第13章:龍の影、狼の牙


 長江(ちょうこう)は、巨大な龍の亡骸のようだった。

 赤黒く濁った水面が、鉛色の空を映してうねっている。長坂(ちょうはん)での激戦を生き延びた劉備軍と、それを護衛する餓狼隊(がろうたい)を乗せた船団は、重苦しい沈黙を纏いながら東へと下っていた。

 目指すは夏口(かこう)。そこは孫権(そんけん)の支配領域であり、曹操軍八十万の大軍を迎え撃つための最後の防衛線となる場所だ。

 餓狼隊が乗る安宅船(あたけぶね)の甲板では、異様な緊張感が張り詰めていた。

「……窮屈なもんだな」

 天(テン)は、船べりにドカッと座り込み、不味そうに干し肉を齧りながら呟いた。

 周囲を見渡せば、隣を行く船には劉備軍の兵士たちが満載されている。彼らは皆、傷つき、疲れ果て、泥のように眠っているか、虚ろな目で川面を見つめているだけだ。敗残兵の群れ。国を失い、民を失い、逃げ延びた者たちの絶望が、空気感染するように漂ってくる。

 だが、餓狼隊の船だけは違った。

 そこには、敗北感など微塵もない。むしろ、強敵との死闘を生き延びた興奮と、次なる獲物を求める殺気が渦巻いていた。

「おい迅(ジン)、その傷大丈夫かよ」

「へっ、かすり傷だ。それより見ろよ、さっきの戦いで拾ったこの短剣。曹操軍の将校もいいモン持ってやがる」

 迅たちは奪った武器を品定めし、断(ダン)は大斧の手入れに余念がない。白馬隊(はくばたい)の面々も、静かに弓の弦を張り替えている。

 彼らは知っているのだ。地獄は終わったのではない。これからが本番なのだと。

「大将。曹操軍の追撃部隊、動きが止まりました」

 軍師の律(リツ)が、伝書鳩の脚から筒を外し、報告に来た。

「長坂橋での張飛殿の仁王立ち、そして関羽殿の水軍による牽制が効いたようです。ひとまずは安全圏と言っていいでしょう」

「安全圏、ねえ」

 天は鼻を鳴らした。

「俺にはそうは思えねえがな。……見ろよ、あの視線を」

 天が顎でしゃくった先。隣接して進む劉備軍の大型船の甲板から、突き刺さるような視線が注がれていた。

 関羽雲長(かんううんちょう)。

 長い髭を風になびかせ、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を傍らに立てた軍神が、鷲のような目で餓狼隊を――特に天の背中にある方天画戟(ほうてんがげき)を監視していた。

 敵意ではない。だが、警戒心というにはあまりに鋭利な殺気。

「……完全にマークされてますね」

 律が冷や汗を拭う。

「無理もありません。我々は素性の知れぬ傭兵部隊。しかも、隊長が背負っているのは、かつて彼らを苦しめた最強の敵の武器です。『獣』の臭いを嗅ぎつけられている」

「やりづらいったらありゃしねえ。味方だっつってんだろ」

 天は方天画戟を布で包み直そうとしたが、その時、ドスンという重い音が船全体を揺らした。

 何かが、隣の船から飛び移ってきたのだ。

「よォ! 酒はあるか、若造ども!」

 雷鳴のような大声。

 甲板に降り立ったのは、身の丈八尺を超える巨漢だった。虎のような髭、丸太のような腕。手には空になった酒瓶をぶら下げている。

 張飛翼徳(ちょうひよくとく)。

 長坂橋でたった一人、数万の曹操軍を足止めした怪物だ。

 餓狼隊の兵たちが一斉に武器に手をかける。

「なっ、なんだオッサン! 急に入ってくんじゃねえ!」

 元山賊の部下が叫ぶが、張飛は意に介さない。

「ガハハ! 堅いこと言うな。俺たちの船は酒が切れちまってな。お前らのところには、いい匂いのする酒があるじゃねえか」

 張飛の鼻がヒクついている。甘寧が差し入れた極上の酒の匂いを嗅ぎつけたのだ。

 天は立ち上がった。

「……あいにくだが、これは俺たちの祝い酒だ。部外者に恵んでやる分はねえよ」

「部外者だと? 水臭いこと言うな。戦場で共に血を流せば、それはもう兄弟みたいなもんだろ」

 張飛は図々しくも天の前に歩み寄り、積み上げられた酒樽の一つに手を伸ばした。

「待て」

 天が制止するよりも早く、影が動いた。

 巨漢の魏(ギ)だ。

 彼が無言で張飛の前に立ちはだかり、その巨大な鉄板の盾を地面に叩きつけた。

 ズドンッ!

 通行止めだ、と言わんばかりの威圧感。

 張飛がピタリと足を止める。

「……ほう。デカイな、お前」

 張飛が見上げるほどの巨体。だが、張飛の口元には獰猛な笑みが浮かんでいた。

「だが、邪魔だ。どきな」

 張飛が軽く裏拳を振るった。

 軽く、に見えた。

 ドゴォォォンッ!!

 鉄板にクレーターのような凹みができる。

 衝撃音が大砲のように響き渡り、魏の巨体が数メートル後退させられた。靴底が甲板を削り、木屑が舞う。

「ぐ、ゥゥ……ッ!」

 魏が呻く。痛覚のない彼でさえ、その衝撃の重さに顔をしかめている。

「へぇ、耐えたか。今のを立って受けた奴は久しぶりだぜ」

 張飛が面白そうに拳を鳴らす。

「なら、こいつはどうだ?」

 張飛が踏み込む。今度は本気だ。殺気だけで周囲の空気がビリビリと震える。

 魏が盾を構え直すが、間に合わない。張飛の拳は、盾ごと魏の内臓を破壊する軌道を描いている。

 その拳が届く寸前。

 ヒュンッ!

 横合いから、黒い影が割り込んだ。

 方天画戟の石突きだ。

 天が、魏と張飛の間に戟を突き入れ、張飛の拳を受け止めたのだ。

 ガキンッ!

 金属と骨がぶつかる音とは思えない、硬質な音が響く。

 天の腕に痺れが走る。

(……なんて馬鹿力だ。岩でも殴ってるつもりか?)

 だが、天は一歩も引かなかった。方天画戟の重さを利用し、張飛の拳を押し返す。

「……ウチの隊員を壊すなよ、酔っ払い」

 天が睨みつけると、張飛は目を丸くし、それから腹を抱えて笑い出した。

「ギャハハハハ! いいぞ、いい反応だ! その戟、飾りじゃねえようだな!」

 張飛は拳を引いた。殺気が霧散し、陽気な酔っ払いの顔に戻る。

「悪かったな。ちっと試させてもらった。……兄者が気にしてたんでな。『あれは飼いならされた犬か、それとも野に放たれた狼か』ってよ」

「……で、どっちに見えた?」

「狼だ。それも、とびきり腹を空かせた危険な狼だ」

 張飛はニヤリと笑い、天の肩をバンと叩いた。

「気に入ったぜ。酒は諦めてやる。その代わり、次の戦じゃ俺の背中を守れよ。弱い奴に背中は預けられねえからな」

 張飛はそれだけ言うと、身軽な動作で自分の船へと飛び移っていった。

 嵐が去ったような静寂。

 天は大きく息を吐き、痺れた腕をさすった。

「……化け物め」

 軽く小突かれただけで、骨がきしんでいる。あの張遼ですら、この男を警戒していた理由がわかった気がした。

 理屈ではない。生命としての出力(パワー)が違うのだ。

「大丈夫ですか、大将」

 律が駆け寄ってくる。

「ああ。だが、挨拶代わりにしては重い一発だったな」

 天は魏の盾を見た。分厚い鉄板に、拳の跡がくっきりと残っている。

「……魏、お前もよく耐えたな」

 魏は無言で頷き、ひしゃげた盾を愛おしそうに撫でた。


 その夜。

 船団は長江の中洲に停泊し、休息を取ることになった。

 川風が冷たい。

 天は眠れず、一人で甲板に出ていた。

 方天画戟の手入れをするためだ。今日の張飛との接触で、微かな歪みが生じているかもしれない。父の遺産を、万全の状態にしておきたかった。

 月明かりの下、黙々と刃を磨いていると、どこからか琴の音が聞こえてきた。

 優雅で、しかしどこか寂しげな旋律。

 戦場の血生臭さを洗い流すような、清冽な音色だった。

 音に惹かれ、天は船尾の方へと歩いた。

 そこに、一人の男がいた。

 白い道袍(どうほう)を纏い、綸巾(かんきん)を頭に乗せた長身の青年。手には羽扇を持ち、膝の上に置いた古琴を奏でている。

 その姿は、泥と血にまみれたこの船団の中で、異質なほど清潔で、浮世離れしていた。

 諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)。

 劉備が「三顧の礼」をもって迎えたという、噂の天才軍師だ。

 天が近づくと、男は指を止め、静かに振り返った。

「……眠れませんか、若き将軍」

 声は穏やかだった。だが、その瞳と目が合った瞬間、天は背筋が寒くなるのを感じた。

 見透かされている。

 張飛や関羽の放つ「武の威圧感」とは違う。全てを計算し尽くし、掌の上で踊らせるような「知の威圧感」。

「……アンタの音が、耳についたんでな」

 天は警戒心を隠さずに言った。

 孔明はふわりと微笑んだ。

「それは失礼しました。乱れた気を整えるには、琴の音が良いと思いまして」

 孔明は羽扇で夜空を指した。

「凶星(きょうせい)が出ていますね」

「……凶星?」

「ええ。古来より、戦乱を招き、主を喰らうとされる不吉な星です。……かつて、下邳(かひ)の空にも、あのような星が輝いていました」

 天の心臓が早鐘を打つ。

 下邳。父・呂布が死んだ場所。

 この男は知っている。確信を持って、天の正体を言い当てている。

「……何が言いたい」

 天が低い声で問うと、孔明は静かに答えた。

「星に善悪はありません。ただ、そこに在るだけです。人々がそれをどう呼び、どう恐れるかは、人の心の問題。……貴殿もまた、己の宿命(ほし)に名前をつけるのは、貴殿自身ですよ」

 孔明は立ち上がった。

「呉の孫権殿は、若く聡明な君主ですが、周囲には保守的な老臣も多い。貴殿のような『劇薬』をどう扱うか、悩んでおられることでしょう」

「俺は誰の道具にもならねえよ」

「ほう。では、何のために戦うのですか?」

 孔明の問いに、天は言葉に詰まった。

 父の復讐? 最強の証明? 生き残るため?

 どれも正しいが、どれも核心ではない気がした。

 太史慈の言葉が蘇る。

 ――お前が目指すのは、個の最強か? 国をも動かす将の最強か?

「……今はまだ、わからねえ。だが、俺の道を邪魔する奴は、神だろうが運命だろうが叩き斬る。それだけだ」

 天の答えに、孔明は満足げに頷いた。

「混沌。……それもまた、一つの答えですね。赤壁の炎が、貴殿の道を照らすことを祈っております」

 孔明は一礼し、静かに去っていった。

 残された天は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

(食えねえ野郎だ……)

 武力なら勝てる。だが、あの男を敵に回せば、戦う前に負けるかもしれない。そんな底知れぬ恐怖を感じた。

 龍(劉備軍)には、爪や牙だけでなく、恐ろしい頭脳まで備わっている。


 翌日。

 船団はついに、目的地である樊口(はんこう)に到着した。

 そこには、孫権軍の先遣隊として、一人の男が待ち構えていた。

 穏やかな顔立ちだが、その目は鋭く光っている。呉の軍師・魯粛子敬(ろしゅくしけい)だ。

「お待ちしておりました、玄徳殿」

 魯粛が劉備を出迎える。

 天たち餓狼隊も、その場に整列した。

 魯粛は天を見つけると、少し驚いたような表情を見せた。

「……生きて戻られましたか、天殿。長坂での働き、聞き及んでおりますぞ」

「運が良かっただけだ。……それに、アンタに貸しができたしな」

 天が皮肉っぽく言うと、魯粛は苦笑した。

「ええ、高くつきそうですな。ですが、その借りを返すのはこれからです」

 魯粛は表情を引き締めた。

「これより、柴桑(さいそう)へ向かい、我が主君・孫権と玄徳殿の会談を行います。そこで同盟が成るか、それとも決裂するか……全てが決まります」

 決裂すれば、劉備軍は孤立し、曹操に踏み潰される。呉もまた、単独で曹操と戦うか、降伏するかの二択を迫られる。

 歴史の分水嶺。

「餓狼隊には、引き続き劉備殿の警護、そして……会談の場の『重し』になってもらいます」

「重し?」

「ええ。呉国内にも、降伏論を唱える者が多数います。彼らを黙らせるには、理屈だけでなく、圧倒的な『武の説得力』が必要なのです」

 魯粛は天の背中の方天画戟を見た。

「貴殿のその禍々しい戟が、臆病風に吹かれた者たちの目を覚ます薬になることを期待していますよ」

 天はニヤリと笑った。

「威嚇なら得意分野だ。任せておけ」


 柴桑への道中。

 餓狼隊の船の中で、董(トウ)が天の袖を引いた。

「……ねえ、天」

 彼女は新調した革鎧を身につけ、二丁の包丁を腰に差していた。顔の火傷痕は、仙の薬のおかげか少し赤みが引いている。

「なんだ、腹減ったか?」

「違う。……あの人たち、なんか変」

 董が指差したのは、劉備軍の船だ。

「変って?」

「殺気がないの。負けて逃げてきたはずなのに、誰も諦めてない。……むしろ、希望を持ってるみたいな顔してる」

 董は不思議そうに首を傾げた。

「私がいた闘技場では、負けた奴はみんな死んだ目をしてた。どうして彼らは、あんなに強い目をしているの?」

 天は劉備軍の船を見た。

 確かに、彼らはボロボロだ。傷つき、飢えている。だが、その瞳には光があった。劉備という主君を信じ、必ず勝つと信じている光だ。

「……それが、『将の器』ってやつなのかもしれねえな」

 天は太史慈の言葉を思い出した。

 ――孤独な強さは脆い。真の将軍とは、万の兵の命を背負い、その恐怖すらも力に変えて導く者だ。

 劉備は、それを持っている。

 そして自分は、まだ持っていない。

「董。よく見とけ」

 天は董の頭に手を置いた。

「俺たちがこれから超えなきゃならねえ壁は、ああいう『見えない強さ』を持った連中だ。解体するだけじゃ勝てねえ相手だぞ」

「……わかった。よく見ておく」

 董は素直に頷いた。


 柴桑(さいそう)の城壁が見えてきた。

 呉の拠点。

 そこには、降伏派の筆頭である張昭(ちょうしょう)を始めとする文官たちと、主戦派の周瑜(しゅうゆ)たちが、火花を散らして待ち構えているはずだ。

 そして、その中心にいる孫権は、まだ迷っている。

 戦うか、降伏か。

 天と餓狼隊は、その決断の場へと足を踏み入れる。

 ただの護衛ではない。時代の天秤を傾けるための、一粒の凶星として。

 

 赤壁の戦い、開戦前夜。

 言葉の戦いが、今始まろうとしていた。

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