世話焼き幽霊の早太子さん
@J-Grin-T
第1話 幽霊VSストーカー
「
今日も日曜出勤だった。まだ六時だけど、とにかく早く寝たい。
1LDKの部屋。ダイニングのテーブルにコンビニの袋を置くと、僕は奥の寝室で裸になった。そのまま玄関脇のバスルームに戻り、全身の疲労をシャワーで流す。スウェットに着替えてベッドに倒れ込む。そのまま小一時間寝たと思う。
物音がしてハッと目が覚めた。ダイニングに灯りが付いている。あれ? 照明なんか付けたかな。いや、暗いまま裸になってシャワー浴びて・・・と思ったら、磨りガラス越しに後ろ姿の人影があった。鳥肌が立った。
「誰!」と僕は叫んだ。
同時に人影がボヤッとした。
「何してるんだ!」
僕は少し勢いづいて寝室とダイニングを分けている磨りガラスの引き戸を勢いよく開けた。
シンクの前に、ほっそりとした後ろ姿があった。長い髪が横顔を隠している。
「少しお話しして良いですか?」
横顔の人が言った。
「誰?」
「サダコです。」
「えっ・・・貞子!」
全身の体毛が逆立つのを感じた。嘘だろ!
「その貞子ではありません。早い、太い、子、早太子と言います。」
そう言ってその人影はこちらにゆっくりと顔を向けた。切れ長の眼、薄い眉、小さめの鼻、薄い唇。いかにも日本人らしい顔立ちだった。顔を見たせいか、僕の中の恐怖心は半減した。
「早太子、って聞いても、まだ微妙に怖い。」
そんな言葉も自然と口に出来た。
「それは仕方ありません。私は幽霊なので。」
「い、やっぱり、幽霊?」
また心臓が跳ね上がる。
「はい。だから、私なんかがこうして櫂さんとお話ししてしまって、良いんでしょうか。」
早太子さんは寂しそうに微笑んだ。
「聞かれても困るけど。でも、話していると、少し怖さが和らぐから、助かる。」
何だろう? どうして僕は幽霊と話せるんだろう?
「そうですか。お話を続けてもいいのですね?」
早太子さんの姿がハッキリとしてきた。幽霊じゃないみたいに見える。僕は二十歳だけれど、その僕より少し歳上の感じの女性だった。
「早太子さんはどうして今、僕の前に出てきたんですか?」
誰かに恨まれるようなことはしてこなかったのに。
「デ テ キ タ・・・」
早太子さんの言い方が恨めしそうに変わって、また影が薄くなった。
「あ、なんかすいません・・・」
僕は焦って言った。
「いいえ。少しだけ悲しくなりました。確かに、幽霊は出るものですから。私は幽霊です。でも、幽霊でありたいと思って、幽霊になった幽霊は居ません。
みんな人として人の前に現れたい。その思い、念が強いまま死んで、幽霊になるのです。だから、「出た」と言われるのは悲しいし、残念に感じる・・・」
「ごめんなさい。言い直します。早太子さんは、どうして今、僕の前に来てくれたんですか?」
気を遣ったら変な言い方になってしまった。でも、早太子さんは喜んだ。姿がまたハッキリとしてきたから。
「櫂さんのところに来たかったからです。」
「僕は、早太子さんのことを知っていましたか?」
「いいえ、知りません。」
「ですよね。早太子さんの姿をこうしてハッキリと見ても、ごめんなさい、どなたなのか、どうしても思い出せません。」
会社の先輩にも、取引先の会社にも、最近亡くなった人はいない。僕と密な関係を持った女性さえ一人もいない。
「私は、今はこの姿ですけれど、私を作った方は違う姿をしていました。」
「そうなんですか?」
言っていることがよく分からなかった。
「念がこの世に残る時、自分の念をどのようにこの世に止まらせるのかを、選択するのだと思います。難しい、恐ろしい選択をすることが出来るのです。」
早太子さんの姿がノイズで乱れた。
「私を造った方は、櫂さんのお世話をしたいという一念で、この姿を選び、私を造り出しました。だから、櫂さん、私にお世話をさせてください。」
なんか、誰かの小説に似た設定があるのを思い出した。
「幽霊になる時に、キャラクターを選べるの? ゲームみたいに?」
酷く浮ついた言い方をしてしまった。
オ・・・オ・・・オ・・・
床を震わせるような呻き声!
「ゲーム デハ ナイ ソンナ キラクナ センタク デハナイ」
「ごめんなさい・・・」
早太子さんはやっぱり幽霊だった。全力で幽霊になったときの迫力は半端なものではないと感じた。ちょっとチビリそうになってしまったほどだ。
でも、このときの僕は、早太子さんの力をまだほとんど知らなかった。
「とても苦しいのです。苦しさしか無い。あなたのために何かをしたい、そう思う時だけ、私の苦しさは和らぐ。だから、傍に居させて欲しい。」
早太子さんではなく誰か別の人が語っているようだった。
とにかく早太子さんの為には、早太子さんを受けとめてあげなければいけない。でも早太子さんは幽霊だって・・・。
「理由が欲しいです。早太子さんを作った方は、生前、僕とどんな関係がありましたか? 名前を教えてください。」
「生きていた時、私は
憶えていた。小豆畑という苗字、二つ下の学年。僕が高三の時、高一で一家三人が交通事故で亡くなり、全校集会で黙祷を捧げたことがあった。そうだ、小豆畑さんという珍しい名前の女子だった。
「憶えてます!」と言うと、早太子さんは嬉しそうに微笑んだ。
「私は櫂先輩に憧れていて、いつか告白したいと思っていました。先輩はバスケットボール部で、私はお友だちと二人でいつも体育館に部活動の見学に行っていました。」
居た居た。二人、一年生がいつも来ていた。あれは誰のファンだろうって皆で話したりしていた。
「憶えてます! ショートカットの子と、ポニーテールの子と、二人、いつも来てた。早太子さんはどっち?」
「ポニーテール。」
驚いた。僕が良いなと思っていた子だ。死んじゃったのは、あの子だったんだ。ウソでしょう・・・
早太子さんの姿は完全に普通の人のようになった。同時に着ている白い一枚布のような服もハッキリしてきた。
「事故があった時、山道で、私は少し車酔いしたみたいで、安全ベルトを外して、窓を開けて、外の風を顔に当てていました。パパがカーブで運転を誤って、車はガードレールを乗り越えて崖の下に落ちて。私は車の外に投げ出されて、背中に何かが刺さった。
下の方で車が燃えているのが見えた。私は、櫂先輩ってずっと思ってました。それから意識が遠くなって、痛みが消えて・・・」
早太子さんは、この時だけ翠さんだったらしい。涙が翠さんの頬を流れ落ちた。
「良かった。こうして櫂先輩に会えた。」
また一瞬早太子さんの輪郭が曖昧になったかと思うと、再び人の姿になった早太子さんは、早太子さん本人に戻っていた。
それから、早太子さんとの奇妙な同棲生活が始まった。
その日の夜、一緒にベッドに寝るのかと思ってドキドキしたが、「私は寝るということをしません。ですので、こちらに居ますね」と言って、ベッドルームの引き戸を閉めて、早太子さんはダイニングの方に戻ってしまった。
それはそうだ。幽霊と男女の関係になれば、最後は死の世界に引きずり込まれてしまうというのが幽霊話の標準仕様だ。確か『怪談牡丹灯籠』はそんな話だった。
翌朝目を覚ますと、キッチンで早太子さんが朝食を一人前作っていた。
「早太子さんは食べないんですか?」と聞くと、「私は生きていないので、食べる、ということを知りません」と早太子さんは言った。
「口にものを入れる、味わう、呑み込むという行為も能力も、私にはありません。」
早太子さんの答えは、僕の中で奇妙に響いた。
早太子さんには、僕たちが知っているとても大切な何かが決定的に欠けているようだった。
この日は冷蔵庫に何も入っていなかったから、朝食はトーストとコーヒーだけだったけれど、メモを持たされて買い物をするようになってからは、食事のメニューは進化していった。
僕は早太子さんのためにスウェットの上下やら下着やらを買ってきてあげた。服が普通になったところで二人で買い物に出た。買い物は一人でするよりもずっと楽しかった。
スーパーで買い物をしている時、売り場の人にも早太子さんは見えていた。
「若奥さん、今日、良いヒラメが入ったよ!」などとよく声を掛けられた。
帰り道に、僕は聞いてみた。
「早太子さんと人との違いって、何かあるの?」
「櫂さんはお父さんとお母さんから生まれました。私は翠さんの念から生まれました。全然違いますよ。」
「いや、それはそうなんだけど。」
僕は早太子さんの肩に触れながら言った。
「この身体の仕組みは、生きている人と同じようにしか見えないだけど。どこが幽霊なのかなと思って。」
「私に分かるのは、私はものを食べない、おトイレにも行かない、眠ることもないということです。命の活動が私の中にはありません。それ以外のことは分かりません。」
生きている僕たちも自分の身体の中のことは、実は何も知らない。知識としてあれこれのことがあっても、それは目の当たりにした事実とは違っていて、イメージとしてあるだけだ。
だとすると、早太子さんを研究したら、何が分かるだろうという好奇心を刺激された。
「MRIでも撮影すれば何か分かるかもね。」
言いながらそんなことをする必要もないか、と思った。早太子さんはここに居る、大事なのはそのことだ。翠さんにとってもそのことだけが大事なことなのだ。
その日の僕はどうかしていた。
大事なクライアントとの打ち合わせの時間を先方に間違えて伝えてしまい、契約締結が保留になってしまった。それはそれで挽回するチャンスはあったのだろうが、落ち込んでいるところを後輩の
それまでに、急に誰かと夕食を共にするようなことは一度もなかった。早太子さんと知り合う前からそうだったのだ。だから、そういう緊急の場合の対応の仕方、どのように連絡をするかということを、早太子さんと決めておかなかったのだ。食事中、早太子さんが夕飯作って待っていてくれるかも知れないということが気がかりでならなかった。でも目の前の澄玲さんへのお礼の気持ちもあったから、結局何も出来ないまま食事を済ませ、遅くなって帰宅した。
「ただいま」と言って玄関に入ると、早太子さんはテーブルから立ち上がって「お帰りなさい」と迎えてくれた。
「ごめんなさい。今日、後輩に食事をご馳走することになって、食べてきちゃった。連絡出来なくてごめんなさい」と言うと、「大丈夫です。私、幽霊なので、そういうこと分かりますから」と言う。これには驚かされた。
「そうなんだ。ずっと心配してた。損したかな?」
ひとまず安心して笑い話で終わりしようと思った。
しかし「ちょっと困ったことになりそうですよ」と早太子さんはおかしなことを言った。
「え?」と聞き返す間もなく、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう」と呟きながらドアスコープから外を見ると澄玲さんが立っている。
ビックリして玄関を開けると、澄玲さんはコンビニの袋を見せながら、「なんか、もう少し櫂さんと話がしたくて、ご迷惑かとも思ったんですが、明日は祝日だし・・・ダメですか?」と言う。
「えっ!」
振り返ると、早太子さんは消えていた。さすがは幽霊。
澄玲さんに上がってもらった。持ってきてくれた缶チューハイを飲むことになり、つまみは・・・と思って冷蔵庫を開けると、何品かおつまみが作られていた。早太子さんは、こうなることも予見していたということか。幽霊にはどうやら僕たちの世界を超越する部分があるらしい。
ラップしてあるおつまみをテーブルに移した。
コンビーフとカッテージチーズの和えもの、イカソーメンと明太子の和えものの納豆&温泉卵添え、などなど。これはある意味マズい事態を招くかも。皿を並べがら緊張感が増していった。案の定「櫂さん、お料理できるんですね」と澄玲さん。
「いやぁ・・・良かったらどうぞ」としか言えなかった。
結局深夜まで飲んだ。酔っ払った澄玲さんはシャワーを浴びたいと無理なことを言い始めた。それで仕方なく澄玲さんの家に行こうと嘘をついて、タクシーを呼んでムリヤリ外に連れ出した。住所を聞き出して、タクシーに乗せ、僕だけスルリとタクシーを降りて強制的に帰宅させなければならなかった。
部屋に戻ると早太子さんは戻ってきていた。
「あの女性はこれから何度も来るでしょう。幽霊のように念の強い子です。」
「困ったな。部屋に上げるんじゃなかったか。早太子さんも姿を消さずに、同棲してますって見せつけてくれても良かったのに。」
「それはそれで、色々とご迷惑なこともあるかと思いました。」
言われてみると、確かにそうだ。その話が会社で共有されてしまうと、社会人としての信用は下がってしまうか。
早太子さんのキャラクターは僕よりも大人の設定みたいで、僕よりも世の中のことを
結局、澄玲さん問題は、早太子さんの予言の通りになった。
翌日の昼休みに同僚と食事に出ようとしていると、エレベーターの前に澄玲さんがいて、「ちょっと」と隅に連れていかれた。
「あの、ご迷惑かと思ったんですけれど、これ、お弁当作ってきたので、よろしかったら食べて頂けませんか?」
どうすることもできず、お礼を言ってお弁当を受け取ってしまった。同僚には「急な仕事が入ったから」と言い訳をして、レストスペースの空いている席を探した。座って食べ始めようとしていると、澄玲さんがやってきた。
「ここよろしいですか?」と前の席に座る。
澄玲さん自身はただ座っているので「食べないんですか」と聞くと、「お昼、早番だったので、もう済ませてしまいました」と言う。
「逆に、お仕事は?」と聞くと、「いいんです。大丈夫なようにしてきました」と言う。
世間話をしながら、僕は何となく居心地が悪くなってきた。
どうして僕の昼休みの時間帯を知っていたのか。どうして昼休みでない人が、仕事をせずにいられるのか。分からないことだらけなのだ。
その日、仕事を終えて帰宅しようとすると、ビルの外にまた澄玲さんが待ち構えていた。
「お仕事お疲れ様です。あの、良かったら少しだけお話しして頂けませんか?」
さすがに異常だと思ったから、「いえ、今日は疲れたのでまっすぐに帰ります」と答えた。少し冷たかったかなとも感じたが、早太子さんも家で待っているだろうと思い直した。
取り敢えずこの日は振り切れたが、似たような日々がその後続くことになった。振り切れた日もあれば、降りきれなかった日もあった。
「櫂さんは大変ですね。幽霊には取り憑かれるは、ストーカーには付き纏われるは、モテモテ。」
早太子さんには僕をからかう余裕があった。しかし確かに早太子さんにからかわれるのももっともなことだ。ちゃんとした女子とちゃんとした関係を築くことが出来なかったから、早太子さんが応援にやってきてくれたのだし、澄玲さんのような人に突撃されてしまうんじゃないか。これまで僕自身は呑気に構えていたけれど、実は由々しき事態に陥っているのかも知れない。男としてちゃんとしないとと思った。
とは言え、どうしていいのかは分からない。
「早太子さん、取り敢えず、澄玲さんのこと、どうしたらいいと思いますか?」
「そうですね。考えなければいけません。私が澄玲さんに取り憑いて取り殺してしまうというスタンダードなやり方をすると、私はもう櫂さんのところには戻れなくなります。それは私が望むところではありません。
櫂さんにとっては、幽霊もストーカーも居なくなりますから、嬉しいかもしれませんが、申し訳ありません、女の本性は自己中ですから、私自身の選択肢にその方法は無いと申し上げておきます。」
幽霊もストーカーも居なくなるという言い方は、一瞬、聞こえは良かったが、早太子さんが消えるということが、翠さんが成仏するということに繋がっていないのではないか、と思った。人との繋がりが切れてしまった幽霊は、いったいこの世界ではどうなってしまうのだろう。何となくそれは聞けなかった。
「早太子さんがただ消えてしまうことは、僕も望みません。翠さんに平安がもたらされるのでなければ、僕も悲しい。」
「やはり、まずは櫂さんがハッキリとお断りすることをお勧めします。決して、傷つけないようにとか、もの柔らかな言い方でとか、余計な気遣いをしてはいけません。さっきも言いましたように、女の本性は自己中なので、どんな気遣いも必ず『思いやり』や『愛情の裏返し』、『共感』などに翻訳されてしまうでしょう。そうなればもはや泥沼化は
早太子さんのアドバイスで僕は勇気百倍だった。
翌日のお昼に僕は早太子さんの言葉をさっそく実行に移した。
エレベーター前でお弁当を持って待ち構えていた澄玲さんが言葉を発するよりも早く僕は言った。
「今日は結構です。同僚と食事の約束をしていますので。」
澄玲さんはハッと息を呑んだ。僕は可哀想という気持ちを呑み込んだ。
「それから、もうこういう事は止めてください。食材が無駄になります。」
そう言って同僚とエレベーターに乗り込んだ。同僚に「いいの?」と言われたが、「ごめん、気にしないで」と取り合わなかった。
退勤時にも澄玲さんはビルの前にいた。
この時も、澄玲さんの姿を見た途端に僕は言った。
「もうこんな事は止めてください。あなたとお付き合いすることはありません。これはストーキングです。これ以上付き纏うなら、社のコンプライアンス相談室に駆け込みます。」
「どうしてですか? 私は時盛さんとお話がしたいだけなのに。時盛さんはお仕事を熱心にされていて、でもいつもお一人で、私なら時盛さんを支えられます。そうすれば、時盛さんはもっともっとお仕事で実力を発揮出来ます。どうして、それがいけないことなんですか?」
「僕があなたを必要としていないからです。分かりませんか? 僕に必要なのはあなたではない。失礼します。」
強く言って僕はその場を立ち去った。澄玲さんは追ってこなかった。
僕はそのまま帰宅した。アパートでは早太子さんが夕飯を作ってくれていた。
「ただいま」と「お帰りなさい」の挨拶をするのは心地良かった。早太子さんとこのやり取りをするようになって、この部屋が初めて僕の居場所になったような気がするのだ。
手を洗って食卓に着くと、僕はその日の報告をした。
「そうですか。それは良かったです。早めに夕飯は済ませてください。今夜はまだ一波乱ありますよ。」
早太子さんは奇妙なことを言った。
「どういうこと?」
「澄玲さんの念は、まだ消失したわけではありません。彼女も命がけなのです。その力に相応する意志力で立ち向かわなければなりません。まずはお腹を満たして、腹に力が入るようにしておきましょう。」
そういうことか。僕は早太子さんの料理を勢いよく掻き込み、アッという間に完食した。
「いつもながらの美味しいご飯でした。ごちそうさまでした。」
この言葉も、一人暮らしの孤食ではあり得ない、元気の出るおまじないのような言葉だ。
「早太子さん、これから澄玲さんがまた訪ねてくるということですか?」
「そうです。このチャンスを上手く利用しましょう。澄玲さんが、櫂さんに二度と近付くまいと思うように仕向けましょう。」
「作戦をお願いします。」
早太子さんは笑った。幽霊のようなゾッとする微笑だった。いや、幽霊なのだ。
夜遅くにチャイムが鳴った。
早太子さんに言われた通り、僕はベランダに出てカーテンの隙間から中の様子を
早太子さんは真っ暗な寝室の中央に立っていた。顔をこちらに向けて玄関に背を向けている。早太子さんの顔は蒼白くボーッと浮かび上がって見えた。身体の輪郭にもオーラのように蒼白いものがユラユラと漂っている。早太子さんの肉体からどんどん現実味が消えてゆく。その眼は真っ白になっていて、中空を睨むように見えた。念が後ろに向かって集中していっているのだ。玄関の鍵が、自然にガチャリと音を立てて開いた。スーッと扉が開く。その向こうに、澄玲さんの姿があった。澄玲さんの手には包丁が握られていた。
澄玲さんの硬い表情が、驚きに変わる。扉が開いたのにそこに誰も居なかったからだ。それから奥の部屋で怪しく光っている早太子さんの異常な後ろ姿に気が付いた。早太子さんの長い髪が、まるでメデゥーサの蛇のように波打ち始めた。
オ・・・オ・・・オ・・・
床を響かせて太い怨の声が、澄玲さんに向かって放たれた。
「ダ・・・レ・・・ダ・・・」
まるで拳銃の弾丸を受けたかのように澄玲さんの身体がビクンと波打った。
「ワタシノ・・・カイニ・・・テヲ・・・ダスナ」
早太子さんの身体が床の上を滑り始めて、玄関の澄玲さんに迫ってゆく。
「ワタシノ・・・カイニ・・・テヲ・・・ダスナ!」
瞬間移動! 霊ワープだ! 早太子さんは怒気を漲らせて振り向きざまに澄玲さんの前に立った。
「ウグッ」という息を呑み込むような変な音がして、それからドサッ、カラカランという音がした。
早太子さんの後ろ姿から怒気が消える。元の姿に戻った早太子さんは灯りを付けると言った。
「櫂さん、もう入ってきてください。終わりました。」
玄関前に、澄玲さんは失神して倒れていた。
「もう大丈夫です。澄玲さんの念は吹き飛んでしまいました。この包丁は私が処分しておきましょう。」
早太子さんは踊り場に落ちていた包丁を手に取って言った。
「澄玲さんを家まで送らないと」と僕が言うと、「その必要はありません」と早太子さんは言った。
「息を吹き返したら自分で何とかするでしょう。このまま放っておきましょう。恐怖と悔恨を骨の髄まで染み渡らせないといけません。澄玲さん、失禁しているみたいですから、それも含めて大変な思いをしてもらいましょう。」
これが女対女の戦いか。
早太子さんが女の本性は自己中と言ったことの意味が、少し分かったような気がした。
澄玲さんの付き纏いはすっかり無くなって、澄玲さんの姿も、会社で見ることがなくなった。
僕には少し澄玲さんのことを心配する思いもあった。けれども、そういう中途半端な同情が結果的に人を苦しめるのだということも理解できたから、何もせずに僕はそのまま放置した。
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