穴の向こう
真花
穴の向こう
単純で単調で退屈、田舎のコンビニバイトなんてそんなもんだ。絵描きになることを諦めて実家で暮らすようになってからもう十年は経つ。親は独立することを強要しない代わりに月に五万、家に入れろと条件を出して来た。十年前の僕はそんな生活が長く続くとは思っていなかったから快諾して、駅前のコンビニでバイトを始めた。単純で単調で退屈なのはコンビニだけじゃなく僕の生活も同じだった。今も変わらない。バイトをして、飯を食って、動画やSNSで時間を消化して、寝る。それだけを繰り返して何も生み出さず、壊さず、平坦に生きて来た。……生きて来たと言えるのだろうか。ただ生存しただけで、世界に何の影響も及ぼしていないのならそれは生きているのとは違うのかも知れない。でも、生存した。今もしている。たぶん、明日も同じ。その次の日も同じ。その反復がきっと僕の脳を麻痺させて「どうして生きる」とか「何のために生きる」とかみたいなことを考えさせない。動く人形のように、顔のないロボットのように、僕は同じことをただ続ける。そこに危機感も感慨も生まれない、まるで水平線のように遠く平らに感情が霞む。
それでもバイトの終わりにはちゃんと疲れる。次のシフトの二人が来て、僕ともう一人のバイトはバックヤードに引っ込む。着替えて挨拶だけして店を出れば僕達は右と左に別れる。店の裏に停めておいた自転車、ゴッホ号に跨って家に向かう。冬の六時はもう暗くて、人気のない道をより人のいない方向に進む。途中からは畑ばっかりで、いっちょ前に「お疲れ、僕」と呟いてため息を漏らせば、白い雲になって後ろに流れて行く。一日仕事をしても特記すべきことは何も起こらず、従って誰かに仕事の愚痴を言うとしても「つまらない」くらいしかない。だから言わない。言う相手も両親しかいないけど。十五分走って家に着いて、しばらく部屋にいたら夕食に呼ばれて両親と食卓を囲む。弟は独立して結婚して子供も二人作って、正月くらいにしか帰って来ないけどまだ弟の席が残っている。一人分の席なのにそこには嫁と子供と合わせて四人分の気配が増殖して僕を睨んでいる。それを無視して「いただきます」と声を揃えて、生姜焼きとご飯を頬張る。父親がいつも同じことを訊く。
「今日はどうだった?」
「変わりないよ」
「そうか」
父親は再就職をして概ね現役で働いていて、母親もパートに出ている。だから僕が入れる五万は経済的な問題ではなく教育的なものとしての徴収で、本当は僕は何もしなくても生活することが、パラサイトだけど、出来る環境にある。だからと言ってそうしようとは思ってはいない。家に入れた分の余剰分で好きなアニメやマンガを買うことが出来るし、か細くても社会に繋がっている意義が分からない訳じゃないし、それこそが両親の狙いだし、ずっと家にいたらもっと腐ってしまうことは明らかだから。
食後に少しテレビを両親と一緒に見て、ちょっと笑ったりしてから部屋に戻った。僕の部屋は家の端っこにあって、十二畳と広い。風呂までの間、動画なり何なりを見てゴロゴロしようと考えながらドアを開けた。電気を付けたら、鏡に映った自分に見知らぬホクロが付いているような違和感があって、探すと壁に穴が開いていた。親指でちょうど隠れるくらいの穴で、そんなものを開けた覚えはない。穴のある壁の向こう側は外だから寒風が入り込むかも知れない。ちょうど目の高さにあって、手を当ててみても風は吹いていなかった。僕は穴に吸い寄せられるように覗いた。
そこには僕がいた。絵を描いていた。僕が描いたことのない絵だった。そっちの僕はパレットで色を作ってはキャンバスに乗せることを繰り返し、徐々に絵が出来上がっていった。目を逸らすことが出来なかった。そっちの僕の年恰好は僕と同じだった。そこに僕にそっくりな子供が走り込んで来た。まだ三歳くらいだろうか。そっちの僕は筆とパレットを置いて子供を抱き上げる。子供が弾けるように笑って、その声まで聞こえて来そうだった。遅れて女性が部屋に来て、そっちの僕と何か会話をした。髪の長いかわいらしい女性で、そっちの僕は子供を抱いたまま立ち上がり女性の元に歩いて行き、三人は部屋から消えた。残されたのは描きかけの絵とそれを覗く僕だけだった。しばらく待っても三人は帰って来なかった。
穴から目を外して、周囲を見渡せばいつもの僕の部屋があった。あっちの部屋はこの部屋ではない。しんと静かに全ての家具は落ち着いている。僕の心臓だけが穏やかさを忘れてトクトクと鳴っている。絵を描き続けていたらあっちの僕になっていたのだろうか。頭の中にガムのように考えがこびりついてベッドに腰掛けてみてもうろうろと部屋の中を歩いてみても同じことしか浮かばない。再び穴を覗く。さっきと同じ光景がそこにはあった。食事や風呂に行ったのだろうか。だったらその内に帰って来るはずだ。いったん目を離して、いつもやっている動画やSNSの巡回をする。全然集中出来ない。時間を潰すために潰しているだけだと自覚しながら、意識の半分を穴に吸われながら、一時間粘った。さあ、覗こう。
穴の向こう側にはまた僕がいて、絵を描いていた。さっき見たときよりもちょっとだけ進んでいた。戻って来たのはついさっきなのだろう。そっちの僕は一心不乱に絵を描き続けた。モデルはないからイメージの中のものを描いているのだろう。僕はそれを覗き続けた。そっちの僕の絵は完成しないまま、今日はここまで、と言った風に筆が置かれて、そっちの僕は片付けを始めた。僕はどうしてかそわそわと腰が落ち着かない。行くな、まだここにいろ、そう念じてもそっちの僕は電気を消してドアを閉めて行ってしまった。部屋は暗くなって何も見えないから、目を外してこっちの部屋に戻る。僕はベッドに転がって、時計を見たら十一時だった。
それからバイトから帰ったら穴を覗くのが毎日になった。ネットで他人の人生を覗くのよりもずっと覗くのに力が入った。そっちの僕はその部屋ではいつも絵を描いていた。たぶん、アトリエなのだろう。毎日僕は覗いて、毎日そっちの僕は絵を描いて、ときどき子供や奥さんらしき女性がやって来た。僕にあったかも知れないもう一つの現実が穴の向こう側で展開されている。それはもう確信だった。僕はアトリエで絵を描きながら家族を持っていた。穴から目を遠ざける度にそうではないコンビニバイトで実家暮らしの自分に鞭で打ったように叩きのめされる。穴を覗いている間だけは幸福そうな僕の気分になれる。僕はまるで二人の僕を行ったり来たりしているみたいだった。日々、募るものがあった。それは彼我の差に基づいた、あっちになりたいと言う想いだった。
一ヶ月はそれでも覗くに留めていた。でも、我慢が出来なくなった。僕は家の倉庫からツルハシやハンマーなどを持ち出して穴を広げることにした。穴の向こう側にはそっちの僕が絵を描いている。それを確認して穴にツルハシを打ち付けた。ハンマーで砕いた。壁は簡単に崩れて、穴はどんどん大きくなった。穴の向こうのそっちの僕は全く気付いていないようだった。穴が僕が潜るのに十分な大きさに広がり、呼吸を整えて穴の向こう側に踏み込んだ。そこは穴から覗いていた部屋そのもので、そっちの僕は絵を描いている。絵の具の匂いがつんとして、それは懐かしさを呼び起こした。僕が部屋に入った瞬間にそっちの僕が振り返った。目がバチンと合う。でもそっちの僕はまるで僕が来ることを予め知っていたかのように落ち着いて微笑んだ。
「やあ。来たね」
僕は完全に体を穴の向こう側に置いて、そっちの僕を睥睨する。
「来たよ」
「その穴からはこっちからもそっちが見えるからね。懐かしい実家の部屋が」
「僕にとってはそれが現実だった。でも、今からは違う。代わってくれ」
そっちの僕は微笑みを崩さない。勝敗は最初から決まっていると宣言するように。
「それは出来ない。意志の問題じゃなくて。君にはこの絵を続きも、新しい絵も描けないだろう? やって来なかった十年と積み上げた十年が同じだと思うなよ」
「そんなの、やってみなくちゃ分からないだろう」
「じゃあ、描いてみろよ」
そっちの僕は立ち上がってパレットと絵筆を僕に渡す。僕は絵の前に座る。まだ序盤の絵に僕はどんなものを書き加えてもいいのに、金縛りにあったように筆を動かすことが出来なかった。汗ばかりが出る。それは描くべきものが分からないのでも、描きたいものが見えないのでもなくて、生まれ始めている作品に雑味を加えてはいけないと言う感覚が全身を覆って、僕を動けなくしていた。
「ほらな」
「新しいキャンバスなら」
「じゃあ、やってみろよ」
そっちの僕はスタスタと棚から真っ白なキャンバスを持って来てイーゼルの上のものと交換した。何も描かれていない白さに今度は圧倒される。そこに対決出来るだけのものが自分の中にないことを刺すように理解させられる。クソ。そう胸の中で言った。それは敗北を認める呟きだった。僕がたとえそっちの僕を殺害して成り代わっても、何も出来はしない。
「出来ないよな。そうだろう」
僕は立ち上がってパレットと筆をそっちの僕に押し付けた。
「僕の負けだ。おとなしく帰るよ」
「穴は塞いでおくから。じゃあな」
「じゃあな」
僕は穴を潜って元の実家に戻った。振り返ると開けたはずの穴は閉じていて、覗くべき穴もなくなっていた。足元にはツルハシとハンマーが転がっていた。壁を何度も確認した。でも、ないものはなかった。僕は部屋で一人で、しんと静かで、動画やSNSはきっと変わらずに僕を待っている。壁の前で立ち竦んで、体に微かに残る絵の具の匂いをキャッチして、手に残存する絵筆の感触、パレットの硬い感じを確かめるように両手を動かした。
僕は何をやっていたのだ。
棚を探してスケッチブックを取り出した。机の中から鉛筆を探した。過ぎた十年は戻っては来ないし、穴の向こう側とももう二度と会うこともないだろう。もしかしたらどうなるかなんて考えてはいない。でも、もう時間を消化するのはやめだ。
スケッチブックの新しいページに鉛筆を走らせる。描くのは目に焼き付いているそっちの僕で、もう一人の僕で、僕自身だ。いつかこの自画像を見て笑えるのか、そうでもない未来にしか行けないのかはまだ分からない。それでも描かずにはいられない。十年間、もう辞めたのだからと忌避して封印して来たけど、そんなことはもういい。
一本ずつ線が増えて、線の集まりが絵になって行く。下手糞だ。腕が落ちている。僕は口角だけ苦笑いを溜めて、描くのをやめない。
(了)
穴の向こう 真花 @kawapsyc
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