序章4 運命の日
ついに「永劫回帰の儀」の当日が訪れた。
監獄の扉が重い音を立てて開かれる。
藁床に伏すのは、以前よりさらに憔悴しきった勇者の姿。輝きを失った銀髪と土気色に変わりつつある顔色はもはや死の気配すら覚える程で、着衣も汚れ、痩せ細った身体がより一層小さく見えた。
しかし、彼女の瞳の奥にある光は未だその煌めきを失っていなかった。
「――ようやく、時が来たんですね」
彼女は静かにそう呟くと、見張りの兵士の手を借りながらゆっくりと立ち上がった。兵士は、その言葉にうつむき、まともに彼女の顔を見ることができなかった。
彼の拳は、わずかに震えていた。
勇者は兵士たちに囲まれ、監獄から連れ出された。
長い地下の廊下を歩き、階段を上り、久しぶりに見る地上の光は彼女の弱った瞳にはまぶしすぎた。
◇ ◇ ◇
次に連れて行かれたのは、小さな無機質な房間だった。
そこには高位の魔術師と思われる数名の者たちと、一つだけ台の上に置かれた複雑な紋様が刻まれた金色の腕輪が待ち受けていた。
魔術師たちの表情は硬く、ただ業務を遂行する人形のようだった。
「この腕輪を装着することにより、貴女の魔力回路は完全に封鎖され、固定される。もはや、普通の人間と何ら変わりない身体となり、あの驚異的な力も二度と発動することはないだろう」
一人の女性魔術師が無表情だが、どこか詫びるような口調で告げた。勇者はその言葉を静かに聞き、うなずいた。
「ありがとうございます。お手数をおかけします」
魔術師はわずかに眉を動かした。
こんな理不尽な仕打ちを受ける身でありながら、感謝の言葉を返されるとは思っていなかったからだ。彼女は沈黙し、無言で腕輪を勇者の細い左腕にはめた。
金色の腕輪は微かに光ると、勇者の腕にぴたりとフィットし、その瞬間、勇者は体内に最後まで残っていたわずかな魔力の灯が完全に消え去るのを感じた。
勇者は身体が驚くほどに重く、脆いものに感じられた。
もはや、かつて魔王と互角に渡り合った力は消滅し、ただの虚弱な少女となっていた。
《……人間とは醜いものだな》
心の中の魔王の声には、呆れと一種の諦念に似た感情があった。
《世界を救った英雄に対してここまでするとはな。しかも、これから処刑されることを知っているくせに、貴様を助けようとする者が一人すらいないのだからな》
人間に対する軽蔑の意を込めた言葉に対し、勇者は何も言わない。ただ、寂しげに微笑むだけだった。
彼女を追い詰めるように、魔王は問いかけた。
《――憎いだろう? 苦しいだろう? 貴様が望むなら、余が貴様の身体を乗っ取り、ここにいる者たちを皆殺しにして貴様を自由の身にしてやらなくもないぞ? これが最後の機会だ》
それは本心からの提案だった。彼はこの状況と、それでも尚清らかな勇者の精神に、ある種の義憤のようなものを覚え始めていた。
(お断りします)
だが勇者は即座に答えを返した。躊躇うこともなく、迷うこともないその言葉は確たる意思を込めたものだった。
《……ッ!! 貴様という奴は、どこまでも強情なのだ……!!》
(強情ではなく本心ですよ。勇者とは人々の脅威を取り除くためだけの存在であり、その脅威が無くなれば散りゆくのが自然の成り行きなので。……いつか人々に対し牙を向けることにもなり得る、本来は世にとっては過ぎたる力ですから)
《貴様はこの結末に納得しているとでもいうのか!?》
(ええ。だから……これでいいんです)
魔王には最早何も言う言葉が見つからなかった。
彼はただ、この理解を超えた存在に深い困惑を覚えるのみだった。
このままでは道連れになる、という事実さえも頭から離れてしまうほどだった。
次の瞬間、彼女はあることに気づいた。
長い間監獄にいたため着衣は汚れ、身体は塵と汗で汚れ、ほのかに嫌な臭いさえ漂っている自身の身だしなみのひどさに。
彼女はわずかに顔を赤らめた。
「……まずは、身を清められよ」
女性魔術師が淡々といい、別の魔術師が彼女を小さな浴室へと案内した。
そこには湯気の立つ湯船と清潔な布、そして新しい着衣である白いドレスが準備してあった。
そこには一人の若い女性の使用人が俯き加減で待っていた。彼女の目は泣き腫らしており、赤くなっていた。
勇者が汚れた衣服を脱ぐと、使用人はその痩せ細り、無数の傷が残る身体を見て思わず息を飲んだ。鎖骨が浮き彫りになり、肋骨の一本一本がくっきりと見える。
これほどまでに虐げられてきた者のみすぼらしさ、哀れさを覚えさせ、彼女は涙を浮かべて顔を完全に伏せてしまった。
「……お……おいたわしい……勇者様……なんて……ことを……」
勇者は湯船に浸かり、ゆっくりと身体の汚れを落とす。温かいお湯は冷え切った身体を芯から温め、彼女はほんの少しだけ安堵の息をついた。
身を清め終えると、使用人は涙を拭いながら誠実に彼女の世話をした。ぼさぼさになった銀髪を梳かし、もつれを丁寧に解き、かつてのようにさらさらと輝くようになるまで時間をかけて整えた。
血色の悪い顔にはほんのりと紅を差し、こけた頬を目立たなくさせるための化粧を施す。彼女の指先は微かに震えていた。
目の前の人物が世界を救った英雄であり、今から処刑されようとしているという現実に心が張り裂けそうだったからだ。
そして最後に、勇者は用意されていた真っ白なドレスに袖を通した。それは質素ながらも上質な布でできた、少女のような可憐さを感じさせるドレスだった。
勇者である前に、一人の少女である彼女が憧れていたような、でも決して手に入れることのできなかったような服だった。
鏡に映る自身の姿を見て、勇者は静かに心から感動したように微笑んだ。
「――ありがとうございます。こんな綺麗な格好、初めてです。まるで……お姫様のよう」
その感謝の言葉と純真無垢な笑顔、そしてその比喩に使用人はついに堪えきれず、体を震わせながらその場に座り込んでしまった。嗚咽が部屋に響く。
「ごめんなさい……勇者様……わたし……! こんなことしかしてあげられなくて……! あなたは……あなたは世界を救ったのに……!」
勇者は使用人の肩にそっと手を置き、優しく囁いた。
「いいんです。丁寧なお化粧も、綺麗な服も、用意させてくださったこと……それだけで、私は十分幸せでしたから」
◇ ◇ ◇
最後の食事もまた、別室で用意されていた。
長期間の絶食により弱った胃でも問題ない、質素ながらも栄養価の高い温かなスープとパン粥、少しの果物。
彼女は一口一口、時間をかけて味わいながら食べた。スープの温かさ、パンの香ばしさ、果物の甘酸っぱさ――一つ一つが、彼女の枯れた感覚をゆっくりと蘇らせていくようだった。
「……美味しいです」
その笑顔は、もはや世界を救った勇者というよりどこにでもいる無邪気な少女そのものだった。
しかし、その後に待つ運命を思うとその光景はあまりにも痛々しく、見張りの兵士たちは皆、俯かざるを得なかった。
一人の若い兵士は、涙が零れ落ちそうになるのを必死にこらえ、槍を持つ腕を震わせていた。
そして、いよいよその時が来た。
彼女は兵士たちに導かれ、処刑場へと向かう。
その足取りは、重々しいというよりむしろ堂々としているものだ。
最後の最後まで“勇者“としての責務を全うしようとする、彼女なりの意思を込めた歩みであった。
強く清やかな意志が感じられるような歩みにより、白いドレスの裾が、石畳の上で優雅に揺れていた。
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