第14章:虎の迷い、狼の決断


 呉の拠点、柴桑(さいそう)。

 城内は、外の静けさが嘘のように騒然としていた。

 曹操軍八十万の大軍が南下を開始したという報せは、瞬く間に城内を駆け巡り、恐怖という名の疫病を蔓延させていたのだ。

 謁見の間。

 そこには、呉の未来を決める重臣たちが集結していた。

 中央の玉座に座るのは、若き君主・孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)。

 その顔色は優れず、碧(あお)い瞳には深い苦悩の色が浮かんでいる。彼の両脇には、文官と武官が分かれて並び、激しい論戦を繰り広げていた。

「殿! ここは降伏すべきです!」

 声を張り上げたのは、筆頭文官の張昭(ちょうしょう)だ。白髪の老人は、必死の形相で孫権に詰め寄っていた。

「曹操軍は八十万。対する我らは数万。まともに戦って勝てるはずがありません! 民を無駄死にさせるおつもりですか!?」

「左様! 曹操殿は漢の丞相。逆らうは大義に反します!」

 文官たちが口々に同調する。彼らの声には、保身と恐怖がありありと滲み出ていた。

 一方、武官の列からは怒号が飛ぶ。

「ふざけるな! 戦わずして国を渡せるか!」

「腰抜けどもが! 我らには長江という天然の要塞がある!」

 程普(ていふ)や韓当(かんとう)といった古参将軍たちが顔を真っ赤にして反論する。だが、彼らの声にも焦りが混じっていた。八十万という数字の暴力は、歴戦の勇者ですら震え上がらせるのに十分だったのだ。

 孫権は、その喧騒の中でただ一人、押し黙っていた。

 父・孫堅と兄・孫策が命懸けで築いた江東の地。それを守るべきか、それとも家名の存続のために頭を下げるべきか。

 若き虎は、迷いの檻の中にいた。


 その時。

 重々しい扉が開き、一人の男が入ってきた。

 魯粛(ろしゅく)だ。

 そして、彼の後ろには、泥と血の匂いを纏った異様な一団が続いていた。

 天(テン)率いる餓狼隊(がろうたい)、そして劉備軍の使者である諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)である。

 場が一瞬で静まり返る。

 文官たちは眉をひそめ、武官たちは訝しげな視線を送る。特に天の背負う方天画戟(ほうてんがげき)の禍々しさは、平和ボケした文官たちを萎縮させるには十分だった。

「魯粛、その者たちは?」

 孫権が問う。

「はっ。劉備玄徳殿よりの使者、諸葛孔明殿。そして、彼らを護衛し、長坂の激戦を生き延びた我が軍の餓狼隊長、天でございます」

 魯粛が紹介すると、孔明が優雅に一礼した。

「お初にお目にかかります、孫将軍。……曹操軍の威勢に押され、城内はずいぶんと賑やかなご様子ですな」

 孔明の声は涼やかで、皮肉めいた響きがあった。

 張昭が噛み付く。

「何がおかしい! 敗軍の将の使い走りが、偉そうな口をきくな!」

「敗軍だからこそ、曹操の強さも弱さも知っております」

 孔明は羽扇を揺らした。

「曹操軍は確かに強大。ですが、所詮は烏合の衆。北方の兵は水戦に不慣れで、疫病にも弱い。それに比べて、江東の兵は水に強く、士気も高い。……戦えば勝機は十分にあると見ますが?」

「勝機だと? 八十万に対してか!?」

「数は問題ではありません。要は、戦う『意志』があるかどうかです」

 孔明の視線が、孫権を射抜く。

「孫将軍。もし貴殿が曹操に膝を屈するなら、それも良し。ですが、天下の笑い者になる覚悟はおありか?」

 挑発。

 孫権の顔色が変わる。

「……余を愚弄するか」

「事実を申し上げたまで。劉備殿は、たとえ最後の一兵になろうとも曹操とは戦う覚悟です。漢室の末裔としての誇りにかけて」

 孔明の言葉は、計算された劇薬だった。

 プライドの高い孫権に対し、あえて「劉備は戦うが、お前はどうだ?」と煽ることで、競争心と対抗意識を刺激したのだ。

 孫権が拳を震わせる。

 だが、それでも決断できない。八十万という絶望的な数字が、理性を縛り付けている。

「……天よ」

 孫権が、不意に天を呼んだ。

「は」

 天が一歩前に出る。

「そちは、長坂で曹操軍と戦ったそうだな」

「はい。嫌になるほどたっぷりと」

「……敵は、強かったか?」

 孫権の声には、すがるような響きがあった。現場の生の声、嘘偽りのない実感を求めているのだ。

 天は周囲を見回した。

 怯える文官、いきり立つ武官。そして、迷える君主。

 天は鼻で笑った。

「強いですよ。間違いなく最強です」

 文官たちが「それ見たことか」と騒ぎ出す。

 だが、天は言葉を続けた。

「虎豹騎(こひょうき)の突撃は、岩をも砕く威力でした。張遼の武勇は、鬼神のごとく凄まじかった。……俺たちの部隊も、半分近くが死にかけました」

 天は吊った右腕を軽く叩いた。

「ですが、俺たちは生きて帰ってきました」

 天の瞳に、ギラリと光が宿る。

「数は力ですが、絶対じゃありません。あいつらは強いが、無敵じゃなかった。刃を通せば血が出るし、脅せば怯む。同じ人間です」

 天は孫権を真っ直ぐに見据えた。

「殿。あんたが怖がっているのは、曹操軍そのものじゃない。『負けるかもしれない』という自分の想像力にビビってるだけだ」

「な、無礼な!」

 張昭が叫ぶが、孫権は手で制した。

「……続けよ」

「俺は学がないんで、難しいことはわかりません。ですが、一つだけ確かなことがあります」

 天は背中の方天画戟を指差した。

「戦う前から負けを認めた奴に、勝機は一生訪れません。親父……呂布は、最期まで諦めなかった。だからこそ、負けてもその名は最強として残った」

 天の声が熱を帯びる。

「あんたは、どうしたいんですか? 曹操の飼い犬として生き延びるか、それとも虎として牙を剥くか。……俺たちが仕えているのは、どっちの孫権ですか!」

 静まり返る広間。

 一介の武将が、君主に対して放つにはあまりに不遜な言葉。

 だが、その言葉は孫権の心の奥底にあった火種に、油を注いだ。

 孫権が立ち上がった。

 その目から迷いが消え、碧い炎が燃え上がっていた。

「……飼い犬になど、なれるものか」

 孫権は腰の剣を抜き放った。

 ジャキンッ!

 その切っ先が、目の前の机の角を切り落とす。

「余の決意は固まった! 曹操と戦う!」

 孫権が叫ぶ。

「これより降伏を口にする者は、この机と同じ運命を辿るものと思え!」

 文官たちが青ざめて平伏する。武官たちが歓声を上げる。

 空気が変わった。

 停滞していた澱(よど)みが消え、戦いへの熱狂が広間を満たしていく。

 天はニヤリと笑い、深く頭を下げた。

「……御意。その言葉、待っていました」

 孔明もまた、扇子で顔を隠しながら満足げに微笑んでいた。

 

 だが、まだ問題は残っていた。

 戦うと決めても、具体的にどう戦うか。そして誰が指揮を執るか。

 孫権軍の最高司令官、大都督の座は空席のままだ。

「周瑜(しゅうゆ)公瑾(こうきん)を呼べ!」

 孫権が命じる。

 周瑜。孫策の代から呉を支え、知勇兼備の天才と謳われる男。現在は鄱陽湖(はようこ)で水軍の調練に当たっている。彼が戻らなければ、呉の全軍を動かすことはできない。

「周瑜殿が戻るまで、数日はかかるでしょう。それまでの間、敵の動きを封じる必要があります」

 魯粛が進言する。

「曹操軍は既に江陵(こうりょう)を落とし、水軍を編成して長江を下る準備を進めています。彼らが態勢を整える前に、先制攻撃を仕掛けるべきかと」

「先制攻撃か。……だが、誰を行かせる?」

 孫権が武官たちを見渡す。

 誰もが目を逸らした。

 八十万の大軍に対し、少数の先遣隊で挑む。それは自殺行為に等しい。

 程普や韓当といった古参将軍たちも、防衛戦ならともかく、敵地への殴り込みには二の足を踏んでいる。

 そんな中、一人の手が挙がった。

 左手だ。

「……俺が行きます」

 天だった。

「天? そちの部隊は、長坂の戦いで消耗しているはずだが」

「へっ、傷は治りかけが一番痒(かゆ)いんですよ」

 天は包帯だらけの右腕を軽く回してみせた。激痛が走るが、顔には出さない。

「それに、俺たちの部隊は『餓狼』だ。飢えたままじゃ寝つきが悪い。曹操軍の先鋒を食いちぎって、奴らの出鼻をくじいてきますよ」

 その言葉に、後ろに控えていた迅(ジン)や断(ダン)たちがニヤリと笑う。

「大将の言う通りだ! 俺たちはまだ暴れ足りねえ!」

「白馬隊も、太史慈様の弔い合戦を望んでおります」

 義(ギ)も静かに、だが力強く同意した。

 孫権は彼らを見つめ、やがて大きく頷いた。

「よかろう。天よ、餓狼隊一千を率いて三江口(さんこうこう)へ向かえ。そこで曹操の水軍を叩き、奴らの侵攻を遅らせろ!」

「承知ッ!」


 その夜。

 餓狼隊は再び船に乗り込み、出撃の準備を進めていた。

 埠頭は慌ただしい。武器の補充、食料の積み込み。仙(セン)は徹夜で傷薬を調合し、律(リツ)は地図と睨めっこをしている。

 天は甲板で、方天画戟を磨いていた。

「……無茶しますね、大将」

 律がため息交じりに近づいてきた。

「三江口は敵の支配領域ど真ん中です。味方の援護は期待できません。文字通りの捨て駒ですよ」

「わかってるさ。だが、ここで俺たちが動かなきゃ、呉はビビって動けねえままだ」

 天は手を止めずに答えた。

「それに、俺には確かめたいことがある」

「確かめたいこと?」

「ああ。……張遼だ」

 天の手が止まる。

「あいつは言った。『次は赤壁で会おう』とな。奴は必ず来る。そして、奴を超えない限り、俺は本当の意味で親父(呂布)の呪縛から逃れられねえ」

 長坂での戦い。

 張遼との一騎打ちは引き分けだった。だが、それは張飛の介入があったからだ。純粋な一対一なら、まだ自分は勝てない。

 技量、経験、そして「将」としての器。全てにおいて張遼は上を行っている。

 だが、方天画戟を手に入れた今なら。

 この魔性の武器を完全に制御できれば、あるいは。

「……勝算は?」

 律が問う。

「ゼロじゃねえ。……お前がいるからな」

 天は律を見て笑った。

「お前の頭脳と、俺たちの腕力。それに、白馬隊の技術と仙のサポート。全部合わせりゃ、奇跡の一つくらい起こせるだろ」

 律は少し驚いた顔をして、それから眼鏡を直した。

「……やれやれ。確率論を無視した作戦立案は、私の流儀に反するのですがね。まあ、乗りかかった船です」

 律は地図を指差した。

「三江口の地形は複雑です。中洲が多く、水流も速い。大型船は動きにくい。……そこを突きましょう。我々は小型の走舸(そうか)を使い、夜陰に乗じて敵陣深くに潜入します」

「火計か?」

「いえ、もっと直接的です。……敵の指揮官を『暗殺』します」

 律の目が冷徹に光った。

「混乱に乗じて敵船に乗り込み、指揮系統を麻痺させる。正規軍にはできない、我々ならではの戦い方です」

「海賊みてぇなマネだな」

 天は楽しげに笑った。

「いいぜ。甘寧仕込みの喧嘩殺法、見せてやろうじゃねえか」


 翌朝。

 餓狼隊を乗せた船団が出港した。

 見送る者は少ない。だが、その中には孔明の姿もあった。

 彼は白い羽扇を振り、静かに天たちを見送っていた。その瞳には、これから起こる激動の未来が映っているようだった。

 天は方天画戟を背負い、舳先に立った。

 風が強い。

 東南の風ではない。まだ、北風だ。

 冷たく、厳しい逆風。

 だが、狼たちは風に向かって走る。

 目指すは三江口。

 赤壁の前哨戦にして、餓狼隊の真価が問われる死地。

 

 そして、その戦場の彼方から、一人の男がこちらへ向かっていた。

 呉の大都督・周瑜公瑾。

 彼との出会いが、天の運命をさらに大きく狂わせていくことになる。

 

 凶星は輝きを増し、赤壁の空を赤く染め上げようとしていた。

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