になって・・・」

「里中のおばちゃんが?・・・どうかしたか?」

「えっと・・・」

 どう説明したらいいかわからなくなってしまった。また、黙った。

 守兄ちゃんは困ったような顔をしていた。

「まあ、いいけど・・・いいグローブ買ってもらったじゃん」

「うん・・・でも、俺なんかが、野球やってもいいのかな」

 たかしはグスグスと鼻を鳴らし始めた。

「なんか分かんないけどさ、野球が好きになったんだろ」

「たぶん・・・」

「だったらいいに決まってるじゃないか」

 守兄ちゃんがそう言ってくれた。目の前の、エースで4番が、そう言ってくれた。俺は、まだ、諦めなくてもいいのかな。思い切って、聞いてみよう。

「じゃあ、エースで4番になるにはどうすればいい?」

「ん?」っとした顔の守だったが、すぐに、口元を緩ませて、

「それはな・・・」

 と、磨き終わったグローブをたかしの頭に被せながら、言った。


「グローブを大事にすることだ」


 ボソっと、頭にのせられたグローブ。ワックスの匂いがしていた。

 たかしは、頭からグローブを外して、抱きかかえた。

「うん」

 と、返事をすると同時に涙が止めどなく溢れ出した。


 風が吹いて、枯れ葉が一枚、川の水面に落ちて流れていった。


 第3話 終


マンガ動画「大事なもの」はこちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=XEjrPqzzHw8

マンガ動画のタイトルは「えんぴつ時計のある街で」になっていますが、

このシナリオをノベライズしたのが「となりのとなりの物語」です。

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