辺境に君と消えゆく
まれえ
辺境に君と消えゆく
辺境にはさまざまな物語が漂う。あるものはとどまり続け、あるものは静かに消えていく。
一、
山中には雪が吹き荒れていた。何もかも、夜の闇ですら全てが白く覆い尽くされていく。風の音は雪女の哄笑のように響き渡り、家中の窓や壁は揺さぶられるように軋んだ。
立て付けの悪い玄関の戸を空けて、あいつが家を出ていくのが分かった。こんな猛吹雪の中、酒を求めに行くのは愚かだ。もう既に酔っているにも関わらず、運転して麓のコンビニにでも行くつもりだろう。
「さすがに危ないよね」
自らの父親を心配し、立ちあがろうとする友人の肩を、マサは掴んで止めた。前にも同じことをしてあいつに殴られている。どうせ留められないなら、何もしないほうがいい。
「アキ、寒いからこっちに」
マサは友の名を呼び、自分の隣に連れ戻す。アキは躊躇しつつも、腕を引かれるまま従う。
数分後、吹雪に交じって、異様な音が響き渡った。車がスリップしタイヤが叫ぶような鋭い音と、ドンという大きな音。……だったと思う。激しい風の音の中に、それらはすぐかき消された。
本当に音が聞こえたのかどうかですら、後に二人の記憶の闇の中に曖昧に漂っている。もし音がしたとして、この辺りに他の家はないから、それを聞いたのはマサとアキの二人だけだったろう。
アキが不安そうに布団から身を起こしたので、マサは目を開けた。そして、アキの華奢な手首を引き止めるように掴んだ。それこそ雪のように白いアキの肌は、血の気が引いて青くなっていた。マサがその頬に手を伸ばした。
「大丈夫。後はおれがいるから」
アキは手に頬を擦り寄せて、静かに目を伏せた。
決定的な
二、
整備工場からの帰り道、雪がちらついてきていた。
今年の雪は少し早い。
家は山奥にある。着く頃には雪の粒は大きくなっていた。車から降りて、マサは肩や袖についた雪を玄関先で払う。
昔から通い慣れた築60年近いモルタル壁の家。中学の頃、百回だろうと、二百回だろうとここに通おうと心に決めた。そして住むようになってから既に千日は過ぎた。
「ただいま」と玄関の引き戸を開けると、奥から煮物のよい香りが漂ってくる。つられるように台所に向かうと、エプロンをつけた
アキは昨年二十歳を過ぎたが、相変わらず線の細い青年だった。全身の色素が薄いのか、髪も亜麻色をしている。少し長めの前髪が一筋垂れて、顔にかかっている。また今度切ってやらなければと思う。隣に立つと、「今日は少し早かった?」上目遣いにこちらを見上げてくる。マサよりも少し背が低い。肩幅も狭いし、頭も小さい、顔も小さい。なんだか守らなければならないという気持ちになる。
「今日は飲みの誘いもしつこくなかったから」
「また誘われたの?」
アキの目が三白眼になる。上目遣いが強くなるといつもだった。その刺すような鋭さも、アキのものだと可愛いと感じてしまう。
「おじさんと飲むだけだよ……先に風呂に入るね」
脱衣所で機械オイルが染みた手を洗い、服を脱ぐ。風呂はマサのためにアキが沸かしてくれている。家は古いがアキがよく掃除をしているから気分が良い。
風呂上がりに、マサは鏡の前に立つ。
週末の農作業をするようになって、体のあちこちに筋が出てきていた。顔の輪郭や、鼻筋もはっきり出てきて、黒い眼の力が年々強くなっているような気がしている。この前アキに「マサって年々かっこよくなるね」と褒められて思わず心の中でガッツポーズをした。
風呂上がり台所に戻ると、アキが食卓に夕餉の皿を並べていた。煮物とみそ汁、おひたしだろうか。
手伝いながら、「おいしそうだね」と労いの声をかける。アキは小鉢を卓に載せながら言った。
「セリのおひたしだよ。畑で採れた」
「へえ、セリか。珍しいね」
「頂きます」と箸を持つと、じっとアキが見つめてきた。そしていたずらっぽい上目遣いで言う。
「ドクゼリだったらどうする?」
アキは箸を掴まずに、テーブルに手をちょっとだけ載せて、そこにもう片方を軽く重ねる。まるで演技しているような繊細な動きだった。そして、口角だけをほんのり持ち上げてから、目を細めつつ続ける。
「……おれは覚悟ができているよ」
マサは考えた。
「死ぬ前にしたいことか……」
マサはテーブルに手をついて、少しだけ身を乗り出す。そして、アキに柔らかく触れるだけのキスをした。初めてのキスだった。
「なにそれ」
目を瞬くアキの前で、マサは飯を食べ始める。
結局、普通のセリだった。
三、
こうなる運命だったのだと思う。
中学二年の春、マサはアキと出会った。
マサは窓際の席でひとり、校庭に咲く桜の花ばかり眺めて過ごしていた。昨年、いじめを止めてから、かえって友達が離れていった。容易になびく奴らと付き合うのが、バカバカしくなっていた。
桜の花も盛りを過ぎ、はらはらと風の中に花びらが散っていくばかりのある日。アキが転校してきた。
「片尾秋人です。よろしくお願いします」
黒板の前に立つ静かな身のこなしや、真っすぐに伸びた背筋。表情を変えない美しい顔。後にそれは父親への怯えから来るものだと分かったが、アキは粗野な田舎の中学にあって、どこか別の世界からやってきた人のように感じられた。
彼はあまりコミュニケーションが得意ではないらしかった。田舎では珍しい転校生として、最初こそ話題になったが、すぐに暗い子というレッテルを貼られた。頑ななまでのその静かさを、むしろマサは視界の片隅に置くようになった。何度かアキと目が合って、慌てて窓の外にそらすことがあった。
そんなマサに、ある日の休み時間、アキの方から話しかけてきた。
「桜、散っちゃったね」
一緒に窓の外を眺める。もう葉桜になり始めていた。
「おれも桜が好きだったんだ」
そう言う横顔は、桜よりも何倍も綺麗に見えた。
アキがわざわざマサに声をかけてきたのは意外でもあり、選ばれたようで嬉しくもあった。
「最近、やっと目立たなくなってホッとしているよ」
二人で話すようになってから、アキはマサにだけ打ち明けた。
ひっそりとしつつも、どこか凛とした自我を持っているアキとマサは親しくなり、放課後、よくアキの家に遊びに行くようになっていった。
四、
居間をフローリングに改装していた。そこのソファーに掛けて風呂上がりのアキの爪を手入れする。ヤスリを掛けて、甘皮を削り、艶を出していく。こまめに手入れして、より綺麗にするのは気分が良い。自動車整備をして細かい傷のついた車体がまた新車みたいに艶光りする時以上だった。
蛍光灯の光に煌めくアキの爪を眺める。その表面をキャンディみたいに舐めたら、きっとつややかで舌触りが良くて、いつまででも舐めていられるだろうなと思う。ついでにクリームを腕まで塗り拡げる。
足も同じようにする。足袋を履いているように白く、なめらかな足の甲に触れると、アキは「ん、」と微かに声を出して、くすぐったそうに身じろいだ。マサはクリームをまとった指を、足の指の谷間にねじ込んだ。
「あっ……」
アキはひくん、と僅かに脚を震わせた。
くちゅくちゅとクリームを染み込ませるように指を動かす。
「くすぐったいよ……」
されるがままになっていたが、やがてアキは耐えきれずに頬を染め「おわり!」と足を引っ込めた。
「わかったよ」
マサはタオルで余ったクリームを拭い取る。アキは気を紛らわせるように、テレビをつけた。その引かない顔の赤みを見て、マサは微笑んだ。
五、
出会ってしばらくして、アキの家に泊まりに行くようになった。
「あんたまた行くの?」
時折マサは母親に小言を言われていた。
「あの家ちょっと複雑なんでしょう。ほどほどにしなさいよ」
そう言いつつ、五人兄妹のちょうど真ん中にあたるマサには、さほど干渉しなかった。家業である農業を継いた兄達二人は頼られ、幼い弟妹は可愛がられていた。けれど、思春期を迎えたマサの行動をそれ以上、他の家族達も逐一止めることはなかった。
田舎では、噂話は泳ぎ周っていく。
マサの母も知っていたように、アキの家の事情はすぐ噂になっていた。
「母親が隣町のスナックで働いていて、父親は働いていないらしい」
アキの家に通うようになって、それは本当だったらしいと分かった。
いつもきつい坂道を自転車で立ち漕ぎしながら二人で帰った。自転車は荒れた庭に無造作に停めた。古くて傷んだ軽自動車が停めてあった。
家に入ると父親は既に酒を飲んでいて、マサを見ても無視だった。無精髭に、ボサボサの白髪交じりの髪。小柄なアキとは似ない、熊のように大柄な男。
酔いが回ると、アキを大声で呼んだ。父親は風呂にもあまり入らないらしく、近づくと獣じみた体臭がした。据わった目で「酒を買ってこい」と言う。
「子どもには売らないって、この前言われたんだ」
アキが困ったように答えると、父親は壁を強く叩いた。古い家はその振動で揺れんばかりに軋んだ。
マサがいなければその拳はアキに向けられる。
前に、アキが学校を休んだ時、心配で家に行った。顔が腫れていた。
「警察に行った方が良い」
マサが傷を冷やしてやりながら言うと、アキは泣いて嫌がった。
「母さんはもうずっと前から帰ってきてなくて……あの人もいなくなったら、おれ生きていけない」
そして、マサに囁いた。
「誰にも言わないで」
「……っ」
顔を腫らした痛々しい姿なのだが、どこか甘やかな響きに、マサは背筋を羽でくすぐられた様な気持ちがした。アキを守りたい。マサはなるべく自分が泊まりに来れば良いと思うようになった。
六、
クリームやタオルを片付けて居間に戻ると、アキは膝の上にクッションを乗せて、ニュース番組を見ていた。
経済、国際事情。世間から隔離されたようなこの場所からすると、流れてくるすべてが遠いことだった。
マサはアキの横顔を眺める。なだらかな顎先のラインから、首筋にかけて、何往復も視線を走らせる。完璧な造形だと思う。少し鼻先を近づけると、ボディクリームの甘い香りがする。市販のクリームだが、アキから香ってくると、どこか着物に焚きつけた香にくすぐられているような気持ちになる。
この美しい生き物がどうやって生まれたのか、マサは関心がある。アキに聞いても、大したことはないと言う。家族よりも男を優先する母親と、飲んだくれの父。ずっと三人で暮らしてきた、と。
でも、そうではないだろうとマサは思っている。美しすぎる桜の木の下に、何か不穏なものを感じる人がいるように、アキにはきっと運命的な秘密があるのだろうと思っている。その秘密をマサはあれこれ想像する。その一つのピースは、あの父親が物語っていた中にあった。
あの日、父親はまた酒を持ってこいと騒いだ。アキが首を振ると、卓の上に肘を置いて暗い目をした。
『おれに早く死ねと思ってんだろ』
アキは強く首を振った。
『その嘘くせぇ顔があいつそっくりだな』
アキは青ざめた顔で『やめて』と珍しく反論した。マサの手を引いて、部屋を出ようとする。父親は酒瓶を手で払った。割れそうな音が出る。
『拾ってやったってのにその態度か!』
アキは大きな音が苦手だ。びくり、と身を固くした。その震える肩にマサは手を置きつつ、父親の話をじっと聞いた。
『くそ、なぁおまえ。ゴミみてえな人間になって、あいつの家に泥塗ってやれよ』
父親は空の酒瓶から最後の一雫までを吸い取るように、直接口をつけた。そして、また酒瓶を投げ出して、皮肉げに笑う。
『隠してやがるが、お前の親は人殺しなんだからな!揃いも揃って人間の屑だ』
後にアキはその話を否定した。
『多分、妄想ってやつだと思う』
酒が全部だめにした、とアキは少しだけ鼻をすすりながら言った。
けれどもマサは、父親の言ったことが真実なのではないかと思っている。母親はいざ知らず、少なくともアキにあの父親の血が流れているとは思えなかった。
目の前のアキの美しい横顔は、その秘密を証明しているようだった。あの父親の言っていたことは不穏だが、アキの背負う運命としてはあってもおかしくないとは思う。
そんな事を考えていたら、テレビから流れてきた事故のニュースに気を引き戻された。マサはもたれていたソファーから身を起こした。軽傷者が出たらしい。幸い大ごとにはならなかったものの、テレビ画面に映った事故を起こした乗用車は、フロント部分が大破していた。
「っ……」
アキはそれを見て、明らかに息を詰めた。クッションを強く抱きしめる。肩が震えていた。
外では吹雪になってきていた。マサはアキの膝のうえにそっと手を置いた。
七、
あの猛吹雪の晩、アキの父親は酒を買うために飲酒運転をして、急カーブを突き抜けて崖下に転落した。後に分かったことだが、父親の死亡推定時刻は深夜1時頃。直接の死因は、低体温症だった。車に挟まれ身動きが取れぬままだったらしい。スマホが車内にあったが、充電が切れていた。
警察に何か音が聞こえたかと問われ、二人は首を振った。マサは「眠っていたし、風の音で分からなかった」と答えた。アキはとめどなく涙を落とした。誰からも責められることはなかった。
中学三年になったアキは、学校を休みがちになっていった。
珍しく登校したある日の昼休み、校舎の陰で二人きりになった。コンクリートの壁に背を預けたアキは何かが見えているかのように、思いつめた顔でしばらく一点を見つめていたが、やがて呟いた。
「やっぱりおれたちが殺したんだと思う」
マサはアキを見た。どことなく熱に浮かされた人が譫言を言う時のような、虚実の狭間に取り残されたようなぼんやりとした表情をしている。
「どうしてそう思うの?」
マサは聞いてみた。アキはぽつぽつと語り始めた。それはほとんど強迫的な妄想だったが、マサは遮らずに耳を傾けた。
あの日、アキは料理をしていて、酒の瓶を倒し、こぼしてしまった……かも知れない。酒が切れなければ、買いに行くこともなかっただろう。父親のスマホの充電が切れているのにも気づいていた。けれど充電をするようにとは言っていなかった。スマホがつながれば父親は助けを呼べたかもしれないのに。
話すうちに、確信的な口調に変わっていく。アキは真面目な顔で続ける。
「そもそも車がスリップしたのは……」
アキは上目遣いで言う。
「マサも言ってたよね。『あの古い車、ステッカーを見たら、車検も少し切れているみたいだし、危ないんじゃないか』って」
まるで、マサがこうなることを知っていたとでも言わんばかりの言い草に、思わず笑いそうになった。それをこらえて、話に乗ってやる。
「そうだね」とマサは頷いた。
「音がした時、助けに行っていれば……」
アキはあの夜を思い出すように、遠い目をした。
二人とも事故の音を聞いていた……ような気はする。でも、それを知るものは二人の他にはいない。マサは一切反論しなかった。むしろアキと共犯になるという特別感に胸をときめかせていた。
アキの口調は後悔ともまた違っていた。あんな父親でも『いないと生きていけない』と言っていたくらいだ。ショックだったろう。けれど、アキは案外元気そうにしている。
「親父さん、残念だったね」
と、マサに言われて、ようやく悲しそうな顔をしたが、父親の葬儀もなく、骨壺ですら居間の片隅に放置されたままだった。相変わらず母親も帰ってこない。あの事故の後、実質一人で暮らしているアキが心配で、マサは何度も家に行っていた。
「大丈夫、マサが来てくれるから」
そう言ってアキは微笑んだ。その頬にそっと手を当てると、アキは擦り寄るように顔を動かした。指先が長いまつげに触れて、びんと痺れるような気持ちがした。アキと一緒にあの男を殺したんだ。共犯者。そう思うと、身体の奥底からどうしようもない喜びが沸き上がってきた。
八、
マサは事故のニュースを流すテレビを消した。気を取り直すように「お茶でも飲もうか」と言った。
「おれが淹れてくるよ」
アキが立ち上がった。
アキを待つ間、マサはリビングに置いたパソコンを立ち上げた。いつものように検索履歴をすべてチェックする。
アキにはスマホを持たせていない。代りに固定電話とパソコンは使わせている。約束事を決めていた。メールやSNSを使って知らぬ人と連絡をとらないこと。ウェブページならどんなページを見ても構わないが、履歴は消さないこと。三年ほど前に、アキがSNSで知り合った女と心中しかけたから、設けた約束事だった。
履歴を見ていて「セリ ドクゼリ 見分け方」で検索していたのを微笑ましいと思う。自分で育てているから間違えるわけないのだけれど、「もし……だったら?」という物語をアキはよく作る。それに乗るのは楽しい。
レシピを検索したり、趣味の調べ物をしていたようだ。マサは詳しくないがアキは昔から能楽が好きだ。何もない母親の部屋に残されていた木箱の中に、能面が入っていたのがきっかけだった。色々調べたり、本を読んだりしていくうちに、自分でも話を創るようになったようだ。時折詠み聞かせてくれるが、あいにくその手の感受性の低いマサには何が良いのか分からない。けれど、一生懸命なアキをみているのは好きだった。
ショッピングサイトの検索結果を見て、へぇと思った。この前、アキに『ボーナスが出たから、何か欲しいものはある?』と聞いていた。
そこへ、お茶を淹れたアキが戻ってきた。
九、
中学三年の夏くらいにアキは学校に来なくなった。父親の事故死の話は皆が知っていた。きれいなアキには、悲劇的な話が似合った。そういうところにに惹かれる女子もいるらしい。「秋人君は大丈夫?」とマサは何人かに聞かれた。適当に返しつつ、何も知らないくせにと内心嘲った。アキに会える放課後まで、退屈で仕方なかった。
学校のプリントを持って、マサはアキの家に通い詰めた。
学校に来ないでアキは能楽を創作していた。半分遊びで作ったらしいが、マサに語って聞かせてくれた。
「江戸時代の話。……片尾という田舎で娘がさらわれて、吉原に売られた。その娘には恋人がいた」
片尾とはアキの姓だ。マサは興味を惹かれた。
「吉原の 萩さしたる花入 君なければ 生きるあたはじ……歌が書かれた手紙が男のもとに届き、男は女が吉原にいると知り、助けにゆく」
アキは冗談ぽく笑う。
「その男が住んでいるところは『萩の森』という」
「本当に?」
自分の姓が使われたことで、マサはアキの世界に引きずり込まれたような気分になる。
「そうだとしたら、特別になるだろ」
アキはマサの隣に座って、ピタリと身をくっつけている。
外は夕立だった。外に出なくなったアキの肌は白い。触れ合う半袖同士の腕。すり寄るようにアキはマサの肩に頭を預けてきた。
マサはもうすでにアキを好きだと自覚していた。
卒業後、マサは工業高校に行った。アキはどこへも進学しなかった。辺境には色々な物語の断片が浮かんでいる。アキの浮世離れしていく存在もそんな物語の一つに感じられる。山を登りながら、マサはどこか別の世界に出かけているような気持ちだった。
十、
テーブルの上に湯呑みを置いたアキに、マサは聞いた。
「ビーズクッションほしいの?」
「ただ見てただけ……でもいいよね」
アキは湯呑みに口をつけた。
マサは大きなクッションに埋もれているアキを想像する。可愛い。
アキは少しだけ上目遣いにマサを伺った。
「近くにできたモールでも売っているみたい。どんな感じが実物を見てみたいな……」
「モールか……」
マサが渋い声で言うとアキは顔を曇らせた。
「やっぱりだめかな……」
あまりアキを連れて歩きたくない。田舎だと出かけるところもないから、皆がモールに行く。同級生にも会うだろう。気安くアキに話しかけられたくない。二人がここまで積み上げてきた日々を知らない奴らに。
マサが黙り込むと、アキは気を使うように「それより通販で新しい鍋が欲しいんだよね」と話を変えた。
十一、
高校二年になった、ある夏のさなかだった。山の麓に黒塗りの車が止まっていた。マサが首を傾げつつ、自転車で脇を走り抜けようとしたら、窓があいて中から声をかけられた。
「君が、将生君だね」
「……はい、えっと……」
マサは自転車を停めて、車から出てきた男を見た。
背筋が真っすぐで、歩く姿も美しい男だった。一度だけアキの母が残していった能面を見せてもらったことがあるが、どことなくそれとにた雰囲気がある。よく通る声で、男は言った。
「秋人を見張っていてよ。あいつは18で死ぬつもりなんだ」
「あなたは誰ですか、どういう意味?」
「
「それはアキが言ってたんですか?」
男はこくん、と頷いた。その仕草だけか妙に子どもっぽくて愛嬌がある。どこかアキを彷彿とさせられる。咄嗟に、本当の父親なのではないかと感じた。
「あなたは、アキの……」
「それ以降は、君が面倒見てくれ。どう扱っても構わないよ」
「そんな、モノみたいな言い方……」
「頼んだよ」
そして、ゆっくりと車に戻った。静かな歩き方は、まるで舞台から消えていく幽霊のようだった。
「おまえ、18で死ぬつもりなのか」
家についてアキに問い詰めたら「そうだよ」とあっさり答えた。
「どうして……」
「あの人に会ったの?」
反対にアキが聞いてきた。マサはかろうじて頷いた。あの男のことだろう。改めてアキをみると、やはり涼し気な目元や輪郭が似ていた。
マサは、思わず言いかけた。
(あの人はアキの本当の……)
しかし、それより前にアキが言った。
「母さんの代理人の弁護士だって言ってた」
そして、この話は終わりだとも言わんばかりに、俯いてじっと爪を眺めた。それ以上、マサは何も言えなかった。
アキが18歳で死ぬつもりということが、重くマサの心にのしかかった。アキがいなくなることを考えるだけで、吹雪の中一人取り残されたように、身が凍る思いがした。
十二、
次の春くらいから、アキはふさぎ込むことが多くなった。アキのSNSのアカウントはいつも念入りに確認していたが、どうも暗い厭世的な内容のコメントに反応したり、リポストしたりすることが多くなっていった。マサは自らも資格試験や就職活動で忙しい中、アキを見守るために頻繁に家を訪れた。夏には地元大手の自動車整備会社に就職内定した。アキの側にいて彼を守らなければ、という一心だった。アキも喜んでくれていた。
しかし、その年の秋。薄の生える紅葉のさなか、アキはマサに黙って家を出た。鍵のかかった玄関を合鍵で開けて入ると、がらんとした家の静けさがマサにのしかかった。
兆候はあった。SNSを通して知り合ったという女友達と「今度会いたい」と言っていた。どうも彼女の方は精神的に不安定な様子だった。そんな彼女とアキが会ったら二人でどうなるか知れない。
マサは学校を休んでアキを探しに行った。幸いスマホにアキの位置情報が共有されていたから、すぐに場所は分かった。
「近くの公園まで迎えに来た、帰るぞ」
電話してそう伝えると、アキは電話の向こう、吐息だけで微かに笑った。
「うん」
彼女と一緒にどうするつもりだったのかは聞かなかった。けれど、公園にやってきたアキの痩せた顔は霊界から戻ってきたかのように、青白かった。
アキが18歳になる、その年の冬。
「結婚しよう」とマサは言った。言い出す前は緊張したが、思ったより軽く言えた。
「男同士だよ」とアキは目を細めて笑った。
「こんな辺境、誰も気にしないさ」
その夜、二人で手をつないで眠った。
十三、
「もう寝ようか」
マサはアキの手を引いた。
外では更に風が強くなってきているようで、窓ががたがたと音を立てていた。
「寒いからこっちにおいで」
布団のなかに招き入れると、アキはすんなりとマサの胸元に収まる。あの日の夜を思い出す。
「吹雪になるかも」
アキが風の音に耳を澄ませる。
「スリップしないように気をつけないと」
あの音が聞こえる気がして、マサが言った。
「やめて。マサがいなくなったらおれ生きていけないよ」
アキが上目遣いに見上げてくる。
「……考えるだけで死にそう」
そういって柔らかく微笑む。
「おれも」
マサはアキを軽く抱きしめた。
ふと、いつまで生きられるのだろうか、いつまでこんな暮らしができるのだろうか、と思う。
(死ぬ前にしたいことか)
「もう一度キスさせて」とマサは言った。
「ん……」
唇が触れ合う。
そして、2人で抱き合ったまま幸せな眠りについた。
ー了ー
辺境に君と消えゆく まれえ @maree_
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