第11章:濁流の彼方へ
長江(ちょうこう)は、巨大な龍の背のようだった。
黄土を溶かし込んだ濁流が、うねりを上げて西から東へと流れている。その広大な水面を、数十隻の軍船が遡上していた。
マストには、孫呉の旗印。そしてその下に、口を開けた狼を描いた異様な旗が翻っている。
新生・餓狼隊(がろうたい)である。
船団の中央を行く旗艦の甲板で、天(テン)は手すりに寄りかかり、川面を見つめていた。湿った風が頬を撫でる。その風には、微かだが焦げ臭い匂いが混じっていた。
「……臭うな」
天が呟くと、隣に控えていた律(リツ)が地図から顔を上げた。
「ええ。風上、つまり我々が向かっている夏口(かこう)方面から、煙の臭いがします。曹操軍の先鋒は、予想以上に深く入り込んでいるようですね」
「八十万の大軍だ。通り過ぎるだけで草木も残らねえだろうよ」
天は背負った包み――方天画戟(ほうてんがげき)の位置を直した。相変わらず重い。船の揺れに合わせて重心を取るだけでも、全身の筋肉が軋む。だが、この重さが今は心地よかった。生きている実感と、これから訪れる死闘への予感がない交ぜになり、血が騒ぐ。
甲板には、奇妙な光景が広がっていた。
泥と汗にまみれた餓狼隊の古参兵たちと、手入れの行き届いた銀の鎧を纏った白馬隊(はくばたい)の兵士たちが、互いに距離を取りながらも同じ空間に同居しているのだ。
酒を飲んで騒ぐ断(ダン)たちの横で、白馬隊の兵士たちは黙々と弓の手入れをしている。水と油。だが、敵意はない。先日の黒龍砦での「力比べ」を経て、互いに実力を認め合っているからだ。
「……落ち着きませんね」
声をかけてきたのは、白馬隊を率いる義(ギ)だった。彼は整った顔を歪め、行儀の悪い男たちを見回している。
「将軍。……いや、隊長とお呼びすべきか。本当に、この無秩序な集団で戦になるのですか? 正規軍の規律とは程遠い」
義はまだ、天のことを「隊長」と呼ぶことに抵抗があるようだった。
天はニカッと笑った。
「規律なんざ、犬にでも食わせておけ。戦場で必要なのは二つだけだ。『死なないこと』と『殺すこと』。それ以外は飾りに過ぎねえ」
「しかし、統率が取れなければ……」
「統率なら取れてるさ。見ろ」
天が顎でしゃくった先では、迅(ジン)が白馬隊の一人に話しかけていた。
「おい、お前らの馬、脚の運びが綺麗だな。どうやりゃあんなに音を消して走れるんだ?」
「……重心移動だ。手綱ではなく、膝で合図を送る。貴様のような雑な乗り方では、馬がすぐにバテるぞ」
「へぇ、なるほどな。じゃあ今度教えてくれよ。代わりに、ナイフで喉を掻っ切るコツを教えてやる」
技術の交流。
教えを乞う迅の態度は真剣であり、教える白馬隊員も満更でもなさそうだ。
「あいつらは強くなりたがってる。貪欲にな。お前らもそうだろ? 太史慈将軍が死んで、悔しくてたまらねえはずだ」
天の言葉に、義が押し黙る。
「復讐したいなら、強くなるしかねえ。綺麗事もプライドも捨てて、泥を啜ってでも生き残る。それが俺たちの流儀だ」
天は義の肩を叩いた。
「慣れろよ、副長。これから見る景色は、もっと酷いぞ」
数日後。
船団は夏口の港に到着した。
そこは、既に戦場の空気に包まれていた。港には傷ついた兵士や避難民が溢れかえり、物資の搬入と搬出でごった返している。
上陸した餓狼隊は、その異様な風体で周囲の注目を集めた。
ボロボロの装備を纏った野獣のような男たちと、美しい白馬に跨った銀鎧の騎兵たち。その不均衡な組み合わせは、見る者に不安と期待を同時に抱かせた。
「ここが最前線か」
天は大きく息を吸い込んだ。
血と、排泄物と、腐敗の臭い。戦場の臭いだ。
「報告によれば、劉備軍は既に新野(しんや)を放棄し、民衆を引き連れて南下中。曹操軍の精鋭騎兵『虎豹騎(こひょうき)』がそれを追撃しています」
律が早口で状況を説明する。
「我々の任務は、長坂(ちょうはん)付近で劉備軍と接触し、彼らをこの夏口まで護衛すること。……ですが」
「ですが、なんだ?」
「間に合うかどうか。虎豹騎の行軍速度は異常です。一日三百里(約百二十キロ)を駆けるとも言われています。民衆を連れた劉備軍の足では、追いつかれるのは時間の問題でしょう」
一日三百里。
それは、馬を乗り潰してでも進む、狂気の強行軍だ。
「急ぐぞ。遅れれば、護衛対象が全滅してるかもしれねえ」
天は方天画戟を担ぎ上げた。
「白馬隊は先行して偵察! 双牙(そうが)隊と砕牙(さいが)隊は側面を固めろ! 鉄弓(てっきゅう)隊は俺の周りだ! 走るぞ!」
「応ッ!!」
一千の兵が動き出す。
目指すは北西、長坂の荒野。
道中、彼らが目にしたのは、地獄の予兆だった。
街道は、北から逃れてきた難民で埋め尽くされていた。家財道具を背負った老人、泣き叫ぶ子供の手を引く母親、怪我をして動けなくなった若者。
数万、いや十数万の群衆が、終わりのない列をなして南へ向かっている。
「どいてくれ! 通してくれ!」
餓狼隊の兵士たちが叫ぶが、恐怖に駆られた民衆はパニック状態で、道を開けようとしない。
「チッ、邪魔だ!」
断が大斧の柄で地面を叩き、威嚇する。
「おい、乱暴にするな」
天が制した。
「こいつらは敵じゃねえ。ただの餌だ」
「餌?」
「曹操軍にとってのな。……劉備って奴は、とんだ偽善者だぜ。こんな大量の民衆を連れて逃げれば、行軍が遅れるのは目に見えてる。結果として、兵も民も共倒れだ」
天は冷ややかに言い放った。
父・呂布ならば、迷わず民衆を見捨て、軍の機動力だけを活かして撤退しただろう。それが戦の理だ。
だが、劉備はそれを選ばなかった。
それが「仁」なのか、それとも「愚かさ」なのか。天には理解できなかった。
「隊長! 前方より敵影!」
先行していた義が、馬を飛ばして戻ってきた。その表情は硬い。
「曹操軍の斥候部隊です! 数は百騎ほどですが、足が速い! こちらの存在に気づいて、本隊へ報告に戻ろうとしています!」
「報告されたら面倒だ。虎豹騎の本隊を呼び込まれる」
天は瞬時に判断した。
「逃がすな。食うぞ」
天の瞳に、獰猛な光が宿る。
「白馬隊、出番だ。お前らの弓で、奴らの足を止めろ」
「御意!」
義が手綱を返す。
「白馬隊、散開! 鶴翼の陣で包囲し、退路を断て!」
五百の白馬が一斉に駆け出した。その動きは流れる水のように美しく、かつ迅速だった。
荒野の向こうに、黒い鎧の騎兵たちが見える。曹操軍の軽騎兵だ。彼らは餓狼隊の数を見て、即座に反転し、北へ逃れようとしていた。
だが、白馬隊の足の方が速い。
太史慈が鍛え上げた馬術は、不整地でも速度を落とさない。
「放てッ!」
義の号令と共に、走りながらの一斉射撃。
ヒュルルルル……!
数百本の矢が、放物線を描いて曹操軍の頭上に降り注ぐ。
ドサッ、ドサッ。
最後尾の騎兵たちが次々と射倒される。
だが、敵も精鋭だ。即座に盾を背負い、馬体を伏せて矢を回避する。
「しぶといな。……貫、やれるか?」
天が振り返る。
貫は既に、身の丈ほどの長弓を引き絞っていた。
「距離四百歩。……動いてる的だが、背中はガラ空きだぜ」
ギリリリ……。
弦が悲鳴を上げる。
ドォン!
発射音と共に、太い矢が空気を引き裂いた。
遥か彼方、敵の部隊長らしき男の背中に、矢が深々と突き刺さる。鎧ごと貫通し、男は前のめりに落馬した。
「大将が落ちたぞ! 今だ、畳み掛けろ!」
天が吼える。
指揮官を失い、混乱する敵部隊に、迅率いる双牙隊が襲いかかる。
彼らは馬には乗っていない。だが、その足の速さは獣並みだ。雑草に紛れ、岩陰を走り、敵の懐へと潜り込む。
「ヒャハハッ! 首置いてけ!」
迅が跳躍し、すれ違いざまに騎兵の喉を掻っ切る。
落馬した兵士には、後続の砕牙隊が襲いかかる。断の大斧が唸りを上げ、人と馬をまとめて粉砕する。
一方的な狩りだった。
個の力と、集団の連携。一ヶ月前の「地獄の合宿」の成果が、如実に表れていた。
白馬隊が外周を固めて逃げ場を塞ぎ、貫が遠距離から狙撃し、迅と断が内部を食い荒らす。
完璧な包囲殲滅。
わずか数分で、曹操軍の斥候部隊は全滅した。一兵たりとも逃さなかった。
「……見事だな」
義が戻ってきて、感嘆のため息を漏らした。
「これほど乱暴で、しかし理に適った戦い方は見たことがない。太史慈様の戦術とは真逆だが、威力は絶大だ」
「だろ? 綺麗に勝つ必要なんてねえんだよ」
天は方天画戟の石突きで地面を叩いた。
勝利の余韻。だが、天の顔色は晴れなかった。
殺した敵兵の鎧。その意匠に見覚えがあったからだ。
「……こいつら、ただの斥候じゃねえ」
天は死体を足先で転がした。
「装備が良すぎる。それに、馬も最上級だ。……こいつらは虎豹騎の『先触れ』だ」
律が青ざめた顔で頷く。
「つまり、本隊はすぐそこまで来ているということです。おそらく、あと半刻(約一時間)もしないうちに」
ズズズズズ……。
その言葉を裏付けるように、北の地平線から、低く、重い音が響き始めた。
先ほどの斥候部隊の蹄音とは比較にならない。
大地そのものが震えているような、圧倒的な質量の接近。
空が黒い雲に覆われていく。いや、雲ではない。数万の軍勢が巻き上げる砂塵だ。
「来たな」
天は方天画戟を構え直した。
その重みが、腕に食い込む。まだ、完全に自在には振るえない。だが、やるしかない。
「総員、戦闘配置! 民衆を壁にするな、逆に利用して敵を分断しろ!」
天の檄が飛ぶ。
その時、避難民の波の向こうから、一団の軍勢が現れた。
ボロボロの旗。疲れ果てた兵士たち。
劉備軍だ。
彼らは曹操軍の追撃を受けながら、必死に民衆を守ろうとしていた。
だが、多勢に無勢。陣形は寸断され、崩壊寸前だ。
「助けてくれ! 誰か!」
「おっかあ! おっかあぁぁッ!」
悲鳴が交錯する中、一人の武将が踏み止まり、殿(しんがり)を務めているのが見えた。
白銀の鎧。白馬。
手には銀の槍。
趙雲子龍(ちょううんしりゅう)。
彼は単騎で敵中に飛び込み、鬼神の如き槍さばきで敵をなぎ倒していた。だが、その背中には大きな荷物がくくりつけられている。赤ん坊だ。主君の息子を守りながら戦っているのだ。
「……あいつか」
天の目が釘付けになった。
美しい。
無駄のない動き。死地にあってなお澄み渡った気配。父・呂布の「剛」とは違う、「柔」と「速」の極致。
だが、限界が近い。
趙雲の周囲を、数百の曹操軍が取り囲もうとしている。
「……チッ、見てらんねえな」
天は舌打ちをした。
劉備は嫌いだ。だが、あんな凄腕の武人が、雑魚に押し潰されて死ぬのは我慢ならない。それは武への冒涜だ。
「おい、迅! 貫! あそこへ行くぞ!」
「へいへい、人助けですか。柄じゃねえな」
迅が軽口を叩きながらも続く。
天は方天画戟を構え、趙雲の包囲網の一角へと突っ込んだ。
「どけェッ! 雑魚ども!」
ドォォォォンッ!
天の一撃が、五人の騎兵を吹き飛ばす。方天画戟の重量が生み出す衝撃波が、包囲網に風穴を開けた。
趙雲が驚いたようにこちらを見た。
「何者だ……!?」
端正な顔立ち。血と汗にまみれているが、その瞳は宝石のように澄んでいる。
「通りすがりの狼だ。……礼はいらねえから、さっさと行け!」
天は叫びながら、さらに踏み込む。
戟を旋回させる。月牙が敵の槍を絡め取り、へし折る。
その隙に、迅が敵将の馬の足を斬る。貫の矢が、遠距離から指揮官の目を射抜く。
一瞬の混乱。
趙雲はその機を逃さなかった。
「かたじけない!」
趙雲は白馬に鞭を入れ、天が開けた血路を突破した。
風のように去っていく白銀の背中。
その速さに、天は見惚れた。
(いつか、あいつともやり合ってみたいな)
だが、感傷に浸っている暇はない。趙雲を逃した曹操軍の怒りの矛先が、今度は天たちに向いたからだ。
地平線を埋め尽くす黒い騎兵の波。
その先頭に、異様な威圧感を放つ一人の武将の姿があった。
黒い鎧。長大な鉤鎌刀。
天の古傷――右腕が疼いた。
張遼。
合肥で天を子供扱いし、太史慈を殺した男。
運命の再会は、予想よりも早く、そして最悪のタイミングで訪れた。
「……また会ったな、小僧」
張遼の声が、戦場の騒音を突き抜けて届いた。
その目は笑っていない。ただ、獲物を見つけた狩人の目だった。
「呂布の遺児。ここで引導を渡してやる」
張遼が鉤鎌刀を掲げる。
数千の虎豹騎が、一斉に天たちに向かって突撃態勢に入った。
絶体絶命。
だが、天は笑った。
方天画戟を構え、真正面から張遼を睨み返す。
「やってみろよ、亡霊。……今の俺は、合肥の時とは違うぜ」
天の全身から、赤黒い闘気が立ち昇る。
長坂の戦い。
歴史に残る大激戦の幕が、今切って落とされた。
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