第2話 奪われた心の天気図
あの不思議な自動販売機の出会いから二週間。
裏山の樫の木の根元にある赤い自販機は、勇輝と澪にとって、秘密の場所になっていた。
百円玉ひとつで、天気が思い通りになる。
その全能感は、幼い二人の心を静かに、けれど確実に侵食していった。
「……明日、持久走大会なんだよな」
夕暮れの教室で、勇輝は溜息をついた。
体育の持久走は1.5km。
校庭を何周も走り、心臓が破けそうになるあの苦しさを想像するだけで、足が鉛のように重くなる。
ふと、ポケットの中で小銭が触れ合った。チャリン、という乾いた金属音が、悪魔の囁きのように聞こえた。
翌日の早朝。
勇輝は教室に行くよりも前に、一人で裏山へ向かった。
朝霧の中に佇む自販機は、どこか冷徹な気配を纏っている。勇輝は百円玉を押し込み、『激流コーラ(大雨)』のボタンを選んだ。
栓抜きに瓶の口を掛け、一気にひねる。それを飲み干した途端、空の色がみるみるうちに鉛色へと塗り替えられていった。
学校に到着する頃には、バケツをひっくり返したような土砂降りが町を飲み込んでいた。
校内放送で持久走の延期が告げられる。教室中が歓声に包まれる中、勇輝だけは窓の外の激しい雨を見つめていた。
(……あれ?)
ふと、妙な感覚に襲われた。
激しく地面を叩く雨音。
そのリズムに合わせて、頭の中にあったはずの『ある光景』が、急速に色褪せていくのを感じた。
それは、三年前の夏のことだ。
夕立の中、父親と二人、びしょ濡れになりながらサッカーボールを追いかけた。泥だらけになって、笑い転げて、母親に二人共泥だらけになって帰宅したことで怒られた、あの温かい記憶。
……思い出そうとしても、父さんの顔が霧の向こうに隠れてしまう。
パズルのピースが欠け落ちるように、そこだけ真っ白な空白に変わっていた。
「お兄ちゃん、何ぼーっとしてるの?」
放課後、傘を差し出した澪の声で、勇輝は我に返った。
「……いや、なんでもない」
勇輝は自分の頭を軽く振った。
代わりに手に入れた『走らなくていい今日』の方が、消えてしまった記憶よりも価値があるはずだ。自分にそう言い聞かせて、彼は冷たい雨の中を歩き出した。
一方の澪もまた、自販機の不思議な魅力に囚われていた。
澪には、気になるクラスメイトの男の子がいた。
期せずして、日直で一緒になる。
彼は、少し口数の少ない。けれど優しい少年だ。
(二人だけになったら、もっと、ゆっくり話せるかな……)
そんな可愛らしい願いのために、澪が選んだのは『しとしと緑茶(小雨)』だった。
放課後。
澪が自販機の栓抜きで王冠を外して飲むと、学校の周りだけが、幻想的な小雨に包まれた。
日直で一緒だっただけに、帰りも重なり、澪と少年は昇降口で立ちすくむことになった。
「うわ、急に雨になるなんて。私、傘持ってないのに……」
澪は、知っていて口にした。
「本当だね。あ……大空さん、良かったら僕の傘で家まで送ろうか?」
小雨は、二人だけの小さな世界を作り出した。
ひとつの傘の下、肩が触れそうな距離。
ゆっくりと歩く帰り道。
澪にとって、それは夢のような時間だった。霧の中に溶け込む少年の横顔を見つめながら、彼女は自分の作戦がうまくいったことを心から喜んでいた。
けれど、家に着いて玄関を開けた時。
「澪、お帰り。お風呂沸かしてるから、先に入りなさい」
母さんの優しい声を聞いた瞬間、澪の胸に冷たい風が吹き抜けた。
(お風呂……?)
澪は、お風呂という言葉から連想される『ある幸せな記憶』を失っていることに気づいた。
幼い頃、母さんの膝の上に座って、湯船の中で数を数えたこと。
お母さんの掌の温もり。
シャンプーの泡で作った猫耳。
それらはすべて、先ほど自分が呼び寄せた『小雨』の中に溶けて、消えてしまったのだ。
「……ねえ、母さん。私、今より小さい頃、母さんと一緒にお風呂に入ったこと……あったよね?」
「何を言ってるの、急に。毎日一緒に入ってたじゃない。……どうしたの、顔色が悪いわよ?」
母さんの心配そうな顔。
けれど、澪の心の中にある『心の天気図』からは、その思い出が描かれていた場所が、消しゴムで乱暴に消されたように白くなっていた。
代償は、着実に支払われていた。
勇輝は、自分を励ましてくれた父との雨の日の記憶を。
澪は、自分を包み込んでくれた母との温かな記憶を。
自販機から手に入れる『都合の良い天気』と引き換えに、彼らの心の中の思い出は、少しずつ、けれど確実に蝕まれていく。
まるで、雨に濡れた地図の文字が滲んで、行き先が分からなくなるように。あるいは、強い陽射しに照らされた写真が、白く退色していくように。
二人は、夕食のテーブルで顔を合わせても、以前のように笑い合うことができなくなっていた。
会話が途切れるたび、二人の間には、説明のつかない虚無感が漂う。
彼らの心の天気図は、今や穴だらけのボロボロになっていた。
大切な家族との絆、幼い頃の輝き。それらを切り取って、彼らは目先の『晴れ』や『雨』を買い続ける。
あの裏山では、今日もあの赤い自販機が、勇輝と澪の百円玉を待っていた。
(続く)
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