第7話 警視庁本部庁舎の幽霊
夜、藍田さんから電話が掛かってきた。スピーカーモードらしく、周りのざわめきが聞こえた。
「櫂さん、今、大丈夫?」
「はい。食事を終えたところです。早太子さんもいます。こちらもスピーカーにしますね。」
僕もスピーカーモードにした。
「こんばんは」と早太子さんも挨拶してあげる。
「こんばんは、早太子さん、大変なことになってきました。」
「そうなると思っていました。」
「何?」
僕だけが蚊帳の外らしい。
「今、ファミレスからかけています。アパートの部屋は、多分盗聴されていると思うので。もちろん今も、多分後ろから見られています。本を読むフリをして、スピーカーモードで話してます。」
「分かりました。手短に要点を教えてください。」
「明日、お二人に任意同行を求める運びになりました。車二台で警視庁の本部庁舎にお連れすることになっています。それぞれ別々に取り調べが行われると思いますので、供述内容はあらかじめご相談されていた方が良いと思います。」
「分かりました。ありがとうございます」と僕は言った。
「危ない橋を渡らせてしまってごめんなさい。」と早太子さんも言った。
「お役に立てなくてごめんなさい。お二人の話が真実だということをずっと言い続けましたが、公安部は常識の塊みたいなところがあって・・・」
「それは仕方ありません。公安部だけじゃないと思いますよ。公の場で僕たちの言っていることを信じる人は、まず居ないでしょう。藍田さんのように目の当たりにしないうちは無理ですよ。」
僕が言うと、藍田さんは深いため息をついた。
「取り調べの担当は、公安の常識を背負って立つような人たちです。ちょっと手強いと思います。早太子さんはともかく、時盛さん、メンタルは強い方ですか?」
「かなり強いです。早太子さんの姿を見ても、藍田さんほど驚きませんでしたよ。」
「そのくらいイジワルなら大丈夫です。」
藍田さんの笑いには力がなかった。それなりに覚悟をした方が良いみたいだが、どういうことになるのか想像もつかなかった。
「櫂さんなら大丈夫ですよ。私が付いていますので」と早太子さんが言った。
「確かに。早太子さんなら時盛さんのサポート、完璧ですよね。」
そうは言いながらも藍田さんには確信がないようだった。早太子さんの幽霊としての能力について、まだほとんど何も知らないからだ。僕だってすべてを知っているわけではないが、これまでに何度か早太子さんの姿を見てきて、相当の力があることを予測することは出来た。不安が完全に払拭されたわけではなかったが、多分藍田さんよりは少しだけ余計に安心していたと思う。
「藍田さん、もうあまり僕たちの味方を標榜しない方がいいです。ニュートラルなスタンスが、今の段階ではベストです」と僕は言った。
「必ずまた何かお願いすることが出てくると思います。その時までは、あまり目立たないように、普通にしていてください。私たちにとっても、藍田さんがいつものポジションにいられなくなる事態は、避けたいです」と早太子さんも言った。
「分かりました。早太子さんの為なら、何でもやりますので、何でも言ってください。サディスト陽子に迷いも躊躇いもありません!」
「サディスト?」
初めて聞く言葉を僕はオウム返しにした。
「すみません。そのサディストではありません。藍田特製の造語です。早太子主義者を意味します。今後、早太子さんのファンクラブが出来た場合に使えるかと・・・」
「ファンクラブは出来ませんよ。藍田さん。」
早太子さんは和やかに言った。
「私は、できるだけ認知されないように努めなければなりません。」
藍田さんからはずいぶん強い言葉が湧き出るように飛び出してくる。推しは人を元気にするようだ。僕も推し活をしてみたくなった。
電話を切る間際に、ビデオカメラとデータの提出を求められるだろうと藍田さんは言った。それだけでなく、僕たちがいない間に公安部は部屋の中を調べるかもしれないと言った。
「もう少し早く情報が手に入れば、対応も出来たんでしょうけれど、申し訳ありません。」
藍田さんはしきりに恐縮している。
「全然問題はありませんよ」と早太子さんは言った。
「言われるままになるだけです。」
翌朝、強いノックの音があった。ドアを開けるとジャケット姿の男性とワンピースの女性が立っていた。手帳を開いて「警視庁公安部の佐藤です」「島田です」と名告った。
「造成地の件、それから朱色町交番での一件について、お二人にお聞きしたいことがあるのですが、ご同行願えますか?」
「はい。大丈夫です。」
「それから、交番の一件で使用されたビデオカメラとデータとをお持ち頂けますか? 元のデータを分析させて頂きたい。」
「分かりました。」
車は二台だった。別々に護送され、庁舎の中でも僕たちはバラバラにそれぞれの部屋へ案内された。
僕は会議室のようなところに座らされて、取調官を待った。その時、頭の中に早太子さんの声が飛び込んできた。
「櫂さん、できるだけ事実を話してください。ただ、他の霊による上書きの部分だけは伏せて。」
「分かった」と僕は心に念じた。それで通じると思ったのだ。
それから狭い部屋に移動した。そこに大柄な男性の取調官がやってきた。
「桜田です」という声は太く、圧倒的な声量だった。
これが常識の塊と藍田さんが言っていた奴かと、僕は心の中で構えた。
それから造成地傷害事件の、特に現場でのことを繰り返し繰り返し聞かれた。
「あなたが二人を追って造成地にやってきたとき、見たことをもう一度話してもらえますか。」
「重機が二人に襲いかかっていました。」
「一台? 二台?」
「最初はブルドーザー一台です。二人が逃げていきました。多分、もう一台あった油圧ショベルの陰に隠れようとしたんだと思います。ところがそれも動き始めて、重機二台が、二人を挟み撃ちにしました。」
「あんたが実は運転したんだろう?」
いきなり強い言葉になった。
「違います。僕は重機は」
「あんたと早太子の二人でやったんだろう?」
「違います。僕たちは操作が出来ない。」
「では仲間が居た?」
「いません。」
「造成地で、早太子はどこにいた?」
「分かりません。造成地の入り口には居なかった。僕が見たのは別の女性でした。」
「操作していないのなら、重機に乗っている人間を見たはずだ。」
「見えませんでした。あそこには照明がなかった。重機の作業灯だけです。エンジン音と、照らし出された二人の姿と叫びと、重機の恐ろしい動きだけ、僕が見聞きしたのはそれだけです。」
休憩を挟んで今度は朱色町交番での一件について聞かれた。
「動画は何を使って加工した?」
「加工してません。あれは撮影したままの動画です。」
「いつごろ加工技術を学んだ? ネットか? 誰かから教わったか?」
「加工してません。」
「ではトリックか? 早太子の仮死状態はどう演出した?」
「現場で僕は何もしていない。準備段階でビデオカメラをお弁当箱に入れて保冷バッグにセットしました。公園に待機して、送られてきた動画をPCで受信して記録しました。あとは公安部と雑誌社に送りました。」
「仮死状態のトリックはどうやった?」
「あれはトリックじゃない。早太子さんは幽霊なんで、もともと脈もないし、身体は冷たいんです。今、確かめれば良いじゃないですか? どうして確かめないんです?」
「早太子には脈はあるし、体温もある。普通の人間だということは確認済みだ。」
「ウソだ!」
「質問に答えろ。仮死状態のトリックの方法は?」
「トリックじゃない!」
「ははーん、そうか、あんたの妄想だな? 早太子が幽霊だと思い込んでるのか?」
「何を言ってるんだ。」
「精神鑑定だな。精神病院も最近は居心地が良くなってるらしいぞ。」
「妄想じゃない! 実際に医者に早太子さんの身体を見てもらえば分かるだろう。なぜそれをしないんだ?」
休憩を挟んで三時間くらい取り調べが続いた。
自分の話を聞き取ってもらえないという、ただそれだけのことが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。精神的に自分は結構強いと自負していたが、メンタルはズタズタになった。自分が抱えているものが疲労なのか、心理的な意気消沈なのか、よく分からなくなった。身体に重力がのしかかって重くなり、心もどんどん愚鈍になっていった。
僕は錯乱していることになり保護室に入れられた。ベッドと便器しかない部屋だった。外から鍵がかけられた。
公安部が何をしようとしてるのか、僕にはその意図が全く読めなかった。
夜中に早太子さんが現れてようやく事態が見えてきた。
「櫂さん、大丈夫ですか?」
「何とか生きてる。メンタルをやられた。身体が重いよ。」
僕はだらしなく早太子さんに甘え掛かった。ひんやりとした早太子さんの身体を感じて少し元気を取り戻した。
「申し訳ありません。私が何であるかを見せることを突破口にしたかったのですが、これと同じ造りの部屋に私も監禁されていて、そのままずっと放置です。取り調べはありません。」
「え? 放置?」
公安部は早太子さんをスルーするつもりだった。
恐怖がいきなり僕を襲った。息が出来ない。
早太子さんが僕の背中をさすってくれた。
「公安部は櫂さんを精神的に追いつめて公安にとって都合の良い供述調書にサインさせるか、精神鑑定に持ち込んで病院送りにするか、二つに一つと考えている。こんな暴力が許されて良いはずがありません。」
早太子さんの表情が怒りに変わり、蒼い炎に身体が包まれた。
「暴力には暴力で対抗するしかない。明日、私は警視庁に対して応戦します。これ以上、櫂さんに辛い思いをさせるわけにはいかない。翠さんに叱られてしまう。」
早太子さんはそう言って消えた。怒りの波動のような余韻だけが保護室に残った。
翌朝も同じことの繰り返しで始まった。
「では仲間が居たんだな?」「二人でどうやった?」「何を使って加工した?」「トリックをつかったな?」「どう演出した?」「早太子には脈はある」「体温のある普通の人間だ」「確認済みだ」
「質問に答えろ」「妄想をもってるな」「幽霊だと思い込んでるんだ」「精神鑑定だ」「精神病院に送り込んでやるさ。そこでの余生も良いもんだぞ」・・・
体中が震え始めた。気が狂いそうだった。
一段落して保護室に戻ると、早太子さんの声が来た。
「櫂さん、よく聞いて下さい。取り調べはもうありません。安心して下さい。ただ、今、大変なことが起きようとしています。」
「早太子さん、どうしたの? 大丈夫?」
僕の声も力なく震えていたが、早太子さんの声も震えていたのだ。
「もの凄く強力な念がやってきました。私の意思を乗っ取ろうとしています。どんどん上書きされていこうとしている。
怨の声がするとビル全体が振動した。本部庁舎のあちこちが騒然となっているのが聞こえる。早太子さんが苦しくて呻いているのか? いや、これは違う。既に聖志の声が響いているのだ。
「・・・聖志はこのビル全体を破壊しようとしています。今、私は言葉を藍田さんにも届けています。藍田さんにも協力してもらって、人命を守ろうと・・・思います。
なんとか時間を稼がなければいけない。私の心が完全に上書きされてしまえば、時限爆弾が作動するようにビル全体が吹っ飛んでしまう。」
早太子さんの言葉が途切れた。聖志との戦いに専心しなければならなくなったのに違いない。
オ・・・オ・・・オ・・・
またビル全体が振動した。どこか上の方でもの凄い音が響いた。どこかがもう破壊され始めているのだ。
オ・・・オ・・・オ・・・
そこに緊急館内放送が入った。
「緊急事態! 緊急事態! 庁舎内の全職員は、PCの全データをバックアップサーバーに移転せよ! コマンドを打ったら、結果を見届けず、ただちにビルの外に避難せよ。
繰り返す。緊急事態! 緊急事態! 庁舎内の全職員は、PCの全データをバックアップサーバーに移転するコマンドを打ち、結果を見届けず、ただちにビルの外に避難せよ。このビルは間もなく破壊されます!」
切羽詰まった藍田さんの声で放送が入った。各階で怒号と悲鳴が響いた。壁やら天井やらが崩れ始めたのだ。
全職員は放送の内容を信じた。堅固な要塞だと思っていた警視庁本部庁舎が、目の前で粉々に崩れ始めていたからだ。
放送に引き続き、サイレンが鳴り響いた。大勢の職員たちが階段を駆け下りてゆく音がする。
保護室の施錠が解かれた。扉が開くと、藍田さんが飛び込んできた。
「時盛さん、早く! 早太子さんが持ちこたえている内にここを出ないと!」
「はい!」
僕たちは廊下に飛び出した。他の職員の流れに交じり、階段を駆け下りた。
ゴゴゴゴという恐ろしい音がどこか階上の方から響いてくる。今にも階段がそのまま奈落に向けて落ちていきそうだった。恐怖が足かせになって変な走り方になってしまう。
やっと玄関ホールを抜けて外に出た。お堀の方に職員が集まっている。僕たちもその集団の中に紛れ込んだ。
庁舎の屋上にあるアンテナ塔が粉々に崩れ始めた。まるで砂の城のようだ。溶けるみたいに見えるがそうではない。
音が
オ・・・オ・・・オ・・・
怨霊の呻き声が地面を震わせて響いた。こんなに大きな
「これは早太子さんじゃない。」
「ゼッタイ違う!」
聖志が、早太子さんを乗っ取ったんだ。
ズドドドド・・・
耳が痛いほどの破裂音だった。そこに避難していた人たちは全員耳を塞いで地面に伏せた。と言うよりも恐怖で立っていられなくなった。
僕と藍田さんだけは、しゃがんだ姿勢で顔を上げ、起きていることを見届けようとした。霊力に免疫があるのは僕たちだけだった。
本部庁舎は上の方からズザザザという音を立てながら粉々に砕けていった。灰色の爆煙のようなものが立ち昇った。しかしそれは上空に昇ってゆかない。そのまま落下してくる。
煙ではない。質量のある粉砕された鉄骨やコンクリートなのだ。
煙のような砂粒がお堀端にいる僕たちに襲いかかってきた。
オ・・・オ・・・オ・・・
目を閉じた僕の中に、霊の顔が飛び込んできた。顔や手を砂粒が激しく打った。
鳥肌が立って、僕はヘナヘナと尻餅をついた。腰が抜けたのは初めてだった。
藍田さんも同様だった。同じ顔を見たのだ。
血だらけの坊主頭、眉はなく、顔中が火傷で引きつったようになっているし、右側の
「知ってる!」
藍田さんが叫んだ。
「私、この顔、知ってる!」
砂煙が落ち着くと、文字通り全てが砂塵と化したことが明らかになった。
僕たち避難者も、全員が砂埃を浴びて真っ白になっていた。
緊急車両が何台も到着した。しかし、救急車に収容された人は一人もいなかった。火事も起きなかったから、消防も呆然と現場に佇むことしかできなかった。
パトカーで到着した大勢の警察官たちも、取り敢えず規制線を張って待機した。
これだけのことが起きたのに、ヘリの音がしなかった。警察庁が報道規制を敷いたのだ。
爆破事件でも天変地異でもない、犯人なきビル崩壊だということを、警察が一番よく分かっているということだ。
「あの霊の顔、藍田さん知ってるの?」
状況が落ち着いてきたところで僕は訊ねた。
「思い出しました。警察学校に居たときに、過去にあった不祥事について学んだことがあって、確か、東京近郊で起きたリンチ殺人事件の被害者の顔だと思います。
私たちが見たのは被害者の亡骸の写真でしたけれど。顔だけじゃなくて、全身に熱湯をかけられた火傷の痕があって、髪も眉も剃り落とされていて、体中に殴られて骨折したり内出血した痕があって、酷い状態でした。
二ヶ月くらい連れ回され、監禁されて暴行を受けていて、両親が何度も警察に訴えたのに、警察は被害者が死ぬまで動かなかった。被害者と加害者が所属していた大会社の意向を忖度した為だと習いました。」
「名前は?」
「さとし、だったと思います。
「時盛さん、早太子さんは大丈夫でしょうか?
「分からない。これまでは戻って来られたから、生還すると信じるしかない。」
僕は藍田さんに呟くように答えた。起きたことの恐ろしさや深さに、今になってもまだ圧倒されていた。
警視庁本部庁舎から避難した人たちは、全員身体検査を受けることになり、到着した救急車に順次乗せられて病院に連れていかれた。
藍田さんは名刺を見せ、僕のことを「私が参考人として事情を聞いている一般の方です」と説明して、同じ救急車で東京メディカルセンターに搬送されるようにしてくれた。
簡単な診察を受け、砂粒で出来た切り傷に塗り薬を塗ってもらい、待合室で待機した。
一時間も経っただろうか。
「櫂さん、藍田さん?」
早太子さんからのメッセージがやってきた。
「早太子さん、ご無事でしたか!」
藍田さんは長椅子の上で飛び上がった。
もちろん、言葉は発していない。心の中で叫んだのが、同じチャンネルに参加している僕にも聞こえたのだ。
「ようやく、聖志の意思を逆上書きして排除出来ました。ビルを破壊した直後に、幸い聖志の念が一瞬大人しくなったところを突きました。
本当に可哀想な霊です。本来、死ななくて良かった方です。警察は十分に反省をしたのでしょうか?」
「少なくとも警察学校では未来に向けた教育を行っています。もちろん、大人の世界は権力関係で動くので、理想は簡単に蹴散らされてしまうのかも知れませんが。」
「藍田さんたちの世代に期待しましょう。櫂さん、私はこれから櫂さんが作ったビデオカメラを持って警察庁長官の執務室に行ってきます。今後のことについて、約束を取り付けてきます。」
「ビデオカメラ? 警察に提出したやつ?」
「保管庫から取ってくるのは簡単でした。腰にぶら下げておきましたので、今、手元にあります。
櫂さんがフル充電しておいてくれたので、助かりました。言質として撮影して、どこかに保管しておく必要があります。しばらくそのままそこで待っていて下さい。」
それからまた小一時間が経った。
「藍田陽子巡査ですか?」とスーツ姿の男が訪ねてきた。
「はい。」
「警察庁長官秘書室の杉山と言います。お二人はこのままご帰宅され、明日からは日常の業務に戻るよう長官からの伝言を預かって参りました。
なお、早太子さんに関わる一切の情報は極秘扱いとなりますので、了解して頂きたい、とのことでした。ご了解頂けますか? ご返答を持ち帰るように指示されましたので。」
「もちろん、了解です。」
「私も、了解しました。」
「ありがとうございます。藍田巡査。」
杉山さんは背筋を伸ばした。
「皆の人命を救っていただき、ありがとうございました。長官が感謝を伝えるようにと仰っていました。自分も、個人的に、感謝しております。」
杉山さんはその場で綺麗な敬礼をした。藍田さんも答礼して応えた。
藍田さんと別れて灯りの点ったアパートに戻ると、早太子さんがダイニングテーブルにポツンと座って待っていてくれた。
「早太子さん!」
早太子さんの顔を見て僕の緊張はやっと解けたみたいで、涙を流しながら抱きついてしまった。ひんやりとした早太子さん。無事で良かった。
「強い霊に上書きされて、どこか壊れちゃったりしてないの?」
早太子さんの頭を子どものように撫でながら僕は言った。
「流石に破損してしまいます。でも、私を作ってくれた翠さんは、いつでも私のことを見守ってくれていますので、すぐに修復してくれました。」
「そうなんだ。翠さん、本当に良い子だったんだね・・・」
改めて翠さんに感謝する気持ちが溢れてきた。
それから二人で早太子さんが持ち帰ったビデオデータを観た。
「誰だ!」と男が叫ぶところから動画は始まっていた。
「お二人は、あなたが山口警察庁長官、あなたが
「早太子! 本部を破壊したテロリストか?」と伊角さんが言った。
「誰かいるか!」と山口さんが叫んだ。
「無駄ですよ。この部屋は密閉させていただきました。物音も声も外に届かないし、人の出入りも出来ません。
私と話をしてもらう為にそうさせていただきました。なお、この会見はビデオで録画させていただきます。よろしいですね。拒否権はありませんが。」
早太子さんがビデオカメラを置く隙に、伊角さんは廊下に面したドアに飛びついた。開かなかった。秘書室に通じるらしきドアもダメだった。
ドンドンとドアを叩きながら杉山さんの名を呼んだが、反応がない。
「クソっ!」
高官らしからぬ下品な言葉を吐くと、振り向いて早太子さんに言った。
「何のつもりだ! これは監禁だぞ。ただでは済まんぞ!」
「対等に、冷静に、お話をさせていただきたいのです。こちらにお座り下さい。」
早太子さんはソファセットの、カメラの正面に位置する椅子を示した。顔を見合わせた二人は渋々その言葉に従った。圧倒的な力の差を受け入れるしかないと思ったようだ。
「少々お待ちください。」
そう言って早太子さんは消えた。早太子さんの消失に二人は息を呑む。間もなく、お盆を持った早太子さんが忽然と現れる。コップに飲み物を入れたものと麦茶のポットを二人の前のテーブルに置いた。
「麦茶を入れてきました。これは給湯室の冷蔵庫にあったものをそのまま持ってきたものですから、危険はありません。喉がお渇きになっているでしょうから召し上がってください。」
二人とも相当に喉が渇いていたらしい。ゴクゴクとコップの麦茶を飲み干した。
「さて、落ち着いたところで、全ての話の大前提となる事実をお伝えします。この点を了解していただかないと、話を進めることが出来ません。申し上げてよろしいでしょうか?」
「何だ。言ってみなさい。」
少し威厳を取り戻した山口さんが言った。
それから早太子さんは、小豆畑翠さんと僕に関する話をした。自分の使命が時盛櫂を幸福にすることだと話した。
「これが大前提になります。」
「その君が、なぜ傷害事件を起こした? なぜ庁舎を破壊するようなテロ行為をする!」と伊角さんが怒鳴った。
この人は犯罪者たちとずっと面つき合わせて生きてきた人なのだ。暴力には暴力をもって対抗する。そういう生き様が染みついた人のようだった。
「私に関わりがあるのは、時盛櫂さんに関することだけです。合宿所の問題に私が関わった背景には、時盛櫂さんと藤原好海さんとの関係を深めたいという思いがありました。
そのために、好海さんを合宿所から救出したのです。そうしてついでに二人の男の犯罪意欲を削ごうと思って造成地に追い込んだのですが、そこには別の念を持つ霊が居たのです。
二人に対する怨念が凄まじかったために、私は圧倒されてしまいました。それが誰の霊であったか、警察は既に把握されていますね?」
「江沢京子という女子大生が、前の年に行われたあのインチキな合宿の間に行方不明になっていた。ここへ来て、造成地の付近の山林から遺体が見つかっている。
その人の霊の仕業だと、君は言うのか?」と伊角さんが言った。
「はい。おそらくそうだろうと。」
「今回の一件はどうなんだ?」と山口さんが言った。二人ともいつの間にか早太子さんの話を聞く気持ちになっているらしい。
それはそうだ。どれほどの常識人でも、目の前で消えたり現れたりする存在が、人間ではないものだというくらいは、普通に理解出来るだろう。
「今回は、櫂さんに対するあなた方の仕打ちが、私の怒りの感情を呼び起こしました。その怒りに飛びついたのが、
お二人とも、有名な警察の不祥事、リンチ事件の被害者の方のお名前、ご存じですね?」
「知っている。忘れてはいけない名前だ。
「そうです。その聖志という霊が私の意思を奪ったのです。私に襲いかかると自分の念を上書きしてきました。
私は必死に抵抗しようとしましたが、あまりにも強力な念であったので、時間を稼ぐくらいのことしか出来なかった。
藍田巡査に助けを求めて、皆さんを避難させる道を選びました。緊急放送を流してもらったのはご存じですね?」
「あれは君が指示したのか?」
伊角さんの口調が変化した。あれだけの大災害があったにもかかわらず、一人の死傷者も出なかったことが不思議でならなかったのだ。
「はい。それくらいしか、私に出来ることはなかった。藍田巡査は、私のことで署内で孤立していたようですが、今後の処遇について、ご一考願えれば幸いです。皆さんを救ったのは、藍田巡査なのですから。」
「それは肝に銘じておく。」と山口さんが言った。
「君の話のアウトラインは分かったつもりだ。君が霊であることも、信じられないような気分だが、ここへ至っては受け容れるしかないだろう。伊角、どうだ?」
「ああ・・・不愉快な事実だが・・・事実は事実なんだろう。」
伊角さんは心底不愉快そうな顔をして言った。
しかし二人とも大前提を了解してくれたらしい。
「それで、君がここに来た目的は何だ?」と山口さんが言った。
「はい。私は、飽くまでも時盛櫂さんに所属する者です。そして時盛櫂さんは単なる私人です。
今後は、私たち二人に対して、一般の方と同様に関わらないで欲しい。今回の件についても、一切掘り下げない、原因追及をしない、という約束をして頂きたい。」
早太子さんの横顔は恐ろしいほど冷たく厳しくなった。早太子さんの身体から蒼い炎が上がり始めた。
「ワタシハ レイ デアリ イキテイナイ ワタシニ タイスル ドノヨウナ コウゲキモ イミヲ ナサナイ ソノコトヲ ワスレルナ」
怨の声が部屋の壁や床をビリビリと揺さぶるのが雑音のように記録されていた。
二人の百戦錬磨の警察官が顔を引き攣らせるほど、恐怖を感じている。
蒼い炎が引いていった。早太子さんは普段の表情になると言った。
「私を敵にするような行動が、何をもたらしたか、今回の経験で十分ではありませんか?
警察はこれまで、不用意に、幾度となく罪のない人たちを苦しめてきた。その人々の真剣な怨の念は、今も至る所に漂っています。
聖志の念も消えたのではありません。引き潮のように立ち去ったまで。いつまた怒りに打ち震えて襲いかかってくるか分からない。
その時に、私を警察の敵側に回さぬように配慮するのも、組織のトップであるあなた方の政治力ではありませんか?」
「もういい」と山口さんは言った。
「今後、君たち二人に関わらないと約束しよう。伊角、いいな?」
「不愉快だが、やむを得ない。今回のビル倒壊は老朽化だと言おう。瓦礫の砂を誰にも見られない内に処理をする必要がある。今日中にフェンスを張り巡らして、明日中にトラックで廃棄する。」
伊角さんは両手で顔を覆いながら吐き捨てるように言った。警察官としてあってはならない非常識な決断を、噛んで捨てるように言い放っているのだ。
「ありがとうございます。お二人の英断に感謝致します。目的を達しましたので私は消えますが、藍田さんと櫂さんの二人にも、帰宅するようにご指示願いします。」
早太子さんはそう言ってから、ビデオカメラのところにやってきて録画を止めた。
映像を見終わるとドッと疲れが出た。
「元の生活に戻れるんだね。」
疲れたせいだろうか。涙が止まらない。
「櫂さん、ごめんなさい、辛い思いをさせてしまって。私は自己嫌悪です。」
早太子さんは力なく言った。
「でも、めったに出来ない体験が出来たんだから、僕は良かったと思うよ。自分の限界が分かったし、まだまだ弱っちぃ人間だってことも分かったし。
これから精進しようと思った。幸せになる為には、ボーッとしているだけじゃダメなんじゃないかって、思った。」
本気で自分の弱点が見えた、そう思ったのだ。
「お優しい。ありがとうございます。」
早太子さんは僕のことを優しく見つめてくれた。
「逆、逆! 僕は早太子さんにも翠さんにも、感謝しかない!」
ふと、台所の窓が赤く染まり始めたことに気が付いた。
「早太子さん、買い物しながら、夕焼けでも見に行かない?」
身体は疲れ切ってはいたけれど、早太子さんと二人で夕焼けの中を歩きたくなった。
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