第2話 ポケットから飛び出せ
上段に構えた刀がキラリと光る。
「闇の彼方へ消えて行け。生々流転」
ドゥクシ!と叫びながら、袈裟斬りで、上から思いっきり刀を振り下ろした。
ガンっと、机の角に手をぶつけた。
―― イテッ!
刀のつもりで握っていたペンが壁に吹き飛び、フローリングの床に転がった。
「もう。イッテエなあ・・・イマイチだよな」
小林祐樹は必殺技の掛け声で悩んでいた。
椅子から立ち上がって、上段の構えを決め、ペンを刀に見立てて振り下ろし、叫んでは見たものの、しっくりこない。必殺技の掛け声は大事なんだよ。どうすればいいんだよ。
『千集中、右の呼吸』とか、よく考えるよな、クソー。と、小林は椅子にドカンと座った。ズキズキと疼いている手で、床に落ちたペンを拾った。
そもそも、この必殺技はどういう原理で発動するんだ。魔法は絶対使いたくない。そんな安易な手には逃げないぞ。超能力か妖術か、それも、何かしらの発動条件がそろわないと、繰り出すことは出来ないんだ。都合よく、いつでもどこでも使えるわけじゃないんだ。
それって、魔法とどこが違うんだよ。と、小林は机に突っ伏してしまった。
「でも・・・」
生々流転。はいいかも。思わず出た言葉だ。確か横山大観の作品でそんなのがあったな。なんかいいぞ。もともとどういう意味だっけ?スマホで調べた。
生々流転。――すべての物は絶えず生まれては変化し、移り変わっていくこと。万物が、生まれては死に、死んでは生まれるを繰り返すこと。形を変えて永遠に変化し続けること。
そっか。こいつは太古の昔から生まれかわって、姿を変え、時代時代において、子供たちのダークヒーローとして正義の鉄槌をくだしてきたんだ。必殺技は生々流転。
今世では、ある、いじめを受けている小学五年生の少女、リンの前に現れる。その姿は一見醜く、野獣のように荒々しい。だけど、リンにとってはかけがいのない友達となった。リンをいたぶるいじめっ子の背後には妖魔が暗躍しており、本当の敵はそいつらだった。妖魔は、いつ牙をむき出して襲ってくるかわからない。そのため、普段はリンのポケットの中にカプセル怪獣のごとき身を縮め、潜んでいる。
よし。これは行けるぞ。と、小林は鉛筆を握りしめ、マンガのネームを次から次へと仕上げていった。ネームとは、マンガを原稿に描く前に下書きをする作業だ。自分も、もう今年で28だ。そろそろデビューして、一花咲かせないと田舎におちおち帰れもしない。親には美大を卒業するまでに高い学費を出してもらっている。実家に帰ると「まだ、マンガなんか描いてるの。早く就職しなさいよ」と、母親に詰められる。ここ最近は本気度が違う。小林は背水の陣を敷いてこの作品に取り組んだ。
* * *
「啓太。見ろよ」
と、下校中に里中たかしが顎をしゃくった。
岡田啓太が、ふと前を見ると、同じ小学校で同じ五年二組の川田ひなのが一人で歩いて帰っていた。赤いランドセルに赤いスカート、白いハイソックスの後ろ姿からは、なんとなく清潔感が漂っている。容姿でいうと、学校の中では男子人気トップ5に入る女子だ。啓太も日頃から、気になる存在として意識はしている。
あれ?いつもは友達と帰っているのに、今日は一人なんだ。と、啓太は思った。
「川田の奴、ムカつくんだよアイツ。俺の遊戯神カード、没収されたんだぜ。あいつがチクったせいでよ」
たかしは歯噛みするような表情でひなのを睨んでいる。
「まじか」
「ああ、あいつすぐ、いい子ぶんだよ。チェッ、啓太ここで見てろよ」
たかしがひなのに向かって走り出した。猛ダッシュだ。たかしは足が速い。運動会の徒競走ではいつも断トツ一位になる。
「え?」っと、思った瞬間には、ひなのを追い抜いていた。
――あっ!
お尻のスカートが、フサッとめくれあがった。パンツは白かった。
赤いランドセルに赤いスカート。白いパンツに白いハイソックス。赤赤白白だ。見事なコントラストだった。啓太はドキッとした。
「きゃあ!」
と、叫んでスカートを抑え、ひなのが振り返った。と同時に、啓太が睨みつけられた。
「え!俺?」と、ビビった。
いや、確かに、み、見たけど。見えてしまったけど。俺じゃないのはわかるだろ。この距離では手は届かないし、たかしが通り過ぎる瞬間にめくったのは一目瞭然じゃないか。俺は偶然後ろにいたから、目に入っただけで。たかしが見てろよって言うから・・・見てろよ。って、このことか。たかし!
ひなのは啓太を睨みつけながら、「サイテー」という軽蔑の視線を刺してくる。見たこと。いや、見えてしまったことの罪は相当デカいらしい。そんなバカな。俺は違う。俺は違う。と思わず、啓太は小刻みに首を振っていた。
「ははははは」
たかしは笑いながら、ひなのの真似をして自分のお尻をパンパン叩いて、抑えている。ひなのは振り返って、今度はたかしを睨みつけた。啓太は睨みから解放され、束の間ほっとしたが、次の瞬間、衝撃的な出来事が起こった。
ひなのが、スカートの前をたくし上げて、自分からたかしに向かってパンツを見せた。
「あんたも見たいんでしょ」
冷めた口調だった。
――で!
たかしは固まった。ひなのの後ろから見ていたので、たかしの表情が丸見えだ。目が点になるとはまさにこのことだった。啓太も何が起きているのか頭の整理がつかず、呆気に取られてしまった。
ひなのがスカートをたくし上げたまま、さらに、たかしに詰め寄る。一歩、二歩と。
「ほら、見たいんでしょ」
ヒッと、たかしは喉を鳴らして、オバケにでも遭遇したような顔になっていった。
『反撃だ!』これは川田の反撃なんだ。ようやく理解した。しかし、日頃から気の強い女子だとは感じていたが、まさか、こんな手に出るとは。と啓太は驚いた。
たかしは後ずさりしながら、
「お、お前、バ、バッカじゃねーの。こっち来るなよ。ブス!」と、捨て台詞を吐き、「行くぞ。啓太」と、踵を返して走り出した。
「待てよ」
啓太もたかしを追っかけて走り出した。横を走り抜けるときは、わざと伏目がちにして、ひなのの方を見ないようにした。チョー、ドキドキしていた。
二人が走り去っていく後ろ姿を見ながら、
「あほくさ」
と、ひなのはスカートを下ろして呟いた。
* * *
いいのか、悪いのか。どっちなんだ。
小林は肩に力を入れ、コブシを握り締めて、座って待っていた。この瞬間は何度味わっても気が気じゃいられない。机を挟んで、目の前で編集部の上杉浩二が一枚一枚原稿をめくって持ち込んだマンガを読んでくれている。妙に眉間に皴を寄せているのが不気味だ。
もう、何度目だろう。ここの編集部にマンガを持ち込んで見てもらうのは。十回は越えている。上杉は毎度、的確にアドバイスをしてくれる。今や兄貴のような存在だ。それに答えられない自分は未だにデビュー出来ない。編集会議の最終選考までは行ったが、最後の壁を乗り越えられない状態だった。今後こそは。と思っている。
上杉がまた一枚ページをめくった。そこだ。その大ゴマが見せどころなんだ。どうだ。上杉の口元が若干緩んだ。よし、反応ありだ。しかし、すぐまた険しい顔に戻って次のページをめくった。今回の出来はいい。と自分では思っているが、上杉のリアクションがいつもより薄い気がする。それが最後のページだ。ダメなのか?どうなんだ?
「う~ん、なるほど・・・いいじゃん。成長したなコバちゃん」
ニコッと笑ってくれた。
――ヨッシャー!
思わず、ガッツポーズをとってしまった。
「オイオイ、喜ぶのは掲載が決まってからにしてくれよ」
「あ、はい・・・」
「編集長は俺ほど甘くないからな・・・」
「そうですね・・・でも、上杉さんに褒められただけでも」
「まあ、誰よりもコバちゃんの苦労を知ってるからな俺は・・・持ち込み続けて3年か?」
「4年になります」
「そっか。今度こそデビューできるようにこれを仕上げていこう」
来た。上杉さんの直しだ。
「まず、この『ポケット入道』のキャラを可愛くポップにしてくれ。このままでは恐すぎると思う。普段は主人公のリンちゃんに寄り添う形で傍にいてくれた方がいいと思う」
「そうですか。実は美女と野獣のイメージで創ってみたんですけど・・・」
「そこでだ。この必殺技の『生々流転』がいい。バトルシーンでこの生々流転を繰り出して敵を倒すときに、いろいろと形態変化する。野獣と化したり、妖怪と化したり、普段の可愛いキャラとは打って変わって、迫力あるキャラに瞬時に変化するというのはどうだろう?タトゥーか何かのワンポイントを入れて、こいつ本人であることはわかるようにした上でだ。その時に、美女と野獣を想起させる創りにしてみては・・・」
なるほど、面白いぞ。さすが上杉さんだ。
「いいですね。殴る。蹴る。打撃の一打一打で変化させてみましょうか?」
「のって来たな。コバちゃん。そういうことだ。殴る。蹴る。だけじゃなくて、使っている武器も変化させてみてはどうだ。刀が鎌、鎌が斧と、次々とキャラと共に変わっていくのは?」
「面白い。それ、やってみたいです」
「よし。じゃあ、まずはキャラ設定を丁寧に仕上げて、メールでいいから送ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
小林は立ち上がって、深くお辞儀をした。
* * *
夜。小林がアパートに帰ると、ひなのがアイロン掛けをしていた。背中を向けたまま横座りをして、アイロン台の上で、肘を張って滑らしている。「お帰り」と声だけ発して、小さな背中が小林を迎えてくれた。
「おう」と、一応返事はしたが、お前は古女房か。と、心の中ではツッコんだ。
ひなのは妹でも親戚の子でもない。近所の小学五年生の女の子だ。それが、いつの間にか小林の部屋に勝手に上がり込んで、普段はマンガを読んだりしている。が、今日は珍しく、マンガを読んでいない。押し入れからアイロン台を引っ張り出し、Tシャツやハンカチにアイロンを掛けている。すでに、かけ終わったモノが数枚づつ、綺麗に畳んで積んであった。
「なにやってんだ、お前?」
「アイロン掛け・・・」
「見りゃ分かるよ・・・なんで?」
「今日、家庭科でならったから・・・」
「ふ~ん・・・でも、もうこんな時間だ・・・帰らないと怒られるぞ」
「大丈夫。うちは今、夫婦喧嘩で忙しいから・・・」
またか・・・。
この子の両親は夫婦喧嘩が絶えない。小林の部屋の窓を開けると、隣の家の窓が正面にある。かなり隣接しているので、しょっちゅう怒鳴り声が聞こえてくる。そうなるとひなのは、家の中に居場所がなくなり、ここに緊急避難するようになった。
* * *
あれは二年前だった。窓もカーテンも閉め切って、根詰めてマンガを描いていた。すると、お隣さんで夫婦喧嘩が勃発して、声が聞こえてきた。
「あんたが掃除するって言ったんでしょ」
「したよ。見てみろよ」
「こんなのしたって、言わないのよ」
「お前は言わなくても、俺は言うんだよ」
「私は一日中、働いてきたの。掃除ぐらいちゃんとやんなさいよ。自分でやるって言ったんだから!」
「だから、したって言ってるだろ!」
不毛な怒鳴りあいが永遠と続きそうな気配に苛立って、小林は立ち上がった。「うるさい」と、ひとこと言ってやろうと思って、『シャー、ガラガラ』と、音をたててカーテンと窓を思いっきり開けた。
目の前にひなのがいた。窓枠に頬杖ついて、外を眺めていた。
お互い至近距離で目が合って、びっくりした。小林は口から出かかっていた文句を飲み込んだ。ひなのも目を丸くしていたが、小林の部屋の中を覗き込んで、
「あ、マンガがいっぱいある」
と言って、顔をほころばせた。当時は三年生だったから、今よりさらに幼かった。子供がマンガに反応するのは、小林にとっては嬉しい事だ。
「読みたいのあったら、貸すよ」
と、投げかけた。
「そっちに行ってもいい?」
ひなのが聞いてきた。
ひなのの後ろでは、相変わらず、両親の怒鳴りあう声が飛び交っている。断り切れず、「いいよ」と言ったら、窓から飛び移って、部屋に入ってきた。以来、頻繁に訪ねてくるようになった。
* * *
小林は、ひなのが丁寧にアイロンを掛けたTシャツを一枚取り上げた。
「へえ~、綺麗に出来てるじゃないか」
Tシャツの横に並んで積んであるハンカチに目を落とした。うちにこんなにハンカチってあったっけ?と思いながら、
「でも、ハンカチはここ何年も持ったことないな・・・」
と、ポツリと漏らした。
ひなのが真っ白なハンカチをとって立ち上がり、
「じゃ、持ってみたら・・・男の身だしなみってやつで」
小林のジーンズの後ろポケットにねじ込んで、バンっとお尻を叩いた。
半歩、前に押し出されながら、だから、古女房か!と、もう一度心の中でツッコんだ。こいつ、最近めっきりマセテきた。ガキのくせに生意気な。
「小林さ~ん、ひなのいます?」
隣の家から声がした。ひなののお母さんだ。窓を開け、「ええ、来てますよ」と答えると、
「すいませんね。いつも・・・これ、ロールキャベツ。小林さんの分も作ったからよかったら食べて」
と、タッパを窓越しに渡された。
「ほら、ひなの。帰りなさい」
さり気なく言って、ひなののお母さんは奥に引っ込んだ。「はーい」と、ひなのは生返事をしてアイロン台を畳んで、押し入れに片付けはじめた。
*
小林はほっとした思いで、窓を閉めて言った。
「良かったな。落ち着いたみたいだぞ」
ひなのに向かって、慰みがてら言ってるつもりだったが、実は、自分に言っているようにも聞こえた。本音ではそうだ。早く帰って欲しい。こっちはマンガの直しに集中したいんだ。
「甘い甘い、今度は私がどっちに着くかで揉めるから・・・」
ひなのは玄関で靴の紐を結びながら、小さな背中で飄々とそう答えた。
そうか。この子は修羅場の第二ラウンドが始まるのを覚悟して、帰路に向かうのか。小林は、そのまま帰らせるのが、少々後ろめたくなった。
「ひな、『ポケット入道』好感触だった。編集さんと打ち合わせが盛り上がって、直しはいっぱいあるけど、今度こそ、いけそうだ」
「うん。今までで一番面白いからね」
「で、相談なんだが・・・主人公のリンの名前がどうもしっくりこなくてな・・・ヒナって名前にしようかと思う。お前の借りていいか?」
「オッケー。貸してあげる」
ひなのがニコッと笑って、玄関を閉めた。
* * *
「可愛くてポップなキャラか・・・」
小林はポケット入道のキャラクターデザインで迷っていた。バイトでコンビニのレジに立っているときでも、メモ帳をレジ台に置き、思いついては、何度も描き直していた。
セーラー服姿の女子中学生がペットボトルのお茶を買いにレジにやって来た。が、小林は気付かず、メモ帳にスケッチをしている。だんだん、目的のキャラが見えてきた。
「これだ!」
いきなり小林が叫んだ。
中学生はビクッとした。小林は下を向いたまま、夢中になって描いている。
「あの~、すいません・・・」
と、声がした。
「ちょっと待って、今降りてきそうなんで」
思わず、左手をあげていた。右手に持ったペンは止まらない。サラサラっと、何パターンか立て続けに描き起こした。可愛くてポップなポケット入道が誕生していろんな表情を見せ始めた。
中学生はそれを眺めながら、だんだんと興味が湧いてきたようだ。
「なになに?」と聞いてきた。
「キャラ・・・マンガの・・・」
小林は描き続けた。
「へ~、カワイイ。自分の事、オラアって言ってそう・・・」
小林は鼻で笑った。
「オラって、ゴクウじゃないんだから」
「違う違う。オラじゃなくて、オラア。アがつくの。東北弁的な。――悪い奴はオラアがやっつけてやるだぁ――みたいな」
中学生は軽く首を振りながら、ノリノリで言った。
小林は顔を上げて、はじめて女子中学生の存在を確認した。屈託のない笑顔で小林を見つめていた。二重まぶたの大きな瞳だった。
「君、何者?名前は?」
「浅田詩織。中学三年生です」
「採用」
「ありがとうございます。なにを?」
「東北弁。いいよ」
「やったぁ」
詩織は小っちゃくガッツポーズをとった。
* * *
上杉さんからOKが出た。可愛くてポップなキャラはこれで決定だ。東北弁もハマった。
バトルシーンの野獣キャラ、妖怪キャラ等、迫力あるキャラに関しては得意分野だ。普段から描いてストックしている中から選べばいい。この引き出しは多い方だ。
問題は、野獣キャラから可愛いキャラに変更した分、ストーリーやセリフの整合性を図る必要性がある。こいつは厄介だった。机に向かって考え込んだ。
「小林さ~ん、カレー食べる?」
お隣さんから声がした。ひなののお母さんだ。小林のカレー好きを知ってから、カレーの時は必ずお呼ばれされるようになった。いつもはありがたくご馳走になりに行くのだが、集中を切らせたくなかった。窓を開けて断った。
「すいません。今日はもう食べちゃって・・・」
「コバちゃん。カレーだよ」
ひなのもいた。
「ありがとう。でも、お腹いっぱいなんだ」
*
いつの間にか、隣の川田家が第二の実家のようになっている。ひなのがちょくちょくマンガを読みに来るようになってから、ひなのの母、川田陽子は小林にお返しとばかり、たまに食事の面倒を見てくれるようになった。陽子の料理の腕は確かだった。
夫婦喧嘩の絶えない川田家だが、小林にとっては親切で優しい人達であった。
母親の陽子は、介護士の仕事をしていると聞いた。肉体的にきつい仕事だ。それで納得いったのが、陽子の腕や足のたくましさだった。体幹も普通の40歳の主婦のそれとは違った。マンガを描くため、人物を骨格や筋肉で見る癖がついている。陽子が美味しい手料理を振舞ってくれるときは、その包容力からか、小林はなんとなく安心感に包まれた。
父親の川田圭介は旋盤工の職人だったらしい。ただ、仕事中に事故で機械に手を巻き込まれ、左手の親指以外の四本は欠損していた。一時期やけになり、酒と競馬に狂って、家族に心配かけていたが、反省して今はそれほどでもないらしい。たまに、「お馬さんを見に行こう」とひなのを誘って競馬場に行くのはやめてなかったけど。小林も誘われ三人で行ったこともある。競馬に行くのは初めてだった。
「馬を選ぶのはどこを見たらいいんですか?」
「コバちゃんは迷っちゃダメだぞ。ビギナーズラックというのがあるから。名前が気に入ったとか見た目がいいとか、直感で選んだ方がいい。迷うな!」
「じゃあ、これで」
「うん?どれ?それ?・・・いや、それは・・・ないかな・・・」
「でも、ビギナーズラックがあるんでしょ」
「確かにあるんだよ~、迷うよな~、ひなの~、お父さん、どうちよっか?」
明るくて楽しい人だった。
*
この二人の相性が悪いから、夫婦喧嘩が絶えない。たいていは父親の圭介が問題を起こして怒られるところから始まっている。左手の障害を差し引いても、夫がだらしないので、嫁の堪忍袋の緒が切れる。というパターンだ。
とは言え、ひなのにとっては、だらしないだけの父親でもないらしい。
競馬を観に行った時だった。父親の不自由な左手を気遣って、ひなのは献身的にお世話をしていた。世話と言っても、焼きそばをお箸で食べさせてあげたりだとか、その程度だが。妙に楽し気に世話をするひなのが印象的だった。この子は、お父さんの事、好きなんだな。と思った。
しっかり者で料理のうまい母親が嫌いなわけがない。左手が不自由でも、明るくて楽しい父親だ。もちろん嫌いなわけがない。
だったら耐えられないだろう。二人が喧嘩ばかりしているのは。母親が父親を罵倒している時の言葉なんかは、特に聞きたくないはずだ。競馬場でわいわいとレースを観ながら、小林は、そんなことを強く感じた。
* * *
「マンガ家さん・・・」
と、バイト中に小林は声をかけられた。先日の浅田詩織が目の前で手を振っていた。今日は学校のジャージを着ていた。
「あ、このあいだはありがとう。東北弁。やっぱり良かった。担当さんに褒められたよ」
「良かった。あれで可愛さ倍増だもんね。あのキャラ」
すると、もう一人。カゴに栄養ドリンクをいっぱい入れた女子中学生が現れた。詩織と同じジャージを着ていた。
「こっちは美咲。私の親友。私達、川北中の野球部でマネージャーやっているんだ。野球マンガ描くときは、私達をモデルにして美人マネージャー物語にして欲しいな・・・美咲、この人マンガ家さんなんだよ。今度デビューできるかもしれないんだって」
「どうも・・・こんにちは」
美咲は落ち着いたトーンで挨拶してくれた。少し怜悧な感じにとがった鼻と細い顎が印象的だった。チラッと詩織に視線を送りながら、言った。
「すいません。この娘、騒がしくて・・・詩織、早く買って帰るよ」
「今日、チームで紅白戦なの。勝った方が、部費でこれを飲めるんだ。マネージャーも紅白に分かれているから、私達の分もあるんだよ。一本だけ」
詩織は指を一本立てて、大きな目でウインクをした。
この二人は、好対照な印象だ。う~ん、確かにありだ。明るく元気な娘とクールビューティーな娘の二人組マネージャーか。野球はあまり詳しくないが、美人マネージャー二人組。という設定はどこかで使えそうな気がする。小林はレジを打ちながらマンガのネタの品定めを始めていた。
会計を終えた後、詩織が心配そうに聞いてきた。
「マンガ家さん。ちゃんと寝てる?クマが出来てるよ」
「う~ん、締め切り近いから、夜は追い込み掛けてて・・・あまり」
「これ飲んで頑張って」
と、栄養ドリンクを一本渡された。マネージャーの分だ。
「いいよね。美咲」
「いいよ。頑張ってください」
と、美咲も笑顔を送ってくれた。
「ありがとう。頑張るよ」
思わず、力を込めて答えた。すかさず詩織が言った。
「ね。私達二人が応援すると、男子って頑張っちゃうんだ。うちの野球部強いんだから」
「なるほど。俺、そういうマンガ、描きたくなってきたなあ」
「ははははは」
三人で同時に笑った。
*
コンビニの外では、ひなのが中の様子をこっそり見ていた。ランドセルの肩ベルトを、思わずぎゅっと握りしめた。
* * *
夕方。アパートに帰ると、ひなのが寝そべってマンガを読んでいた。
今日は「お帰り」の一言がない。なんか様子が変だぞ。と思っていると、こっちを見ずにぼそっと言った。
「マンガは出来たの?」
「今、描いてるよ」
ひなのは立ち上がって、カレンダーの締め切りマークを指さした。
「締め切りまで時間がないのよ。遊んでいる暇なんかないんだから」
「遊んでなんかねーよ」
なんなんだ。こいつ。
「今回はヒナの名前貸してあげたんだから。責任重大なんだから。ちゃんとやってよね」
それだけ言って玄関をバタンっと閉めて出て行った。
――はあああ?
なんだ。あの態度は。生意気にもほどがあるぞ。もう許さねえ。しばらく出入り禁止にしてやる。と、小林は玄関を開けて、外にある植木鉢の下の合鍵を拾って戻り、机の引き出しの中に放り込んだ。ひなのは、この合鍵でいつも小林の部屋に出入りしていたからだ。
大体、名前を借りたのだって、あの時、ひなのが寂しそうな背中をしていたから、元気づけてやろうと思って、つい、こっちがサービスしたんだ。名前なんて、なんでもいいんだよ。チクショウ。最近図に乗ってきてやがるんだ。アイツ。何様のつもりだ。あーイライラする。こっちはマンガに集中したいのに。と、思った矢先、
「ギャーギャーうるせえな。この野郎!」
「何回も言わせるからだよ。このロクデナシ!」
隣で夫婦喧嘩がまた始まった。知らない人が出す音は騒音に聞こえるが、知っている人が出す音は最早、単なる騒音ではなかった。川田家の夫婦中も気になり出してはきているが、何よりも、ひなののことが頭をよぎった。
小林は、机の引き出しを開けて合鍵を見つめたが、「知るか」と吐き捨て、ガシャンと閉めた。ヘッドホンを付けて、マンガの原稿に取り掛かった。
*
カレンダーに×を付けた。
上杉から言い渡された締め切りまであと一週間。栄養ドリンクを大量に買い込んできた。徹夜でも何でもして完成させてやる。と意気込んで、最後の追い込みに入った。
カレンダーに×を付けた。
今日は特にペンがすすまない。ぐしゃっと、ごみ袋を踏んづけた。気が付くと部屋の中をウロウロと歩き回っている。しばらくゴミ出しをしていないので、部屋のあちこちに散乱している。思わず蹴っ飛ばした。
カレンダーに×を付けた。
栄養ドリンクをまた一本飲んだ。空き瓶が増えていく。窓もカーテンもしばらく開けてない。開けると集中が切れそうで閉めっぱなしだ。外界との接触を極力遮断した。
迷いに迷っているシーンがある。気が付くと、トイレに座っている間も頭を抱えこんでいた。万年床で敷いてある布団に倒れこんでしばらく考えていたが、もう迷っている時間はない。と思い直し、立ち上がった。
「だあ!」と叫んで、横一文字に刀を振った。腰の位置を確認するため、自らやってポーズを決めた。このくらいか。いや、もっと足を開いて、腰は低く落とした方が安定感が出る。よし、これで行こう。
目の下のクマがゴワゴワと騒いでいた。首を振って、「ああ!」と一声叫んでから、栄養ドリンクの蓋を開け一気に流し込んだ。椅子に座り、Gペンをつかんで、迷いを振り切って、原稿に取り掛かった。
* * *
朝。学校に行く前に、ひなのはランドセルを背負って小林のアパートにやってきた。玄関を軽くノックした。
返事が無い。
傍にある植木鉢を持ち上げた。いつもある合鍵がない。
ひなのは植木鉢の底の裏を見た。合鍵があった。湿気の多いときは鍵が張り付いている時がある。―― 小林は結局、鍵を戻していた。
「コバちゃん・・・出来た?」
玄関から顔だけ突っ込んだ。この間とった自分の態度に後ろめたい気持ちもあってか、遠慮がちに声をかけた。
小林は机に突っ伏したまま寝ている。机の上には完と書かれた最終ページの原稿と栄養ドリンクの空き瓶が並んでいた。他の原稿はガラステーブルや床に置いてあった。
ひなのは順番に拾って、原稿に目を通した。原稿を見るときは、そ~と、大事に扱うことは心がけている。原稿がちゃんと乾いているか。をまずは確認した。床に正座して、一枚読むごとにガラステーブルの上に綺麗に揃えて重ねていった。
「うわあ・・・私がいる・・・あ、ヒナって呼んだ」と、息だけの声で言った。
ひなのの目はらんらんと輝いていた。
最後の一枚を机の上から手に取ろうとした時だった。小林が「う~ん」と寝返って、栄養ドリンクの瓶を手で倒した。ドリンクの残りがバシャっとこぼれて原稿が濡れて滲んだ。
「キャア!」
ひなのは思わず声をあげてしまった。
小林がガバッと起き上がった。
「なにやってんだ。お前」
「ごめんなさい」
ビショビショに濡れた原稿に目をやった小林。一瞬息を飲んだ小林はすぐさまひなのに、
「ふざけんな!」
と怒鳴った。
「ああ~、今日持っていく約束なんだぞ、これは!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
小林の目が見る見る間に吊り上がっていく。表情が一段と険しくなった。
「出てけ!二度と来るな!!」
鬼のような形相だった。
ひなのは走ってアパートを出た。
普段、人前で泣くことをしないのだが、学校に着くまで涙が止まらなかった。
*
「あ、店長。今日バイト休ませて下さい。風邪で熱が・・・はい・・・」
小林はスマホを切った。机の上の濡れた原稿は描き直すしかない。持ち上げると、インクと混ざった液体がしたたり落ちた。
ガラステーブルの上を見ると、無事な原稿が綺麗に重ねて置いてあった。その横にピンクのメモ紙が二つ折りになって置いてある。開いて見た。
『コバちゃん、このまえは変なこと言ってゴメンなさい。わたしはポケットにゅうどうが大好き。ぜったい、いけるよ。 ひなの』
小林は、ふ~と、ため息をついた。
ひなのの本当にマセテいるところはこういうところだ。子供のくせに、大人のように反省してちゃんと謝ってくる。自分が怒鳴ったことの方がよっぽど大人気無く思えた。
* * *
いいのか、悪いのか。どっちなんだ。
小林は肩に力を入れ、コブシを握り締めて、座って待っていた。今回は上杉さんも横に座って自分と同じように緊張している。鼻息が若干荒いのがわかる。テーブルを挟んで、目の前で編集長が一枚一枚めくって完成した原稿を読んでくれている。
もともと深い編集長の顔のしわが、さらに深く研ぎ澄まされていった。あまり感触は良くないか。と思ったが、次のページをめくったとき、相好を崩した。あの、編集長がだ。見せどころの大ゴマだった。今回、ここは上杉さんと意見が合わず、何度も修正を繰り返した。ようやく、二人の納得いく方向性が見つかり、完成までたどり着いた。どうやら編集長にも、その大ゴマはハマったみたいだ。
上杉さんと視線を合わせて頷きあった。
* * *
啓太は、授業中、気にかかってしょうがなかった。
ひなのの様子がおかしい。啓太の斜め前、二つ先、窓際の席に座っているひなのだが、今日は窓からボーっと外を眺めていることが多い。前の授業も、前の前の授業の時もそうだった。
「いいか。この9ページの最後の文章。作者が言いたかったことは・・・」
吉田先生が黒板に書きながら、授業をすすめている。国語の授業になっても、ひなのは窓の外をボーっと眺めている。普段、こんなことはなかった。特に国語の授業の時は。
振り返って、たかしに聞いてみた。
「なあ、今日の川田、おかしくないか?」
「まあ、元々おかしいヤツだからな。自分からスカートめくるような」
たかしは何食わぬ顔をしている。
「そうじゃなくて。アイツ、いつも真っ先に手を挙げて教科書を読んだりするだろ。すらすらと・・・」
「それがムカつくんだよ。私ってすごいでしょ。って感じが!」
この間の件で、たかしのひなの嫌いには拍車がかかってしまった。
「そうかな?俺はそうは思わないけど・・・」
「啓太。騙されるな。川田は、すぐ先生にチクるような奴なんだぞ」
「先生がどうした?」
ドキッとした。吉田先生がすぐそばに立っていた。
「岡田、里中。お前ら、ずいぶん堂々と無駄話をするようになったな。国語の授業がそんなに面白くないか」
「いいえ・・・」
「お前らだけ、体育の授業に切り替えてやろうか?腕立て百回、腹筋百回。スクワット百回。先生も付き合ってやるぞ」
吉田先生は学生時代、プロレス研究会だった。今も鍛えているから筋肉隆々だ。そんなトレーニングに突き合わされたらたまったもんじゃない。
「国語がいいです」
たかしと声をそろえて言った。教室中が笑いに包まれた。
それでも、ひなのは窓の外をボーっと眺めていた。
* * *
「そうへこむな。次だ、次。お前は確実に伸びてるから」
上杉さんに肩を叩かれて、編集部を出た。エレベーターの扉が閉まる瞬間に、
「コバちゃん。次待ってるぞ。俺は待ってるぞ」
と、指を差して言われた。
が、次なんて考えられない。
もう、俺は駄目か。諦めるか。どうせ才能なんてないんだ。田舎へ帰って就職でもして、母親を安心させてやった方がいいんじゃないのか。それでも、マンガを描きたくなったら、描いて送ればいいじゃないか。
でも、田舎へ帰ったら、モチベーションが下がる気がする。こうやってすぐに編集部に来られるから、続けていられる気がする。だが、続けていても、デュー出来なきゃ意味がない。どれだけ頑張ってもデビュー出来なければ何の価値もないんだ。
今回はあれだけ手応えがあったのに駄目だった。才能がない事を本当に痛感した。漫画家を目指しているヤツなんてごまんといる。一握りの人間しかプロにはなれない。俺はもともと選ばれない存在なんだ。
でも、手応えはあったんだ。上杉さんも伸びていると言ってくれている。今回は少しだけコツがつかめた。今まで見えなかったモノが見えた。もう少し頑張ればプロになれるのだろうか?でも、どれだけ頑張れば・・・。
と、逡巡を巡らせていたら、いつの間にか、自宅近くの公園の前だった。
キィーっと、ブランコのきしむ音が聞こえた。
見ると、何故か、ひなのがランドセルを背負ったままブランコに座っていた。まずい。遭わせる顔がない。あれだけ期待させておいて、駄目だったなんて言えない。名前まで借りて描いた作品だ。雑誌に掲載されたところを見せたかった。
逃げるようにその場を離れようとした。そうか。俺があれだけ怒ったから、部屋に上がれないのか。いいかもう。アイツがちょくちょくやってくるから、集中できなくて苦労してたんだ。このままの方が気が楽だ。
――最悪だ!
マンガの出来が悪いのを、ひなののせいにして、俺はなんなんだ。チクショウ。
ジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだ。ひなのがアイロンをかけて綺麗に折りたたんでくれた、真っ白なハンカチがあった。
小林はそのハンカチでテルテル坊主をまず作った。カバンからマジックを取り出して、テルテル坊主の顔をサラサラっと描いた。そいつを右手に持ったまま、ひなのに気づかれないように、後ろから忍び足でブランコに近づいた。
*
「ヒナ、元気ねーだよ」
ひなのはびっくりして顔を上げた。目の前にポケット入道が現れた。テルテル坊主に、くりくりっとした目の、可愛いキャラが描いてある。首を振りながら、もっと喋った。
「誰だ。ヒナを悲しませたのは・・・オラアがそいつをやっつけてやるだぁ」
あああっと、ひなのは口を大きく開けて驚いた。
コバちゃんが横で、若干引きつった笑顔のまま、優しく言った。
「生々流転」
ひなのは、目の前のポケット入道を両手で包み込むようにして、
「コバちゃん。これ、もらっていい?」
と、にっこり笑った。
小林は大きく頷いて答えた。
「もちろん」
公園の地面には二人の影が長く長く伸びていた。
第2話 終
マンガ動画「ポケットから飛び出せ」はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=VMvMrWCv1GM
マンガ動画のタイトルは「えんぴつ時計のある街で」になっていますが、
このシナリオをノベライズしたのが「となりのとなりの物語」です。
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