となりのとなりの物語

福本銀太郎

第1話 浮きが沈む時

 今年は向日葵の育ちがいい。あと数日で満開に開きそうだ。

 岡田今日子は玄関の脇で大輪に咲く、元気のいい向日葵を、毎年楽しみにしている。

「あとでお水をあげなきゃ」

 朝、台所で掃除機をかけながら、今日子はそんなことを呟いた。

 と、その時、


 ――ゴチっ! という声が響いた。


 息子の啓太がパンを牛乳でゴクゴクと流し込んだところだった。カン!とコップをテーブルに叩きつけ、プハーっと息を吐いた。さながら、とりあえずビール。の一杯目を一気に飲み干したサラリーマンのようだった。


 また言ってる。と今日子は思った。呆れて、掃除機をかけていた手を思わず止めてしまった――ゴチって何?ゴチって。この子は、もう。

 啓太は小学五年生。男の子だから元気がいいのは問題ない。だけど、粗野で乱暴な子にはなってほしくはない。ところがこの、『元気がいい』と『粗野で乱暴』の判別が難しい。どこで区切っていいのかわからない。大体、わからない行動が多すぎるのよ。


 この間も、靴からびっくりするぐらい大量の砂が出てきたし、変な形の石とか枝とかすぐ拾ってくる。カエルやクモを捕まえて来て、誇らしげに見せられても意味がわからない。消しゴムに鉛筆の芯がいっぱい刺さしてあるのは何?アレどうやって使ってるの?傘を剣と言ってすぐボロボロにするし、雨の中、傘をささないで歩くのがカッコいいと思ってるのは何故?台風が来ると何であんなに異常に喜ぶの?洗濯物が乾かないからこっちは憂鬱なのに。大雨警報の中、外に出て遊びに行こうとしたときは、さすがに怒ったわ。


 二年ぐらい前だったかしら、お風呂に入る前には必ずパンツ一丁で謎の踊りをするのが流行った時期があった。「ホニョホニョヒ―、ホニョホニョヒ―」って、変な歌をずっと歌って、お尻をただクネクネするだけ。最後は「いい加減にしなさい」って怒られないと、お風呂に入らない始末だった・・・頭がおかしくなったのかと本当に心配したんだから。思い出したらキリがないわ。駄目よ、私がしっかりしなきゃ。


 啓太は数日前から朝ご飯を食べ終わると、「ゴチっ」と言うようになっていた。それまではきちんと手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言っていたのに。お相撲さんだって、「ごっつぁんです」ってちゃんと「です」を付けて言っているわ。テレビで、『絶滅危惧種――北関東の暴走族もどき』っていう人たちが、特攻服着て、「ゴチ」って先輩に頭を下げているところを見たばかりだし。これは危ない予感がするわ。元気がいいでは済まされない、粗野で乱暴な方向に行く匂いがしている。


「ちょっと、啓太・・・」と、今日子が言い掛けたところで、チャイムが鳴った。

 ピンポン。

 啓太の同級生、里中たかしが迎えに来た。

「はぁーい」と、啓太はランドセルを肩に引っ掛け、勢いよく飛び出していく。毎朝のお馴染みの光景だ。今日子も口癖のようになっている言葉を投げかける。

「忘れ物ないねー」

「なーい」と返事だけは歯切れがいい。


 帰ってきたらよく言い聞かせなくちゃ。「ゴチ」なんて、お行儀悪いったらないわ。不良に走る兆候と捉えたほうがいいかも。そのうち特攻服とか着始めたらシャレにならないわ。こういう些細なことを見逃してしまうと後々大きな事件に発展するのよ。と、掃除機を掛けなおす今日子の目に、テーブルの下の給食袋が飛び込んできた。――「もう・・・」、給食袋を拾って追いかけた。

 *

「けいた~」

 久しぶりに走った。まだ家の近所にいると思ったのに、どこまで行っちゃったの?お化粧してないから、あまり遠くへは行きたくないのに。近所の奥さんからは「わか~い」て言われるけど、今年でもう35歳。すでに、ほうれい線が気になり始めている。


 急いでいたのでサンダルを引っかけてきてしまった。走りにくいうえに、運動不足もあってか、朝からこれは結構きつい。あ、あの二人そうかも。角を曲がった二人組に目がいった。 

――ダッシュよ―― 

 やだ、サンダルが。片っぽ脱げちゃった。もういいや。息せき切って、声を絞り出した。

「けいた~・・・わすれもの~・・・」


 呑気に笑いながら登校している啓太とたかしがいた。あれだけ、忘れ物には気をつけなさいって言ってるのに。一言、釘を刺さなきゃいけないわ。・・・はあはあはあ・・・でも、息が、切れちゃって・・・。

「いけね・・・悪いな、オッカー」

 啓太が走り寄ってきて、パッと給食袋を引っ手繰っていった。

 なにそれ?

 あっけらかんと。悪びれた素振りもなく。ありがとうの一言もないの。育て方間違ったのかしら。こっちの右足は裸足なのに。・・・はあはあはあ・・・。


「啓太、早くしろよ」先で待っているたかしが声をかけ、歩き出した。

「わりいわりい」

 啓太は給食袋をぐるぐる回しながら、たかしに駆け寄り、「食らえ!」とランドセルにヒップアタックを咬まして、先に走って行った。思わぬ奇襲を受けたたかし。前につんのめったが、踏みとどまり、「ふざけんなよ。まてっ」と、後を追っていった。


「まったく・・・」と吐く息と同時に今日子は漏らした。

 男の子だから元気がいいのは問題ない。でも、違う。何かが違う。最近あの子ちょっと変。今日子は二人を見送りながら、やりきれない思いが込み上げてきた。


 *   *   *


 カチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえる。バスタオルで頭をふく手を止め、「また、仕事?」と、今日子は思った。話したいことがあるのに・・・。お風呂から上がってリビングに戻ると、案の定、夫がパジャマ姿のまま、ノートパソコンをテーブルに広げていた。


 夫の岡田勝男はⅠT企業に勤めるサラリーマン。家でもパソコンで仕事をすることが多い。一生懸命働いてくれていることは感謝しなければならないと思っている。そのお陰で都心の郊外に一戸建ての新築を購入できた。今年で38歳。課長になって仕事の責任が重くなったことも理解している。部下の人達から電話が掛かってきて、親身に相談にのっている姿を見ると、相当気を使っているのが解かる。あれでは家に帰ってきてもリラックスできないじゃない。と、心配になってしまう。


 けれど――こっちだって大事な話をしたい時がある。今日は特にそう。最近こういった話を夫婦でかわしてないから、なおさらだわ。お仕事の邪魔にならないように、さりげなく聞いてみよ。


「パパ・・・啓太、最近ちょっとおかしくない?」

「何が・・・」

 パソコンを叩く勝男の手は止まらない。そんな大事な仕事なのかしら。

「なんていうか・・・言葉遣いが乱暴というか・・・どう思う?」

 バスタオルで髪をふきながら聞いた。入念にふいて、顔を上げると、勝男は素知らぬ顔で、まだパソコンを叩いている。

「聞いてるの!」

 やだ。声が裏返っちゃった。大事な話だから、落ち着いて、落ち着いて。

「きいてるよ・・・」

 と、少し面倒くさそうに返してきた。

 怒っちゃダメ。大事な話だから、とにかく落ち着いて話さなきゃ。

「あの言葉使い、友達の影響かしら」

「勘ぐり過ぎだろ」

「だって!あの子最近、私のことオッカーって呼ぶのよ。何よ、オッカーって。ちょっと前まで、ママって呼んでたのにぃ。どういうこと!・・・オッカー、オッカー・・・『おしん』じゃないんだから」

「プッ」と勝男が吹きだした。


 え?なに笑ってんの。こんな大事な話なのに。

「笑い事じゃないわよ。啓太が変な方向に走ったらどうするの!」

 勝男のキーボードを叩く手がようやく止まった。

「そうやって大人になって行くんだよ」

「5年生なんてまだ子供よ」

 テーブルの上の携帯がなる。

「はい。部長、どうしました?・・・いえいえ、大丈夫ですよ・・・」

 と、その場を立ち去る後ろ姿を見ながら、今日子は膨れっ面で髪をふいた。

「もう・・・」

 あ、そうだ。「ゴチ」のことも相談したかったのに・・・。

 *

 今日子は大きな勘違いをしていた。そもそも、おしんは『オッカー』とは呼ばない。『かあちゃん』と呼んでいる。だが、今日子にとってのおしんは『オッカー』と泣き叫ぶ、純朴で田舎クサい女の子だった。筏に乗って奉公に向かう、おしんの、あの有名なシーン。離れ離れになる母親に向かっておしんは「かあちゃん、かあちゃん」と泣き叫ぶ。


 おしんを見てもっと泣きたい今日子は、これを無意識に変換して、「オッカー、オッカー」と記憶した。そのほうが、おしんの朴とつさが増して、より泣けたのだ。ティッシュをボンボン抜きながら、顔がぐしゃぐしゃになるほど泣きまくって再放送を見た。

 おしんは大好きだけど、まさか、自分が『オッカー』と呼ばれる日が来るとは夢にも思わなかった。オッカーなんて、嫌よ。

 *

 夜。ドアノブを静かに回して、こっそりと啓太の寝顔を見た。

 また、お腹を出して寝ている。そっと、タオルケットを掛け直してあげた。こうやって見るとまだまだ子供ね。昔はよく「ママと一緒に寝る」と言ってきた。可愛かったのに。何で最近言わないんだろう。「ママいい匂いがする」なんて言われるとキュンとしたわ。


 啓太がゴロリと寝返りを打った。

「うるせーな、オッカーは・・・」

 今日子はビクッとした。この子、寝言でもオッカーって――。

 もうこうなったらとタオルケットの上から、かる~く、ポンポンしつつ、

「啓太君、お母さんをオッカーなんて呼んじゃ駄目。ママって呼ぶのよ。啓太君のお母さんは優しくて綺麗なママ・・・ママ・・・」

 催眠術でもかけるがごとく、耳元で静かにささやいた。

「ママよ・・・ママだからね・・・」

 ささやき続けた。


 *   *   *


「うるせーんだよ。うちのオッカーは!」

 と叫びながら、たかしが回転ジャングルジムをグルグル回している。回転ジャングルジムには『危険遊具』『使用禁止』等の張り紙が貼ってある。それ、触ってはいけないんじゃないかな。と啓太はいぶかしげに見ていた。だが、たかしがあまりにも憤激しているため、言い出しづらかった。

「宿題しろ宿題しろって、毎日毎日だぜ」

「うちだってうるせーよ」


 話を合わせながらも、そろそろやめさせようとした。近所の誰かに見られて、言いつけられでもしたら、また怒られるのはたかしだ。たかしのオッカーはうちのオッカーよりうるさい。それは確かだ。相当うっぷんが溜まっているみたいだ。憂さ晴らししたい気持ちもよくわかる。しかし、一緒に遊んでいた。と言って、こちらも巻き添えを食うことがしばしばある。そんなことは御免だ。と、啓太は冷静に考えていた。


「昨日だってよ」

 たかしが振り返って、こちらに向かってきた。

「風呂入れ風呂入れって、入るって言ってるのに、何回も言いやがってよお!」

 と、思いっきり砂場にある小山を蹴飛ばした。

 ブハっと、砂をもろに被った。やりやがった。こいつ。

 あっ。という顔をしたたかしだったが、すぐに「ははははは」と大笑いを始めた。

 口の中に入った砂を、ペッペッと吐きながらも、伝染してきて、だんだん啓太も可笑しくなってきた。笑いをこらえながらも、こうなったらショーチしねえ。と、ランドセルを下ろし、「食らえ!」っと、ドロップキックをお見舞いしてやった。運動神経のいいたかしは、ドロップキックの受けがうまい。見事にひっくり返って受け身をとったあと「いいのを貰ったぜ!」という顔をしてくる。二人は、呼吸を合わせ、何かの儀式のように、

「ファイト!」と、同時に叫んだ。

 カーン!と、魂のゴングが響き、そして、公園の砂場はリングと化した。


 *   *   *


「オッカー、着替え!」

 玄関から声が聞こえた。今日子が出てみると、啓太が泥だらけで立っていた。

「まあ、どうしたの?」

「たかしとプロレスやってた・・・」

「はあ~あ・・・」

 何でこんなになっちゃうの。

 くさい。頭まで砂の匂いがこびりついているじゃない。着替えるだけじゃ済まないでしょ。まず、お風呂にはいりなさい。と、パンツ一丁にしたら、家に駆け上がろうとしたので、待ちなさい。と引き留めた。まだよ。泥がいっぱいついてるでしょ。そのまま上がらないで。と、玄関の外で泥や砂を入念に払った。


 満開に開く二三歩手前の向日葵が、横で青い頭をすぼめて垂れている。

 手持無沙汰からか、啓太が向日葵に手を伸ばしていじり始めた。やめてよ。汚れた手で向日葵を触らないで。「引っ張らないで。可哀そうでしょ。もう」これも、『元気がいいのは問題ない』って、思わなきゃいけないのかしら。誰か教えて。


「バカじゃないの。こんなに汚して・・・」

 泥を払っていると、足にこびりついた泥の塊が落ちた。すると、切り傷が出てきた。

「あんた、怪我してるじゃない」

「平気だよ。そのくらい・・・」啓太は今日子の手を払った。


 ――ママにちゃんと見せて!


 我ながらものすごい剣幕で怒鳴った。さすがの啓太もビクッとなって固まった。

 もうこうなると、元気がいいでは済みません。遊んでいるとは思えません。この子達は一線を越えてしまったのです。いつか、こういうことになると思っていました。幸いにも、傷はそれほど深くはなかったので、傷口をよく洗って消毒し大きな絆創膏を貼りました。


 ここは、よーく言い聞かせないと。

「いい、砂場でプロレスなんかやっちゃ駄目よ。ビンとかガラスとか落ちてたら危ないでしょ・・・ママ、たかし君ちに行って来る。たかし君にも言っとかないと!」

 今日子は鼻息荒くして、颯爽と出かけて行った。


 *   *   *


 セミの鳴き声が響き、真夏の太陽がギラギラと輝いている。

 一学期が終わって、待ちに待った夏休みが始まる。啓太とたかしはお互い憂鬱な表情を浮かべて、校門をくぐった。本来ならうれしいはずの夏休みだが、その前に、通知表を家に持って帰って、見せる。という通過儀礼があるためだ。お互いのモノを見せあった。たかしが覗き込んで言った。


「いいな~啓太は、1がなくて・・・」

「うわっ、1が三つもある」

 たかしの通知表を見て驚いた。とっさに口に出た。

 言ってしまった後に、たかしが気の毒に思えて、なんかフォローしなきゃと考えた。そうだ、こいつは運動神経がいい。


「でも、体育はずーと、5だよな」

「啓太だって、そうだろ・・・」

 そうだった。自分も体育の成績はいい。たかしと同じで、ずっと5だ。

「うん・・・」しみじみと返事をした。ぜんぜん慰めになってなかった。

 自分が5なら、たかしは6でも7でもいいはずなのだが、そんな数字は通知表にはない。

「こんなの持って帰ったら、うちのオッカーかんかんだよ・・・」

 たかしは肩を落として、とぼとぼと歩いていった。


 *   *   *


「分かりました。もう一度練り直して送ります。ええ、メールで今夜中に・・・」

 自宅に帰る直前に部長から電話が掛かってきた。企画書の再提出だ。しょうがない。もうひと踏ん張りするか。と、勝男は玄関を開け帰宅した。リビングに入るなり鞄からパソコンを取り出しテーブルの上で開いた。

 

 え~っと、社内稟議を通すための秘策か・・・そんなものがあればとっくに書いているよ。まずは、マーケットの分析をやり直してみるか。


「お帰りなさい・・・ねえ、ちょっと話があるんだけど・・・」

 今日子が冷蔵庫の中のモノを取り出して、電子レンジにかけて言った。

「ああ」と、一応返事をしたが、後にして欲しかった。

 ま、パソコンを叩き始めれば引いてくれるだろうと思い、画面に集中した。

 ところが、

――これ。

 と言ってテーブルの上に何かを広げて見せられた。

 ちっ。大事な仕事なんだから少しは気を遣えよ。と思ったが、あからさまに無視をするもの大人気無いので、チラッと目を移した。


 通知表か・・・。


 今、それどころじゃないんだが。

「相変わらず体育は5だな。いいじゃないか」

「そこじゃないの問題は・・・」

「他が2と3ってことか?お前いつから成績にうるさくなったんだよ」

 と、またパソコンを叩き始めた。

「そうじゃなくて、通信欄に書いてある事が気になるのよ・・・いい、最近の啓太君は授業中によそ見をしたり無駄話が多いようです。すぐカッとなる言動も気になります。集中力・忍耐力を身につけることに努力しましょう・・・」

 だからなんなんだよ。

「ふ~ん・・・」

 と、言うことしか出来なかった。

「真面目に聞いてよ。あの子最近変なんだって。忘れ物は多いし、片付けはしないし、言葉遣いは乱暴だし、相変わらず私のことオッカーって呼ぶし」


「ちょっと、あとにしてくれないか! 大事な仕事があるんだよ!」


 怒鳴ってしまった。

 今日子は通知表を仕舞い、電子レンジから酢豚を取り出し、テーブルに叩きつけるように置いて行ってしまった。

「やっちまったか・・・はあ・・・」

 勝男はため息を吐いて、またパソコンに向かった。


 *   *   *


「初心者にはこれがいいかな?」

 勝男が、ずらっと並んだ釣り竿の中から一本とって啓太に聞いた。


 釣具店に来るのは久しぶりだ。いつ来ても、この、ピカピカの竿達が、背比べをするように仲良く並んだ姿は圧巻だ。あ、この釣り竿、ブルーのラインが入ってる。かっこいいな。握った感触もバッチリだ。欲しいな。でも、オットーは、オッカーの竿を買いに来たと言っている。


「オットー、オッカーが釣りをしたいって言ったのか?」

「いいや・・・」

「じゃあ、オッカーのじゃなくて俺の竿を新しくしてくれよ」

「お前のはまだ使えるだろ。いいか啓太、今度の日曜はオッカーも連れていく」

「何でだ?」

「オッカーに釣りの楽しさを知って貰うためさ」

「オッカーにわかるかな・・・邪魔になるだけだぜ」

「じゃないと、オッカーから釣り禁止令が出て、今後一切俺達は、釣りに行けなくなるかもしれないんだ」

「どういうことだ」

「お前の成績が上がらないからだよ」

「え!」


 オットーが言うには、

 今回の通知表を見てオッカーはかなり怒っているらしい。このところ毎週のように釣りに行って、勉強がおろそかになっている。と思い込んでいるみたいだ。ヤバいぞ。釣りをやめたところで勉強に身が入るとは限らない。いや、むしろ、余計勉強なんかしたくなくなる。オットーの言う通り、オッカーに釣りを好きになってもらうほうが早い。俺の成績を上げるなんて、至難の業だからな。


「オットー。オッカーに釣りの楽しさを知って貰おう」

「だろ。そこで作戦だ。オッカーの針に魚が掛かったら、絶対、自分の力で釣りあげて貰うんだ。俺たちは変に手は出さない」

「そっか。あの感触を味わったら、病みつきになるからな」

「そういうことだ」


 *   *   *


 防波堤のすぐ下、海面がギラギラと白銀のように反射して目に刺さる。

 波は穏やかだが、潮の匂いがべたべたと体中にまとわりついてきた。

 何よりも灼熱の太陽が真上から襲い掛かってきて、今日子は身の危険を感じていた。冗談じゃないわ。全身全部が焦げちゃうじゃない。麦わら帽子と日焼け止めだけで防げる日差しではないわ。


 啓太と勝男は釣り道具やバケツを持って、そそくさと防波堤の先に向かって歩いている。

「オッカー、早くしろよ!」啓太が振り返って叫ぶ。


 今日子はしゃがみ込んで、バックの中をまさぐった。大きなサングラスと首まで隠れる日よけマスクを取り出して装着した。持ってきておいて良かったわ。さらに、タオルを取り出し、麦わらの上からほっかむりをするように巻いて完全防備を決めた。農家のお婆ちゃんみたいになっちゃったけど、この際しょうがないわ。焦げるよりましよ。あ、そうそう。日傘も持ってきてたんだっけ。


「何やってんだ。オッカー」

 見上げると、啓太が逆光の中に立っていた。

「こんなもん持ってて、釣りなんかできるか」と、日傘を取り上げられた。

 あっ。

「これもこれもこれも、全部取っちまえ」

 麦わらとサングラスとマスクも、あっという間に剥ぎ取られちゃった。

「きゃああ。せめて帽子だけは、帽子だけは・・・」


 啓太に腕を引っ張られて、どんどんと防波堤の先まで連れていかれた。何とか麦わら帽子だけは死守できた。今日子は頭を押さえながら思った。こんなところ来るの初めてだわ。やだ、虫がいる、鳥もいる。変なにおいもする。


「だから、私はいいから・・・その辺で見てるから・・・」

「馬鹿言ってんな!オッカーの為に新しい竿まで買ったんだからな」

 啓太。なんか、張り切ってるし・・・。

「いい加減、観念して付き合えよ。楽しいぞ釣りは・・・啓太が全部面倒見てくれるから心配するな」

 勝男は一人でそそくさと準備を整え釣りを始めてしまった。


 啓太が何かを広げて、ガシャンと置いた。

「オッカー。これに座って、ちょっと待ってろ。今準備するからな」

 あ、ちっちゃい椅子可愛い。でも、あんまり座り心地がいいものではないわね。もっとこう、ゆったりと背中を預けられるような椅子はないのかしら。そうすればのんびり出来るのに。潮風に吹かれながらここちよく・・・。あら、小っちゃいカニさんね。なによ、そんなに私のサンダルが好きなの?あんまりなつかないでよ。踏んづけちゃうぞ。なーんてね。


「餌は俺が付けてやるからな。触れないだろ・・・ほら」

 今日子の目の前にゴカイが突き出てきた。ミミズに剛毛が生え、イボ足までつけたような見た目だ。ウネウネっと体をよじらせた。

「ダメダメダメダメ!それはダメ。絶対ダメ!」

 今日子は悶絶して泡を吹きそうだった。足元のカニはすでにブクブクと泡を吹いていた。

「あははははは」と、啓太は大笑いしていた。

 *

 生まれて初めて釣り竿を持ちました。

 プカプカ浮いてるあの赤いのをじっと見てるんだって・・・。何が面白いのかしら、こんなの。おさかな欲しいならスーパー行けばあるのに。切り身で売ってるから、お料理もしやすいし。昨日のお刺身だっておつとめ品だったのに、みんなであんなに美味しく食べたじゃない。手軽で安くて美味しいものを食卓に。が、主婦の知恵よ。わざわざこんなに遠くまで来なくても・・・。


 あ、そうだ。たまに、リールを巻いて餌が外れてないか確認するんだった。もう、あんな気持ち悪いの見たくないのにぃ。外れてくれてたほうがいいわ。外れちゃえ。外れちゃえ。外れちゃえ。と、今日子が竿を縦に振った途端、ググっと手に振動が伝わった。浮きがもぐって、竿先が大きくしなった。糸が海中を右に左に踊るように動き回って両手が勝手に泳いだ。


「きゃあ!啓太、啓太・・・どうなってんの?」

「よし来た!オッカー」

「どうしたらいいの?」

「さかなの動きに合わせるんだ。無理に引っ張ると糸が切れるぞ。さかなが疲れるまで粘れ。落ち着くんだ」

「そんなの無理。代わってよ」

「駄目だオッカー。それはできねぇ」

「何でよ」

「何でもだ。自分で頑張ってくれ。ほら、さかなが右に行くぞ。オッカーも走れ」

「やだー」

「今度は左だ」

「うそー」

 堤防の上を、あっちこっちと走らされた。なによ、釣りってこんなに大変なの。あれ?動きが止まった。どうなってんの?

「啓太。動かなくなっちゃった」

「下に潜ったのかな。それともバレたか・・・ちょっと貸してみ」

 啓太に釣り竿を預けた途端、突然また、さかなが泳ぎだした。

「バレてない。オッカー、ほら」

 と、また渡された。

「何よ。あんたがやりなさいよ。私はもういいわよ」

「俺がやったら意味がないんだよ。オッカーが楽しまないと。ほら、右だあ」

「やだー、こんなのどこが楽しいのよ」

「バカ言ってんじゃねえよ。これが釣りの醍醐味なんだぞ。楽しんでくれよオッカー、頼むよ。今度は左だあ」

「うそー、意味が分かんないわよ」

 *

 メバルという魚らしい。

 バケツの中を覗きながら今日子は魚の頭をツンっと指でつついた。手こずらせてくれたわね。私から逃げられると思ったら大間違いなんだから。逮捕よ。あんな気持ち悪い餌に目がくらんだ罪を悔い改めなさい。よく見ると、あんた目デカっ。ぶちゃ可愛いってやつかしら。ツンっとつつきながら、今日子は魚が愛しく見えてきた。


 今日子の様子を見て、啓太と勝男はコブシを合わせた。ミッションコンプリートだ。


 * *  *


 水平線に沈みかけた夕陽が空と海を柔らかく染めている。

「わぁ、綺麗ね。こんな景色久しぶりに見たわ」

「ああ、これだけでも来て良かっただろ」

「そうね・・・」


 遠くの海には、貨物船のシルエットだけが小さく見える。近くの海には、港に帰る漁船の一団が波を蹴立てていた。カモメの鳴き声が遠くに聞こえる中、辺りは、ほのかなオレンジ色にすべてが包まれている。


 今日子は勝男の隣に椅子を並べて釣り糸を垂らしていた。

 啓太は少し離れたところで釣り糸を垂らしている。ドカッとあぐらをかいていた。

 夕暮れの潮騒が心地よく耳に響き、今日子にノスタルジックな感傷がよぎった。


 チラッと、啓太の背中を見て言った。

「ねえ・・・あの子、もう私のことママって、呼んでくれないのかしら・・・」

「もう、あきらめたら。どっちにしろ啓太が結婚して子供が出来たら、おばあちゃんって呼ばれることになるぞ」

「わかってる。わかってるわよ~、そんなの~。でも、今は違うの。ママなの。ママがいいの私は・・・」

 今日子は、久しぶりに勝男とゆっくり話が出来て、つい甘えてみたくなった。

 勝男は、うん。うん。と、うなずいてくれていた。

「でも、男の子にはパパママって呼べなくなる時がやって来るんだよ」

「変なの。私なんか大人になってもママって呼んでるけど・・・あなたはどうだったの?」

「うちは関西だから、物心ついた頃からおかんだったなあ・・・」

「おかん?おかん!」

 今日子は目を見開いて、素っ頓狂な声を出して伸びた。が、

「ああ~、やだやだやだやだ・・・」

 と、すぐさま崩れた。


 この日の釣果は、今日子が釣ったメバル一匹だった。勝男も啓太もぼうずである。ぼうずとは禿げ頭のことで、毛が無い。さかなっ毛がなく一匹も釣れなかった。という意味らしい。


「結局、私が最初に一匹釣っただけね」

「ああ、こんなもんだ。釣りって言うのは・・・」

「もう、帰りましょうよ~」

「俺も帰りたいよ、もう今日はダメだろ」

「そうなの?」

「ダメダメ。何年釣りやってると思ってんだよ・・・」

「馬鹿みたい。じゃあ、とっとと~・・・」

 今日子は駄々っ子のように体をゆすった。

「だけどなあ、啓太を見てみろよ」と、勝男が顎をしゃくった。

 見ると。啓太は、餌を付け直し、浮きの高さを変え、釣り糸をたらし、また、じっと見つめている。

「あいつは釣りに来たらいつも、諦めないんだよ。疲れるんだよ。ほんっとに・・・」

 勝男は、妙に芝居がかった物言いで、嘆くようにそう漏らした。そして一転して、声の調子を落としてこう言った。


「通知表になんて書いてあったか知らんけど、あいつの集中力・忍耐力は半端じゃない。俺が保証するよ」


 今日子は啓太の背中から目が離せなくなった。

 ドカッと、胡坐を掻いて釣り糸を垂らしている啓太。まるでお地蔵さんのようだった。

 今日子はそっと近づいて、啓太の隣りに膝を抱えて座った。

 啓太は微動だにせず、まっすぐに浮きを見ている。その横顔は夕陽に染められていた。

 この子、いつの間にこんな表情をするように・・・。

「啓太、釣れそう?」

「ああ、見てろ」

 浮きが、グググっと海の中に突き刺さる様に沈んだ。


 *   *   *


「どのくらいの大きさだったんだ?」

 たかしが公園のブランコに立ち乗りして聞いてきた。

「そうだな・・・」

 啓太はゆっくりと隣のブランコに座って、もったいぶって両手を広げた。

「このぐらいは・・・あったかな」

 と、たかしの顔を見上げたら、オオッという顔をしていた。


「あんなでっかいスズキは初めてだ。糸が切れてバレちゃうかもって、冷や冷やしっぱなしで、20分は格闘してたな。暗くなってくるし、動きが読めなくて、もう無理か。って何回も思ったんだよ。やべえよ、やべえよってな」


 手が勝手にエアでリールを巻きだした。あの感触が蘇ってきた。たまんねぇ。

 チェっと、たかしが立ちこぎの勢いを強めた。

「いいな~、俺も海行きたいな~」

「うちのタモ網がそんなにでかくないから、はみ出たまま上げるしか無くてな。三人掛かりでやっとだったんだぜ」

「家族で行ったのか?」

「ああ・・・でも女は駄目だな。ゴカイに触れもしないんだぜ。餌が付けられなきゃ釣りなんか出来ねーよ・・・ったく、だらしないんだよ、うちのママは」


 ――あ、しまった。


「お前、まだママって呼んでんのか?」

 たかしが立ちこぎを止め、ニタついた顔で聞いてきた。

「ママって呼んでんだ。ママって」

「呼んでねーよ」

 くそ、こいつ、こういう時マジうるせえ。

「マ~マ、マ~マ、マ~マ・・・」

 ブランコを飛び降りて、たかしが手拍子を打ちながら茶化しはじめた。

「うるせーな・・・」

「啓太君はまだママのオッパイを飲んでんのかな?」

「ふざけんな!」

 たかしに思いっきり飛び掛かった。座っていたブランコが跳ね上がった。


 *   *   *


 セミの声が相変わらずけたたましく響いている。

 晩御飯の支度をしていた今日子の耳に、玄関から啓太のか細い声が聞こえてきた。

「オッカー・・・オッカー・・・」

 お帰りっと、玄関を開けると、啓太が泥だらけで立っていた。

「あっ、あんた、またプロレスやったの?」

「違うよ。たかしと喧嘩した」

「え、たかし君と」

「あいつが余計な事言うから・・・」

「あんた怪我ないの?」

「俺はないけど・・・たかしは頭から血が出て・・・泣いて帰った・・・」

「なにしたの?」

「石、投げたら・・・当たった・・・」


 ――バカッ!


 今日子は頭ごなしに怒鳴りつけた。

 啓太はビクッとして、首を縮めた。

 鼻息も荒いまま、一歩にじり寄って、上から見下ろすように睨みつけて言った。

「あんた悪いと思ってるの?」

 啓太は目をつむって、黙っている。唇が小刻みに震えていた。

「・・・」

 自分のしたことへの悔恨と自責の念が、ふつふつと湧き上がってきているようだった。

 悪いとは思ってるみたいね・・・そう。

 じゃあっと、両膝に手をつき啓太の目線におりて、言った。

「悪いと思ってるなら謝りにいくよ。たかし君ちに」

「うう、ううう・・・」

 と、嗚咽を漏らし、ぶるぶると震える手で、啓太はこぼれ落ちる涙をぬぐった。

 手についた泥が、さらに顔を汚していく。

 今日子は、その泥だらけの手を、ぎゅっと掴んだ。


「オッカーも一緒に行ってあげるから。おいで」


 うわあああっと、啓太は大きな声で泣き出した。

 堰を切ったように涙が溢れ、顔がぐしゃぐしゃに崩れていった。

「男は泣かない」

 今日子は、抱きしめたくなる衝動をぐっと抑えて、

 力強く歩き出した。


 向日葵が背筋を伸ばしてまっすぐに立ち、満開に咲いていた。

 夏はまだ始まったばかりだ。


 第1話 終


マンガ動画「浮きが沈む時」はこちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=QTIQZiIXxcA

マンガ動画のタイトルは「えんぴつ時計のある街で」になっていますが、

このシナリオをノベライズしたのが「となりのとなりの物語」です。

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