第二章

2-1. 初陣の恐怖

徴兵の通知から数週間後、僕は国境付近の最前線に配属された。補助部隊として、物資の運搬や負傷兵の後送を担うはずだった。だが、現実は違った。


戦場は地獄だった。


馬車から降り立った瞬間、僕の鼻を血の匂いが襲った。鉄の錆びたような、生臭い、それでいて甘ったるい異様な臭いが空気を満たしている。その匂いが、喉の奥まで突き上がり、吐き気を催す。呼吸するたびに、その臭いが肺を満たし、胸が締め付けられる。


遠くから聞こえる叫び声が耳に刺さり、鼓膜を震わせる。それは人間の声とは思えない、獣のような絶叫だった。その声が、胸骨を内側から押し、胸が痛む。


地面には倒れた兵士たちが横たわっている。王国軍の兵士もいれば、敵国連合の兵士もいる。その中にはまだ息のある者もいて、助けを求める手を伸ばしている。地面から生えたように見える手が、僕の視界に焼き付いた。


しかし、僕は何もできない。担架を運ぶ手が震え、足が前に進まない。手の震えが、肩から腕へと伝わり、担架が揺れる。足は地面に吸い付くように重く、一歩踏み出すたびに膝が震える。


「動け、新兵。ここで立ち止まってたら、お前も死ぬぞ」


声の主は、先輩兵士のゼロ・ナイトだった。彼は北境前哨基地で隣のベッドだった先輩兵士で、今度は同じ戦場に配属されていた。ゼロは僕の肩を強く叩き、短く言った。その手の力が、肩から背中へと伝わり、体が前に押される。


彼の顔には疲労の色が濃く、鎧には血が染みついている。血は黒ずんでおり、固まり始めている。


遠くの指揮所では、リナ・フォルテが地図を広げながら指示を出している。指揮所は高さ三メートルほどのテントで、幅は十メートルほどある。その中で彼女は指揮班要員として後方で戦況を分析し、部隊の配置を決めている。僕が担架を運ぶ姿を見て、彼女は一瞬こちらに目を向けたが、すぐに任務に戻った。視線が、背中に重りを背負わせる。


学院で共に過ごした日々は、もう遠い過去のように感じられる。その距離は、無限に遠い。手を伸ばしても届かない。あの頃の僕は、まだ自分の運命を知らなかった。


「初陣は誰でも怖い。だけど、怖がってる暇はない。敵が来る」


その言葉通り、遠くから敵兵の雄叫びが聞こえてきた。その声が、頭蓋骨を震わせ、胸が痛む。地面が微かに震え、馬の蹄音が近づいてくる。その震えが、足の裏から全身へと伝わる。


僕は剣を抜こうとしたが、手が震えてうまく握れない。剣の柄が手の汗で滑り、何度も握り直す。その汗が、指先から手のひらへと広がり、剣が落ちそうになる。


ゼロは僕の剣を押し戻し、低く囁いた。


「お前は補助部隊だ。戦闘は避けろ。でも、避けられないときもある。そのときは、俺の後ろに隠れろ」


僕は頷いたが、心の中では「逃げ場がない」と感じていた。胸の奥に重りが沈み込む。戦場は広いようで狭く、どこへ行っても血と死が待っている。後方の野戦病院へ向かう道すら、敵の襲撃に晒されている。僕は戦闘を避けようとしたが、混乱の中で逃げ場を失っていく。視界が狭まり、息が浅くなる。


戦場の中央では、王国軍と敵国連合が激突していた。魔刀使いたちが炎や雷の魔法を放ち、剣士たちが刃を交える。炎の刃が空を切り裂き、雷が地面を焦がす。その光が、目を焼きつけるように眩しい。一瞬の閃光の後、敵兵が地面に倒れ、血が地面を染める。血は、暗い色をしている。


その光景を見ているだけで、僕の体は凍りついた。背筋が冷たくなり、手のひらに汗が滲む。学校で見た訓練とは、次元が違う。ここでは、死が日常だ。一瞬の判断ミスが、即座に命取りになる。現実が、肋骨を内側から押しつぶす。


「リオ、動け」


ゼロの声で我に返る。その声が、肩を軽く叩く。僕は担架を担ぎ、負傷兵を後方へ運び始めた。担架の上で横たわる兵士は、左腕を失っていた。血がまだ滴り落ち、担架の布が真っ赤に染まっている。血の匂いが、鼻を突き、目がしみる。


彼は苦しそうに呻きながら、何かを呟いている。聞き取れないが、おそらく家族の名前だろう。その声が、鼓膜を揺らし、胸が痛む。


僕は必死に走った。足元は血で滑りやすく、何度も転びそうになった。その滑りが、足の裏から全身へと伝わり、体が揺れる。後方の野戦病院までは、まだ三百メートルほどある。その距離が、今は無限に遠く感じられる。一歩踏み出すたびに、その距離がさらに遠くなる。


だが、その途中で敵兵の小隊が現れた。彼らは補給線を断つために、後方部隊を襲撃していた。敵兵は五人ほどで、剣を構えてこちらに向かってくる。彼らの目には、殺意が宿っている。視線が、背中に張り付く。この瞬間、僕の運命が変わる。まだ、誰も知らない。


一人の敵兵が叫びながら突進し、剣を振り下ろす。その剣の軌道が、僕の目に焼き付いた。その光が、目を刺すように眩しい。


「逃げろ!」


ゼロが叫ぶ。その声が、耳の奥に突き刺さる。僕は担架を置き、必死に走った。担架の上の兵士が何か叫んでいるが、もう聞こえない。僕の耳には、自分の心臓の音だけが響いている。ドクンドクンと、破裂しそうなほど激しく。鼓動が、胸を締め付ける。


だが、敵兵の一人が僕を追いかけてくる。振り返ると、剣を構えた敵兵が迫っていた。彼は若い兵士で、僕と同じくらいの年齢に見える。しかし、その目には戦場で鍛えられた冷たさがあった。視線が、背中を押しつける。


僕は剣を抜き、必死に振るった。だが、剣技は下手で、敵兵の攻撃をかわすのが精一杯だった。敵兵の剣が僕の鎧をかすめ、火花が散る。その火花が、目を刺すように眩しい。金属の衝突音が耳に響き、腕が痺れる。その痺れが、肩から腕へと伝わる。


次の瞬間、ゼロが敵兵の背後から剣を突き刺し、敵兵を倒した。ゼロは僕の腕を掴み、後方へと引っ張る。その手の力が、腕から肩へと伝わり、体が前に引っ張られる。


「大丈夫か?」

「……はい」


声が震えていた。震えが、喉から胸へと伝わる。僕は自分の無力さを痛感し、ただゼロの後ろについて行くしかなかった。無力さが、肩を押しつぶす。


僕は何もできない。剣技も下手、魔法も使えない。ただ、逃げるだけ。それすら、ゼロの助けがなければできなかった。事実が、肋骨を内側から押す。


初陣の恐怖は、僕の体を支配していた。戦場の残酷さに圧倒され、自分が何もできないことを思い知らされた。恐怖が、背筋を冷たく走る。だが、この恐怖が、やがて訪れる「偶然の一撃」へと繋がっていく。僕はまだ知らない。自分の剣が、どれほど恐ろしい力を秘めているのかを。そして、その一撃が、僕の運命を決定的に変えることになることを。

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