1-7. 嵐の前の静けさ

夜明けの点呼が終わると同時に、ラグス中佐は偵察班への志願を募った。その声が、鼓膜を震わせる。僕が一歩踏み出すと、中佐はわずかに眉を上げただけで


「ならばリナとゼロを連れて夜泣き沼の手前まで進め」


と命じる。その声が、氷のように冷たい。


凍り付いた木立の間を進む道すがら、ゼロは冗談めかして


「お前の傷移し、兵站に記録されたら英雄扱いかもな」


と笑った。その笑い声が、肩を軽く叩く。


けれどリナは僕の包帯を見て静かに首を振る。


「あれは治療じゃない。自分を削っているだけだよ」


その声には責めよりも、どこか怯えが混じっていた。声が震えている。

沼へ続く谷底では、薄紅色の霧が渦巻き、足元の雪が灰色に変色していた。その霧は、高さ二メートルほどで、視界を遮る。シルヴァのノートには、同じ色の霧は旧文明の儀式陣に由来すると走り書きされている。


僕が魔法陣の欠片を拾い上げると、指先に冷たい痛みが走った。指先を切り裂くような痛み。その瞬間、欠片が脈打つように動き、僕の手に食い込むように吸い付いた。冷たさが、指先から腕へと広がる。


直後、遠くで金属音が重なり、砦から狼煙が上がる。その音が、耳の奥に突き刺さる。敵の蠢きを察した僕たちは急ぎ帰還しようとしたが、沼地に埋められていた呪符が一斉に光り、地面が震えた。震えが、足の裏から全身へと伝わる。


僕が触れた魔法陣の欠片が、周囲の呪符と共鳴し、爆発的な魔力の奔流が生まれた。ゼロが僕を突き飛ばし、リナが咄嗟に障壁を張る。しかし、その障壁は魔力の奔流に押し潰され、衝撃で耳鳴りが止まず、視界が白くまたたいた。頭蓋骨を内側から押しつぶすような衝撃。

目を覚ますと、僕は砦の医務室の簡素なベッドにいた。医務室は広さ十畳ほどで、ベッドが三つ並んでいる。その空間が、冷たい空気で満たされている。


頭はガンガンと痛み、耳の奥で金属音が響き続けている。頭を締め付けるような痛み。ラグス中佐は報告書を投げつけ、


「お前が触れた呪符、基地の結界が吸い上げて暴発した」


と低く告げる。その声を聞いた瞬間、胸が氷で覆われる。怒りではなく、信じ難いものを見る眼だった。


「夜泣き沼の底で誰かが意図的に力を増幅させている。お前の体質が媒介になるなら、利用する」


その言葉の意味がよく分からない。増幅?媒介?僕には何が起きているのか理解できない。ただ、呪符に触れたら爆発したことだけは分かった。魔法陣の欠片が僕の手に食い込むように吸い付き、周囲の呪符と共鳴して爆発を起こした──その事実だけが、頭の中で繰り返される。


その言葉にリナが抗議するが、中佐は


「任務だ」


の一言で切り捨てた。その声を聞いた瞬間、胸の中心が凍える。僕は何も言えず、ただ混乱の中で拳を握り締めるだけだった。拳が、肩を押しつぶすほど重い。

静まり返った診療所で、シルヴァからの新しい手紙を開いた。その紙の質感が、指先に伝わる。


「呪符には"記録"が残る。君が触れた痕跡を辿れば、術者の意図が読めるはず」


と墨で書かれている。その文字が、肩を軽く叩く。でも、僕にはその意味がよく分からない。呪符の記録をどう辿ればいいのか、術者の意図をどう読めばいいのか、すべてが謎のままだった。


僕は震える手で包帯を解き、腕に浮かぶ黒い紋をなぞった。その紋が、脈打つように動く。すると薄い囁きが耳元を掠め、


「沼に還れ」


と繰り返す。その囁きが、背筋を凍らせる。恐怖と共に、不可解な納得が芽生える。納得が、胸の奥で温かく広がる。


僕の傷が鍵になるのなら、逃げても誰かが苦しむだけだ。その事実が、肋骨を内側から押す。窓の外では夜明けの霧が再び濃さを増し、遠くで鐘が鳴る。その音が、頭蓋骨を震わせる。僕は深く息を吸い込み、それでも答えは見つからなかった。息が、喉を締め付ける。

その晩、ゼロは焚き火のそばで


「お前は自分を捨てるのが早すぎる」


と言った。その言葉が、背筋を緩める。


「俺も昔は隊のために何でもすると思っていたが、死んでしまえばやり直せない」


彼の声には過去への悔いが滲む。声が震えている。


リナは地図を広げ、夜泣き沼周辺の地形を指でなぞりながら


「明日、私たちだけで行くわけじゃない。王都から追加の部隊が来る。その間に、何が起きているのか少しでも理解できれば」


と呟いた。その言葉が、胸の奥を照らす。


彼女の頼もしさに、胸が少し軽くなった。軽さが、肩から背中へと流れる。でも、僕には何も分からない。ただ、目の前で苦しむ人を放っておけないだけだ。僕は肩の力を抜いた。その瞬間、体が前に傾く。

その時、ゼロが焚き火に薪をくべながら、


「お前、シルヴァって子から手紙来てるぞ」


と告げた。


僕は急いで手紙を開き、彼女の文字を読んだ。その文字が、指先を温める。


「リオ、あなたは一人じゃない。私も図書館で調べ続けている。もし何か分かったら、すぐに知らせるわ」


その言葉に、凍えるような孤独が少しだけ溶けた。温かさが、指先まで届く。遠く離れていても、僕を支えてくれる人がいる。その事実が、暗闇の中で小さな光となって輝いていた。その光が、目を開ける。

夜泣き沼の霧は、王国が忘れようとした歴史を吐き出しているのかもしれない。落ちこぼれとして蔑まれていた少年が、いまや戦場の鍵を握る存在になろうとしている。恐怖は消えないが、恐怖が背筋を冷たく走る。退く理由ももう見当たらない。リナやゼロ、シルヴァの信頼、クロウの教え、父の手紙──すべてが背中を押す。その力が、足を前に向ける。


僕は包帯を巻き直し、再び剣の柄を握った。その感触が、指先に伝わる。次の戦いが、リオ・アーデンという人間を決定的に変えるものになることを、まだ誰も知らない。


焚き火の火が揺れ、遠くで夜泣き沼の霧が濃くなっていく。その霧は、高さ三メートルほどで、視界を遮る。その霧の中に、何かが潜んでいる。旧文明の呪詛、エリーザが封印したものの残滓──すべてが、僕の周りで蠢き始めている。でも、僕は一人じゃない。シルヴァの手紙を胸に、僕は次の朝を待った。手紙の温かさが、指先まで届く。

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