第1章:邂逅は突然に

第1章 邂逅は突然に(1)

 放課後の教室は、いつものように騒がしかった。

 部活へ向かう生徒たちの足音、友人同士の談笑、黒板消しの音。

 そんな日常の喧騒の中で、倉俣翔太は一人、世界の終わりを迎えたような顔で席に座っていた。


(……逃げたい)


 切実にそう思った。

 今すぐ鞄を掴んで、一目散に校門を駆け抜け、自宅の布団に潜り込みたい。

 しかし、それは許されなかった。

 なぜなら、朝のあの出来事――物集女一華による『召喚命令』は、クラス中の、いや、学園中の噂になっていたからだ。


「おい倉俣、物集女様にお呼ばれしたってマジ?」

「お前なにやらかしたんだよ?」

「まさか、粗相をしたんじゃあるまいな……?」


 クラスの男子からは憐れみと少しの嫉妬が混じった視線を、女子からは「私たちの一華様の時間を奪うなんて」という氷のような視線を浴びせられている。

 ここで逃げれば、明日からの学園生活がどうなるか、想像するだけで胃に穴が開きそうだ。


(……行こう。行けばわかるさ、迷わず行けよ)


 心の中で古いプロレスラーの名言を唱え(意味はあまりわかっていない)、翔太は重い腰を上げた。

 目指すは旧校舎。


 第2理科準備室。


 私立聖真玲愛学園の旧校舎は、本校舎とはまた違った趣があった。

 ツタの絡まる赤煉瓦造りの建物は、歴史の重みというよりは、ゴシックホラーのような不気味さを醸し出している。

 生徒の数もまばらで、夕日が廊下に長い影を落としていた。


 ギシッ、ギシッ……。

 歩くたびに床板が軋む。翔太の鼓動も、それに合わせて早鐘を打っていた。


(第2理科準備室……ここか)


 廊下の突き当たり。

 他の教室よりも重厚な、オーク材の扉がそこにあった。

 表札には手書きの優雅な筆記体で『Garden』と書かれたプレートが掛けられている。

 あきらかに、学校の設備として許容される範囲を超えた私物化の気配。


(帰りたい……)


 ドアノブに手をかける直前、翔太は最後のため息をついた。

 だが、覚悟を決める間もなく、中から声が響いた。


「そこにいるのはわかっておりますわよ。さっさとお入りなさい」


「ひっ!?」


 透視能力でもあるのだろうか。

 翔太は観念して、恐る恐るドアノブを回した。


「し、失礼します……」


 扉を開けた瞬間。

 翔太は、ここが学校であることを忘れた。


「……え?」


 そこは、文字通りの「花園」だった。

 無機質な理科準備室であるはずの空間が、色とりどりの観葉植物と、アンティーク調の家具で埋め尽くされている。

 天井からはシャンデリアが下がり、床にはペルシャ絨毯。

 そして部屋の中央には、天蓋付きの豪奢な白いソファが鎮座していた。


 その光景の中心に、彼女はいた。

 物集女 一華。

 制服の上から白衣を羽織り、眼鏡をかけた彼女は、優雅に紅茶を傾けていた。

 夕日を背負うその姿は、あまりにも美しく、そしてこの世のものとは思えないほど浮世離れしていた。


「お待たせしましたわね、倉俣さん」


 一華はソーサーにカップを置くと、ニッコリと微笑んだ。

 その笑顔は、朝の登校時に見せた聖母のようなものではない。

 もっと無邪気で、もっと貪欲な――子供が新しいおもちゃを前にした時のような笑顔だった。


「さあ、そこに座って。まずはリラックスなさいな」


 彼女が指差したのは、どう見ても「診察椅子」のような形状をした、革張りのリクライニングチェアだった。

 しかも、なぜか手足首を固定できそうなベルトがついている気がする。

 気のせいだろうか。いや、気のせいであってほしい。


「あ、あの……物集女さん。ここは……?」

「ここは私のサンクチュアリ。誰にも邪魔されず、貴い命と向き合うための神聖な場所ですわ」

「と、貴い命……?」


 翔太は冷や汗を拭いながら、言われた椅子には座らず、その横に直立不動で立った。


「それで、あの……『診察』というのは……僕はどこか悪いのでしょうか?」


 できるだけ丁寧な言葉を選んで尋ねる。

 一華は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、妖しく目を細めた。


「悪くはありませんわ。むしろ、貴方は素晴らしい『素質』をお持ちです」


 彼女は椅子から立ち上がり、ゆっくりと翔太に近づいてくる。

 カツ、カツ、とヒールの音が響くたびに、翔太は一歩ずつ後ずさる。

 やがて、背中が「花園」の閉ざされた扉にぶつかった。

 退路は断たれた。


「そ、素質……?」

「ええ。ですが、それはまだ原石の状態。磨けば光るのに、持ち主の無知と無関心によって、その輝きが埋もれてしまっている……」


 一華は翔太の目の前まで来ると、その整った顔を至近距離まで寄せた。

 甘い香りが漂う。

 しかし、彼女が見ているのは翔太の目ではない。

 やはり、下だ。


「可哀想な『彼』。私が救ってさしあげなくては」

「か、彼? 誰のことですか?」


 翔太の問いかけに、一華は満面の笑みで答えた。


「とぼけなくてよろしくてよ? さあ、出してくださいな」


「……はい?」


「出・し・な・さ・い。……貴方の、その可愛らしい『おちんちん』を」


 時が止まった。

 翔太の脳内で、思考回路がショートする音が聞こえた気がした。


「……は?」

「あら、聞こえませんでしたの? おちんちんですわ。男性の体についている、あの愛らしくも不思議な器官のことですわよ」


 一華は何故わからないのかと言わんばかりにきょとんとして、至極真面目な顔で言葉を重ねた。


「今朝、一目見た時から心を奪われてしまいましたの。そのつつましやかな膨らみ、控えめな主張……まさに私の理想とする『未完成の美』! ああ、早くその全貌を拝みたい……!」


 彼女の両手が、わなわなと震えている。

 目はらんらんと輝き、鼻息が荒い。

 翔太はようやく事態を飲み込みかけ、そして全力で拒絶した。


「い、いやいやいや! 何言ってるんですか物集女さん!? つ、つまりそれって……セクハラですよね!?」


 翔太は顔を真っ赤にして叫んだ。

 学園のアイドルが、放課後の密室で、男子生徒に下半身の露出を強要する。

 これは犯罪だ。退学ものだ。


 しかし、一華は心外だとばかりに眉を顰めた。


「セクハラ? なんですのそれ。私がいつ貴方に性的な行為を求めました?」

「い、今求めたじゃないですか! おちんちん出せって!」

「ええ、言いましたわ。でもそれは、学術的かつ審美的な観点からの要求であって、いやらしい意味など微塵もありませんわ!」


 一華は胸を張り、堂々と宣言した。

 その顔には一点の曇りもない。本気でそう信じているのだ。


「いいですか倉俣さん。おちんちんとは、生命の神秘が凝縮された小宇宙コスモなのです。本来は博物館に展示され、ガラスケースの中で大切に保護されるべき尊い存在なのですわ。それをズボンの中に押し込め、蒸れた環境で放置するなんて、虐待と同じですわよ!?」


(だめだ、この人……話が通じない!)


 翔太は恐怖した。

 彼女は悪人ではないのかもしれない。

 しかし、圧倒的に「狂人」だった。


「……あ、あの。物集女さん、やっぱり病院に行ったほうが……」

「つべこべ言わないで、さっさと出しなさい! 私が優しく検診してさしあげますから!」

「いやです! 絶対にいやです! 帰ります!」


 翔太は必死に扉のノブを探る。

 しかし、鍵がかかっている。

 開かない。


「……あら、口で言ってもわかりませんのね。残念ですわ」


 一華はため息をつき、眼鏡を外した。

 そして。パチン、と指を鳴らした。


「光子。出番ですわ。この分からず屋な飼い主様を、ほんの少しだけ『教育』してさしあげて」


 その瞬間。

 音もなく、部屋の奥のカーテンが開いた。


「――御意」


 現れたのは、小柄なメイド服の少女だった。

 無表情で、手にはなぜか、革製のかせのようなものを持っている。

 早乙女 光子。一華の影であり、共犯者。


「え……うわっ!?」


 翔太が反応するよりも早く、光子は目にも留まらぬ速さで距離を詰め、翔太の腕を掴んだ。

 華奢な見た目とは裏腹に、万力のような力だった。


「お嬢様がお待ちです。大人しく従いなさい」

「ちょ、まっ……離してください! 警察呼びますよ!?」

「無駄です。ここは校内放送も届かない、完全防音の聖域ですから」


 淡々と告げる光子によって、翔太はずるずると診察椅子の方へ引きずられていく。


「さあ倉俣さん、観念なさい。痛くはしませんわ。ただ、ちょっとだけ……詳細なデータを取らせていただくだけですから♡」


 一華は恍惚とした表情で、メジャーとノギスを構えて近づいてくる。

 その目は完全に、獲物を狩る捕食者のそれだった。


「たす、助けてえええええッ!!」


 夕暮れの旧校舎に、翔太の断末魔がこだました。

 もちろん、誰にも届くことはなかったが。

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