1-6. 北境前哨基地の初日
北境へ向かう馬車は三日かけて荒野を進み、黄昏時に第七前哨基地へ到着した。砦の門は分厚い氷に覆われ、兵士たちの息が白く煙る。その氷は、厚さ十センチ以上で、触れると冷たさが指先から腕へと伝わる。
馬車を降りた瞬間、頬を打つ冷気が肺まで刺し込んだ。冷気が肺を貫く。息を吸うたびに、痛みが広がる。
僕たちは到着早々武具庫に連れて行かれ、厚手の防寒具と新しい魔刀を支給された。武具庫は広く、天井は三メートル以上ある。その高さが、僕を小さく見せた。
指揮官のラグス中佐は軍帽のつばから鋭い視線を覗かせ、壁に貼られた地図を指し示しながら状況を説明する。
「夜泣き沼から敵の散兵が滲み出ている。治癒班は疲弊しているから、呪詛が疑われる傷は後回しだ」
その言葉に、僕の背筋が無意識に強張った。背中を冷たいものが走る。
「噂は届いている。ここでは結果だけを示せ」
中佐はそう付け加え、僕の目をまっすぐ見据えた。その視線を感じた瞬間、胸の中心が凍える。
配属された宿舎は石壁がむき出しで、窓からは隙間風が吹き込む。その風が、頬を刺すほど冷たい。宿舎は広さ十畳ほどで、ベッドが四つ並んでいる。
ゼロ・ナイトが隣のベッドに荷を放り、
「思ったより早く再会したな」
と笑った。彼は二十代半ばの老練な兵士で、傷跡だらけの腕を軽くさすりながら
「ここでは誰もお前の過去を気にしちゃいない。生き残るかどうかだけだ」
と肩を叩く。その手の温かさが、肩から全身に広がる。
気圧された僕は、父から預かったロザリオを握りしめた。そのロザリオの感触が、指先に伝わる。荷袋の底には、出発前にシルヴァが託してくれた手書きのノートが入っている。
「もし誰かの傷が治らなかったら、これを試してみて」
と添えられた手紙を思い出し、ページをめくった。その文字が、肩を軽く叩く。彼女は王立学院に残り、資料整理と情報支援を続けると言っていた。遠く離れていても、僕は一人ではない。その事実が、凍えるような孤独を少しだけ溶かしてくれる。
初日の夜、警鐘が鳴り響いた。その音が、耳の奥に突き刺さる。敵の偵察隊が霧に紛れて侵入したらしい。僕とリナは即席の班を組み、ゼロの指揮で城壁の外へ出る。
雪を踏みしめながら進むと、闇の中で倒れた兵士を見つけた。彼の腕には細い斬り傷があり、血が凍りついている。血は暗い色をしている。
リナが治癒術を試みるが、光が弾かれてしまった。光が壁にぶつかって跳ね返るように散らばる。
「呪詛だ」
と彼女が唇を噛む。声が震えている。
「僕が連れ戻す」
そう言って抱きかかえた瞬間、兵士の手が僕の袖を掴み、
「頼む…痛みが消えない」
と震える声で訴えた。その声が、氷のように冷たい。その重みを背負ったまま砦へ急ぐと、医師が応急処置を施すが効果は薄い。
ラグス中佐が苛立ちを隠さずに命じた。
「明朝までに原因を突き止めろ。できなければ、呪詛を撒いた者を炙り出す」
周囲の視線が僕へ集まり、喉が乾く。乾きが、喉を締め付ける。
深夜、僕は診療所に残って兵士の脈を確かめ続けた。診療所は広さ十五畳ほどで、ベッドが三つ並んでいる。その空間が、冷たい空気で満たされている。
リナは魔法陣を描き、呪詛の流れを可視化しようと奔走する。ゼロは入口で警備に立ちながら、時折
「息をしろ」
と僕へ声を掛ける。その声が、肩を軽く叩く。
僕は傷口に手を翳し、何か変化が起きないか祈った。母の言葉が耳の奥で囁く。
「この力を使ってはだめ」
──それでも、目の前で苦しむ人を放っておくことはできない。僕は足を前に踏み出した。一歩、また一歩。その一歩が、重いが確かだ。
意を決して指先で傷口をなぞると、鈍い痛みが自分の腕に走り、血が滲む。刃物で切られたように鋭い痛み。同じ黒い紋が浮かび上がり、兵士の呼吸が少し楽になる。
ラグス中佐は
「曲芸か」
と鼻を鳴らしたが、命は繋がった。
夜明け前、診療所を出た僕は雪原に立ち、北風に晒された腕を見つめた。その風が、頬を刺すほど冷たい。治らないはずの傷が、自分の体ではゆっくり塞がり始めている。どうして自分だけが耐えられるのか分からない。何が起きているのか、なぜこうなるのか、すべてが謎のままだった。
だが戦場で役に立てる道があるなら、それを拒む理由はもうない。僕は剣の柄を握り直した。その感触が、手のひらに染み込む。
遠くの空が白み始め、砦の鐘が新しい日を告げた。その音が、耳の奥に突き刺さる。僕は剣を握り直し、心の中で呟く。
「何が起きているのか分からなくても、誰かを救えるなら続ける」
足元の雪がきしみ、夜泣き沼の方角から吹く冷気が新たな戦いを予感させる。その冷気が、警告を鳴らすように感じられる。落ちこぼれとして過ごした日々はもはや過去となり、ここから始まるのは「兵器」としての役割か、それとも別の道なのか。答えは霧深い北境だけが知っている。
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