五度を待ちながら
くまいぬ
第1話「エウレカ!」
「エウレカ!」
体育館いっぱいに凛々しい声が響き渡る。客席が一斉に息を飲んだのが分かった。十分な間を置いてスポットライトに照らされた舞台上の役者は誰よりも輝いて見える。その動きには無駄の一つもない。指先が止まる位置まで正確だ。頭のてっぺんからつま先まで、不断の努力を重ねた「天才役者」の姿であった。
「見たかね助手くん。俺の天才的な発見を!」
「ええ、勿論! 流石博士です!」
「ワハハ! もっと言ってくれ! できればティータイムまで延々と」
会場からくすくす笑い声が聞こえる。音響席から客席と舞台を一望する少年————高木優希(たかぎ ゆうき)はほっと胸を撫で下ろした。この演目の脚本、演出を手掛けたのは他でもない彼である。自身のシナリオに絶対の自信がある優希でも、客席の反応が芳しい時は頬が緩む。文化祭ということもあり今回はコメディ作品を書いたが、元来、コメディとは客席の呼吸を掴んだ奴の勝ちだ。つまり最も難しい演目の一つである。反応ひとつで簡単に白ける。お笑いとは、テンポと間、つまり緩急が命。シナリオの面白さだけでは笑いには繋がらない。
————それを、あいつは平気な顔して完璧に演じている。
フェーダーを弄る手が微かに震える。目盛りを数ミリ上げる。笑いの波が遅れて来る。ここで客を攫う確信がある。舞台上で脚光を浴びる主役のひょうきんな顔を見ながら、優希は微かにギリと奥歯を噛み締めた。会場を包む笑いは今完全に彼の手のひらの上にあるようだ。手が緩んだ。悔しい、と思うよりもずっと早く。演劇に身を置くからこそ分かる、微細な息遣い、そうして客席に向けられる観察眼。そのどれもが完璧だ。リハーサルの時より洗練されている。彼にとっては客がいる方がやりやすいのだろう。どこまでも役者で、嫌になる。天才は優希が最も忌み嫌う人間の一人だ。笑い声が想定より半拍遅い。この演目を彼は————東雲大我(しののめ たいが)は、脚本演出の優希よりコントロールしかけている。
優希は拳を握り締める。このシナリオを書いたのは自身なのに、誰よりも理解しているはずなのに、大我に主導権を持っていかれそうになっていた。やはり、彼は人の目線を惹き付ける。声の抑揚、張り方、目線の使い方、表情、手足の動かし方……どれをとっても一流だ。高校生とは思えないほど、その演技力は卓越していた。唯一欠点を挙げるとするならば、上手すぎて他の役者より変に目立ってしまうことだろう。しかし、それに目を瞑ったとしても役への理解力は、ともすれば作者の優希より上である。それが、酷く悔しい。また負けた、と優希はノートパソコンのキーボードを叩きながら舞台を睨み付けた。
眩しい。
言ってしまうのは簡単だ。実際、今板の上で一番輝いているのが大我であることは変えようもない事実である。しかし、優希にとってそれを心から認めるのは酷く屈辱的なことだった。天才とはなんなりや? それに、優希は顔を顰めながら答えるだろう。
————天才とは、大我のような人間のことだ、と。
演劇は才能の世界。冷たい事実としてそこにあるものは変えられない。悲劇的なことに客席の目線を吸う役者は存在する。板の上に居るだけで存在感があり、他の役者を食ってしまう。唯一の欠点であるそれですら、大我を輝かせるために執筆したシナリオの前では些細なことだ。優希は、天才ではない。しかし秀才ではあった。だからこの演劇部で演出をやっている。しかし、それが今は滑稽にすら見えるだろう。この天才の前では、どんな才能も凡才だ。
「さて助手くん、これからどうしたらいいのかね?」
「っそんなことも考えてないんですか! この歴史的な発見を世間に発表するんですよ!」
「そうか! よぉし、これで世界を引っ繰り返すぞ〜!」
助手役がセリフを一瞬飛ばした。しかしそれを大我は自身の間を少し多く保つことで違和感をなかったことにした。流石の技術だ。顔色ひとつ変えないでテンポを元に戻した。思わず舌を巻く。高校生でこの対応力を持つものは数少ない。それどころか若干客席に伝わりにくかった小さい声音のセリフを拾って意味の繋がるようにしている。優希は、益々顔を顰めた。気に入らない。言うなればそれが一番の本音であり、唯一の文句。大道具のロッキングチェアでくつろぐ姿が妙に様になる。開演当初は少しざわざわうるさかった観客も、もうすっかり大我の演技の虜になっていた。それがあまりに憎らしく、そうしてほんのりと誇らしい。演劇部内で高校二年であるのは優希と大我だけだ。唯一の同級生である彼が優希の最たるコンプレックスでもあり、そうして少しの優越感を抱く要因にもなっていた。大我はきっと、大成するだろう。彼の才能を最前で見てきた優希には分かる。
大我の才能は、こんなところで終わっていいものじゃない。
「……残り10分です」
「ありがとう」
タイムキーパー役の後輩が優希に囁きかける。この調子だと少し巻くくらいだろう。ゴシック体を埋め尽くさんばかりにメモ書きの残されている台本をめくりながらそんなことを思った。舞台の上では遂に博士の発見が世界を滅ぼさんと、赤色の照明が板を照らしている。
「ああ、ああ! なんてことだ! こんなはずではなかったのに!」
悲痛な悲鳴が体育館に響く。ピアノの少し寂しい曲調も相まって、酷い悲劇に見えた。これまた、大我の快演が成せる技である。フェーダーを動かして音を少し大きくする。BGMが演技に負けていた。常に失敗の許されないのが音響というものだ。裏方には裏方なりの辛さがある。しかし、目の前で大粒の涙を流すあの男には敵わないだろう。その胸を張り裂かんばかりの苦しい感情がこちらにも伝わってくる。優希は、思わず少し涙ぐんだ。そうしてそんな自分を恥じた。誰よりこの脚本の展開を知っているというのに、今更感動とはなんだ。情けない。裏方は非情であるべきである。そんなちっぽけなプライドを押し通す。
「神よ! 貴方はとんだ嘘つきだ! 俺にこんなものを与えておいて、助けてもくれないなんて! 嗚呼どうか、その寛大なお慈悲で俺だけでも助けてください! いいや、助けろ!」
最後のシーンに入った。それを確認して再びストップウォッチを見遣る。完璧な時間感覚だ。定期公演だからと時間オーバーを承知でこのシナリオを書いたのに。演技力も声も完璧、視線誘導から時間調整まで完璧! お前の欠点は天才であることだけだ。苦笑いをこぼしながら照明卓にもインカムを飛ばす。
「55分経過、残り5分。予定通りです」
「了解です」
スポットライトが大我を照らす。白衣が微かに白飛びする。それを察してかすぐに衣装を後ろに払った彼は正面を向いて真っ直ぐに声を飛ばした。
「……生か死か、それが問題だ。俺は生を選ぶがね!」
青色に染まった舞台の中、素早く動いた彼の姿を一瞬見失う。次の瞬間にパッと明るくなった舞台で、大我は再びロッキングチェアに座りながら船を漕いでいる。
「……博士、博士!」
「ん、あ……なんだね助手くん、君はとっくに死んだはずでは……」
「何言ってるんですか! 寝ぼけてないで起きてください! 今日こそ歴史的な発見をするんでしょう! 予算がないんですよ、ウチは!」
「んん? あれ。なんだ夢か……うーん、予算、予算ねぇ……まぁ金持ちになってもいいことなんてないんじゃない」
「え?」
「世界が滅ぶより貧乏の方がよっぽど平和じゃないか!」
照明が暗くなる。緞帳がゆっくりと降りる。割れんばかりの拍手が体育館に響く。優希はほっと胸を撫で下ろし、やっと深い息を吐いた。千秋楽も無事に終わった。文化祭も最終日、あとは片付けとミーティングのみが残されている。公演が終わる度に肩の荷が降りた気分になるが、あと一ヶ月もしない内に大会に向けた脚本のオーディションがあるのだ。油断してなどいられない。優希は自身の頬を強く叩きながら、カーテンコールで笑顔を見せる大我の姿だけを見ていた。
————これは、最早優希の演劇ではない。大我の演劇だ。
……認めたくは、ないが。
ボクの脚本は、奪われた。
……体育館の熱気が冷める前に、現実はその背中に伸し掛かる。
「いやー文化祭大成功でしたね、アンケートめっちゃ来てますよ」
「大体大我のことだろ?」
「まぁそれは……そうなんですけど……」
同じ音響席にいた後輩とスピーカーやら配線やらを片付ける。照明の配線もついでに片しておきながら、優希は今回一緒にいた後輩にダメ出しをしていた。
「BGMの入りいくつかズレてた。大我のセリフと被ったろ? あっちで対処してくれたけど音響ってのは誤魔化しが効かないんだ。ワンテンポ遅れただけで文句を言われる。ボクたちの目標は音響凄かった、と言われることじゃない。文句を言われないことだ。分かってるか?」
「……はい」
大人しく後ろで音響卓を片付ける後輩は少ししょんぼりしている。言い過ぎたか、とも思ったけれど、裏方に情は必要ない。これくらい厳しい方が良いだろう。大体、今回は音響の技術を磨くために優希の隣に彼女は置かれたのだ。学んで、吸収して貰わないと困る。
「……やっぱり」
そんな彼女が口を開いた。思わず振り返る。そこには、目を輝かせてこちらを見る後輩がいた。
「先輩、凄いです! 戦闘シーンまであったのにSE完璧で! 機械みたいでした! やっぱり優希先輩凄いです、尊敬です」
その邪念の無い褒めに、嬉しむよりも先に心が冷めた。もう既にどこか、他人事だったのだ。上手く受け取ることができなくて、曖昧に微笑んでありがとうと言った。体に接触するのは女性に対するマナー違反である。優希は台本でぽん、と優しく後輩の頭を軽く叩く。彼女は嬉しそうに笑った。後続も心配要らなそうだ。
「あ、大我先輩」
衣装からジャージに着替えた大我が後輩連中に囲まれているのを見る。さっきまで話していた彼女もまた、行ってしまった。ポツンと一人音響席に残された優希は淡々と片付けを続ける。まとめたコードをカゴに入れ、サボっている面々をおいて大道具の移動を始める。これが終わった一時間後には軽音楽部の発表だ。時間がズレたりしたら堪ったものではない。そっちでも照明を任されているのだから、現状、片付けに真面目に奔走しているのは優希だけ。強豪の名が聞いて呆れる。大我は役が抜けきっていないのかいつもの数倍ハイテンションで話を続けるため、放置しておいて良さそうだ。
観客席はもう既にがらんとしている。まるで、ステージ上とこの場所に、深い深い溝があるようだった。
中高一貫私立校、高天原学園。数多の学生が集うこの学園で、大我と優希は強豪と呼ばれる全国常連の演劇部に所属していた。大我は役者、優希は裏方、事情あって二人しかいない高校二年の同学年。中睦まじい……とは若干言えない距離感ではあるが、一応、まぁ、それなりに交流はある。演劇部の日常は兎角忙しい。朝練から午後練までみっちりと行われる稽古は手抜きなどという言葉は全く存在せず、朝から晩まで演劇漬け生活の日々だ。世界で一番濃密な時間を、彼らは過ごしている。
「えー、次は大会の脚本オーディションです。中間テストのすぐ後にありますが、成績を落とさないように」
顧問が部活終わりのミーティングで語り始めた。少し風体の悪い格好をした彼はとんでもない実力者であり、脚本家の一人だった。優希はそれを純粋に慕っている。この演劇部内じゃ、顧問にお世話になっていない人間などいないだろう。それくらい、影響力のある人だった。
「前にも言ったし分かってると思うけど、今回も最後の10分間を役者と脚本家の二人で演じてもらう。二人芝居だからな。照明はなし、音響は最低限。これがルール」
いつものお約束だ。隣の後輩がこそっと話しかけてきた。
「今年こそ、全国ですね。優希先輩」
「……ああ、そうだな」
歯切れの悪い返事をしても、彼は嬉しそうに微笑んだ。優希に特別懐いている男の後輩の一人だ。キラキラと輝いた目にはこちらに対する猜疑心など一切無い。それに面食らって曖昧に濁したが、彼はまた優希が脚本・演出を手掛けるのだと全く疑っていなかった。その無邪気さが、刺さる。
「それから今日の反省。高学年から。高木」
「はい」
名前を呼ばれて会話を切るように立ち上がる。入ったばかりの一年はまだ声が出ていないこと、体力不足で着いていけていないこと、それを改善するために大会練習の前までは一年生の練習を優先すること、それらを提案する。顧問は浅く頷いた。
「東雲」
「はい」
「その……優希の言う通り、基礎が、まだなんか、できてないかなって。大会には俺と誰かが出るだけでしょう? その間、一年は舞台よりもその、えぇと、」
「基礎練習の方に集中した方がいい?」
「っそう! それ!」
「東雲はいい加減高木にサポート入れさせるの辞めろな。次」
小声でありがと、と囁かられる。いつものことだから気にしない。それから彼は、すっかり信じ込んだ声色で、顧問に気付かれないように聞いてきた。
「次は俺、なにすればいい?」
……それに、一瞬躓いた。
「……銀河鉄道の夜のオマージュ」
「へぇ、いいじゃん」
そんな会話もそぞろ、顧問が叱責を飛ばす。
「そこ喋るな」
「ッはい!」
「はいすみません!」
彼らは強豪演劇部。そこ綻びのひとつもあってはならない。
「優希ぃ〜助けて……」
……ならないの、だが。
「……今度はなんだよ。台本の漢字が読めないとかなら良いんだけど?」
「テストやばい」
「バカタレ一週間前だぞ」
一学期の中間テストが近い。目をバッテンにさせた大我は舞台上の姿からは想像もできないほどメソメソして優希の机に縋り付く。テスト期間のため部活は休止。優希自身も勉強のために早く帰ろうとホームルームが終わって帰る準備をしていたというのにこれだ。呆れて声も出ない。こうしてテストの度に大我が助けを求めてくるのは、最早恒例行事となっていた。
「どこがヤバいの」
「全部」
「だから日頃から勉強しとけって言ったろ!」
思わず声を荒げて、ハッとする。クラスでの優希は品行方正な優等生だ。その仮面を剥がすわけにはいかない。まぁ、五年も一緒にいたら本性なんてみんな大体知ってるけど。急いで大我の腕を引っ張って教室を出ていく。無愛想で通っている大我だって今は飼い犬みたいに耳を垂らしていた。
「こないだ国語の小テストあったじゃん」
「あったな」
「それの点数がなんと5点」
「バカタレ!」
図書館に向かう道すがらそんな会話をする。既に帰宅の道中である生徒はこちらに目も向けない。優希は眉間を揉んで深い溜息を吐いた。コイツ、現代国語の成績は良いものの、他が壊滅的なのである。特に漢字が弱く、先程言ったように台本の文字ですら読めないと泣き付いてくる始末だ。もう終わりですの文字を貼り付けてシワシワになった大我をなんとか図書館に放り込む。ギチギチに詰まった席の中、比較的声を出してもいい窓辺に座れたのはラッキーだった。
「もうだめだぁ……補修って辛いし長いんだよぉ……」
「どこの世界に大会練習で補修に捕まる役者がいるんだよ」
「ここです……」
そっと両手をあげるその手をバチンと叩き起こして教科書とワークを開かせる。大我は漢字でいっぱいのそれを見た瞬間に大袈裟に顔を顰めた。
「はぁ……漢文なんて現国と一緒だろ。寧ろ短いからあっちのが楽」
「嘘だ!」
嘘ではない。優希はもう既に課題を終わらせているのに、大我のワークは真っ白だった。目玉を剥いて倒れそうになる己をなんとか鼓舞する。幸いにして彼は物覚えは良い方だった。特に音で覚えた情報は忘れない。だから優希が教えてやれば、一応赤点回避くらいは——偶に無理だけど——できる。頭がズキズキ痛む。テストなんて進捗確認でしかないのだから、授業を聞いてワークの文字を覚えれば良いだけだ。問題は大我が授業中爆睡してることだけど。
「ここなんて読むの?」
「ようようたる」
「ようようたる。どういう意味?」
「その前に桃があるだろ。果物に形容詞を付けるとしたら?」
「えー……瑞々しい、とか」
「正解」
ここも授業でサラッとだが解説していた筈だ。なぜ聞いていないのか。ぼうっとその整った横顔を眺めていると、目の下にうっすらとクマが張っていることが分かる。キョトンとして、優希は思わずその目尻に手を伸ばした。
「うわっ」
「……」
「な、なに」
まるで叱られた犬のように眉尻を垂らすものだから笑ってしまう。理由もなく笑ったと思ったのか、大我は目を丸くしてオドオド焦り始めた。
「なに、なに、どうしたの。なんか付いてた?」
「んは、ううん。違う」
「じゃあ、なに」
パチクリ目を瞬かせる間抜けさにまた笑うと、彼はますます混乱したように自分の顔を触り始めた。大きな手が優希の指先に触れて、息が止まる。
「違う違う。クマ、あるなって」
「クマ?」
「目の下」
言うと、大我はやっと納得したのか不満げな顔をして早く言ってよ、と恥ずかしそうに顔を背ける。彼は真面目な男だから、日々の体づくりも欠かさない。そんな大我が夜更かしするほどのことがあったのかと少し疑問に思った。
「夜、寝てないの?」
「寝たよ。ちょっと夜更かししただけ」
「へぇ、なんで?」
「……本読んでたんだよ」
今度は優希がキョトンとする番だった。漢字が大の苦手である男が、本? 普段教科書もまともに読もうとしないのに? そんな感情を読み取ったのか、大我は少し頬を膨らませて肩を怒らせた。
「俺だって本くらい読むよ!」
珍しいこと。周囲の音が少しばかりうるさくなってきた。顔をくっつけるほどの距離感にハッと気づいて距離を取る。それに気付いた大我はそっと声音を落とした。その余裕がまたムカついて、それでも首を傾げる優希に耐えかねたのか、大我は唇を窄ませながらボソボソ呟く。
「……今度書く脚本、『銀河鉄道の夜』を元にするって言うから、読んでたんだよ」
一拍、沈黙。優希は軽く息を呑んだ。確かに次の大会で出す脚本は『銀河鉄道の夜』のオマージュ作品である。以前に少し出しただけの話題を覚えていたのかと、少し驚いた。でも次の瞬間には破顔して、高鳴った心臓を押さえ込むようにアハアハ笑う。
「それで珍しく夜更かし? 勉強もしないで!」
「うっ、うるさいな……」
恥ずかしそうに頬を掻く横顔を眺めながら、優希は目を細める。目の前のこの男が滑稽で、ほんのりといじらしく思えたのだ。周囲の生徒の怪訝そうな目線に晒されながら、それでも優希はくすくす笑った。相当な時間がかかったことだろう。短編とはいえ少し長いし、言葉遣いだって慣れ親しんだものとは少し違う。ただでさえ漢字の多い文章に辟易する彼はきっと、普段は慣れない夜更かしまでして読んだのだ。それを思うと、少しだけ脈拍が速くなる感覚がある。きっと気のせいだけど。
「そんなに笑わないでよ」
「ごめんごめん、で? 読めたの?」
「読めたよ! 舐めんなよ!」
また心にもない謝罪を口にしながら、優希はほんのりと心を痛めた。役者が脚本を事前に読むのは当然のことだ。オーディションまで半月もない。
高天原学園演劇部の脚本オーディションは、最後の10分間だけを見せる。
————その10分が、書けていない。
「……で、俺どっち演ればいい? 別にどっちでもいけるけど」
で、相手役が。コイツである。優希は脚本・演出として完璧な舞台を求めるあまり役者に厳しく当たることが多々あった。それ故、優希の完全なる理想像である大我に頼むしか術はない。その輝いた目のいっぱいに「はやく見せて」の文字を携えた大我に、優希はグッと心臓が詰まった。
まだ書けていないとは、この顔を見て言えるものか。
しかし、大我はそんな細やかな変化にも気が付いたのか、大我は舞台用に拵えたような完璧な笑みで優希に言葉を投げかけた。
「じゃあさ、冒頭だけでも読ましてよ」
それに、優希はグッと手を握る。彼の浅はかなプライドを守るための大我の余裕が、気に食わない。しかし、そんなことはいざ知らず、大我はアッサリと鞄に教科書を詰め込み始めた。思わず口を開く。
「読むったって、勉強は」
「あー……また明日やろ」
「テスト大丈夫かよ」
「そこは優希がなんとかしてほしい」
「……人任せ」
「うるさーい」
どうせデータはあるんだろ? と問われた言葉に素直に頷く。印刷は図書館にあるコピー機でできるから問題ない。最後あたりのページだけ隠してしまえばいい話だ。それに、読んだら案外イメージも湧いてくるかもしれない。そう思って優希は、仕方がないといった風体を装って席から立ち上がった。
パラパラとページを捲る音だけが響く。数分もしない内に読み切ってしまった台本の厚さを嘲笑うかのように、大我は小さく頷いた。
「カムパネルラ演っていい?」
その言葉に、少なからず驚く。普段はどれでもいいと平気で宣う男だ。なのに今回は自ら役を志願してきた。期待を込めて、聞いてみる。
「……演りたくなった?」
「めっちゃ」
脚本家としてこれほどまでに嬉しい言葉があるだろうか! 優希は目を輝かせて勿論、と笑った。元々カムパネルラは大我にしようと思って書いたものだ。役者に選ばれる役とはなんと素晴らしいもの。作者として誇らしい。しかし、そんな喜びも次の瞬間には消え失せた。
「どっからやりたい?」
「12P、三段目」
「おっけー」
軽い返事を受け流す。すっと大我が息を吸った瞬間に、空気の感触が確かに変わったのが分かった。
「……みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれど追いつかなかった」
そうして語り出したセリフは、もう既に優希の元から消え失せて大我の物になっていた。
一瞬、唖然とする。さっき読んだばかりの脚本の解釈を、完璧に理解している大我に対しての恐れが、優希の声を失わせた。
「……ジョバンニ?」
不安そうな幸の薄い声が鼓膜を叩く。優希は、焦って文字列を追った。
「っど、どこかで、待っていようか……」
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが迎いにきたんだ」
台本を捲る指先が震える。圧倒的な才能を前にして——何度も、見てきたはずなのに——思わず胸の位置を蔓延ったのは激しい嫉妬と憎悪だった。本読みは優希の辿々しいセリフと共にどんどん進んでいる。今、目の前に存在しているのは、他でもないカムパネルラだ。
何故、作者である自分よりも多くカムパネルラのことを理解しているのか、彼をこの役に指名したかったのは本当だ。しかし、原作よりもずっと改変を加えた。このキャラは最早自身のものだと言う確信がある。しかしどうだ、現実はもっと非情で、大我は一瞬で役に入り込んだ。解釈から何から完璧だ。いいや、理想以上のものが目の前にある。自分が思い描いていたカムパネルラにこれでもかと言うくらいドンピシャにハマっているではないか。寧ろ作者ですら気付かなかった細かな解釈と間において、本読みの段階だと言うのに弱々しいおどおどとした演技が板に付いている。少しの抑揚、繊細ながらも確かな言葉遣い。強い芯のある人間を演じさせたら一級品だ。大我は、兎角役に対しての解釈が上手い。解釈と自身の技量で試せる精一杯を常に限界まで試している。現状に満足せず、決して驕らず、ひたむきに努力を続ける姿には素直な尊敬しかない。が、それと同時に身を焦がすほどの嫉妬心に駆られる時もある。
何故、お前が脚本家のボクを差し置いて、役を、そんなに完璧に演じられるのか。
本読みの真剣だ。まだ初稿の段階だというのに律儀に汚い字でメモ書きを残している。その文字がみみずのたうったように優希には読めないけれど、彼なりに一つ一つの台詞に注釈を入れているのをみると胸が締め付けられる。なぜ、優希にすら見つけられない作品の穴が、お前には見つけられるのだ。何気なく書いたセリフに意味をつけたがるのだ。それが、優希にはさっぱり理解できない。けれども舞台上で最も輝く大我にこれだけの役を与えたがるのは最早脚本家の性というもので、ほんのりと嬉しいのもまた、事実だった。自身の脚本に本気で向き合ってくれる役者がいることは誇らしい。しかし、その役者が解釈と読解力でこれだけの演技をされたのならば、演出としては言うことがなくなってしまう。
————コイツが。
コイツが、プロの道を歩んだ時。
ボク以外の脚本を演じられなくなればいい。
お前を一番に輝かせられるのは、他でもないボクだ。あの日、出会った日。他でもない「東雲大我」と言う人間に一番脳みそを焼かれたのは優希なのだから。ボクが、お前の才能を最も理解している。ともすれば本人ですら気付かない癖や間の取り方を完全に把握しているのは、ボクだ。お前を天才役者にするためにどれほどの努力を重ねてきたのか、お前は知らないだろう。それでいい。それがいい。だって、東雲大我の才能を一番に活かせるのはボクしかいないのだから! なぁ、そうだろう。そうだと言ってくれ。
演劇に対して本気ではある。ではあるが、高木優希は、天才ではない。プロの世界では戦えない。だから、実質これが最後に手がける公演になるだろう。後輩だって育ってきている。三年生が進級するタイミングで引退したように、優希だって大学受験に必死にならなければならないのだ。推薦枠をもらえる条件は既に整っている。だから最後に、大我に贈る最高傑作を生み出したかった。しかしその重圧が優希の心を締め付ける。台本を持つ手のひらが、微かに震えた。耳によく馴染む通った声は繊細で、これから死に行くカムパネルラの悲痛な未来を暗示させている。動きも何もないというのに、大我の演技力一つで銀河鉄道まで見えてきた。この教室には向かい合って座る二人の姿しかない。なのに、圧倒される。その演技に酔いそうになる。なぜなら優希は、出会ったその瞬間から大我の演技に惚れていた。いつも選考に通るのは大我の演技力のおかげといっても過言ではない。それが、優希はずっと妬ましかった。いいや、妬ましいなんて言葉では収まらない。これは憎悪だ。大我が台本を捲る、乾いた音がした。よくも、
————よくも、ボクの脚本を奪いやがったな。
彼の唯一の欠点はその才能だ。誰よりも目立ち、誰よりも観客に傷跡を残す。脚本家である優希よりも卓越した解釈力とそれを演劇に落とし込む能力。彼は言語化能力こそ下手くそなものの、その場の空気を読むのが実に得意だった。アドリブだって自然に捩じ込む。開演のブザーがなった瞬間から徐々に、観客はシナリオの面白さより大我の演技に夢中になるのだ。それが、妬ましい。羨ましい。憎らしい。高木優希は、入部以来ずっと同期の天才に追いつくのに必死だった。脚本術の本だって読み漁ったし、演出論の話など全て頭に入っているほどだ。しかしそれほどの努力を持ってしても大我には追い付かない。足元にも及ばない。天才とはなんなりや? 優希は再び考える。
————それは他でもない、他者を圧倒的に黙らせる力。
これを、人は才能と呼ぶ。憎らしい、憎らしい、憎らしい! こんなにも大我の演技に全幅の信頼を寄せている自分も嫌だ! 優希は自分が大嫌いだ。天才ではないから。絶対に越えられない壁の前で立ちすくむことしかできないから。優希は、何者にもなれない、ただの凡人である。絶対に届かない星に手を伸ばして足掻いても届かないのと同じように、優希が大我に演劇で勝つことは、絶対にない。羨望、と呼ぶには。この感情は汚すぎた。本当なら今すぐにでもお前の喉を潰してやりたい。コイツが演じる最後の演目をボクのものにしてやりたい。しかし偏にそれをしないのは————役者として、大我に惚れているからだ。これがもっと綺麗な感情だったら、或いはもっと汚い感情だったのなら。こんな思いも抱かずに済んだのに。
出会った時点で負けていた。
それが、高木優希における東雲大我への所感であり、純然たる嫉妬だった。
自分でも馬鹿だと思う。しかし、それが唯一無二の本音であることを否定しない。優希は、卑怯な手を使うなんて真似はしない。だってどれは敗北を認めるのと同じだからだ。だから真っ向勝負で、コイツに勝ちたい。勝ちたいのに、才能がそれを許してくれない。蜘蛛の糸すらないこの地獄で、正気を保っているからこそ心底苦しいのだ。いっそ、狂ってしまえればどれほど良かったことか。
「……そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか」
「月夜でないよ。銀河だから、光るんだよ」
カムパネルラの憑依した大我はうっとりと微笑んだ。今の間は完璧だった。優希が台本の端を叩く音だけが異様に教室の中に響く。それがまたイラついて、優希は顔を強張らせた。次のセリフが来ると思っていた間が、一瞬空く。それどころか数秒続いた。不思議に思って前を見遣ると、ぽうっとした顔をして大我が、珍しく役柄の抜けた素の表情を見せていた。
「……どうした?」
「……いや」
歯切れが悪い。その若干俯いた顔を覗き込むと、彼はなんだか頬を赤くさせてはくはく金魚みたいに口を閉じたり開けたりを繰り返していた。
「本当にどうしたんだよ。体調でも悪いのか?」
「あ、いや。違うんだジョバン、……違う。優希」
それからしぱしぱ長い睫毛を忙しなく動かし、困ったように言葉に詰まる。頭の中が感情でいっぱいで、何も吐き出せないようだった。こういうことは、偶にある。優希は深く溜息を吐いた。役者の管理をするのも演出の役目である。
「何考えてる」
「え、えっとぉ……」
「今考えてること、なんでもいいから吐き出してみろ。ボクが一緒に考えてやるから」
大我は目線を右往左往とさせて、それから観念したように口を開いた。
「ゆ、優希が」
「ボクが?」
「ぼ、俺のこと、見てくるから……」
「はぁ? そんなことかよ」
「ちがっ! な、なんか、なんだろう。これ、この、嬉しい? 寂しい? なんて呼ぶの」
「なんで急にそんな風に思ったんだよ」
問えば、数秒の沈黙が返ってくる。優希は根気強くその返答を待った。頭を抱えてうーうー唸るだけでは何も伝わらない。やがて、先に耐えかねて口を開いたのは優希だった。
「……ほら、なんでもいい。お前のことなら全部ボクが分かってる。心配なんか、しなくていい」
その言葉に、大我はカッと頬を赤く染めて、う、わ、と意味のない発語を繰り返した後。脱力したように虚空に目を遣り、ぼんやりと呟く。
「……逃げないんだ」
熱を孕んだ視線、浅い息遣い、完璧に設定された間、そうしてなにより喉の乾きを潤すようにゴクリと鳴った喉の音が妙に艶っぽく、この場が舞台であるかのように錯覚してしまうほどだった。再三言うが、役者の調子を管理するのも演出の役割だ。だから自然と見に付いた観察眼でジッと彼の顔色、手足の動かし方、視線の先、それらを見詰める。しかし、その観察眼も虚しく彼は一瞬ぐったりと体に入った力を抜いて、まるでカムパネルラのように儚い笑みを浮かべた。そうしてしばらくが経ってから、ガタンと座っていた椅子を大袈裟に蹴り飛ばして舞台上のように真っ直ぐとした姿勢を崩さず、こう叫んだ。
「エウレカ!」
空き教室に大我のよく通る声が響き渡る。しかしそれすら気取られることなく、呆気になってポカンとする優希の眼前に、急にその整った相貌が照らし出される。疑問など抱いている間はない。しかし、現実とはちゃちなもので、ちぅ、と。酷く滑稽な音を立てながら。
大我の唇と優希の唇が、重なった。
は、とか、へ、とか、なにしてんだよって言う前に。見計らったように下校時間のチャイムが鳴り響く。まるで暗転の合図だった。どうやら稽古に少しばかり夢中になっていたようだ。目の前の大我の顔が、見れない。けれども彼は平然と——少なくとも優希にはそう見えた——片付けを始めて下校準備をする。やがて大我が優希に
「ほら、早く帰ろ」
と声をかけた時にやっとその表情を見ると、なんだか嫌に晴れ渡った顔をしていた。その意味の全く分からないまま、優希の手を引く大我の手は火傷するように熱い。その熱さに気を取られて、優希はすっかり、考えることを放棄した。
帰宅。夕飯。風呂。
ちゃぽん。
湯船にゆったりと体を預ける。ぬるま湯に浸かりながらまだぼんやりしていた優希は、天井を見詰めひたすらに回らない頭で考えていた。
————あの時大我にされたのは、間違いなく、キスである。
ラブストーリーお得意の、最も盛り上がりに配置されるであろう、キスである。しぱしぱ瞬きをした。黒髪から雫が垂れる。ぽかんと開いた口の中いっぱいに湯気が飛び込んできて、思わず噎せた。もうどのくらい風呂に浸かっているであろうか。おそらく一時間は超えている。そんな冷静な分析を他所に、優希の頭の中は混沌渦巻いていた。
まず、当然の疑問として、何故? である。何故あのタイミングだったのか。何故あんな場所だったのか。そもそもの話、何故、キスをしたのか。演技に必要だったのか? ……いや、いやいや。舞台の上でも唇を合わせるなんてご法度だ。ラブシーンのあるドラマじゃあるまいし。じゃあ何故。と、優希の思考はあっちこっちへ飛びながらもどうしても何故、という疑問に着地する。意図が、読めない。大我のことであれば優希は大我自身よりも彼のことを知っている。些細な癖、人懐っこいのに無愛想な理由、演技の天才であること、だいたい全部知っている。知っているのに、こんな、キスをしてくるような男だけは知らなかった。
キスを、する理由。
そんなのひとつしかないだろ、と弾き出された計算結果を優希は見ないふりした。故に延々と悩んでいるのである。答えは意外とシンプルなものだが、シンプルさは時に凶器となるのだ。優希は今、一生懸命にその刃が心臓に命中しないように逃げ続けていた。もっと冷静に考えよう。
たとえば、さっきも言った通り演技に必要だった。彼の解釈の中のカムパネルラはジョバンニにキスをするような奴だった……違うか。
たとえば、今後ラブストーリーを演じる上で必要だった。大我は恐らくプロの演劇に足を突っ込む男だ。未来の自分のために今の内から表現を学んでおきたかった……違うか。
たとえば、たとえば、たとえば? たとえば……優希に、恋してる、と、か、
「うわあああああ!」
優希は響く風呂場の中で頭を抱えて叫び出した。リビングからお兄ちゃんうるさい! と中学生の妹が文句を言う声が聞こえる。しかしそんなの関係ない。今、優希は人生史上最も難解な事件に挑んでいるのだ。叫ぶくらい許してほしい。だって、
————おかしいだろ!
そんな素振り一回だって見せたことない。観察眼は大我には劣るが自信はある方だ。つい五時間ほど前の優希なら一笑したあとバカタレと暴言を吐くだろう。しかし、今やその完全たる解釈は崩れ落ちた。大我が、優希に、キスをしたからだ! 意図が分からない。理由が全く分からない! 疑問に疑問を重ねがけして疑問で彩ったような豪華な大問題に直面した優希は、先のキスを思い出して顔を真っ赤にさせた。様々な思考が頭を過ぎる中、煩悩とも言えない「唇って柔らかいんだな」とか「ちょっとミントの味がした」とか「キスの時って目を瞑るのがマナー?」などと関係のないことばかりが徐々に脳髄を侵していく。脳内はピンク色だった。浮き足立っているわけではない。キスが嬉しかった訳でもない。ただ、混乱していて、しかも、ファーストキスだったものだから、変に意識してしまって仕方がないのである。華の16歳、恋愛経験未だ無し。
まず、まず絶対に、大我が優希に恋をしているなどという幻想は捨てよう。これはプライドの問題である。だって前提が崩れたら大我とは今まで通りに接することができなくなる。確実に。絶対に。大我だって演出家が急に態度を変えてきたら困るはずだ。なのにキスなんてものを仕掛けたのは、偏にアイツが、大馬鹿者だからである。
優希は一旦そう結論付けた。なぁんだ。アイツがバカタレのアホタレだったからあんな風になったのか、解決して良かった……
「って良くない!」
全く問題は解決していなかった。ぬるくなった湯から抜け出して妹に文句を言われながらドライヤーで乱雑に髪を乾かしさぁ寝るぞとベッドに潜り込んだところで、されたキスの感触がぶわりと蘇ってきたのだ。ぼん、と顔が赤くなる感覚がある。脈拍が早くなって、息が途切れる。あんな、あんな、初めてだったのに! なんでこんな思い出に塗り潰されなきゃいけないんだ。折角のファーストキスを大我に奪われた。その屈辱的な記憶と羞恥心だけが優希の心を支配する。なにより、こんなことをぐるぐると考え続けている自分が嫌だ。こんなの、まるで恋をしているようじゃないか! 相手のことを考え続けてドキドキして、顔が赤くなって恥ずかしくなって枕に顔を埋めるなんて、今時ラブストーリーの主人公でもそんな王道なことやらない。足をバタバタと動かす。明日、何か言われたらどうしよう。どうやって答えよう。万が一誰かに不自然な距離感を気付かれたら? そもそも明日、目も合わせられなかったらどうしよう。舞台から降りれば不器用な大我のことだ、相当慌てふためいていることだろう。今だって、優希と同じようにモヤモヤと感情を持て余しているのだろうか。そう想えばほんの少しだけ心が軽くなるような気がした。そんな自分がくすぐったくて、そしてなにより気持ち悪くて、無意味に蛍光灯にかざした手のひらを開いたり閉じたりする。いつもならすんなり来る眠気だって今は足音すら聞こえず、無意味にゴロゴロベッドの上を転げ回っている姿のなんと滑稽なことだろう。それでも、考えは転がり始めてしまえば止まらなかった。
本当に、なんで、あんなことして来たんだろう。
今や優希の頭の中はそれでいっぱいで、結局、朝方になるまで眠れなかった。
「あれ、優希。顔色悪くない?」
翌日。大我は優希の顔を見た瞬間そう言い放つ。唖然とした。だってあんまりにも平気な顔をしていたから。だから、言う筈だった数々の文句は喉の奥に全部引っ込んだ。
「お、お前……」
「うん? なに?」
「いや、なに、じゃなくて……」
その悪意のないキョトンとした顔に体の芯の奥から冷えていく感覚がする。コイツ、忘れてるのか? それともわざとか? 板の上でもないこの場所で腹芸ができるような男だろうか。呆然とする優希を目の前にしても大我は、普段の察しの良さとは思えないほどしらっとした顔をしてこちらを見ている。その顔にはなんの裏もない。意図さえも、読めない。いいや、素直に心配しているのだろう。無愛想といわれている彼でも優希の前では気が緩むのか酷く表情が分かりやすい。だから、大我が嘘をついていないことは嫌でも分かった。理解ができない、頭が真っ白になる。その顔に、なにも言えなくなる。
「……いや、ごめん。なんでもない、ちょっと夜更かししただけ」
結局、優希はそう言って話を誤魔化した。大我はまだ不思議そうな顔をしていたが、無視して机の天板に突っ伏す。酷い羞恥心は心臓をカッと熱くさせた。結局、意識しているのは自分だけで、大我にとってあのキスはくだらないお遊びだったのだ。そう思えば知らず涙が滲んで、自身の自尊心が抉られるような気すらしている。本当はどんな感想を言われたら嬉しかっただなんて、答えは既に出ていた。
優希はきっと、大我に少しばかり照れてほしかったのだ。
こんな当たり前の日常を過ごしたいわけではなかった。もう少しドキドキして、キラキラするような日常を夢に見ていたのだ。何かが変わるという確信があった。しかし現実はどうだ。日常なんてかけらも変わらない。ただ、昨日の延長線上に発生する感情が、優希だけを取り残して過ぎ去ってしまう。一日中、そんなことを考えた。
昨日のキスは、暗転ではない。転換でもない。開幕ですらない。
テスト期間中になんとかする筈だった最後の10分には全く手がつけられず、眠れない日々が続く。授業中に書くはずのノートは真っ白、先生の声はロクに耳に入らない。シャーペンがぽきぽき折れて集中できない。そんな優希の異変を感じ取ったのか、大我は妙に休み時間に話しかけてくるようになった。
「なー、最近どうしたの」
「……お前だけには言いたくない」
「信頼できないってこと!?」
友達なのに、と嘆く彼の言葉が心臓を突き刺す。ああそうだ、コイツにとって、優希はただのお友達でしかない。その現実を突き付けられているようで、心が抉れた。10分間の内容は相変わらず進まない。書こうとすると、必ず大我の顔が浮かんでくる。こんなことは始めてだった。おかげで中間テストの点は散々だ。勿論大我ほどではなかったが、成績を落としたので酷く落ち込んだ。
「まぁそういう日もあるって」
と、大我は呑気だが、大体、優希がテストの点を落としたのはコイツのせいである。理不尽な怒りを抱えて久しぶりの稽古に臨んだ。それも身に入らず顧問に酷く怒られた。演劇とはいつでも本気で挑むべきものだ。それをおざなりにしたのだから叱責されることは当然だ。優希は気持ちを切り替えるために再び脚本へと向き直る。
今回書くのは前述の通り、『銀河鉄道の夜』を題材とした二人芝居だ。
二人芝居なのは現時点で二年生が二人しかいないから。三年は先日の文化祭で引退してしまった。部長は既に優希が担っている。副部長は後輩だ。大我は上を張れるような男ではないから。演劇の大会は年を跨いで行われる。全国に出場できたらの話だが、現時点で二年生の優希たちが出場する大会は9月の地区予選、11月の県大会そして1月の関東大会だ。それから学期を跨いで翌年の8月に全国大会が行われる。昨年は惜しくも関東大会で金賞を逃したが、今回は、いいや今回も本気だった。
だからこそ焦っている。
オーディションまであと一週間もない。しかし、まだ最終稿は出来上がっていなかった。概要は出来上がっているのだが、真面目に執筆しようとするとどうにもあの時のキスの感触が邪魔をして頭から離れないのである。感触、匂い、味、目の前に広がった整った顔、それからなにより脳髄を落雷のように駆け抜けていった衝撃が、ピリピリ体の甘い痺れになって神経細胞まで犯していく。頭の中はもう大我のことでいっぱいだった。四六時中あのキスの意味を考えてしまう。あの感触を思い出してしまう。そして万が一、この感情が大我にバレてしまうことを、優希は最も恐れていた。あのトンチンカンのお間抜け野郎のことだ。どうせあんなキスに理由なんかない。ないから、ないからこそ、優希が大我をこれでもかと意識していることがもしもバレたら、末代までの恥である! しかしどんなに言い訳をしたところで現状は変わらない。筆は、全くもって進まない。
テーマとしては単純だ。『ほんとうのさいわいとは何か』。原作である題材を最大限活かして、それを高校生風に少しアレンジした。ザネリを助けるために川に飛び込んでしまったカムパネルラ。それを知らないジョバンニ。最後のシーンは、豪華な大道具もなにもないスモークの焚かれた二つの椅子に座り合って、ただ会話をするだけの静かなシーン。カムパネルラの儚さは大我が完璧に演じてくれる。役者を信じるのも脚本家の役割だ。そこだけは、どんなことがあろうが崩れない。優希は演劇人だから。区切りを上手く付けさえできれば、まだ勝機はある、と。もう一週間近く眠れていない彼は回らない頭で考えた。しかし、現実とは時に残酷なものである。
とうとう、オーディションの前日になってしまった。
「優希、台本は?」
「……」
目の下に真っ黒なクマを張って熱さまシートまで貼ったボロボロの優希を前にして、大我はそう問いかけた。オーディションでは台本を覚える必要はない。一度目に渡した初稿を参考にして役作りをしてきたのであろう。人のことも考えないで呑気な男だ。ここで簡単に、お前のキスのせいで集中できなくて書けなくなったなんて言うことは、優希のプライドにかけて、許せなかった。無言に耐えかねたように困った顔をする大我に、優希は、大袈裟に溜息を吐いて眉間の皺を揉んだ。
「……ボクは、お前の演技を信じてる」
「え? ああ、うん」
「原作は読み込んだよな」
「勿論」
「じゃあ、いける」
「……なにが?」
そのまま。優希は苦渋の表情で言い放った。
「アドリブで演るぞ」
大我が、目を丸くする。声を失ったようにポカンと口を開けて、唖然の文字をべっとりと顔に貼り付けた大我は、へ、と。小さく声を漏らした。文句が飛んでくる前に焦って声を詰め込む。
「ボクだって元は役者志望でこの演劇部に入ったんだ。基礎くらいはできてる。いいや、その前にボクは脚本家だぞ? 即興劇なんていつも文章の上でしてるんだ」
だからと、優希は数センチ高いその顔に切実に願った。ひたすらに信頼した。なにより、脚本家としてのプライドが、最後の公演になるかもしれないこの大会で落ちることなど考えられなかった。もっと、大我の演技を最前列で見ていたい。それが、優希が彼を憎めず、そうして崇拝する唯一の理由だったから。
「だから、お願い。ボクと一緒に演じてくれ」
大我は強張っていた体からドッと力を抜いて、ヘナヘナ地面に蹲った。俯いた頭には綺麗なつむじが右向きに回っている。そんなのを、場違いであると分かりながらも観察していた。演劇でこんなに不安そうな大我を見たことがない。数秒、数十秒、沈黙は続いた。しかしいつかその天使も通り過ぎてしないもので、大我は舞台の上では最前席にでさえ聞こえないような小さな声を出した。
「……俺じゃなきゃダメなの」
「ダメだ。お前がいい」
「どうしても?」
「どうしても」
大我は、ようやく顔を上げた。その表情は爛々と輝いて子供のようだった。それでありながらもほんのりとした照れを隠せない、心底嬉しい、ような顔で。ふにゃりと笑う表情は無愛想とは似ても似つかない。ドキリと、心臓が、うるさい。
「……分かった。頑張る。演出の、観客の、目の前の『一人の役者』を圧倒できないでなにが役者だ。期待に応えていい意味で裏切る。俺は完璧に演じられるよ。優希は?」
「ばか言え。ボクは脚本様だぞ」
その日は、下校時間を過ごしても近所の公園で人目を忍んで打ち合わせをした。十全とは言えない。しかし、しないよりはマシだった。悩んでいる原因は目の前にあるというのに、その大我が頼もしくて堪らない。安心できるようで、全く安心できない。彼がカムパネルラの顔をしてこちらに笑いかける度に胸が締め付けられる。演劇をしていてここまで苦しい、と感じたのは。初めて客本を書いた時以来だった。
ベンチに腰掛け、二人の間にメモ画面を置く。紙より見やすいのは画面が光っているからだ。そのせいで少し距離が近い。脚本の断片だけが箇条書きで並んでいる。会話のゴール、テーマ、終わり方。————しかし肝心のセリフは空白だ。
「ここ、カムパネルラが〝ほんとうのさいわい〟について触れるとこ、ちょっと演って」
「急だなぁ……いいけど……」
大我が息を吸う。纏う空気がガラッと変わる。舞台上のそれ、役者の顔。相変わらず化け物みたいな反応速度だ。
「おっかさんは、ぼくを許してくださるだろうか————」
「待て。今のだと重すぎる。ボクが着いていけない。オーディションで金賞でも狙う気か?」
「でもそういうの好きでしょ?」
「好きじゃない! 好きだけど!」
言ってから、余計なことを言ったことに気付いて奥歯を噛み締めた。大我が笑った。夜の光の中で、その笑顔はやけに柔らかい。————辞めろ。そんな顔で、ボクを見るな。
「んー……解釈の一部として教えてほしいんだけど」
「なんだよ」
「優希にとってのほんとうのさいわいって、何?」
問われて、黙った。言葉が詰まる。頭の中にあるのはセリフじゃない。ミントの味と、滑稽な音と、近すぎる呼吸。
「……舞台の上で、さいわいを作ること。観客が笑って、泣いて、少しでも心を動かすものを作れたら。それが、ボクのほんとうのさいわいだ」
「ふーん、作れる、ねぇ……」
大我が小さく頷く。しばらくうんうん考え始めた彼は、やがてパッと明るくさせて上げた顔は役者のそれだった。まだ役が残っているようだ。
「じゃあさ、最後。話のオチとして、『作れない』って結論出したら?」
「……」
「作ろうとしたのに届かなくて、だから悔しくて、それでも、誰かのために〝善いこと〟を続ける。そういうの、優希の脚本っぽい」
……その、その。『優希っぽい』って言葉が、今は酷く臓物を抉った。脚本家としてここまで役者に理解されるのは幸福なことだろう。しかし、一人の人間としては、東雲大我の友人である自分としては、逃げたくなる。
「……分かった。じゃあそれ採用。今の軸にするから」
「おっけ」
「だから、」
言いかけて、また止まる。大我の指が優希の襟元を少し直した。無意識の距離。指先の、熱。
「……触るなよ」
「襟曲がってたから」
「曲がってねぇよ」
「曲がってた! ……ほら、今は真っ直ぐ」
言い切る顔が、真っ直ぐで、ズルい。
そうして————……
当日の朝はやけに天気が良かった。校舎から差し込む光は眩しく、また白い。職員室前の廊下は静かだった。とっくに終わった文化祭の熱も、テスト期間のざわめきも全部置いてけぼりにしたみたいに————心臓が、うるさい。
オーディションは視聴覚室で行われる。扉の前には既に何組か待っていて、台本を胸に抱えた一年が落ち着きなく足踏みしている。二年の脚本候補だって忙しなさそうに手を震わせていた。誰もが『最後の十分間』を、このたった一回で奪い合う。そういう場所だ。緊張しないわけがなかった。
「……優希、手、冷た」
言われて初めて自分が拳を握り締めていたことに気付く。大我がまるで当然みたいに手を掴んだ。慰めのつもりか、励ましのつもりか、確認のつもりか。どれにせよ、近い。掌の熱が移ってくるのが嫌に生々しい。
「……触るな。落ち着かなくなる」
「落ち着いてないのは優希じゃん」
「うるさい」
待機列の向こうで、顧問と三年のOBが話している。審査員席だ。誰かが小声で囁いた。
「高木先輩の脚本、今年も通るでしょ」
「東雲先輩いるし、そりゃ勝ち確じゃね?」
その言葉が、胸の奥を軋ませる。勝ち確。……そんな軽い言葉で括られたくない。大我がいるから、通る。大我がいるから、勝てる。そう言われる度に、優希の中の自尊心が削れる。
————違う。ボクが、勝つんだ。
ボクの言葉で、ボクの脚本で、ボクの10分間で。
それなのに冷たい現実はいつも頬をなぞる。手元にある紙は無意味な言葉を羅列した偽物の台本だ。あるのは、頼りたくない男の手の温度と、胃の底を引っ掻くような不安だけ。
「大我」
「ん?」
「……本番、変なことするなよ」
「変なことって?」
キス、と言いかけて、飲み込む。喉の奥で舌が張り付いたみたいにべっとりとした。大我は何も知らない顔で瞬きをする。
「……アドリブの方向性の話だ。勝手に泣いたり叫んだりするなよ」
「それは優希もでしょ」
「ボクは脚本家だ。制御する側」
「じゃあ、俺は役者。暴れる側」
「暴れるな」
「冗談。……でもさ」
大我が、少しだけ声を落とす。
「優希が逃げないなら、俺も逃げない。そういう約束でしょ」
約束。なんて。そんなものした覚えはない。でも言い返せない。あの時の「……逃げないんだ」という言葉が、まだ耳に残っている。
扉の向こうから誰かの台詞が聞こえた。拍手はない。淡々と、終わった気配だけが漏れる。次は自分たちだ。視聴覚室のドアノブが冷たく光っている。
呼吸を整えろ。姿勢を作れ。声を出せ。————演劇人としての基本が、今だけは全部、怖い。
「それでは三番、高木優希。『ほんとうの幸い』、お願いします」
そして、ぶっつけ本番で挑むアドリブ合戦は始まる。
ここだけは、負けられない。負けてはならない。
「はい!」
一世一代の大勝負、勝ってやろうじゃないか。
五度を待ちながら くまいぬ @kumainu__
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