第一章
第2話 深淵
その夜は、何の変哲もない日常のはずだった。
課題を片付け、ぬるくなったお茶を口に含みながら、俺――**天城 蓮(あまぎ れん)**は、眠気を誤魔化すようにディスコードの通話を繋いでいた。
画面の向こうには、いつもの四人がいた
「なあ、明日の提出って、朝の八時までだっけ? 結構でかいとか言ってなかったけ?」
気楽そうな男の声。調子者で、テンションだけなら世界を征服できそうなヤツだ。
彼がひとこと喋るたび、眠気の端を笑いが掠めていく。
「八時まで。提出フォームはさっき確認した。……前みたいに寝落ちするなよ」
静かに応えるのは、知的な声の女性。抑揚は少なく、それでいて不思議と安心させてくれる響きがある。
彼女がいるだけで、場が落ち着く――そんな存在だ。
「ってかさー! 私もう飽きた! こんなレポートやるくらいなら、今すぐ外出る!! 夜風浴びながらカフェラテ買って来る!」
元気いっぱいの彼女がそう言えば、たちまち空気が明るくなる。
深夜テンションの常習犯。何度も巻き込まれてきたが、どうにも嫌いになれない。
「……外は寒いよ。また風邪ひいたら、私が看病する羽目になるんだから」
柔らかく笑う、もうひとりの彼女。抱擁女――というあだ名がぴったりの、包み込むような優しさの人だ。
誰かが落ち込んでいれば、真っ先に寄り添ってくれる。
「はいはい、また母さんが保護者ムーブしてる~!」
「違うよ、ただ心配してるだけ」
笑い声が重なり、イヤホン越しに小さく響く。
その音を聞きながら、蓮は窓の外へ一瞬、視線を投げた。
ビルの屋上に滲む街灯の光、冷たい冬の闇。
すべてがいつも通りだった。
机の上にはプリントの山。
PCの時計は、すでに午前一時を回っている。
ぬるくなったお茶の表面には、自分の疲れ切った顔がぼんやり映っていた。
ふと、さっきの会話を思い出す。
「……俺もちょっと行くか。眠気覚ましに」
そう言い出した蓮に、男が笑って返す。
「気をつけてなー!」
「私の時と反応違くない!?」
愉快な抗議を背に、蓮は通話を切った。
ジャケットを羽織り、イヤホンを外す。
玄関を出た瞬間、ひやりとした空気が頬を刺した。
街は深く眠り、遠くの国道だけがわずかに音を立てている。
ビルの隙間を縫うように、ひとり歩き出した。
細い路地を抜け、コンビニの明かりが見えた――その瞬間だった。
風が吹いたような錯覚。
だが、街路樹の枝葉は動いていない。
背筋に、冷たい何かが這い上がる。
静寂が濃くなる。空気の密度が、目に見えるように変わった。
ーー
次の瞬間、地の底から低い唸りが響いた。
ごうごうと鳴るような、しかしどこか生き物じみた揺れ。
まるで“世界そのもの”が息を呑んだかのような圧。
「……地震か?」
呟いたその声は、夜に溶ける前にかき消えた。
視線を落とすと、スマートフォンが震えもせずに落下し、画面にぱきりと深い亀裂が走った。
建物がうなりを上げ、足元の地面が波のように動く。
壁に掛けた写真立てが落ち、ガラスが砕け散る。
その瞬間、床の隙間から赤黒い光の筋が漏れ出した。
熱はない。
しかし、その光は呼吸していた。
まるで何かが“目覚める”ように。
「……まさか……ダンジョン……?」
背中に冷水を垂らしたような感覚。
逃げなければならないはずなのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。
空気が重く、耳鳴りのような低音が世界を満たす。
光が裂け、縦方向に口を開く。
引きずり込むような力。
視界が歪み、上下がねじれる。
身体が持ち上がる。
床が沈む。
叫ぶ間もなく、全てが黒く塗りつぶされた。
――落ちていく。
――あの時と同じように。
耳鳴りの向こう、遠くで誰かが泣いている。
それは幼い声だった。
闇の底で時間がねじれた。
重力も方向も、すべてが曖昧になる。
そして、ふと――光。
懐かしくも冷たい輝き。
まぶたを開けると、そこには小さな自分がいた。
崩壊した街。炎で染まる夜。
幼い蓮は、泣き腫らした目で何かを探しながら走っている。
十年前のあの日――“スタンピードの夜”。
少年が振り返る。
その瞳に、今の自分が映り込む。
伸ばそうとした手が、空を切る。
風景が水面のように波打ち、砕けた。
世界が崩れる音がする。
その代わりに、静謐な白光が満ちていく。
――そこに、ひとりの女性がいた。
雪より白い衣。
月の光を溶かしたような髪。
彼女の瞳は、夜明け前の薄明かりのように穏やかで、どこか懐かしい。
音が消える。
風さえ止まり、ただ彼女の衣の裾だけがかすかに揺れた。
床一面に、花びらのような光の粒が浮かびあがる。
指先を伸ばす間もなく、再び意識が遠のく。
最後に見たのは、彼女の手。
その指が頬に触れようとした瞬間――世界が反転した。
光が弾け、闇が戻る。
深い静寂のあと、蓮はゆっくりと目を開けた。
空気は澄み、どこまでも広がる無色の世界。
香りも、温度も、音すらない。
まるで現実が抜け落ちた空間だった。
「……ここは……?」
声が吸い込まれ、すぐに掻き消える。
そのとき、視界の端で、白い衣が揺れた。
あの女性がいた。
闇の最中で見たままの姿で。
ゆっくりと振り返り、真っ直ぐに蓮を見つめる。
瞬間、世界の時間が止まったように感じた。
心臓が一度だけ、大きく跳ねる。
理解した。
ここは“ダンジョン”ではない。
現実でも、夢でもない。
白き女性は一歩、静かにこちらへ進み、唇をわずかに開いた。
「ようこそ、深淵へ。」
深淵からの帰還者 〜師匠を探すためにダンジョンを踏破していたら、いつの間にか謎の人物として世界を騒がせていました〜 さまたな @SAMATANA
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