Il filo d’argento che intrecciamo Ⅳ (私たちが紡ぐ銀の糸)
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
本編
雪深い地に越してきて、正月が明けると、その厚さは日々増してゆく。
夜明け前からの、神のような除雪車の駆動音で、未知は目を覚ました。
カーテンを開けて外を覗けば、家の前をドーザーがゆっくりと通り過ぎてゆく。
真っ黒な空から、天に色を置いてきた雪が、舞っては落ち、舞っては落ちを、繰り返してゆく。
静寂の中に音が聞こえた。
除雪車に圧雪された雪の嘆きだ。
それは、銃声のようにも、痛みを我慢して隠れ潜む声にも、未知の耳に聞こえた。
自らの体を抱くように、未知は手を回して抱きしめた。
タイヤに巻かれているチェーンが、銃弾を吐き出す自動小銃のようで。
固められた雪の落雪が、人が倒れてゆくようにも聞こえた。
忘れることのできない、あの日の光景。
ガタリと窓枠が風で揺れる。
それは自らの手を無理矢理に掴み、連れ去ってゆく奴らの靴音のようで、思わず身を固くする。
固めた身を時間をかけて解きほぐし、冷え切ってしまった布団へと戻ると、ベッドサイドの家族の写真を抱いて、身を丸めるようにして、少しの涙と、痛みに染まる心身に耐えるようにして、眠りについた。
やがて、カーテンが開け放たれた窓から、強烈な朝日が差し込んできて、厚い布団の生地を突き抜けて、未知の瞼を叩いた。
涙の乾いた跡を手で拭きながら、未知は布団から抜け出し、笑う家族写真に微笑むと、元の場所へとそっと戻した。
部屋は黄金に染まり、窓から覗く外も、降り積もった雪と除雪された道も、すべてが黄金色に輝いている。
旭日を受けながら窓辺へと未知は立った。
外の道路を美しいブロンドの髪をした男が、防寒着を着込んで、ランニングをするように、走って通り過ぎてゆく。
「幸奈くん?」
思わず名前が口をつく。
近所に住んでいる男の子、名前はしっかりと憶えている。
私を救ってくれた、痛みを知る、人だ。
スマホを一つ持っていれば、高校生の貪欲な知識を満たすには、十分だった。
私の事件のことも。
助かった女の子。
そう聞くだけで、人はいくらでも物語を想像する。
そう、小説を書くように、漫画を描くように、噂を紡ぐように。
薄っぺらい外見だけを、資料にして。
言葉の裏を読み取らずに、自らの価値観を糧に。
それが、どれだけ愚かしいことか、理解もせずに。
私もそうだったのだと思う。
咽返るほど血の匂いを。
規則正しい銃声を。
銃弾の穿つ音を。
人々の命が尽きる音を。
かけがえのない存在を、自らの腕の中で、失う瞬間を。
大切なものを、
大切なことを、
そのすべてを蹂躙される痛みを。
憚られる質問に、張り付けた笑顔で微笑んで、あたり障りのない答えで、誤魔化していた時のことだった。
「おまえ、よく嘘なんかつけるな」
冷ややかな目が、私をじっと見て、氷のように冷たい言葉が、槍のように私を貫いた。
会話が止まり、雑音の静寂があたりに満ちる。
誰も何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった。
彼はクラスでは恐ろしい存在で、孤高の猟犬のように、だれも触れたくない存在だから。
八田幸奈(はったゆきな)、女の子のような名前をした男の子。
そして、痛みを直に知る、男性だった。
その出来事から数日して、私は彼の身に起こった事柄のすべてを知ることができた。
家族で行った海外旅行の島で、テロに巻き込まれたこと、家族を失ったこと、そして、生き残った家族と共に帰国したこと。
生き残った家族がいて、羨ましいと最初は思った。
でも、現実は残酷だ。
生き残った彼の幼い弟は、手足を吹き飛ばされ、大脳の機能を失い、病院の呼吸器に繋がれて、生きている。
そう、生きている。
それは希望であって、絶望であって、その狭間で彼は苦しんでいた。
彼がその痛みを自らの枷として、挑んでくる暴力のみに贖い、その結果の今が、彼の姿だった。
彼から見れば、私は十分すぎるほどに、嘘つきだっただろう。
どうしてだろうか、その不器用さが、愛おしく思えて、
私は、私を守った。
彼は、家族を守った。
どちらも不器用だけれど、その差は歴然で、でも、どちらにも問題がある。
「あの……」
「なんだ?」
それが会話の始まりだった。
真実の痛みを知る者同士、話の歯車は徐々に噛みあい、私たちは緩やかな時間をかけて、親しくなった。
ある時、その愛おしさは、愛情に変化した。
ある教師の一言だった。
平和学習という、いたって日本的な学習、大切な学習で、戦争体験の話を聞いたり、ディスカッションしたり、する、ちょうど90代の戦争経験者の老婆が講話を終えたところだ。
「このクラスにも、経験者がいるな」
その一言で、幸奈君は教師を殴った。
冷たいその言葉に、私が涙を溢れさせる瞬間に、彼は私の怒りも代弁するように、教師に鋭い一撃を放った。
数人の先生に取り押さえられて、殴られた痛みから立ち上がった教師を睨みつける幸奈に、教師はさらに酷い罵声を浴びせた。
「そんなこと言わないでください!」
私も怒りが沸き上がり、でも、そう叫ぶことしかできない。
教師たちの目が私を冷たく見つめる。
そんな時、罵声を浴びせた教師の頬を、バシッと強烈に引っ叩いたのは、戦争経験者の老婆だった。
言葉はなかった。
ただ、あのとても穏やかな表情で、講話をしてくれた姿そのままに、罵声を失った教師をじっと見つめる。
『あれは哀れみの視線なのだ』
そう気が付いたとき、私は腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
その無言の重さに圧倒された。
取り押さえられていた幸奈君が、その姿を見つめたのちに、堰を切ったようにくぐもった泣き声を漏らす。
彼にも理解できたことが、私には嬉しかった。
老婆が幸奈君を取り押さえていた教師に、二言三言を伝えると、その視線が私を見つめて、その手が、私を手招きした。
幸奈君と私が教師に伴われながら、クラスを後にするとき、老婆が教室へと向いて、深々と頭を下げてから口を開いた。
「経験は体験にはなりません。もし、古くて想像ができないというのなら、今の世の中の戦争を調べてください。戦争は喧嘩ではありません、積み重ねの怒りが、それを引き起こすのです。だから、話し合いが必要なのですよ」
クラスが静まり返ったのは、言うまでもない。
老婆と私達は校長室で向かい合って座った。生徒指導室でなかったのは、ありがたかったけれど。
3人は言葉なく、校長も何も言わなかった。
窓から光が差してきたのは、そんな時だった。
どんよりと曇っていた空の雲から、日の光が柱となって降り注ぐ。
「お天気みたいなもんです」
老婆はそう言って窓を向いて、外を見上げながら、そう、呟くように口にする。
「誰しも分かるわけがありません、私の言葉も、あなた達の言葉もね、刻まれていない事柄は、響かぬ人には、聞こえぬ人には、聞かぬ人には、届かないけれど」
老婆の視線が幸奈と私を交互に見て、そして、緩やかに頷く。
「今はまだ、纏まらないでしょう、その都度、怒りが沸き、悲しみに暮れ、辛くなる、長い年月を経ても、それは癒されません。いつでもあの時が蘇ってくる」
邂逅するような表情と言葉に、幸奈君も私も頷くしかない。
「ずっと心がお天気さん、でも、それと向き合っていくしかないのです。この時代にそれを知ることは、言葉では言い表せませんけれど……」
老婆の頷きに、私たちは頷くしかない。
「ただ、暴力はいけませんけれど……」
老婆が幸奈君の殴った手を、両手で包むように握った。
「立派に戦いました。尊厳を守ることも、必要なことです」
その言葉に幸奈君も、私も、自然と涙が沸き上がる、心の中で、何かが大きな声で叫んだ。
きっと、幸奈君も同じだったのだと思う。
「平和を愛することも戦いです。お二人にはそれを忘れないで、言葉の重みが分かるからこそ、しっかりとね」
私たちは深く頷くしか、言葉がなかった。それは、本当の先生からの、本当の授業で、何かを受け取った気がして、身にしっかりと刻まれている。
メッセージが届いたことを知らせる。そのメロディーは一人だけ、幸奈君専用の音だ。
『窓から姿が見えた、風邪ひくなよ。登校時間に迎えにいく』
『うん、朝ごはん食べてゆく?』
『玲香さんの迷惑にならないか?』
『大丈夫、伝えておくし、手伝うから』
『じゃぁ、お願いします』
『うん、じゃぁ、あとでね』
窓辺から離れて、部屋の暖房を入れる。
そのまま椅子へと腰かけて、鏡を机の上に置いて髪を漉く。
思い出した出来事のすべてを、落ち着かせるように、髪を漉くのが癖になった。
『何か一つ、これをすれば落ち着くことを身に着けるとよいですよ』
老婆から頂いた助言に従って、その正しさに感謝しながら。
今日も一日が始まる。
銀の糸を紡ぐ一日が。
Il filo d’argento che intrecciamo Ⅳ (私たちが紡ぐ銀の糸) 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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