序章5 永劫回帰の儀


 ――回想から醒めた勇者は、広場の中心を見渡せる場所にまで歩みを進めていた。

 そこには大勢の民衆が詰めかけ、その空気は祝祭に似た高揚感とどこか切ない期待感に包まれていた。


 広場の中心に直立している太い丸太の周囲には、複数の魔術師が厳かな面持ちで立ち、複雑な魔法陣が描いてある。

 

 これが『永劫回帰の儀』の舞台――勇者の最期の場所であった。


 

「勇者様だ!勇者様がいらっしゃったぞ!!」


 兵士たちに囲まれた白いドレスの勇者が現れると、広場からどよめきと温かい拍手が起こり、人々は一瞬にしてその姿に釘付けになった。

 その可憐でどこか儚げな雰囲気は、かつて魔王と激闘を繰り広げた勇者とは別人のようだが、彼女の足取りは軽やかで、誰の目にも覚悟の強さが感じ取れる。

 その姿はまさに世界を救った英雄そのものであり、人々の期待をさらに膨らませた。


 勇者の穏やかな笑顔は不安を打ち消し、この儀式が本当に新たな旅立ちであるという確信をほのかに与えていた。

 彼女は何の抵抗もせず兵士たちの指示に従い、丸太に背を向けて立つと縄で後ろ手にしっかりと結びつけられた。

 その様子は、どこか神話の一場面を思わせる神聖な儀式の一部のようにすら見えた。


 民衆は皆、思っていた。


『勇者様があのような表情をしているのだ。この儀式も正当なものに違いない』

『なぜなら、もし見た目通りの火炙り刑であるならば、あんな穏やかな表情ができるわけがない。死を悟った人間の表情ではない』と。


 それはまるで、脳裏に浮かぶ最悪の結末を信じたくないがために、自分に言い聞かせているようでもあった。

 

 やがて、王が現れた。

 その顔は深い悲壮感を隠すように、厳粛な雰囲気に包まれていた。

 彼はゆっくりと前に進み出ると、広場に集まる民衆を見渡し、重々しく口を開いた。


「――これより、『永劫回帰の儀』を執り行う」


 王の声は、広場に重く響き渡った。


「清浄なる炎は、その身体と魂を喪失させるものではない。次に魔の者が世に顕現した時、再び舞い降りる剣となるよう、その身を今しばらく『概念』へと昇華させるための儀式である。そして、命を賭して魔を打ち破ったこの勇敢なる者に、しばしの休息を与えるものでもある。皆の者、盛大に勇者を見送り届けよ!」


 それは、見せかけの儀式を正当化するための美辞麗句に過ぎなかった。しかし、王の声には偽りない苦しみがにじんでいる。王国を治める者としての冷酷な決断と、一個人としての良心の呵責との間で彼自身が引き裂かれているようだった。

 

 王の宣告が終わると、今度は勇者が口を開いた。

 彼女は顔を上げ、広場に集まる無数の民衆一人一人の顔をゆっくりと見渡す。

 その瞳は澄み切り、どこまでも優しかった。


「皆様、こんな私を見送りに来てくださって。そして、最後まで勇者であることを認めてくれて……本当にありがとうございました」

 

 彼女の声は以前よりもか細いが、よく通る澄んだ声だった。


「おかげさまで、世界に平和を取り戻せました。どうか、これからもこの平和な日々が続くことを陰ながら祈っております」


 そして彼女は微笑んだ。それは凱旋の時以上の眩く純粋で、力強い希望に満ちた笑顔だった。

 その笑顔は民衆の不安を一掃し、この儀式が悲劇ではなく、祝福すべき通過儀礼であるという空気を一気に広場に満たした。

 

「またいつか、その時が来た日にお会いしましょう。そして、その日まで……どうか皆様、お元気で」


 その言葉は約束のようにも、祝福のようにも響いた。

 多くの民衆が涙を浮かべて声を詰まらせたが、それは悲しみではなく、感動に震える涙だった。


 儀式開始の合図が広場に響き渡った。

 凱旋の時と同じような勇ましい音楽とともに、魔術師たちが一斉に詠唱を開始する。丸太の根本に青白く冷たい「清浄なる炎」が灯された。

 それはゆっくりと丸太を燃やしていき、やがて勇者の足元へ、そして白いドレスへと燃え移っていく。


 ――その時であった。


「勇者様っ!」


  一人の幼い少女――凱旋の時に感謝の言葉を伝えたあの少女が、兵士たちの規制線を掻き分け、必死の形相で勇者の元へと駆け寄ってきた。兵士が咄嗟に制止しようとするも、その勢いは止められない。


 少女は勇者の眼前にひざまずき、縋るようにして叫んだ。


「ごめんなさい……! ごめんなさい、勇者様……! 私、また勇者様に何もできずにいる……! こんなひどい目に合っているのに、助け出すことすら…………!」


 その悲痛な叫びに広場の熱気が一瞬で冷め、水を打ったような静寂が訪れた。民衆は固まり、複雑な表情でやりきれなさを見せ合う。

 彼らはこの儀式の本質を直視することを避け、祝祭の空気に浸りたがっていた。


 少女の叫びは、その薄氷を踏み砕くものだった。


「何を言っているんだ、小娘め! 下がれ!」

 

 兵士が少女の腕を掴もうとする。

 その時、勇者の優しいながらもしっかりとした声が響いた。


「その子には、お構いなく」


 勇者は炎が膝まで登ってきているにも関わらず、乱れることなく少女を見下ろし、静かに微笑んだ。


「あなたは……凱旋の時の。またお会いできて、嬉しいです」


 そのあまりにも穏やかな笑顔に、兵士も思わず手を緩める。少女は嗚咽し、涙を溢れさせながら勇者を見つめた。


「勇者様……!」


 勇者の声は、炎の燃える音にかき消されそうになりながらも澄んでいて、まるで広場の隅々にまで届くような響きを保っていた。


「泣かないで。そして、どうかいつまでも笑っていてください。あなたや皆さんが笑顔でいてくれる……それだけで、私は悔いなくここを旅立つことができますから」


 そして、彼女は顔を上げ、広場に集う全ての民衆を見渡した。


「どうか安心して、平和に暮らしてください。そして、この世界の皆さんがまた私を必要とした時、その時が来た日には――」


 炎はもはや彼女の腰まで達し、白いドレスを青白い光に変えていった。それでも、彼女の笑顔は微塵も揺るがない。

 

 そして彼女は深く息を吸い、全身の力で、希望に満ちた確かな声で約束した。

 


「私、絶対に皆さんの元へ来ます。約束します」


 

 勇者様、と少女はもう一声泣き叫ぼうとしたが、兵士に優しく後ろへと下げられた。民衆の間からも嗚咽が漏れ、不安と後悔の表情が広がり始めた。

 彼らはようやく、この儀式の持つもう一つの現実的な側面――“別れ”の悲しみを直視せざるを得なかった。


 炎はついに勇者を完全に包み込んだ。

 しかし、彼女はその最期の瞬間まで、一切の苦悶の声をあげることはなかった。

 顔を歪めるわけでもなく、ただ、約束を守ると信じる民衆へ向けて、終始静かな微笑みを浮かべ続けていた。



 やがて、炎が静かに消え去ると、そこには何も残っていなかった。服の燃え滓や肉体の残骸すらない。文字通り消滅したかのように。


 広場は重い沈黙に包まれた。

 そして、その静寂を破ったのは先ほどの少女の抑えきれない慟哭だった。


「ううっ……あああ……!勇者様ぁ……!!」


 彼女はその場に崩れ落ち、地面を叩きながら泣き叫んだ。

 もう二度と会えない。そう確信していたからだ。

 

 どんなに約束してもらっても、この心の底を引き裂くような悲しみは、もう二度と勇者が笑いかけてくれないという事実を何よりも雄弁に物語っていた。


 民衆はその少女の悲しみと勇者の最期の笑顔を思い出し、複雑な表情で俯いた。祝福と安堵の拍手は起こらず、代わりに深い感慨と言いようのない喪失感がゆっくりと広場を満たしていった。


「――以上をもって『永劫回帰の儀』は滞りなく終了となった。無事に儀を終えることができたこと、心より感謝する」

 

 王は表情を変えることなく、集まった民衆と儀式を執り行った全員に感謝を伝えた。彼は王としての責務を果たし、民衆はその“物語”を信じて受け入れた。

 

 王は最後に、声高らかに民衆へと告げた。


「そして、今をもって概念となった勇者に、心からの祈りを!」


 静寂の中で、儀式の始まりの時のような勇ましい音楽とは違った、悲しみを超えた荘厳な調べが巻き起こっていく。

 場を占める感情そのものが音楽となって概念と化した勇者へと贈られる。

 

 そんな中、地面に臥しながら悲しみに暮れる少女の慟哭は、楽器隊の音楽に上書きされることなく、人々の心に響き渡っていた。

 


 

 こうして、世界を救った勇者は民衆の見送る中、静かに旅立っていった。彼女の最期の笑顔と約束は、人々の心に深く刻まれるとともに一抹の悲しみも同時に残すこととなったのである。

 

 人々はやがて、それぞれの家路についた。


 そして時間は無情にも流れていき、数日も経てば悲しみや喪失感は徐々に薄れ、人々は魔王のいない平和な世界で生きていくために、ゆっくりとではあるが日常へと戻っていった。

 

 誰もが、あの日の光景と少女の慟哭を胸の奥にしまい込み、蓋をしたのだ。


 

 ――そして少しの時が経過した。

 いつの間にか広場の片隅には、目立たないような小さな石碑がひっそりと建てられていた。


 そこには、こう刻まれている。


 

《勇なるもの、概念となりて此の地に眠る。されど、魔の影が再び大地を覆う時、永劫の刻を経て、其は顕現の時を告げん》


 

 人々はやがて、勇者は概念となり、世界を見守る守護神になったと信じるようになった。

 そして、毎日祈ることで自らの行いを忘れないようにした。

 それは、彼女に対してのせめてもの贖罪であり、慰めでもあった。

 

 石碑を建てることを許可した王でさえ、そう信じることでしか自らの心の平衡を保つことができなかった。


 


…………………


……………


……




 ――そして、時は少し戻り、「永劫回帰の儀」が執り行われた時の、とある場所。


 どこまでも続く見知らぬ平原の青空の下、柔らかな草の上に一人の少女が転がるようにして横たわっていた。

 彼女の身体には、焼け焦げた痕も傷一つない。真っ白なドレスは処刑される前のままで、少しだけ草の汁で汚れている。彼女の胸はかすかに上下し、静かな寝息を立てていた。

 

 完全な力の枯渇と痛みによる精神的ショックを理由とした、深い眠りであった。


 まぶたがぴくぴくと震え、ゆっくりと目を開ける。長いまつ毛の間から、見知らぬ青空がぼんやりと見える。焦点がゆっくりと合っていった。


「……ここは?」


 彼女――勇者は、ぼんやりと呟いた。

 頭は朦朧とし、記憶がうまく整理できない。

 自分は確か、炎に包まれて……灼熱の痛みと、そして、どこか遠くで聞こえた怒号……


《ようやく目を覚ましたか》


 突然、聞き慣れた重々しい声が直接頭の中に響き渡った。


「っ!?」


 勇者は驚いて起き上がると、きょろきょろと周囲を見渡した。

 しかし、そこには誰もいない。広大な平原と風に揺れる草だけだ。


「……魔王? あなた……ですか?」

《そうだ》

「ここは一体……これは、どういうことです?」


 彼女は混乱しながらも、落ち着いた口調で問う。

 魔王が応える声には嘲笑うような、しかしどこか熱のこもった響きがあった。


《――貴様の心の弱さ、見ることができたのは思わぬ収穫だった。『助けて』と泣き言を吐く醜態が、今も目に焼きついているぞ》


 未だ現状が掴めていない勇者に、魔王は「永劫回帰の儀」の顛末を簡潔に説明し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る