第9章:黒き龍の喉元


 長江の支流が合流し、激流となって渦巻く難所。切り立った断崖絶壁の上に、その砦はそびえ立っていた。

 黒龍砦(こくりゅうさい)。

 天然の要害を利用して築かれた河賊・郭石(かくせき)の根城である。正面は急流に阻まれ、背面は垂直に近い岩壁。唯一の進入路である一本道には堅固な門と櫓(やぐら)が幾重にも設けられている。正規軍が何度攻め寄せても、上からの矢の雨と落石によって屍の山を築くだけに終わった、不落の魔窟だ。

 建安十二年、初夏。

 じっとりと汗ばむような湿気を含んだ風が、峡谷を吹き抜けていく。

 砦の正門前、射程距離ギリギリの安全圏に、餓狼隊(がろうたい)五百名が布陣していた。彼らに正規軍のような整然とした隊列はない。思い思いの場所に座り込み、獲物を狙う猛獣のように殺気を漂わせている。

「……なるほど。こいつは確かに、正規軍のお偉方じゃ手が出せないわけですね」

 軍師の律(リツ)が、手元の地図と眼前の砦を見比べながら呟いた。

「水軍で攻めれば急流に船を操作されず的になるだけ。陸路は狭すぎて大軍を展開できない。いわゆる『一夫、関に当たれば万夫も開くなし』の地形です」

「御託はいい。どうやって殺す?」

 天(テン)が、背負った包みを地面に突き立てた。方天画戟(ほうてんがげき)だ。その重みで地面がわずかに陥没する。

 律は眼鏡を押し上げた。

「策は三つあります。一つ、兵糧攻め。二つ、夜間の奇襲。三つ、正面突破」

「三つ目だ」

 天は即答した。

「俺たちの初陣だぞ。コソコソやってちゃ名前が売れねえ。派手にぶちかまして、敵のド肝を抜いてやるんだ」

 律は「やはりそうですか」と肩をすくめたが、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。

「了解です。では、プランC『地獄の正面玄関叩き割り作戦』で行きましょう。……貫(カン)、準備は?」

「おうよ」

 長身の男、貫が立ち上がった。彼の背丈ほどもある巨大な長弓を手にしている。

「距離は三百歩(約四百メートル)。普通の弓じゃ届かねえが、俺の『鉄弓』なら鼻歌交じりだ」

「標的は櫓の上の見張り番。そして指揮官クラス。敵の目を潰してください」

「任せな」

 貫が前に出る。

 砦の櫓の上では、河賊たちが下を見下ろして嘲笑っていた。

「おい見ろよ! また官軍の阿呆どもが来やがったぞ!」

「あんな少数で何ができるんだ? 自殺志願者か?」

「矢をくれてやれ! 針鼠にしてやる!」

 賊の一人が弓を構える。だが、距離が遠すぎる。放たれた矢は、天たちの遥か手前で力なく地面に突き刺さった。

「ギャハハ! 届かねえよバーカ!」

 賊たちが腹を抱えて笑う。彼らにとって、ここは絶対安全圏なのだ。

 貫は無言で矢を番(つが)えた。

 その矢は、通常の矢よりも太く、長い。鏃(やじり)は鋼鉄製で、重い。

 ギリリリリ……。

 弦が悲鳴を上げるほど引き絞られる。貫の上腕二頭筋が膨れ上がり、血管が浮き出る。

 風を読む。湿気を読む。

 呼吸が止まる。

「……落ちろ」

 ドォンッ!

 弦音というよりは、爆発音に近い音が響いた。

 矢が空気を切り裂き、見えない弾丸となって飛翔する。

 櫓の上で笑っていた賊の頭が、突如として弾け飛んだ。

「え……?」

 隣にいた賊が、顔に温かい液体を浴びて呆然とする。

 次の瞬間、彼の胸にも太い矢が生えていた。衝撃で体が後方へ吹き飛び、櫓から落下していく。

「な、なんだ!? 何が起きた!?」

 砦の中がパニックになる。

 三百歩の距離からの狙撃など、彼らの常識にはない。

 だが、貫の手は止まらない。

 二の矢、三の矢。

 次々と放たれる剛弓が、櫓の上の兵を正確に射抜いていく。木の盾ごと貫通し、二人まとめて串刺しにする威力。

「化け物だ! あいつら、普通の弓じゃねえ!」

 賊たちが悲鳴を上げて隠れる。

 敵の「目」が潰れた。

「よし、今だ! 前衛、進め!」

 天が号令をかける。

 ズシン、ズシン。

 重厚な足音と共に、巨漢の魏(ギ)が歩き出した。

 彼が持つのは、攻城兵器の残骸から剥ぎ取った巨大な鉄板だ。厚さ数センチ、重さは二百キロを超えるそれを、盾として構えている。

 その後ろに、断(ダン)率いる「砕牙(さいが)隊」の斧使いたちが続く。

「撃て! 撃てぇッ! 近づけるな!」

 砦の指揮官が叫ぶ。

 城壁の隙間から、無数の矢が雨あられと降り注ぐ。

 だが、魏は止まらない。

 カンカンカンカンッ!

 激しい金属音が響き渡る。矢は鉄板に弾かれ、あるいは突き刺さるが、貫通することはない。

 魏の足が地面にめり込む。二百キロの盾に、さらに無数の矢の運動エネルギーが加わる。普通の人間なら腕が折れる衝撃だ。だが、痛覚を持たない魏にとって、それはただの「重み」でしかなかった。

「うおおおおッ! 魏の旦那の背中、最高だぜぇ!」

 盾の裏で、断が狂喜する。

 絶対的な安全地帯。移動する要塞。

 魏がじりじりと距離を詰め、ついに城門の前まで到達した。

「くそっ、岩だ! 岩を落とせ!」

 賊たちが城壁の上から、抱えきれないほどの岩石を落とす。

 ドゴォォォン!

 岩が鉄板を直撃する。魏の膝がガクンと折れかける。鉄板がひしゃげる。

 だが、倒れない。

「……ん゛ん゛ん゛ッ!」

 魏が唸り声を上げ、脚力だけで岩の衝撃を受け流した。

 その隙を、天は見逃さなかった。

「迅(ジン)、董(トウ)! 行けッ!」

「あいよッ!」

「……了解」

 魏の背後から、二つの影が飛び出した。

 迅と董だ。

 彼らは城門に向かうのではなく、左右の岩壁に向かって走った。

 そこは、ほぼ垂直に切り立った断崖だ。人間が登れる場所ではない。だからこそ、賊たちも守りを固めていない。

 だが、彼らは人間ではなかった。

 迅が短剣を岩の隙間に突き刺し、それを足場にして猿のように駆け上がる。

 董はもっと異常だった。素手で岩の突起を掴み、人間離れした握力と柔軟性で、重力を無視するかのように這い上がっていく。その姿は、壁を這う巨大な蜘蛛のようだ。

「なっ、あいつら壁を登ってやがるぞ!」

「撃て! 落とせ!」

 賊たちが慌てて弓を向けるが、遅い。

 貫の援護射撃が、城壁から身を乗り出した賊の眉間を正確に撃ち抜く。

「よそ見してんじゃねえよ」

 貫がニヤリと笑う。

 迅と董が、城壁の上に到達した。

「へへっ、一番乗り!」

 迅が双剣を抜き放ち、回転しながら賊の群れに飛び込む。

 斬、斬、斬。

 目にも止まらぬ速剣が、賊たちの手首を、喉を、腱を切り裂く。

「ぎゃあああッ!」

 悲鳴が上がる間もなく、十人が血を吹いて倒れる。

 反対側では、董が「解体」を始めていた。

 彼女は巨大な包丁を振るい、賊の首を刎ね、胴を両断する。返り血を浴びて真っ赤に染まった仮面が、朝日に照らされて不気味に輝く。

「……柔らかい。脆い」

 董が呟くたびに、死体が増える。

 城壁の上は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。内部からの撹乱。これにより、城門の守備兵が手薄になる。

 

 その時。

 城門の前で、天が動いた。

 魏の陰から歩み出る。

 背負っていた油紙の包みを地面に置き、荒縄を引きちぎる。

 露わになったのは、黒銀に輝く巨大な凶器。

 方天画戟。

 天は深呼吸をし、両手で柄を握りしめた。

 ズシリと重い。一ヶ月の訓練で筋力はついたが、それでもまだ、これを自在に振り回すことはできない。

 だが、振る必要はない。

 叩き壊せばいい。

「砕牙隊! 丸太を持ってこい!」

 断たちが、巨大な破城槌(丸太)を抱えて走ってくる。

「大将! 合わせるぜ!」

「おう!」

 天は方天画戟を高く振り上げた。

 狙うは、城門の閂(かんぬき)がかかっている一点。

 全身のバネを使う。太史慈に教わった呼吸法で、丹田に気を溜める。

 そして、父・呂布の破壊衝動を解放する。

「開けろォォォォォッ!!」

 天が戟を振り下ろすのと同時に、断たちが丸太を門に叩きつける。

 

 ドッッッゴォォォォォォンッ!!!!

 

 轟音が峡谷に木霊した。

 分厚い樫の木で作られ、鉄板で補強された城門が、内側にくの字にひしゃげた。

 方天画戟の月牙(三日月刃)が、鉄板ごと門を切り裂き、その衝撃波が閂を粉砕したのだ。

 メリメリメリッ!

 蝶番が悲鳴を上げ、巨大な門が内側へと倒れ込む。

 砂煙が舞い上がる中、門の残骸の上に天が立った。

 手には方天画戟。全身から立ち上る闘気は、まさに鬼神。

「……邪魔する奴は、全員殺す」

 低い声。だが、それは戦場にいる全ての者の耳に届いた。

「ひ、ひぃぃッ! 門が破られたァッ!」

「逃げろ! 殺されるッ!」

 賊たちが武器を捨てて逃げ惑う。堅牢な守りに守られていた安心感は、一瞬で絶望へと変わった。

「乗り込めェェッ! 一匹残らず喰らい尽くせ!」

 天が戟を突き上げ、号令をかける。

「うおおおおおおッ!」

 餓狼隊の兵たちが、雪崩のように砦内部へと侵入する。

 断の大斧が敵を吹き飛ばし、迅の双剣が舞い、魏が盾で押し潰す。

 それは戦いではなかった。

 一方的な蹂躙。捕食者による狩りだった。


 砦の最奥、本丸の広間。

 河賊の頭目・郭石(かくせき)は、震える手で剣を握りしめていた。

 外からの悲鳴が近づいてくる。数千いたはずの手下たちが、たった五百の兵に蹴散らされている。

「ば、馬鹿な……正規軍でも落とせなかったこの砦が……」

 ドォンッ!

 広間の扉が吹き飛んだ。

 入ってきたのは、血に濡れた一人の少年。

 天だ。

 彼はゆっくりと歩み寄る。その足跡には、べっとりと血の跡が残っている。

「貴様が頭だな」

 天は方天画戟を床に引きずりながら近づく。金属が擦れる音が、郭石の神経を逆撫でする。

「く、来るな! 俺は郭石だ! この辺りの水を支配する王だぞ!」

 郭石が剣を振り回すが、腰が引けている。

 天は呆れたように鼻を鳴らした。

「王? 笑わせるな。壁の中に隠れてふんぞり返ってるだけの豚が、王を名乗るんじゃねえ」

 天は間合いに入った。

「王ってのはな……誰よりも前に立ち、誰よりも血を流す奴のことだ!」

 郭石が剣を突き出す。

 天は避けなかった。

 方天画戟を下から斬り上げる。

 豪快かつ単純な一撃。だが、その重量と速度は、郭石の想像を遥かに超えていた。

 ガキンッ!

 郭石の剣が、根元からへし折れて宙を舞う。

 そのまま戟の刃が、郭石の鎧を紙のように切り裂き、胴体を斜めに両断した。

「あ……」

 郭石は自分の下半身が崩れ落ちるのを見て、音もなく絶命した。

 天は戟についた血を振り払った。

 腕が痺れている。筋肉が断裂寸前だ。まだ、この武器を自在に操るには程遠い。一撃必殺の破壊力はあるが、連撃ができない。外せば死ぬ。

(……まだまだだな)

 天は自嘲した。だが、確かな手応えもあった。

 太史慈に教わった「心の制御」。怒りに飲まれず、冷静に殺気だけを解放する感覚。それが少しずつ掴めてきている。


 戦闘開始からわずか半刻(約一時間)。

 難攻不落と呼ばれた黒龍砦は陥落した。

 砦の頂上に、餓狼隊の旗印――口を開けた狼の旗が翻る。

 生存者ゼロ。捕虜なし。

 徹底的な殲滅戦だった。

 広場に集まった部下たちは、皆血まみれだったが、その表情は晴れやかだった。

「やったぜ! 俺たちの勝ちだ!」

「見たかよ、正規軍の連中! 俺たちが一番乗りだ!」

 歓声が上がる。

 仙が負傷者の手当てに走り回っている。律が戦果を確認し、満足げに頷いている。

 天は、砦の縁に立ち、眼下に広がる長江を見下ろした。

 濁流がうねり、東へと流れていく。その先には、赤壁がある。

「……悪くねえ初陣だったな」

 背後から迅が声をかけてきた。

「ああ。だが、これはただの前座だ」

 天は方天画戟を握り直した。

「次は劉備軍との合流だ。そこには、本物の化け物たちがいる」

 関羽。張飛。趙雲。

 父・呂布と渡り合った伝説の豪傑たち。

 彼らと肩を並べた時、自分は対等に立てるのか。それとも、まだ「子供」扱いされるのか。

 恐怖はない。あるのは、身震いするほどの武者震いだけだ。

「行くぞ。狼の群れが通る道を開けろ」

 天は長江の彼方を指差した。

 餓狼隊の、本当の戦いが始まろうとしていた。

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