第3話 恐ろしい天気
それは、ひどく蒸し暑い午後のことだった。
勇輝と澪は、裏山の例の場所に立っていた。二人の顔に、かつてのような純粋な好奇心はない。そこにあるのは、自分たちの都合で世界を書き換えられるという、傲慢で危うい万能感だった。
「今日は暑すぎるよ。ねえ、お兄ちゃん、思いっきり『粉雪ココア(雪)』で冷やそうよ」
「いや、僕はこれから、また持久走なんだ。雨を降らせて休みにしたい。『激流コーラ(大雨)』にする」
二人はお互いの意見の相違があるまま、競うように小銭を投入口へ投げ込んだ。
カラン、チャリン。
重なり合う金属音。
そして、二人の指がほとんど同時に、別々のボタンを押し込んだ。
その瞬間だった。
「ガガッ……ギギギギッ!」
自販機の奥から、これまで聞いたこともないような、鉄の爪でガラスをひっかくような悲鳴が上がった。
赤い筐体が激しく、まるで
「な、なに……!? 壊れちゃったの?」
澪が後ずさりしたのと、空が壊れたのは同時だった。
ゴォォォォ、という地鳴りのような音が空から降ってきた。
見上げれば、そこには地獄のような光景が広がっていた。
入道雲がどす黒い紫に変色し、渦を巻きながら巨大な
その雲の隙間から、真夏とは思えないほど巨大な雪の結晶が、ナイフのような鋭さを持って吹き付けてきた。
「あつい……うわっ、冷たい!」
空気が狂っていた。
一瞬、サウナのような熱風が吹き抜けたかと思えば、次の瞬間には肌を刺すような極寒の風が吹き荒れる。
空のあちこちで紫色の稲妻が走り、雷鳴というよりは空が割れる音が町中に響き渡った。
町からは悲鳴が上がり、車のクラクションが絶え間なく鳴り響いているのが、山の上まで聞こえてくる。
「……お兄ちゃん、どうしよう! 町が、町がめちゃくちゃだよ!」
澪が泣き叫びながら勇輝の腕にすがった。
勇輝もまた、恐怖に足を震わせていた。自分たちが望んだ『雪』と『雨』が、空の中で衝突し、制御不能な嵐となって暴走しているのだ。
自販機の隙間から溢れ出すのは、もはや魔法の飲み物ではなく、形を失った黒い霧のような絶望だった。
「僕たちが……僕たちが、わがままばっかり言ったからだ……」
勇輝は、自販機の冷たい金属に額を押し当てた。
自分の都合で雨を降らせ、自分の都合で暑さを消した。そのたびに、自分を形作っていた大切な思い出を、神様に差し出していた。
神様をこんなに痩せ細らせ、狂わせてしまったのは、他でもない自分たちの欲望だったのだ。
上空では、雷雲がさらに巨大化し、今にも町を飲み込もうとしていた。
雪と雨が混ざり合い、
嵐が、すべてを叩き潰そうとしていた。
狂ったようにうねる紫色の雲、真夏を凍りつかせる
そして鼓膜を震わせる絶え間ない雷鳴。
裏山の頂上で、勇輝と澪は、激しく痙攣する自販機の前に膝をついていた。赤い筐体は熱を持ち、断末魔のような唸り声を上げている。
「ごめんなさい。私達が、わがままばかりしたから……」
澪が自販機の表面を、優しく撫でた。
その荒れ狂う光景の中で、ひときわ鮮やかに、そして残酷に光るボタンがあった。
一番下、錆びた鉄板の隙間にこじ開けられたような新しいスロット。そこには目立つ赤色でこう書かれていた。
『特別メニュー:全快晴ソーダ』
その文字の下、本来なら100円というように金額が書かれているはずの場所には、震えるような手書きの文字が躍っていた。
『代償:兄妹で過ごした、全ての記憶』
「……全ての記憶?」
勇輝の喉が、引きつった音を立てた。
それは、あまりに重い対価だった。
雲ひとつない青空の下、キャンプでの出来事。
眩しさに目を細めながら分け合ったソーダ味のアイス。
喧嘩をして、真っ赤な夕焼けの中で「ごめんね」と言い合って帰ったあの坂道。
勇輝の心の中に大切に並べられていた、陽光に輝くアルバムのページが、そのボタンを押した瞬間にすべて真っ白に漂白されてしまうのだ。
「そんなの……そんなの、あんまりだよ」
勇輝の指が、ボタンの直前で止まる。
震えが止まらない。
思い出を失うということは、自分たちの一部を殺すのと同じではないか。
その時、隣で荒い息を吐いていた澪が、勇輝の震える手をそっと包み込んだ。
見上げれば、澪の頬を雨と涙が伝っている。けれど、その瞳には嵐に負けない強い光が宿っていた。
「……いいよ、お兄ちゃん。押そう」
「澪、でも、お前だって全部忘れちゃうんだぞ? 僕と一緒に遊んだことだけじゃなく、全部」
「……うん。でも、思い出がなくなっちゃっても、また明日から作ればいいもん」
澪は、無理に作ったような、けれど最高に優しい笑顔を浮かべた。
「天気は色々変わるけれど、明日も、明後日も、空はそこにあるよ。それと同じように、私達は兄妹なのは絶対変わらないよ」
澪の言葉は、嵐を切り裂く一筋の光のように、勇輝の心に届いた。
そうだ。
記憶が消えても、自分たちが兄妹である事実は変わらない。この胸の温もりまで消えるわけじゃない。
「……ああ。そうだな。僕たちが忘れちゃっても、この空が、全部覚えててくれるはずだ」
二人は重なり合った手に力を込め、運命のボタンを深く押し込んだ。
今までで一番大きく、腹の底に響くような重低音が鳴り響いた。
取り出し口に転がり出てきたのは、透明なガラス瓶。その中には、飲み物とは思えないほどの、純粋で眩い黄金の光が満ちていた。
勇輝が震える手で栓を抜く。
シュパッ、という音と共に、周囲の嵐が一瞬だけ静まり返った。
二人はその光の滴を、祈るようにして交互に飲み干した。
温かい。
喉を通る液体は、まるで春の陽光をそのまま溶かしたような、圧倒的な慈愛に満ちていた。
それと同時に、勇輝の頭の中から、何かがさらさらと零れ落ちていく感覚があった。
蝉の声、眩しい校庭、澪の笑い声――。
大切な記憶が、光の粒子となって空へと吸い込まれていく。
勇輝は意識が遠のく中で、ただひとつ、隣にいる澪の小さな手のぬくもりだけを、必死に指先に焼き付けようとしていた。
直後、爆発的な光が世界を塗り潰した。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます