第4話(終) 空を見上げる

「……お兄ちゃん。お兄ちゃん、起きて!」

 頬を叩く小さな手の感触で、勇輝は目を覚ました。

 ゆっくりと上体を起こすと、そこには心配そうに自分を覗き込む澪の顔があった。

「……澪。ここは……?」

 勇輝は周囲を見渡した。嵐は跡形もなく消え去っていた。

 空には、世界の端から端までを繋ぐような、見たこともないほど巨大で鮮やかな七色の虹が架かっている。西の空からは、すべてを黄金色に染め上げる穏やかな夕陽が差し込んでいた。

 勇輝は、恐る恐る自分の心の中を探った。

(……カブトムシ。一緒に食べたアイス。雨の中のサッカー。お父さんとのお風呂……)

「あ……」

 声が漏れた。

 消えていない。

 パズルのピースは、ひとつも欠けることなく、そこにある。それどころか、以前よりも鮮明に、温かく、胸の奥で輝いている。

「お兄ちゃん、覚えてる? 私たちのこと、ちゃんと覚えてる?」

「覚えてるよ、澪! 全部覚えてる。……どうして?」

 二人は信じられない思いで顔を見合わせ、それから足元を見た。

 そこにあった赤い自販機は消え、代わりに苔むした小さな石の祠が、夕陽を浴びて静かに佇んでいた。その祠は、穏やかな空気を纏っている。

 祠の前には、二人がさっきまで持っていたはずのソーダの空き瓶が1本、まるでお供え物のようにちょこんと置かれていた。

「あの自動販売機って、祠だったの?」

 澪の呟きに、山の空気がふっと揺れた気がした。

 夕焼けに染まる空を背に、苔むした小さな祠は、何も語らない。

ただ、そこに在る。

 勇輝は胸の奥に、説明のつかない感覚を覚えていた。

 懐かしいような、切ないような――まるで、ずっと遠くに置き去りにしてきた誰かと、今ようやく目が合ったような感覚。

「……なあ、澪」

 勇輝は、無意識のうちに空を見上げていた。

「天気ってさ。昔の人は、毎日こんなふうに、空を見てたんじゃないかな」


 雲の流れ。

 風の匂い。

 沈みゆく太陽の色。


 それらが、急に“意味のあるもの”として胸に落ちてくる。

「……あ」

 澪も気づいたように、祠の前にしゃがみ込んだ。それから、空を見上げる。

「この空……。なんだか、誰かが一生懸命、守ってるみたい」

 その瞬間だった。

 祠の奥から、微かな気配が滲み出す。

 声ではない。言葉でもない。

 けれど確かに、想いが心に直接流れ込んできた。


 ――見てほしかった。


 ――空を。


 ――もう一度。


 二人の脳裏に、映像が流れ込む。

 まだ街に高い建物がなかった頃。

 人々は畑のそばで手を合わせ、雨を待ち、晴れを喜び、嵐に畏れを抱いていた。

 天気は管理するものではなく、生きている存在だった。

 けれど時代は変わった。

 天気はアプリで確認する数値になり、雨雲は邪魔なマークになり、空は、見上げて祈る対象ではなくなった。

 祈りは減り、祠は忘れられ信仰されなくなった。

 それでも――。

 それでも、天気は誰かが繋ぎ止めなければならなかった。

 だから祠は、最後の力で姿を変えた。

 人が立ち止まり、ボタンを押し、空を見上げて祈り感謝を感じる姿・自動販売機に。

 ただ、信仰や敬いや感謝の想いが神を支える力が無い代わりに、人の記憶を代償にしなければ、もう天気を動かす力が残っていなかった。

 そこに、悪意ではなかった。

 ただ、必死だったのだ。

「……あの自販機」

 勇輝の声が震えた。

「天気を売ってたんじゃない。“空を見上げるきっかけ”を、必死に作ってただけなんだ」

 澪は、祠にそっと手を合わせた。

「私たち、自分の都合で勝手に使って……ごめんなさい」

 風が、優しく吹いた。

 答えるように、空の虹がゆっくりと色を深める。

「でも……」

 澪は顔を上げ、にっこり笑った。

「もう、記憶を使わなくてもいいよね?」

 勇輝も頷いた。

「最後に僕達が手にした『全快晴ソーダ』の代償は、兄妹で過ごした、全ての記憶だった。けど、僕達は記憶を失わなかった」

 勇輝は、自分の胸に手を当てた。

 そこには、確かにすべてがあった。

 澪と喧嘩した日のこと。

 二人で笑い転げた帰り道。

 雨の日に、傘を押し付け合った、あの不器用な優しさ。

 ひとつも欠けていない。

勇輝は、嵐の天気を思い出していた。

 世界が壊れそうなほど荒れ狂う空の下で、二人は瓶を握りしめ、ただ必死に願った。


 ――どうか、空を助けてください。

 ――どうか、町を守ってください。

 ――どうか、僕たち、私達のことは、どうなってもいいから。


 それは、願いではなく、祈りだった。

 自分たちの都合を叶えるための欲望ではない。

 誰かに見返りを求めない、ただの祈り。

 澪が、小さく頷いた。

「……空、きれいだね」

 澪の言葉に、勇輝は笑った。

「うん。きっと、神様もそう思ってる」

 二人の心が、忘れ去られていた神様に、再び晴れ渡るような命を与えたのだ。

「ごちそうさま! また遊びに来るね!」

 澪が元気に手を振ると、祠の周りの草花が、嬉しそうにカサカサと揺れた。

「帰ろう、お兄ちゃん。お母さんが、美味しい夕ご飯を作って待ってるよ」

「ああ、そうだな」

 勇輝は澪の手をしっかりと握った。

 記憶は失われなかった。それどころか、二人の絆は、この広い空よりも深く、強くなった。

 二人は長く伸びた自分たちの影を追いかけて、夕焼けの坂道を仲良く下っていった。

 見上げる空は、どこまでも澄み渡り、明日もまた、素晴らしい晴れの日が来ることを約束していた。

 二人の笑い声が、夏の終わりの涼しい風に乗って、いつまでも町へと響いていった。


(終)

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お天気自販機 kou @ms06fz0080

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