第2話 事故現場の幽霊

 幽霊の早太子さんが作ってくれたカレーライスを食べながら、僕はずっと気になっていたことを聞いた。

「僕は高卒で就職して、すぐにこのアパート暮らしを始めて、今、二年目なんだけれど、どうして今になって早太子さんは、僕のところに来たの?」

 早太子さんを生み出した霊の生前の姿は、同じ学校の高校一年生の小豆畑あずはたみどりさんで、亡くなったのは僕が高校三年生の時だった。つまり二年間は、翠さんは僕の前に現れなかったことになる。

「それは、翠さんに聞かないと。私には分かりません。」

「そうなんだ。最初の時、早太子さんが翠さんになったのかな、と思う時があったけれど、早太子さんと翠さんて、心は通じてないの?」

「私は翠さんの念によって生まれているので、翠さん自身のことは、ほとんど知りません。もし私が翠さんになっている時があるとしたら、その時は私は消えているのだと思います。」

 念によって生まれるとは、そういうことか。僕のことをお世話したいという一念が早太子さんを生み出した。翠さんのその一念だけが、早太子さんの中に残っているということなのか。

「時々ね、翠さんに会ってみたいと思うことがあるんだ。早太子さんが翠さんに変身出来るならそれで良かったんだけれど、それは出来ないって事なんだ?」

「はい。私の気持ちや考えではどうすることも出来ません。」

 そうなってくると・・・僕は考えてみた。幽霊は人に憑くものだけれど、早太子さんは翠さんではない。となると、翠さんはどこに居ることになるか。

 事故現場、しか思いつかなかった。会えるかどうか分からないけれど、一度試してみるのも悪くないと思った。早太子さんを送ってくれた翠さんに、会えなかったとしてもお礼のメッセージを送るだけでも意味があることのような気がした。

 僕はまず、図書館で新聞のデータを調べた。確か小さな新聞記事になったのを憶えていた。年度の中で、小豆沢翠の名前を使って検索を掛けた。一発でヒットした。

 長野県の山越えの道、峠から下った辺りが地図に記されていた。次に峠の名前と宿泊施設でネット上で検索すると、峠の頂近く、温泉ホテルがあることが分かった。

 実際に現地に出かけてみて、日にちは違うけれど、時間帯を事故があったと思われる時間に合わせてその場に立てば・・・早太子さんもその場に居れば・・・もしかすると翠さんが姿を見せてくれるかも知れない。

 もし会えたら、他にも聞きたいことがある。翠さんはどんな女の子だったんだろう。そもそもどうして僕に執着したんだろう。そこにはどんな理由があったのか。

 僕はさっそくホテルに電話をして、次の日曜日に部屋を予約した。シーズンを外れていたから、簡単に予約ができた。それからアクセスを聞いて、電車のチケットを取った。峠までは、最後はバスを利用する。

 早太子さんに話すと「翠さんに会えると良いですね」と言って喜んでくれた。ちっとも自分事になっていない早太子さんの様子が微笑ましかった。


 峠の頂上まではバスに揺られて簡単に到着した。峠の頂には休憩の出来る茶屋と展望スペースがあり、その脇から私道だろうか、細い道を下ってゆくと、渓流に沿って小さなホテルがあった。ほのかに温泉の香りがする。

 フロントで持参した花束を示して事情を説明し、場所を教えてもらいながら夜間の外出を承知してもらおうとした。

 フロントの女性は支配人を呼んでくれた。

「ああ、あの事故ですね? 憶えています。」と大谷という支配人さんは言った。

「痛ましい事故でした。ご家族三人様でしたか、ご夫婦と、確か、お嬢さまが亡くなりましたね?」

「はい。小豆畑翠さんという方です。僕の高等学校の後輩で、いつか手を合わせに来たいと思っていて、命日にきちんと訪れようとするとなかなか、スケジュールが合わなくて。果たせなかったんですけれど。事故のあった時間が十時半くらいと聞いていたものですから、せめてその時間にこれを置かせて頂きたいと思って。」

 僕は花束を示して言った。

「分かりました。それではどうでしょう。十時十五分頃に玄関前に降りてきていただいて、私が車で現場までお送りしましょう。現場でお降ろしして、それで、そこから少し降りたところに待避所がありますので、車をUターンさせて、お二人をお待ちしています。それでいかがですか?」

「ここから現場まではかなり距離があるんですか?」

 わざわざ車を出してもらうというのもどうなんだろうと思って、僕は確認した。

「まあまあ、ありますよ。それに夜間でも車は通りますから、昼間よりも若干危険を伴うと思っていただいた方が良いと思います。なるべくなら歩く距離を少なくしておいた方が、安全でよろしいかと思いますので。」

「分かりました。もし、お願い出来るなら、その形でお願いします。すみません。」

「いえ、とんでもないです。小豆畑さんですか、亡くなられた方も喜ぶと思いますから、ぜひ協力させてください。」


 峠を越えた道路は、少し道幅が狭くなり、厳しいヘアピンカーブの連続になった。

 勿論、街灯などはなく、ヘッドライトに照らされたガードレールと樹木の影が見えるばかりで、周囲は真っ暗闇だった。

 僕は運転をしないけれど、夜にこの道を運転するのはしんどそうだということは分かった。

 ヘアピンカーブの連続だった箇所が終わって、緩く曲がる下り坂の突き当たりにガードレールの一部が少し綺麗に見える場所があった。大谷さんの車はそこで減速して停車した。

「ここです。ちょうどガードレールが新しくなったところが事故現場になります」と大谷さんは言った。

「ヘアピンカーブでは減速してカーブをかわしますけれど、それが終わった後のこの坂で、運転手の気持ちが少し弛んでしまったのかも知れません。」

「ありがとうございます。」

 早太子さんと僕は車から降りた。

「この先、三分ほど歩くと左側に待避所があります。そこでお待ちしていますので、お気を付けていらしてください。」

 大谷さんはそう言って車をスタートさせた。

 ホテルから借りた強力な懐中電灯だけだと、やはり少し怖い感じがする。

 まあでも、早太子さんがすでに幽霊なのだから、怖いものはないはずだった。

 早太子さんは僕のためにもう一台の懐中電灯を点けてくれた。ランプモードだったから僕たちの周りが明るくなった。

 時計を見ると十時二十五分だった。事故の正確な時間は分からない。当時も分かったのはインターチェンジの通過時刻と死亡推定時刻だけだった。車はどこに立ち寄ることもなくここへ差し掛かったらしい。

 翠さんはガードレールを越えて転落してゆく車から外に放り出され、樹木の枝が身体を貫通して亡くなった。

 僕は花束をガードレールの向こう側に据えてから、懐中電灯をオフにした。早太子さんも灯りを消したから、当たりにはホンモノの暗闇が立ち上がった。虫の鳴き声が地の底から沸き起こって、僕たちの上から雨のように降り注いだ。

「翠さん、早太子さんを僕のところに送ってくれて、ありがとう。感謝しています。寂しくないですか? 高校時代の翠さんと話してみたかったです。」

 僕は暗闇に向けて話しかけた。理由は分からないが体中に鳥肌が立った。

「ありがとう。」

 背後の、早太子さんが立っていたところから、聞いたことのある若々しい声がした。

 振り向くと、そこに体育館で時折見かけたポニーテールの高校一年生、翠さんが居た。早太子さんが翠さんに変わったのだ。

 身体には蒼白いオーラのような光がまといついていて、現実味のない半透明の姿をしていた。服装は私服だ。亡くなった時の姿なのかも知れない。

「翠さん。」

「私も 先輩と お話がしたかった・・・」

 早太子さんと違って翠さんの幽霊は、揺れるように浮かび上がるばかりで、現実味がほとんど無い。強い念そのもののようだ。

 頭から背中から脚の指先まで、全身に寒気が走った。死が僕の生命活動に侵食してきたと思った。僕はあえぐようにして意識を保とうとした。

 翠さんの念が早太子さんを作り出しことを強く思って、自分の心が恐怖に転落するのを踏み止まらせようとした。

「こうして 先輩と お話しして 良いのですか?」

 翠さんのこの念は、早太子さんが初めて僕の部屋に訪れた時の言葉と重なった。あの時、なんだか幽霊らしくないと思ったのだ。幽霊は、取り憑く人に許諾を求めはしない。

 その念はひたすら一途で、だから怖いとも言える。冷静に比較してストーカーの比ではない。その幽霊の翠さんの言葉だから、不思議に思った。

「どうして、翠さんは僕と話すことにためらうんですか?」

 オ・・・オ・・・オ・・・

 ガードレールを震わせるような、地響きのような声がした。怨の声。手足が冷え切ってゆく。

「私が 近付くと 先輩の 命は 傷つくから こんなに 思っているのに 思いを 実現すれば 先輩を・・・殺しかねない 苦しい 苦しいのです」

 早太子さんが言っていた苦しさは、そういう意味だったのだ。僕は眩暈を感じ始めた。もうあまり時間が残っていないのかも知れない。

「翠さんが亡くなってから、二年も経ってしまいました。その二年の間、翠さんはずっとここで苦しんでいたのですね?」

 オ・・・オ・・・オ・・・

 僕は何をしているんだろう。一人ぼっちで苦しみ抜いた霊魂を、さらに苦しめている。

「早太子は 私が 作り出した 先輩の お世話を する ための 幽霊 そのために 私は ここに 留まり 苦海を 受け容れた 早太子を 長く お傍に 置いて それが 私を 浄化して くれる・・・私を・・・浄化・・・して・・・くれる・・・」

 切れ切れの声の中に翠さんは消えていった。入れ替わりに早太子さんがそこに立っていた。立ったまま気を失っていたようにゆらゆらとしていたが、ハッと目を覚まして「私は?」と言った。

「翠さんが現れました。」

 僕は両腕をさすりながら言った。冷たく冷え切っていて、まるで金属のようにカチカチになっていた。

 翠さんが恐れていたのはこれなのだ。だから早太子さんを作り出した。そして自分をこの苦しい場所に押し込めた。

「翠さんと話すことができました。もう大谷さんの車のところに行きましょう。」

「はい。」

 歩き出しながら僕は言った。

「早太子さん、僕のところに来てくれてありがとう。」

「私のことが聞けましたか?」

「はい。早太子さんが言っていたことがそのまま、翠さんの念に根のある言葉だったことも分かりました。

 早太子さんは、僕のお世話をするためだけに生まれた。翠さんがここに留まることと引き換えに。そんな話が聞けました。

 でもそれ以上は難しかった。僕の生命力の限界だったみたいです。翠さんはそれを見て取って消えました。本当にありがたいことです。

 ただ、どうしてそこまで僕のことを思ってくれるのか、理由は聞けませんでした。」

 翠さんについて僕が知っているのは、友だちと一緒にバスケットボール部の練習をよく見に来てくれていたということだけだった。

 それだけのことで幽霊になって取り憑くことはないだろう。何か、僕の知らないこと、僕が気付いていない特別な理由があるはずだった。

 でも、そうそう頻繁に翠さんに会うことは出来ない。

 僕の命が持たないし、それどころか翠さんのことを苦しめてしまう。

 となると、翠さんのことを知っている人を探すしかないということか。

 そんなことを考えながら歩いていると、大谷さんの車のヘッドライトが見えてきた。


 ホテルに戻り、レストランで夕食を取った。

 バイキング形式だったので、食べる必要のない早太子さんのことを説明する手間が省けて助かった。

 翠さんのことを調べるために、まずは学校を訪ねてみようと思うと話した。

「そうですね。一緒に部活を見に来てくれた方に話が聞けるといいですね」と早太子さんは言った。

「多分、お墓参りがしたいとか、そのお友だちと翠さんの話がしたいとか、言えば、きっと繋いでくれると思うんだ。」

 食後に一休みしてから、お風呂に行くことを考えた。大谷さんから「家族風呂も今夜は空いている」と聞いていたから「早太子さん、お背中流しますよ」と誘ってみた。

 早太子さんはこう言った。

「櫂さんは私の肌に触れれば、必ず生命活動が活性化してしまいます。私は櫂さんのお世話をする存在ですから、一旦そうなってしまうと、その場では抵抗するという選択肢がありません。

 今のうちだから言えるのですが、それが起きてしまうと、櫂さんの命がダメージを受けてしまいます。だから、私はそういう事態をあらかじめ避けなければいけないと思っています。」

 未来を予見する力のある早太子さんの言うことだから、今現在僕の中にそんな気がさらさら無いとしても、その時にはそうなってしまうのだろう。早太子さんの言葉に従った方が良いと思った。

「分かった。じゃ、僕はお風呂に行ってくるね。」

 そう言って、僕は一人で男風呂に出かけた。廊下を一人で歩くと、やはり少し寂しいのだった。ということは、その場になれば、確実に早太子さんが予言した通りになるということじゃないだろうか。


 夜中にふと目が覚めると、早太子さんは布団の上に座っていた。

 真っ暗で顔が見えなかったから、ドキッとしてしまった。

「早太子さん、ずっと座っているんですか?」

「はい。私は眠りません。」

「せめて、横になることは出来ないですか? 何だかちょっと気になっちゃうから。」

「分かりました。」

 早太子さんは布団の中に横たわった。

「お休みなさい。」

 僕はまた奇妙な寂しさを感じた。

 なるべく早く、僕は自分のためにいい人を見つけた方が良い。


 アパートに戻ってから、母校に電話をした。

 お世話になった先生はその日お休みで、翌日改めて連絡をすることになる。

 三度目にようやく電話して良い日時が決まり、先生とじっくりと話せたのは三日後の午後一時だった。先生というのはこんなに忙しかったのか。

「お忙しい中、ご対応頂き、申し訳ありません。」

 きちんと社会人らしく挨拶したら、電話の向こうの丸山先生は嬉しそうだった。

「元気にしてる? バスケは、今は?」

「元気です。バスケはやっていません。でも、ジムに通ったりして、身体は動かしています。」

「そう。確か、東京だよね? たまにはこっちに戻ってきなさいよ。」

「はい。それで、ご挨拶も兼ねて、今度お伺いしたいと思っているんですが、ご相談があって。」

「うん。なんでしょう。」

「小豆畑翠さんという生徒のこと、憶えておられますか?」

「小豆畑・・・うん。えーと、亡くなった子? だったですか?」

「はい。あの子、よく、バスケの部活動の見学に来てくれていたんですね。」

「え、そうなの? 繋がり、あったの?」

「はい。それで、本当はお墓参りをしたりとか、部活の見学に一緒に来てくれていた友だちと、昔話をしたりとか、したいしたいとずっと思っていたんですが、やっとここに来て、仕事にも慣れてきて、一度、実家に戻るついでに、先生にもご挨拶したりしつつ・・・と思って、お電話させて頂いたんです。」

「そうなの。へー、そういう繋がりがあったとは知らなかったな。」

 丸山先生は、詳しいことは今は分からないけれど、事務室とか当時の学年主任さんに聞いてみると約束してくれた。

「学校に電話してもらうと七面倒なことになるから」と言うので、スマホの番号を伝えた。

 明くる日の夜に丸山先生から連絡があった。

「小豆沢さんのご親戚が、今も高根沢に住んで居られて、連絡してみたら、お参り、ぜひしてやって欲しいということだった。顕聖寺けんしょうじ、電話番号は×××-○○-△△△△、お寺さんにはご親戚の方で、問い合わせがあるからとあらかじめ話しておいてくれるそうだ。それが一点。

 それから小豆沢さんのお友だちの件は、仲が良かったのは桶川薫さん。高三の時の担任だった結城先生が連絡してくれて、先方もぜひお会いしたいとのことでした。電話番号は090-○○○○-△△△△。こんなところで大丈夫か?」

「ありがとうございます。助かりました。桶川さんの都合を聞いてから、丸山先生にお会いする日とお墓参りの日を決めたいと思いますが、それでよろしいですか?」

「もちろん。決まったら連絡ください。あ、私の携帯の番号教えておこう。」


 僕の実家は栃木県にある。

 夕方、仕事終わりの桶川さんと会ったら実家で一泊し、翌日、お墓参りと母校訪問をする予定を組んだ。

 さすがに実家にも母校にも、説明不可能な早太子さんを連れてゆくことは出来ない。それで早太子さんにはお留守番をお願いして、僕は単身の里帰りになった。

 ファミレスで会った桶川さんは丸顔の美人さんで、翠さんのことを、ちょっと涙ぐみながら色々と教えてくれた。

 翠さんのご両親は再婚だった。

 父親は、初めのうちは翠さんをかわいがっていた。しかし成長するに従い母親にだんだん似てくると、翠さんから気持ちが離れていったらしい。恋人が出来た後は、その女性にのめり込んだ。

 結婚後の家の中には、翠さんの居場所はなかった。二人の様子を見ていると、家の中にまるで自分が居ないようにしか見えない、とよく言っていたそうだ。

 自分に会いに来てくれない本当の母親に、一度翠さんは会いに行ったことがあった。

 しかし、既に恋人のいる元母親は、久しぶりに自分の前に現れた娘に対して、「親権なんか争わなかったのよ。あなたはお父さんにあげたの。だって、私自身が自由に生きたかったから」と言った。

 毎日が苦しくて、苦しくてしかたないと言っていた。先生に相談しようよと何度も勧めたけれど、翠さんは首を縦に振らなかった。

 そういう日々の中で、バスケ部の練習を見学する時間が、唯一一人ぼっちの現実を忘れられる休息の時間だった。そして寂しくなるといつも時盛先輩のことを思い出すのだと言っていたらしい。

 僕は、自分が知らないうちに、そんな風に誰かの支えになっていたことが不思議だった。

「一度だけ、翠、時盛さんとお話ししたことがあったんです。時盛さんはご記憶にないと思いますけれど。」

 桶川さんは意外なことを言った。

「それはいつのことですか?」

「一学期の、運動会の日です。クラス対抗リレーで、翠、転んで膝を擦りむいたの。走り終わって待機場所にきたら、先輩の一人が走ってきて「大丈夫ですか?」って声をかけてくれて。「はい、大丈夫です」って言ったのに、その先輩は一度走り去って、すぐに戻ってきて、傷口を洗浄して、絆創膏を貼ってくれたんですよ。「はい、これで大丈夫。頑張りましたね」「ありがとうございます」それだけのやり取りだったんですけれど。それが先輩でした。」

 僕の記憶が稲妻のように蘇った。

「憶えてます!」

「ホントですか!」

 桶川さんは目を丸くして喜んでくれた。

「はい。あの時の子、その頃はまだ髪の毛短かったですよね?」

「そうです! そうです! ああ、憶えていてくれたんだ。翠、喜ぶ・・・」

 桶川さんの目から涙がポロポロとこぼれた。

「ずっと、先輩にお世話になってばっかりだから、いつか、絶対に先輩の役に立ちたいんだって、翠はいつもいつも言ってました。それなのに、死んじゃって、しかもネグレクトの親に殺されたような死に方で、私は悔しくて。でも翠が一番悔しかったんじゃないかと思います。」

 翠さんの苦しさや悲しさは僕の想像以上だった。彼女の無念が、早太子さんを生み出したことに納得がいったし、その念を僕はきちんと受け止めたいと思った。

 桶川さんに会えて良かった。

 翌日はお墓参りを済ませ、二日間の報告を兼ねて丸山先生に面会し、色々とお礼をして東京に戻ってきた。

 アパートに戻ると、早太子さんはダイニングテーブルにポツンと座っていた。生命活動のない早太子さんにとっては、何もしていない状態がニュートラルな姿なのだ。僕だったら退屈で死んでしまう。

「お帰りなさい。」

「ただいま。お留守番ありがとうございます。」

「こちらは無事でした。何もありませんでした。」

 それから二日間の首尾を話した。特に翠さんのことで分かったことを説明した。

「翠さんの苦しさは、生きている時に既に始まっていたのですね。」

「遣る瀬ない話だよね。それなのに、翠さんは自分の苦痛と引き換えに早太子さんを僕のところに送ってくれたんだ。僕は翠さんの念に対して、きちんと応えたい。どうすればいいんだろう。」

 とても大きな課題のように思えた。

「幸せになることだと思います」と早太子さんは言った。

「私は、櫂さんが幸せになるサポートをするためにここに居るのだから。櫂さんが幸せになった時、私は消えることが出来るのでしょうし、それはそのまま翠さんの苦海が消えることを意味するのではないかと思います。」

 早太子さんの言葉は僕を力強く励ましてくれた。なるべく早く、その日が来ればいい、と思ったことは確かだ。でも、よく考えてみると、その時には早太子さんとお別れすることになる。単純に願うのとはだいぶ違う、ちょっと複雑な気持ちになった。

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