第10章:継承される銀の矢
黒龍砦(こくりゅうさい)の陥落から数日後。
餓狼隊(がろうたい)は、占領した砦を臨時の拠点としていた。
難攻不落と呼ばれた要塞も、今や彼らの遊び場と化している。中庭では戦勝の宴が続き、奪い取った酒と肉が振る舞われていた。
だが、その喧騒を切り裂くように、見張り台から角笛が鳴り響いた。
「敵襲か!?」
迅(ジン)が双剣を抜いて立ち上がる。
だが、見張りの兵が叫んだ言葉は意外なものだった。
「ち、違います! 味方です! 呉の旗を掲げています!」
「味方?」
天(テン)が眉をひそめる。正規軍の増援にしては早すぎる。それに、補給部隊が来るような道でもない。
城門が開かれると、土煙を上げて一団が入城してきた。
その光景に、餓狼隊の男たちがどよめいた。
全員が白馬に跨り、磨き抜かれた銀色の鎧を身につけている。一糸乱れぬ隊列、洗練された所作。泥と血にまみれた餓狼隊とは対極にある、美しい軍団だった。
その数、およそ五百騎。
太史慈(たいしじ)が生前、手塩にかけて育て上げた精鋭中の精鋭――「白馬(はくば)隊」である。
「……なんで、エリート様がこんな掃き溜めに来るんだよ」
貫(カン)が不快そうに唾を吐く。
白馬隊は広場でピタリと止まり、先頭の一騎が進み出た。
兜を脱いだその顔は、端正だが神経質そうな若者だった。名を義(ギ)という。太史慈の副官を務めていた男だ。
義は馬上から、砦の中を見回した。
転がる酒樽、下品な笑い声を上げる男たち、そして中央で方天画戟(ほうてんがげき)を枕に寝転がる天。
その光景に、義の眉間に深い皺が刻まれた。
「……ここが、黒龍砦を落とした英雄の姿か。まるで盗賊の巣窟だな」
その一言に、餓狼隊の空気が凍りついた。
「ああん? 何だとテメェ!」
「降りてこいよ、その綺麗な鎧を血で染めてやるぜ!」
一触即発の空気の中、天がゆっくりと起き上がった。
「太史慈将軍の遺児たちが、何の用だ。墓参りなら建業だぞ」
「……勘違いするな」
義は唇を噛み締めた。屈辱に耐えるように。
「我々は、太史慈様の遺言により参った」
「遺言?」
「『我が死後は、天の下につけ。あやつこそが、我が武を継ぐ者なり』……と」
義の声は震えていた。
彼らにとって、太史慈は絶対的な英雄であり、父親のような存在だった。その主君が、なぜこのような素性の知れぬ少年、しかも裏切り者・呂布の息子を後継者に指名したのか。それが理解できず、納得もできていないのだ。
「冗談ではない! 我ら白馬隊は呉軍最強の騎射部隊だ! 貴様のようなならず者の下になど……!」
義の後ろにいる兵士たちも、同意するようにざわめく。
天はため息をついた。
「……面倒くせえな。嫌なら帰れよ。俺も、お前らみたいな上品なお坊ちゃんたちは使いにくい」
「なっ……!?」
「だが」
天は方天画戟を片手で持ち上げ、地面に突き立てた。
ズドンッ!
地面が揺れる。その音だけで、白馬隊の馬たちが怯えて後ずさった。
「師匠の遺言を無視して帰るようなら、二度とその面を見せるな。太史慈の名折れだ」
その言葉が、義のプライドに火をつけた。
義は馬から飛び降り、腰の剣を抜いた。
「貴様……! 我らを愚弄するか! ならば力で示せ! 貴様が本当に、将軍の後継者に相応しいかどうかを!」
「力比べか。いいぜ、わかりやすくて」
天は戟を手放し、素手のまま前に出た。
「ルールは簡単だ。お前ら五百騎全員で、俺一人を捕まえてみろ。もし俺に傷一つでもつけられたら、お前らの勝ちだ。大人しく消えてやる」
「は……? 一人で、我ら五百を相手にするだと?」
「耳が遠いのか? かかってこいと言ってるんだ。……それとも、怖じ気づいたか?」
天は挑発的に手招きした。
義は顔を真っ赤にして叫んだ。
「舐めるな! 総員、構えろ! 殺す気でいけ!」
白馬隊が一斉に弓を構える。
距離は五十歩。この距離なら、彼らの矢は百発百中だ。
砦の広場が、処刑場へと変わる。
餓狼隊の連中は、ニヤニヤしながら見物している。彼らは知っているのだ。自分たちの大将が、どれだけデタラメな強さを持っているかを。
「始めッ!」
義の号令と同時に、五百本の矢が放たれた。
空を覆う銀色の矢の雨。逃げ場はない。
だが、次の瞬間、天の姿はそこになかった。
ドッ!
爆発的な踏み込み。
天は矢の雨の下を潜り抜け、疾風のごとく白馬隊の中へ飛び込んでいた。
「なッ……速い!」
義が叫ぶ。
天は馬の腹の下をスライディングで抜け、次々と位置を変える。
騎兵たちは混乱した。味方が密集しすぎていて、うかつに矢を放てない。
「どうした! 太史慈の騎射はそんなもんか!」
天の声が、四方八方から響く。
彼は攻撃をしていない。ただ避けているだけだ。だが、その回避行動自体が、敵を翻弄する武器になっていた。
馬の背に飛び乗り、兵士の肩を足場にして跳躍する。まるで曲芸だ。
これは、かつて太史慈との修行で天が叩き込まれた動きそのものだった。「戦場の弓とは、敵の心を射抜くものだ」。逆に言えば、心が乱れた敵の矢など、止まって見える。
「くそっ、囲め! 動きを止めろ!」
義が指示を出すが、天の動きは変幻自在で捉えきれない。
やがて、天は義の馬の背後に着地した。
「……終わりだ」
冷たい刃の感触が、義の首筋に当てられた。
天が、義の腰から予備の短剣を抜き取り、突きつけていたのだ。
静まり返る砦。
五百対一。その圧倒的な不利を覆し、大将の首を取った。
「……殺せ」
義は目を閉じた。敗北の屈辱。太史慈の顔に泥を塗ったという絶望。
だが、首筋の刃が離れた。
天は剣を鞘に戻し、義の肩をポンと叩いた。
「悪くなかったぜ。お前らの連携、さすがは師匠仕込みだ。ただ、ちっとばかし『綺麗すぎ』たな」
「……綺麗?」
「戦場は泥沼だ。綺麗に整列してちゃ、泥に足を取られて死ぬだけだ」
天は自分の部下たちを指差した。
餓狼隊の連中は、酒を飲みながらゲラゲラと笑っていた。
「見ろよ、あいつらを。泥だらけで、傷だらけで、品性のかけらもねえ。だが、黒龍砦を落としたのはあいつらだ」
天は義に手を差し出した。
「お前らには技術がある。俺たちには根性がある。……混ざり合えば、もっと強くなれると思わねえか?」
義は呆然と天を見上げた。
この少年は、勝敗になどこだわっていない。ただ純粋に、強さを求めている。その姿に、かつての太史慈の面影が重なった。
太史慈もまた、身分や形式にとらわれず、実力ある者を愛した武人だった。
「……完敗だ」
義は天の手を握り返した。
「我ら白馬隊、本日より貴殿の指揮下に入る。……その汚い背中、預からせてもらうぞ」
「へっ、生意気な口ききやがる」
天はニカッと笑った。
こうして、餓狼隊に強力な戦力が加わった。
迅や貫といった「個」の強さに、白馬隊という「集団」の強さが融合する。
砦での祝勝会は、そのまま「歓迎会兼・地獄の訓練開始式」へと変わった。
天の指揮の下、彼らは互いの技術を教え合い、競い合いながら、急速に進化していった。
迅は白馬隊から乗馬技術を学び、白馬隊は貫から長距離狙撃のコツを盗む。
最初は反目し合っていた「エリート」と「野良犬」たちが、汗と泥の中で混ざり合い、一つの強大な群れとなっていく。
数日後。
砦に、再び伝令が駆け込んできた。
今度は、孫権からの勅命だ。
「夏口(かこう)へ向かえ。劉備軍を護衛せよ」
天は、整列した一千名の兵士たちを見渡し、方天画戟を高く掲げた。
その切っ先は、西の空を指している。
「準備はいいか、野郎ども! 俺たちの牙を、世界に見せつけてやろうぜ!」
「おおおおおッ!」
轟く雄叫び。
それは、獲物を見つけた狼の遠吠えだった。
時は建安十三年。
歴史の巨大な転換点、赤壁の戦いへと続く道が、今ここに開かれた。
天と新生・餓狼隊は、その奔流の中心へと飛び込んでいく。
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