序章3 突きつけられる結末、そして再会
勇者が大広間へと連行されると、玉座には王が、その両脇には重臣たちが厳しい表情で並んでいる。勇者の周囲には兵士が複数人、逃げることを許さぬよう囲みながら直立している。
昨日の温情は跡形もなく、そこには冷徹なまでの緊張感が張り詰めていた。
「勇者よ。突然の仕打ち、深く謝罪する」
王が重々しく口を開くと、勇者は静かに首を振った。
「いえ、陛下。察してはおりましたから大丈夫です」
「……何が言いたいか、分かっていると?」
「もちろん。私の処遇について、ですね」
王はわずかに目を見開き、そして深く息を吐いた。
「……強すぎる力は、この平和な世には不要なのだ。魔王の脅威が去った今、お前ほどの力を持つ者が一人いるだけで、世界の均衡は崩れかねん」
「おっしゃる通りです」
「……たとえお前自身に悪意がなくとも、他者がお前の力を利用しようと企むかもしれぬ。その力が暴走する可能性も否定できない。特に、お前の全てを破壊する力と自身を不死身に近づける力。それは、もはや力というより“災厄“だ」
「ええ、私もそう思います」
勇者は驚くほど穏やかに、そして静かに答えていく。
王の言葉は確かに理にかなっていた。勇者自身、戦いの中で自らの内に秘められた圧倒的な力の恐ろしさを痛感していた。
いつの日か、天井を知らない己の力が自分の手を離れ、人々に牙を向くのではないかと思うことは何度もあった。
「封印の術も、お前の力の前には無力であろう。だから我等は……未来の禍根を断つため、苦渋の決断を下した」
勇者は何も言わず、ただ王の言葉を聞いている。その決断がどのようなものかをすでに理解しているかのようだった。
「数週間後、《永劫回帰の儀》という名の儀式を行う。それまでの間、お前の強大すぎる魔力を衰えさせ、 儀式を滞りなく執り行うための処置をさせてもらう」
「わかりました。従いましょう」
勇者は抵抗する素振りは微塵も見せなかった。
それは、自らの運命を潔く受け入れる者の態度であり、彼女の眼差しは王や重臣たちを見つめ、むしろ哀れむようにさえ見えた。
「……抵抗はせんのか?」
王が訝しげに尋ねる。周囲の重臣たちも互いに視線を交わし、戸惑いを隠せない。彼らは罵声や抵抗を覚悟しており、最悪の場合この大広間を、いや城ごと崩壊させるほどの争いが巻き起こることすら予想に入れていた。
この不気味な程の平静さは、彼らの予想を裏切るものだったのだ。
「はい。陛下の懸念は正しいですし、私もそう思うことが何度もありましたので」
勇者は微笑んだ。その笑顔はどこか寂しげでありながら、確かな覚悟に満ちていた。
心の中の魔王は、この状況と勇者の態度に慄然とした。
《なんだと!? 抵抗もせず、恨み言の一つも言わず、ただ従順に従うというのか!?》
魔王の怒号は当然ながら勇者の耳には届かない。
《この愚か者め! 奴らは貴様を殺そうとしているのだぞ!? なぜ怒らない!? ……なぜ、歯向かわないのだ!》
彼女はただ、玉座の上の王と重臣たちを慈しむような優しい眼差しで見つめている。
周囲の者たちは、かえってその平静さに強い動揺を覚えた。何か恐ろしい企みがあるのではないか、とすら疑わせるほどの従順さである。
しかし、勇者の瞳に偽りはなく、そこにはただ静かな諦観と奇妙なほどの安らぎしか見えない。
そしてなぜか、その微笑みを見ていると彼ら自身の胸中にやりきれない罪悪感と、言いようのない寂寥感が込み上げてくるのを感じずにはいられなかった。
自分たちの決断の卑小さを、眼前の少女の大きさが際立たせているようだった。
「それでは、失礼します」
勇者は最後に深々と一礼すると、再び兵士たちによって広間を後にする。その背中はあまりにも小さく、そしてあまりにも強く見えた。
こうして、世界を救った英雄は救世主としての喝采ではなく、冷たい監獄の扉へと消えていった。王は玉座に深く座り込み、顔を手で覆った。
広間には、重苦しい沈黙だけが残された。
◇ ◇ ◇
勇者が連れて行かれた先は、王城の地下深くに位置する魔法による封鎖が幾重にも施された監獄だった。
分厚い石でできた独房は冷たく湿った空気が淀み、唯一の光源は壁の高い位置にある、外部へつながる小さな窓から微かな光が漏れ出しているだけ。
鉄格子の向こうには、見張りの兵士が微動だにせずに立っている。
房の中には簡素な藁床と、水を入れた陶器の器が一つ置かれているのみ。彼女はそこで『永劫回帰の儀』までの数週間を過ごすことになるのだ。
その間、彼女の強大な魔力を弱体化させるため食物は一切与えられない。最低限の水のみによる「生かさず殺さず」の処置である。
これにより、彼女の身体を常時守り傷を癒していた驚異的な回復力は、その動力源である魔力を断たれて完全に停止する運命にあった。
***
初日、二日目。
彼女は静かに床に座り、目を閉じて過ごした。魔王との戦いで消耗しきった魔力は一晩の睡眠のみではわずかしか回復しておらず、体内に残存している微かな残渣のみ。それを防衛本能として自動的に消費していくことで空腹感を多少和らげていた。
かつては致命傷すら瞬時に癒したその力は今、わずかな空腹を誤魔化す程度にまで落ちぶれてしまったのだ。
五日目、六日目。
魔力が完全に枯渇し、激しい飢餓感が腹部を締め付ける鋭い痛みとして襲いかかる。
喉の渇きは水で潤せるとはいえ、最低限しか用意されていない。その後湧き上がる強烈な渇きと空虚な胃袋の訴えは次第に全身の衰弱へと繋がっていった。
彼女の銀髪は輝きを失っていき、血色の良かった頬は徐々に青白くこけていったが、それでも彼女は姿勢を正し、深呼吸を繰り返して痛みに耐えた。
十日目。
勇者の衰弱はさらに進んだ。
立つことさえも困難になり、ほとんどを藁床の上で横たわって過ごすようになった。呼吸は浅く、瞼を開けているだけでも多大なエネルギーを消費するように感じられた。銀髪は艶を完全に失い、肌は透き通るように青白く骨ばかりが目立つようになっていた。水を飲むのさえ、もはや一苦労だった。
かつて魔王の猛攻を跳ね返した無敵の防御も、深手を瞬時に癒した再生力も、ここには存在しない。
彼女は完全な無力で脆い、ひとりの人間少女でしかなかった。
それでも、彼女の表情は変わらない。
不平をこぼすでもなく、恐怖に震えるでもなく、ただ静かに時が過ぎるのを受け入れている。目を開ければ鉄格子の向こうの兵士の姿があり、時折彼女を哀れむような、あるいは複雑な表情で見つめる衛兵の視線を感じ取ることもあった。
彼女はそれに対し微かにうなずき、浅く微笑みを返すことさえした。
《……痩せ我慢も大概にせよ》
心の中の魔王は、この状況に苛立ちを募らせていた。
外界を繋ぐ、小さな窓から平和な世を過ごす子供達の声が聞こえる。勇者はその声を噛み締めるかのように目を細め、聞いているようだった。
《外部の声が聞こえるだろう? 貴様が守った民衆は今この瞬間、外で平和に暮らし、貴様のことはいずれ忘れ去ろうとしている》
魔王の怒りが込められた声は勇者に届かないまま、虚空に消えていく。
《奴らは貴様をここに閉じ込め、飢えさせ、やがて殺すというのに。なぜ黙って受け入れようとしているのだ》
勇者は微動だにしない。
その精神は飢餓と孤独の中でもなお、静かな祈りのように平和だった。
《貴様は奴らのために全てを賭けた。命すらもだ。――その報いがこれか? ……なぜ怒らない! なぜ奴らを憎まない!! この理不尽を、なぜ呪わないのだ!!!》
魔王の激情は咆哮のように轟いていた。
味方であるのにあまりに卑劣で、あまりに醜い人間の業に対する純粋な嫌悪が彼にかつてないほどの憤りを感じさせていた。
そして、なぜかこの少女の平静さが、その憤りをさらに増幅させたのである。
《――全てを諦める程、人間どもが施した教育は貴様を洗脳しているとでもいうのか?》
次第に魔王は、目の前の存在がただ魔王を倒すためだけに生まれ、生かされ、そして死んでいくように育てられた存在にしか見えなくなっていた。
自分の偉業の報いがこの結末だということを何の疑問もなく受け止めている。
それは、納得しているというよりそう思わされている、としか思えなかったからだ。
――しかしその時、ふと、か細いながらも確かな意志を持った声が魔王の“意識”に直接響いた。
(いいえ、それは違いますよ)
魔王は唖然とし、急に聞こえたその声の主について考えを巡らせた。
(……ッ!?これは……勇者の声? だが、この娘は口を動かしていない。……まさかこれは……心の声か?)
魔力の枯渇と極度の衰弱により、勇者の肉体と精神を守っていた障壁が弱まり、深く潜んでいた魔王の意識との間にかすかながらも通路が開かれたのだ。
《……貴様、余の声が聞こえるのか?》
(ええ、不思議なことに……側に誰かが居てくれていることはなんとなく気づいていましたが――ようやく声をお聞きすることができましたね、魔王)
勇者の心の声は現実の声と同じく、驚くほど落ち着いている。疲労と衰弱の色はあるが、乱れはない。
それどころか、少しだけ嬉しさを滲ませているようにも聞こえた。
《なぜ……なぜそのように平静でいられる! 説明せよ!》
魔王は聞かずにはいられなかったことを、怒声と共に勇者へ向けた。
その答えは、魔王にとって到底信じられぬものだった。
(私は、もう十分に与えられてきましたから)
《声や気持ちをか? そんなもの、貴様の与えたことに対しほぼ価値のないようなものだ!》
(いいえ、私が勇者であることを期待してくれたこと。その期待に応え、魔王を討った私に心からの感謝と笑顔を向けてくれたこと。あの凱旋の時の歓声や人々の喜ぶ顔――それは、私がこの身を世界へと捧げるに値する、何よりも尊いものでした)
その心の声は温かい感謝の念に満ちていた。
あまりにも欺瞞すぎるその感情に対し、魔王は勇者の心の内を直接覗き見ようとした。
必ず、怒りや憎しみ、恐怖や悲しみといった感情があるはずだ、と。
そして、彼は愕然とした。
そこには、本当に恨み言一つなかったのだ。
あるのは、かつて目にした人々の笑顔への感謝と静かな諦観、そして深い慈愛だけだった。
この理不尽極まる状況下にあっても、だ。
《馬鹿を言え! そんなものは儚い幻だ! 人間というものは、所詮自分たち都合のいいように記憶を改竄し、都合の悪いものは忘れ去る! 見よ、貴様を救おうとする者は一人も現れない! 貴様の処刑に反対する声すら、全く現れないではないか!》
魔王は現実を突きつける。しかし、勇者の心は微動だにしない。
(世界にとって、私という存在が既に不要なのは事実ですから。強大すぎる力は、平和な世界には……禍種でしかありません。陛下のお考えは正しいのです。――そして、きっとこれが、勇者としての最後の役目なのでしょう)
その言葉は誰をも憎まず、ただ世界の理を受け入れている。
《……わからん。貴様という存在が、余にはまったく理解できん》
勇者のあまりの強情さに魔王は逆に冷静になり、呆れ、そして困惑した。
《……まあいい。貴様の心の中に住まう以上、共倒れはご免だからな。いずれ貴様も根を上げ、“負の感情“を滾らせる時が来る。その時を待つとしよう。その感情こそが、余の復活の糧となるのだからな》
魔王はそう宣言した。
しかし、内心では一抹の不安を感じていた。
この勇者が、果たして本当にそんな“負の感情“を見せる日が来るのか、と。
そして、魔王の不安は的中した。
それから幾日が経過しても、勇者はついに根を上げることはなかった。飢餓と孤独と絶望の中で、彼女はただ静かに自身の運命を受け入れ、わずかな水を口にし、時折窓の外から漏れるらしい市井の音に耳を澄ませては、微かに微笑むことを繰り返している。
運命の日がやってくるまでずっと、彼女の心は監獄の冷たさに染まることなく、温かな光を保ち続けたのであった。
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