第12章:再会の刃


 長坂の荒野に、冷たい風が吹き抜けた。

 だが、その風すらも凍りつくような殺気が、戦場の一角を支配していた。

 対峙する二つの影。

 一方は、黒き鎧の魔神、張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)。背後には数千の虎豹騎(こひょうき)を従え、その威圧感は大地をも圧するほど重い。

 対するは、ボロボロの布を纏った少年、天(テン)。背後には新生・餓狼隊(がろうたい)**一千名**。

 白馬隊が加わり倍増したとはいえ、敵は中華最強の騎馬軍団だ。数倍の兵力差。蟻が像に挑むようなものだ。

 だが、天の瞳に絶望の色はない。あるのは、燃え盛るような闘志と、静かな殺意だけだ。

「……生きていたか」

 張遼が、感情のない声で呟いた。

「合肥(がっぴ)で死んだと思っていたぞ。あの腕で、よくぞ地獄から這い上がってきたものだ」

「地獄なんて生温いとこじゃねえよ」

 天は方天画戟(ほうてんがげき)の石突きを地面に突き立てた。

「俺がいたのは、もっと深い底だ。アンタに負けた屈辱と、師匠を守れなかった後悔が渦巻く、泥の底だ」

 天は左手で右腕をさすった。包帯の下には、無数の手術痕が残っている。仙(セン)に縫合され、無理やり繋ぎ合わされた筋肉。痛みは消えない。だが、その痛みが天に生きていることを実感させる。

「だから、礼を言いに来たんだよ。張遼」

 天の口元が歪む。

「あの日の借りを、利子つけて返してやる」

 張遼は鼻を鳴らした。

「口だけは達者になったな。だが、言葉で人は殺せんぞ」

 張遼が鉤鎌刀(こうれんとう)を水平に構える。

「見せてみろ。貴様がこの一年で何を得たのか。太史慈の死が無駄ではなかったという証をな!」

 ドォンッ!

 張遼の馬が地を蹴る。

 速い。

 合肥の時と同じ、目にも止まらぬ突撃。黒い稲妻となって天に迫る。

 だが、天の世界は違って見えた。

 以前は恐怖で縮こまり、ただ速いと感じたその動きが、今ははっきりと「視える」。

 馬の筋肉の収縮。張遼の腕の角度。刃の軌道。

 太史慈との修行、そして地獄の合宿で培った動体視力が、時間を引き伸ばしているのだ。

(……右だ!)

 天は直感した。張遼の狙いは首ではない。心臓だ。

 天は半身になり、方天画戟を盾のように構える。

 ガギィィィンッ!

 激突。

 火花が散り、衝撃波が周囲の草をなぎ倒す。

 天の足が地面にめり込み、数メートル後退させられる。だが、倒れない。

 合肥の時は、この一撃で腕を壊された。

 だが今は、耐えている。

「ぬぅ……ッ!?」

 張遼が驚愕の声を漏らす。

 手応えが違う。ただ受け止めたのではない。戟の月牙(三日月刃)で鉤鎌刀の威力を受け流し、衝撃を地面へと逃がしている。

「へっ……重いな、相変わらず!」

 天が歯を食いしばりながら笑う。

「だが、俺も鍛え直してきたんだよ!」

 天が踏ん張る。右腕の筋肉が悲鳴を上げるが、構わない。

 押し返す。

 じり、じりと、馬上の張遼が後退させられる。

「馬鹿な……歩兵が、騎馬を押し返すだと!?」

 張遼の部下たちがどよめく。

 張遼は舌打ちし、馬をバックさせて距離を取った。

「……小僧。貴様、その戟を……」

「まだ重いぜ。クソ重い」

 天は肩を回した。

「だが、もう『振り回されてる』だけじゃねえ。こいつは俺の相棒だ」

 方天画戟が、主人の言葉に応えるように鈍く光った。

 張遼の目が細められる。

 かつての主君・呂布の姿が、より鮮明に重なる。だが、それは単なる模倣ではない。太史慈の技が加わった、新しい怪物への進化の予兆。

「面白い。……ならば、全力で潰すまで!」

 張遼が闘気を解放する。

 空気が重くなる。本気だ。合肥の時は遊んでいたのだとわかるほどの、圧倒的な殺気。

「総員、突撃! あいつらを轢き殺せ!」

 張遼の号令で、数千の虎豹騎が動き出した。

 黒い津波。

 個の力では勝てても、この数には飲み込まれる。

「来るぞ! 陣形を組め!」

 律の叫び声。

 餓狼隊が動く。だが、以前のようなバラバラな動きではない。

 最前列に、魏(ギ)を中心とした重装歩兵「鉄塊(てっかい)衆」が並ぶ。巨大な鉄盾を隙間なく並べ、即席の城壁を作る。

 その隙間から、断(ダン)率いる「砕牙(さいが)隊」が長柄の斧を突き出す。

「放てッ!」

 後方から、貫(カン)率いる「鉄弓(てっきゅう)隊」と、新たに加わった**白馬隊**の混成部隊が、一斉射撃を行う。

 ヒュルルルル……!

 空を覆う矢の雨。

 白馬隊の精密射撃と、貫の剛弓が織りなす死の弾幕。

 虎豹騎の先頭集団が、次々と馬ごと転倒する。

「なっ、なんだこの矢の勢いは!?」

 敵が怯んだ瞬間。

「今だ! 食いちぎれ!」

 天の号令で、陣形が割れた。

 中から飛び出したのは、迅(ジン)率いる「双牙(そうが)隊」と、董(トウ)だ。

 一千の狼たちが、獲物に襲いかかる。

 ドォォォォン!!

 激突の瞬間、轟音が鳴り響く。

 鉄塊衆の盾がひしゃげ、数人が吹き飛ばされる。だが、魏は一歩も引かない。仁王立ちし、三頭の馬を同時に受け止めていた。

「ぬん゛ん゛ん゛ッ!!」

 魏が咆哮し、盾を押し返す。馬がバランスを崩して転倒する。

 そこへ、迅たちが躍り込む。

「ヒャハハ! 足元がお留守だぜ!」

 迅たちは馬の脚を狙い、次々と騎兵を地面に引きずり下ろす。

 落馬した騎兵には、董が襲いかかる。

 彼女は戦場を舞う蝶のように、軽やかに敵の間をすり抜け、包丁で急所を切り裂いていく。

 乱戦。

 数では圧倒的に不利だが、餓狼隊は崩れない。白馬隊の加入により、遠距離火力と機動力が補強され、完全な有機体として機能しているからだ。

 だが、それも時間の問題だった。

 敵の数が多すぎる。倒しても倒しても、次が湧いてくる。

「くそっ、キリがねえ!」

 断が叫ぶ。斧の刃が欠け、息が上がっている。

 このままでは、すり潰される。

 天は、乱戦の中心で張遼と打ち合いながら、打開策を探していた。

(持久戦じゃ勝ち目はねえ。張遼の首を取るしか……!)

 だが、張遼は強い。隙がない。

 天の攻撃を全て弾き返し、逆に鋭い反撃を繰り出してくる。右腕の痛みが限界に近い。

 その時。

 戦場の彼方から、雷鳴のような怒号が轟いた。

「我こそは燕人(えんじん)・張飛翼徳なり! 死にたい奴からかかって来い!!」

 空気が震えた。

 長坂橋の方角だ。

 その声を聞いた瞬間、虎豹騎の動きが一瞬止まった。馬たちが怯え、いななきを上げる。

 張遼もまた、視線をそちらに向けた。

「張飛……! あのあばれ者め、まだ生きていたか」

 張遼の顔に焦りの色が浮かぶ。

 張飛の覇気は、それだけで軍の士気を挫く力がある。

「好機ッ!」

 天はこの一瞬の隙を見逃さなかった。

 踏み込む。

 方天画戟を、下段から斬り上げる。

 ガキンッ!

 張遼が反応し、鉤鎌刀で受ける。だが、体勢が崩れている。

 天は戟を引き戻さず、そのまま体ごとぶつかった。

 タックル。

 太史慈に教わった、武器に頼らない体術だ。

 ドゴッ!

 天の肩が張遼の胸板にめり込む。

 張遼が落馬した。

 地面に転がる黒き魔神。

 天は戟を振り上げた。トドメを刺す。

 だが、張遼は笑っていた。

「……やるな、小僧」

 張遼の手が動く。

 懐から何かを取り出し、天の顔面に投げつけた。

 砂だ。

 目潰し。

「ぐあッ!?」

 天が視界を奪われる。

 その隙に、張遼は身を翻して立ち上がり、予備の馬に飛び乗った。

「卑怯だぞ、張遼!」

 天が叫ぶ。

「戦場に卑怯もクソもない。勝つか負けるかだ」

 張遼は冷然と言い放った。

「今日はここまでにしておいてやる。張飛が出てきたとなれば、長居は無用だ」

 張遼は手綱を返した。

「撤退だ! 全軍、引け!」

 虎豹騎たちが、潮が引くように去っていく。

 彼らは理解しているのだ。張飛という規格外の怪物が待ち構える橋を無理に突破すれば、被害が甚大になることを。

 遠ざかる張遼の背中を、天は睨みつけた。

「逃げるのか! 決着をつけろ!」

「フッ……焦るな。我らの因縁は、こんな所では終わらんよ」

 張遼の声が風に乗って届く。

「次は赤壁で会おう。その時こそ、貴様の首を貰う」

 黒い軍団が砂塵の向こうに消えていく。

 静寂が戻った戦場に、天は膝をついた。

「……くそッ」

 悔しさが込み上げる。

 勝てなかった。いや、生き残っただけで奇跡だ。だが、それでは足りない。

 父の仇を討つには、まだ力が足りない。

「大将! 大丈夫か!」

 律や仙たちが駆け寄ってくる。

「ああ……なんとかな。みんな無事か?」

「重傷者多数ですが、全滅は免れました。白馬隊の援護射撃が効きましたね」

 仙が安堵のため息をつく。

 天は立ち上がり、汚れた顔を拭った。

「行くぞ。劉備軍と合流する」

 戦いはまだ終わっていない。むしろ、ここからが本番だ。


 その夜。

 餓狼隊は、ようやく劉備軍の本隊と合流を果たした。

 漢津(かんしん)の港。そこには、関羽率いる水軍が到着し、敗走してきた劉備たちを収容していた。

 天は、劉備との謁見を許された。

 仮設の陣幕の中。

 そこにいたのは、想像していたような英雄の姿ではなかった。

 泥にまみれ、疲れ果てた中年男。目が細く、手足が長い。どこにでもいそうな、頼りない風貌の男だった。

 劉備玄徳。

 だが、その周囲を固める男たちは、まさに伝説の具現化だった。

 先ほど橋で大喝した張飛。

 単騎駆けを見せた趙雲。

 そして、長い髭を蓄えた巨漢――関羽雲長(かんううんちょう)。

 三人の豪傑に囲まれながら、劉備はただ静かに微笑んでいた。その笑顔には、どんな絶望的な状況でも人を安心させる、不思議な温かみがあった。

「……貴殿が、呉からの援軍か」

 劉備の声は優しかった。

「天と申します。孫権様の命により、護衛に参りました」

 天は片膝をつき、頭を下げた。

 内心では「こいつが父を裏切った男か」という憎しみが燻っている。だが、今はそれを押し殺す。呉の使者としての役割を果たさなければならない。

「感謝する。貴殿らの奮戦のおかげで、多くの民が逃げ延びることができたと聞いている」

 劉備は深く頭を下げた。一国の主とは思えないほど、腰が低い。

「……礼には及びません。俺たちはただ、暴れたかっただけですから」

 天がそっけなく答えると、張飛が豪快に笑った。

「ガハハ! いい度胸だ。気に入ったぜ小僧!」

 張飛が天の背中をバンと叩く。骨が砕けそうな威力だ。

「だがよ、お前から変な臭いがするな」

 張飛の目が、すっと細められた。

「血の臭いだ。それも、ただの血じゃねえ。……『獣』の臭いだ」

 場の空気が凍りつく。

 関羽が、鋭い視線を天に投げかけた。

「……その背中の戟。見覚えがあるぞ」

 関羽の目は、天の背負う方天画戟に釘付けになっていた。

 中華でただ一つ。異形の魔戟。それを知らぬ武人はいない。

「貴様、何者だ。なぜ呂布の方天画戟を持っている」

 関羽の手が、愛刀・青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)に伸びる。

 殺気。

 張遼の比ではない。神の怒りに触れたかのような、圧倒的なプレッシャーが天を押し潰そうとする。

 天は冷や汗を流しながらも、目を逸らさずに答えた。

「……拾ったんですよ。戦場でな」

 嘘だ。バレているかもしれない。

 だが、ここで呂布の名を出せば、どうなるかわからない。今はまだ、彼らと戦う時ではない。

 関羽はしばらく天を睨みつけていたが、やがてフンと鼻を鳴らして刀から手を離した。

「……拾った、か。まあよい。使い手が誰であれ、武器に罪はない」

 関羽は興味を失ったように顔を背けた。

 天は安堵の息を漏らしかけたが、劉備が静かに口を開いた。

「天殿。……貴殿の瞳、どこかで見たことがあるな」

 劉備の瞳。それは全てを見透かしたような、深く澄んだ色をしていた。

「……気のせいでしょう」

 天は目を伏せた。

 この男は知っている。俺が誰の息子か。気づいていながら、あえて言わないのだ。

 底知れない。

 父・呂布とは対極にある、「柔」の強さ。それが劉備という男の本質なのだと、天は直感した。

「……我らと共に、呉まで同行願いたい。貴殿の力、頼りにしている」

 劉備は再び微笑んだ。

「御意」

 天は短く答え、陣幕を出た。

 外の空気は冷たかった。星空の下、天は大きく息を吐いた。

(厄介な連中だぜ)

 龍と虎、そして狼が入り乱れる戦場。

 赤壁の戦いまで、あとわずか。

 天と餓狼隊は、歴史の激流に飲み込まれようとしていた。

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