1-5

 そのとき。


 いちばん上から、音が落ちた。


 塔の縁。

 風の中に、赤い影が立っている。


 黒い帽子を深く被り、

 黒い毛皮が肩を縁どり、

 黒に近い赤の装いが夕に沈む。


 眼鏡の奥が、ひとつ光る。


 サキュバスの少女だけが先に反応した。


 耳がぴくりと立って、嫌そうに伏せる。


(……なに、これ?)


 影が薄く笑う。


― О, заблудшие!

(オー、ザブルージシエ!)

【おお、迷える者たちよ。】


― Древние законы стали цепями, сжимающими грудь.

(ドリェーヴニエ ザコーヌィ スターリ ツェピャーミ、スジマーイュシチミ グルーチ)

【古い掟が、鎖となって胸を締める。】


 赤い影の手が、空でゆっくりと形を結ぶ。


― Но не робейте. Терять вам нечего, кроме оков.

(ノ ニェ ラビェイチェ。チリャーチ ヴァム ニェーチェヴォ、クロミェ アコーフ)

【だが臆するな。失うのは束縛だけ。】


― И обретёте вы не безымянное завтра.

(イ アブリチョーチェ ヴィ ニェ ビェズイミャーンナエ ザーフトラ)

【得るものは、名もない明日ではない。】


― Вы обретёте сам мир. От горизонта до горизонта — всё.

(ヴィ アブリチョーチェ サム ミール。アト ガリゾーンタ ダ ガリゾーンタ、フショー)

【世界そのものだ。地平から地平へ、すべてだ。】


 サキュバスの少女の胸の奥が更にざらつく。

 気持ち悪さを喩える言葉が見つからない。


(……純粋なのに、芯が腐ってる)

(なんなの、これ)


 舌の奥が、鉄みたいに苦い。


(……魔法じゃない。呪法でもない。こんな詠唱聞いたことがない)

(とても、いやな感じ…)


 サキュバスの少女は、きつく目を閉じた。


― Итак, объединяйтесь!

(イターク、アビェジニャーイチィシ!)

【さあ、団結せよ!】


― Агитируй!

(アギチールイ!)

【扇動の大火!】


 屋根の上の影が、拳を振り上げる。

 赤い気配がその拳に絡みつき、次の瞬間、合図みたいに振り下ろされた。

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