第15章:水上の狼


 夜の長江は、巨大な生き物の腹の中のように暗く、静かだった。

 水面を叩く波音だけが、不気味なリズムを刻んでいる。

 天(テン)率いる餓狼隊(がろうたい)は、数十隻の小型船「走舸(そうか)」に分乗し、闇に紛れて進んでいた。

 走舸は、船体が細く、速度が出るように設計された強襲用の小舟だ。櫂(かい)を漕ぐ音すら消し、水面を滑るように進む彼らの姿は、まさに群れを成して獲物に忍び寄る狼そのものだった。

 目標は三江口(さんこうこう)。

 曹操軍の水軍基地として急造された仮設の港であり、数千隻の軍船が停泊していると報告されていた。

「……見えてきたぞ」

 先頭の船で、迅(ジン)が小声で告げる。

 霧の向こうに、無数のかがり火が揺らめいている。

 巨大な楼船(ろうせん)――動く城のような大型戦艦が、壁のように連なっている。そのマストには「曹」の字が染め抜かれた旗が掲げられていた。

 圧倒的な物量。

 見てるだけで息が詰まりそうな光景だが、天はニヤリと笑った。

「デカイ図体しやがって。あれじゃ小回りが利かねえな」

「そこが狙い目です」

 律(リツ)が隣で囁く。

「北方の兵は船酔いに弱く、船同士を鎖で繋いで揺れを抑えています(連環の計)。つまり、機動力はゼロに等しい。我々が懐に入り込めば、彼らは巨大な棺桶の中にいるのと同じです」

「棺桶か。上等だ。……総員、配置につけ!」

 天の合図で、兵士たちが武器を構える。

 迅率いる「双牙(そうが)隊」は、鉤縄と短剣を準備する。

 貫(カン)率いる「鉄弓(てっきゅう)隊」は、火矢をつがえる。

 断(ダン)の「砕牙(さいが)隊」は、船底に穴を開けるための鑿(のみ)と槌を握る。

 そして、天と董(トウ)、魏(ギ)の突撃班は、方天画戟(ほうてんがげき)と包丁、鉄盾を構え、一番槍の時を待つ。

 距離が縮まる。

 三百歩。二百歩。百歩。

 敵の見張りが、霧の中の異変に気づいた。

「な、何だあれは!? 船か!?」

「敵襲! 敵襲ゥゥッ!」

 銅鑼が鳴り響く。

 だが、遅い。

「始めろッ!!」

 天が吼える。

 ヒュルルルル……!

 貫たちの放った火矢が、夜空を引き裂いて敵船の帆に突き刺さる。乾いた布が一瞬で燃え上がり、暗闇を赤く染める。

「火事だ! 消せ!」

 敵兵がパニックになる隙を突いて、走舸が敵船団の懐に突っ込んだ。

 ドォンッ!

 船体がぶつかる衝撃。

「乗り込めェェッ!」

 迅たちが鉤縄を投げ、猿のように敵船の甲板へと駆け上がる。

 双剣が閃き、見張りの兵たちが次々と喉を掻き切られて倒れる。

「ヒャハハ! 足元がお留守だぜ!」

 迅が笑いながら、混乱する敵兵の間をすり抜ける。

 同時に、水面下では断たちが活動を開始していた。彼らは水中に飛び込み、敵船の底板に鑿を打ち込み始めたのだ。

 ガン、ガン、ガン!

 船底から響く不気味な音。やがて水が噴き出し、巨船がゆっくりと傾き始める。

「し、沈むぞ! なんだこれは!」

 曹操軍の水兵たちは、北国の出身者が多く、泳げない者が殆どだ。傾く船の上で、彼らは恐怖に駆られて逃げ惑う。

 そこへ、真打ちが登場する。

 天が乗った船が、敵の旗艦――指揮官が乗る最大の楼船に横付けした。

「魏、頼む!」

「ん゛ッ!」

 魏が天を抱え上げ、砲弾のように敵船へ放り投げた。

 人間投石機。

 天は空中で身を捻り、ドォンッという音と共に甲板に着地した。

 その衝撃で床板が割れる。

「な、何者だ!?」

 旗艦を守る親衛隊が槍を向ける。

 天はゆっくりと立ち上がり、背中の包みを解いた。

 現れたのは、血に飢えた魔性の戟。

「……餓狼隊、天。挨拶に来たぜ」

 天は方天画戟を片手で構え、一閃した。

 風切り音すら置き去りにする剛撃。

 五人の兵士が、槍ごと両断されて吹き飛んだ。

「ば、化け物……!」

 恐怖が伝染する。

 天は止まらない。戟を振り回し、暴風のように甲板を制圧していく。

 重い。腕が軋む。だが、その重さが敵の防御ごと粉砕する破壊力を生む。

「董! 後ろだ!」

 天が叫ぶと、背後から忍び寄っていた敵兵の首が、不自然な角度で落ちた。

 董だ。彼女はいつの間にか天の影のように背後に張り付き、死角を守っていた。

「……雑魚ばっかり。つまらない」

 董は退屈そうに包丁の血を振るった。

 二人のコンビネーションは完璧だった。天が正面を粉砕し、董が漏らした敵を狩る。

 指揮所がある船楼(せんろう)への道が開く。

「貴様ら! 狼藉(ろうぜき)者め!」

 船楼から、立派な鎧を着た将軍が現れた。

 曹操軍の水軍都督・蔡瑁(さいぼう)だ。元は荊州の将だが、曹操に降って水軍を任されている男。

「我が精鋭部隊を相手に、たかが数百の兵で挑むとは愚かな!」

 蔡瑁が剣を抜く。

 だが、その手は震えていた。目の前で繰り広げられる惨状、そして血に濡れた少年少女の異様な姿に、本能的な恐怖を感じているのだ。

「精鋭? 笑わせんな」

 天は鼻で笑った。

「鎖で繋がれた船なんざ、ただの的だ。お前らは自分で自分の首を絞めてるんだよ」

 天は一歩踏み出した。

「終わりだ、蔡瑁。その首、置いてけ!」

 天が跳躍する。

 蔡瑁が悲鳴を上げて後ずさる。親衛隊が壁になろうとするが、方天画戟の一撃で消し飛ぶ。

 刃が蔡瑁の首に迫る。

 その時。

 

 ズガァァァンッ!!

 

 横合いから、強烈な衝撃波が襲ってきた。

 天は咄嗟に戟でガードしたが、体ごと数メートル吹き飛ばされた。

「ぐッ……!?」

 天は甲板を転がり、受け身を取って立ち上がった。

 何だ? 何が起きた?

 煙が晴れると、そこには一人の巨漢が立っていた。

 全身を分厚い鉄の鎧で覆い、手には巨大な戦鎚(ウォーハンマー)を持っている。その姿は、人間というよりは動く城塞だ。

「……蔡瑁様に指一本触れさせんぞ、鼠ども」

 兜の奥から、籠もった低い声が響く。

「誰だ、テメェ」

 天が問うと、巨漢は戦鎚を地面に叩きつけた。甲板が悲鳴を上げてたわむ。

「曹操軍、許褚(きょちょ)仲康。……虎痴(こち)と呼べ」

 許褚。

 曹操の親衛隊長にして、魏軍随一の怪力無双。その武勇は「虎のように勇猛で、痴(おろ)かなほど忠実」と評される。

「許褚だと……? なんでこんな所にいやがる!」

 天は舌打ちした。

 情報にはなかった。曹操の懐刀が、まさか前線の水軍基地にいるとは。

「丞相(曹操)の命だ。水軍の視察に来てみれば……薄汚い鼠が入り込んでいたとはな」

 許褚がゆっくりと歩み寄る。その一歩一歩が重い。

 天は方天画戟を構え直した。

「……面白え。張遼以外にも、遊べる相手がいたとはな」

 強がりを言うが、冷や汗が流れる。

 この男、強い。

 張遼のような鋭い殺気ではない。もっと質量の高い、圧倒的な暴力の塊のようなプレッシャー。

「董、手出し無用だ。こいつは俺がやる」

 天は董を下がらせた。彼女のスピードでも、あの一撃を喰らえば即死だ。

「……死なないでよ」

 董が短く言い、闇に消える。

 天と許褚。

 怪力対怪力。

「行くぞッ!」

 天が踏み込む。

 方天画戟をフルスイングする。

 ガギィィィンッ!!

 許褚は戦鎚で正面から受け止めた。

 火花が散る。衝撃で周囲の空気が弾ける。

「ぬぅッ……!」

 天の腕が痺れる。押し負けている。

 許褚は微動だにしない。まるで大木だ。

「軽いな」

 許褚が戦鎚を振るう。

 単純な横殴り。だが、速い。その巨体からは想像できない速度で、鉄塊が迫る。

 天は戟の柄でガードする。

 ドゴォッ!

 天の体がボールのように吹き飛んだ。

 船楼の壁に激突し、木材が砕け散る。

「がはッ……!」

 血を吐く。肋骨が何本か逝ったかもしれない。

「力だけでは勝てんぞ、小僧」

 許褚が追撃してくる。戦鎚が振り下ろされる。

 天は転がって回避する。

 ズドンッ!

 床に大穴が開く。

「くそッ……化け物かよ!」

 天は立ち上がり、距離を取る。

 まともに打ち合えば負ける。パワーの次元が違う。張飛と同レベルか、それ以上だ。

(どうする……?)

 太史慈の教えを思い出せ。

 力に頼るな。理を使え。

 相手は重装備だ。動きは速いが、小回りは利かないはず。それに、ここは揺れる船の上だ。

 天はニヤリと笑った。

「……力比べは終わりだ。ここからは喧嘩殺法で行くぜ」

 天は方天画戟を短く持った。

 許褚が突進してくる。

 天は戟を突き出すふりをして、足元の床板を思い切り踏み抜いた。

 バキッ!

 床が抜け、許褚の片足がハマる。

「ぬ!?」

 許褚がバランスを崩す。

 その隙に、天は戟の石突きで、許褚の膝関節を殴打した。

 ガンッ!

 鎧の上からでも効く衝撃。

 さらに、戟の月牙を許褚の兜の隙間に引っ掛け、強引に引き倒す。

 ズシンッ!

 許褚の巨体が倒れる。

「重い奴ほど、転ぶと起き上がるのが大変なんだよ!」

 天は倒れた許褚の上に乗り、戟の穂先を喉元に突きつける。

 勝った。

 そう思った瞬間。

 許褚の手が動いた。

 戦鎚を手放し、天の足首を掴んだのだ。

「……捕まえたぞ」

 万力のような握力。

 ミシミシと、天の足首が悲鳴を上げる音が聞こえた。

「ぐ、ぅ……ッ!?」

 激痛。だが、天は叫ばなかった。

 採石場での奴隷生活、太史慈との地獄の特訓、そして仙の薬漬けの日々。それらが天の肉体を常識外れの頑強さに作り変えていた。

 普通の人間なら粉砕骨折するところだが、天の骨密度と筋肉の鎧が、最悪の事態を防いでいた。

「離せッ!」

 天は逆の足で許褚の顔面を蹴り上げる。

 許褚が怯む。

 その隙に、天は足を引き抜いた。

「小細工など無用。力こそが全てだ」

 許褚が立ち上がり、戦鎚を拾い上げる。

 天は後退する。足が痛む。折れてはいない。だが、ヒビが入ったかもしれない。踏ん張りが効かない。

 戦鎚が振り上げられる。

 その時。

 ヒュルルルル……!

 夜空から、一本の矢が飛来した。

 それは許褚ではなく、許褚の足元の床板に突き刺さった。

 ただの矢ではない。先端に、火薬の入った壺がくくりつけられている。

 カッ!

 閃光と爆発音。

 煙幕だ。

「ちッ!」

 許褚が顔を覆う。

「大将! こっちだ!」

 煙の中から、迅と魏が飛び出してきた。

 魏が盾で許褚の追撃を防ぎ、迅が天を抱え上げる。

「逃げるぞ! 船が沈む!」

 断たちの工作により、この旗艦も浸水が限界に達していた。船体が大きく傾き、悲鳴を上げて軋んでいる。

「……逃がすか!」

 許褚が追おうとするが、傾いた床に足を取られる。

 天たちは船縁から飛び降り、待機していた走舸に乗り移った。

「……くそッ、仕留め損なった!」

 天が悔しげに船を見上げる。

 煙の向こうで、許褚が仁王立ちしているのが見えた。彼は沈みゆく船から悠然と別の船へ飛び移り、こちらを睨みつけている。

「天と言ったな。……顔は覚えたぞ。次は確実に殺す」

 許褚の声が響く。

 

 餓狼隊は闇に紛れて撤退した。

 作戦は成功した。敵の旗艦を含む数隻を沈め、蔡瑁に手傷を負わせ、基地を混乱に陥れた。

 船の上で、仙が天の足首を診察している。

「……酷い内出血ね。骨にヒビが入ってるわ」

「折れてねえのか?」

「あんたが化物で助かったわ。普通の人間なら粉々になって切断コースよ」

 仙は手際よく薬草を塗りたくり、布できつく固定した。

「全治二ヶ月……と言いたいところだけど」

 仙は呆れたように天を見上げた。

「あんたの回復力と、私が毎日飲ませてる特製ドリンクのおかげで、骨の再生速度が異常に速いわ。一週間もあれば走れるようになるでしょうね」

「一週間か。上等だ。赤壁には間に合う」

 天は痛みに耐えながら、不敵に笑った。

 許褚という壁。

 力では負けた。だが、心は折れていない。むしろ、燃え上がっていた。

 

 数日後。

 餓狼隊は柴桑(さいそう)へ帰還した。

 彼らを出迎えたのは、意外な人物だった。

 港に整列する、見事な水軍。その中央に立つ、涼やかな美貌の将軍。

 周瑜(しゅうゆ)公瑾(こうきん)。

 呉の大都督にして、赤壁の戦いの総司令官となる男。彼が鄱陽湖(はようこ)から戻ってきたのだ。

 天が足を引きずりながら船から降りると、周瑜が歩み寄ってきた。

「……貴様が、天か」

 周瑜の声は、氷のように冷たく、そして美しかった。

「はっ。三江口を叩いてきました」

 天が報告する。

 周瑜は天の腫れ上がった足首と、背中の方天画戟を一瞥した。

「……無謀な作戦だ。だが、結果は出したようだな。敵の侵攻を数日遅らせた功績は認める」

 周瑜は天の目を覗き込んだ。

「だが、勘違いするなよ。私は貴様を認めたわけではない。負傷した狼など、戦場では足手まといだ」

 周瑜の瞳には、天に対する警戒心と、冷徹な計算の色が浮かんでいた。

 こいつは、俺をどう使うつもりだ?

 駒か? それとも、捨て石か?

 天は痛みを隠して背筋を伸ばした。

「ご心配なく。この程度の傷、数日で治します。……俺たちの『牙』、使い道があるなら使ってみろ」

 周瑜はフッと口元を緩めた。

「……よかろう。次の作戦会議に出ろ。貴様のそのしぶとさ、計算に入れてやろう」

 周瑜はそれだけ言うと、マントを翻して去っていった。

 その背中からは、完璧な自信と、何人たりとも寄せ付けない孤高のオーラが漂っていた。

「……嫌な野郎だぜ」

 天は呟いた。

 だが、予感はあった。この男となら、あるいは張遼や許褚といった怪物たちを出し抜けるかもしれない。

 知の怪物・周瑜。

 武の怪物・餓狼隊。

 混ぜるな危険の劇薬同士が、ついに交わろうとしていた。

 

 赤壁の戦い、開戦まであとわずか。

 舞台は整った。

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父は魔王・呂布。師は義将・太史慈。 二つの魂を継ぐ少年が、その「呪われた血」と「最強の矛」で、乱世の喉笛を喰いちぎる。 @saijiiiji

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