第7章:檻の中の舞姫


 建安十二年、春。

 孫権から正式に「餓狼隊(がろうたい)」の名を与えられてから、数ヶ月が経過していた。

 だが、天(テン)たちの状況は好転するどころか、むしろ泥沼に嵌り込んでいた。

 場所は、建業の城外に設けられた餓狼隊の駐屯地。以前の「ゴミ捨て場」よりはマシだが、荒れ果てた荒野に急造された粗末な柵とテントがあるだけだ。風が吹けば砂塵が舞い、雨が降れば泥の海となる。

 天は、天幕の中で腐った床板を蹴り飛ばした。

「ふざけやがって……! これが正規軍の扱いかよ!」

 怒号が狭い空間に響く。

 傍らの机で帳簿をつけていた律(リツ)が、眼鏡を押し上げながら冷静に答えた。

「想定内ですよ、大将。孫権様は我々を認めてくださいましたが、実務を取り仕切っているのは長昭(ちょうしょう)殿や程普(ていふ)将軍といった古参の方々です。彼らにとって、我々は目の上のたんこぶ。補給を滞らせ、兵の補充を拒否し、自然消滅を待っているのです」

 律の言う通りだった。

 「千人将」という肩書きこそ貰ったが、実態は伴っていない。現在の餓狼隊の総数は、合肥(がっぴ)の生き残りを含めても百人に満たない。武器は錆び、鎧は穴だらけ。食料も仙(セン)が野草や獣を狩ってきて何とか凌いでいる状態だ。これでは、次の戦場で戦うどころか、飢え死にするのが関の山だ。

「兵が足りねえ。圧倒的に足りねえんだよ」

 天は頭を抱えた。

 正規の募兵に応じる者はいない。「呂布の息子」が率いる部隊になど、誰も入りたがらないからだ。入ってくるのは、借金取りに追われたゴロツキか、頭のネジが外れた犯罪者くらいのものだ。

「まともな兵士は期待できませんね」

 律が筆を置いた。

「ですが、まともじゃない奴なら、心当たりがあります」

「……あ?」

 天が顔を上げる。

 律は一枚の書簡を取り出した。それは、建業の裏社会で出回っている、非合法な賭け試合のチラシだった。

「建業の地下には、貴族たちが余興で殺し合いをさせる闘技場があります。そこに最近、とんでもない『新人』が現れたという噂です」

「新人?」

「ええ。人間離れした動きで、猛獣だろうが武装した戦士だろうが、一瞬で『解体』してしまうそうです。通称――『解体姫』」

 律の瞳が、怪しげに光った。

「我々に必要なのは、規律正しい兵卒ではありません。一騎当千の狂気です。もしその噂が本当なら、勧誘してみる価値はあるでしょう」

 天の口元がニヤリと歪んだ。

 解体姫。その響きには、血と鉄の匂いがした。自分たちと同じ、同類の匂いだ。

「いいぜ。どうせ暇で腐りかけてたところだ。その姫様とやらに会いに行こうじゃねえか」


 その夜。

 建業の貧民街のさらに奥深く。廃坑を利用して作られた巨大な地下空間は、熱気と欲望の臭気に満たされていた。

 松明の明かりが揺らめく中、すり鉢状になった闘技場の周囲を、数百人の観客が埋め尽くしている。彼らは皆、絹の服を着た貴族や富豪たちだ。表の顔は紳士だが、裏では他人の流す血に興奮し、金を賭ける下劣な亡者どもだ。

「殺せ! 殺せ!」

「内臓を見せろ! 今日は百金賭けてるんだぞ!」

 怒号と歓声が渦巻く中、天は一般客に紛れて観客席の最上段に立っていた。

 隣には律。そして背後には、巨漢の魏(ギ)がフードを深く被って控えている。魏の背中には、布でぐるぐる巻きにされた長大な物体――方天画戟(ほうてんがげき)があった。天の右腕はまだ完治しておらず、重い戟を持ち歩くことはできないため、魏に運ばせているのだ。

「趣味の悪い場所だ」

 天は眼下の闘技場を見下ろして吐き捨てた。

 赤黒く変色した砂。あちこちに散らばる骨片。そこは、人間としての尊厳が剥奪された処刑場だった。

 律が手すりに身を乗り出し、眼下を指差した。

「始まりますよ」

 司会者が声を張り上げる。

「さあ、本日のメインイベントだ! 東の檻から現れるは、南蛮から取り寄せた人食い虎! 対する西の檻からは、無敗の処刑人形、解体姫の登場だァッ!」

 銅鑼が打ち鳴らされた。

 東の鉄格子が開き、鎖に繋がれた巨大な虎が引き出される。飢えているのか、その咆哮は岩肌を震わせるほど凄まじい。

 そして、西の檻。

 暗闇の中から、ゆらりと一つの影が現れた。

 どよめきが起きる。

 現れたのは、小柄な少女だった。天と同じか、少し年下に見える。身につけているのは、血で汚れた粗末な布切れのみ。手足は細く、肌は病的なまでに白い。

 だが、異様だったのはその顔だ。

 顔の上半分を、無機質な鉄の仮面で覆っている。表情は見えない。ただ、仮面の奥から覗く瞳だけが、感情のない硝子玉のように光っていた。

 その両手には、不釣り合いなほど巨大な、二丁の肉切り包丁(クリーバー)が握られている。刃渡り五十センチはあるだろうか。肉厚で、無骨な鉄塊のような刃物だ。

「……あれが、姫か」

 天が呟く。

 一見すれば、ただの華奢な少女だ。虎の一撃でミンチになる未来しか見えない。

 だが、天の本能が告げていた。

 あの少女は、虎よりも危険だ。あの立ち姿。重心のブレなさ。そして何より、あの虚ろな瞳。あれは、生きることを諦めた者の目ではない。殺すこと以外を忘れた者の目だ。

 

 鎖が解かれた。

 自由になった虎が、涎を垂らして少女に襲いかかる。体重三百キロを超える筋肉の塊が、矢のような速度で飛びついた。

 観客が息を呑む。

 少女は動かなかった。虎の爪が喉元に迫る、その瞬間まで。

 

 ザンッ。

 

 一瞬だった。

 少女がステップを踏んだように見えた。

 次の瞬間、空中で虎の動きが止まった。

 ドサッ、と何かが落ちる音。

 虎の前足だった。

「ギャオオオオッ!?」

 虎が悲鳴を上げて転げ回る。

 少女は無造作に着地し、包丁についた血を振った。その動きには、恐怖も、興奮も、殺意すらない。

 ただの「作業」だった。

「すげぇ……」

 天が身を乗り出す。

 速いだけではない。正確だ。虎の強靭な筋肉や骨を断つのは容易ではない。彼女は虎の動きを見切り、関節の継ぎ目、骨と骨の隙間に刃を通し、一瞬で切断したのだ。

 虎は片足を失いながらも、怒り狂って再び襲いかかる。

 少女は踊るように回転した。

 右手の包丁が虎の鼻先を裂き、左手の包丁が腹の下を潜り抜ける。

 鮮血のシャワーが舞った。

 虎の腹が裂け、内臓がドロリとこぼれ落ちる。

 それでも虎は倒れない。生命力の塊だ。

 少女は、のたうち回る虎の背中に、軽やかに飛び乗った。

 そして、包丁を逆手に持ち替え、虎の延髄――首の骨の隙間に、深々と突き刺した。

 ゴッ。

 虎の動きが完全に停止した。糸が切れた人形のように、巨体が崩れ落ちる。

 静寂。

 そして爆発的な歓声。

「やりやがった! 今日も勝ちだ!」

「化け物め! 最高だ!」

 金貨や花が投げ込まれる。だが、少女――董(トウ)は、それに見向きもしなかった。

 彼女は、動かなくなった虎の前に膝をつき、包丁でその死体を切り刻み始めた。

 戦いは終わっている。だが、彼女の手は止まらない。

 皮を剥ぎ、肉を分け、骨を外す。まるで料理人が食材を捌くように、淡々と、そして執拗に。

 その姿は、あまりにグロテスクで、あまりに美しかった。

「……イカれてやがる」

 天の隣で、律が顔をしかめて吐き気をこらえた。

「あれは戦士ではありません。殺戮機械です。心が壊れている」

「いや、違うな」

 天は手すりを握りしめた。

「壊れてるんじゃねえ。……泣いてるんだよ」

 天には見えた。

 返り血を浴びて笑っているように見える仮面の下で、少女の魂が悲鳴を上げているのが。

 あれは、かつての自分だ。

 採石場で、力を制御できずに暴れ回っていた頃の自分。周囲から「獣」と呼ばれ、恐れられ、そう振る舞うことでしか自分を守れなかった孤独な魂。

「律、魏。ここで待ってろ」

「え? 大将、まさか」

 天は柵を乗り越えた。

 十メートル近い高さから、闘技場の砂の上へと飛び降りる。

 ズドンッ!

 着地の衝撃で砂塵が舞う。

 突然の乱入者に、観客たちが騒然となる。

「誰だあいつは!?」

「試合は終わりだぞ! 何者だ!」

 天は観客など無視して、少女へと歩み寄った。

 董の手が止まる。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、血に濡れた包丁を天に向けた。

「……邪魔を、するな」

 初めて聞く声。それは擦り切れた弦楽器のように、細く、掠れていた。

「餌になりたいの? 解体してあげる」

 殺気が膨れ上がる。虎に向けられたものとは比較にならない、人間への純粋な害意。

 天は足を止めず、武器も構えずに歩き続けた。

「解体か。いい腕だ。だが、死体を刻んで何が楽しい」

「……楽しいわけじゃない。これは、確認よ」

 董が首を傾げる。不気味な仕草だ。

「中身を見れば、わかるから。みんな、ただの肉。貴族も、奴隷も、獣も。皮を剥げばみんな同じ、汚い肉の塊」

「そうか。随分と寂しい確認作業だな」

 天の言葉に、董の肩がピクリと震えた。

「……あんたも、肉になりたいのね」

 ドッ!

 地面を蹴る音。

 速い。

 さっきの虎との戦いよりも、さらに速い。

 董の姿がブレて、天の懐に潜り込む。二丁の包丁が、天のアキレス腱と頸動脈を同時に狙って繰り出される。

(殺す気か。上等だ!)

 天は右腕が使えない。左手一本だ。

 腰に差していた木刀を抜く暇はない。

 天は半身になり、紙一重で足元の刃を避けた。同時に、首を狙った刃を、左手の甲で弾く。

 ガチンッ!

 天の手甲(ガントレット)と包丁が火花を散らす。

「なっ……?」

 董が驚愕の声を漏らす。彼女の速度についてきた人間は、今までいなかった。

 天はその隙を見逃さず、左足で董の軸足を刈り取った。

 董が体勢を崩す。

 そこへ、天の左拳が炸裂する――寸前で止まった。

 寸止め。

 拳の風圧だけで、董の仮面がガタリと揺れた。

 董は尻餅をつき、呆然と天を見上げた。

「……なんで、殴らないの」

「勧誘に来たんだ。商売道具(顔)を潰しちゃ寝覚めが悪い」

 天はニッと笑い、手を差し伸べた。

「俺の名は天。お前と同じ、ろくでなしだ」

 観客席からブーイングが飛ぶ。

「おい、やっちまえ! 殺せ!」

「なんだあのガキ、片腕じゃねえか!」

 罵声が降り注ぐ中、天は董を見下ろした。

「ここは狭すぎるだろ。毎日毎日、同じ場所で、同じような獲物を解体するだけの日々。……飽きねえか?」

 董は天の手を見つめた。

「……外に出ても、同じよ。私は化け物だもの。みんな、私を怖がるか、殺そうとするか、見世物にするか。どこにも居場所なんてない」

「あるぜ」

 天は親指で自分の背後を指した。

「俺の部隊に来い。『餓狼隊』だ。そこには、俺みてぇな裏切り者の息子や、社会不適合者しかいねえ。お前みたいな解体マニアが一人増えたところで、誰も驚きやしねえよ」

 董の瞳が揺れる。

「……私を、怖がらないの?」

「ハッ、笑わせんな。俺の親父は呂布だぞ。あいつに比べりゃ、お前なんざ可愛い子猫だ」

 天の言葉に、董は初めて反応を示した。

「呂布……? あの、魔王の?」

「そうだ。俺の血管には、その魔王の血が流れてる。だからわかるんだよ。お前の中にある『獣』の正体がな」

 天はもう一度、手を差し出した。

「来いよ。檻の中で飼われる獣じゃなく、荒野を駆ける狼になれ。俺が飼い主になってやる」

 飼い主。

 その言葉は、普通なら屈辱的だ。だが、董にとっては違った。

 今まで彼女を縛り付けていた鎖の主たちとは違う。この少年は、対等な「獣」として、彼女の手綱を握ろうとしている。

 董はゆっくりと手を伸ばした。

 血にまみれた小さな手が、天の大きな手に触れる。

 その瞬間。

「おいおいおい、勝手な真似しねえでくれるか?」

 ドスの利いた声が響いた。

 闘技場の入口から、武装した男たちがぞろぞろと入ってくる。この闘技場を仕切る元締めと、その用心棒たちだ。

 元締めらしき太った男が、葉巻をくゆらせながら天を睨めつけた。

「そのガキは俺の大事な商品だ。一回戦うたびに、山のような金を稼ぎ出すドル箱なんだよ。それを横から拐(さら)おうなんて、いい度胸じゃねえか」

 用心棒たちが武器を構える。その数、五十人。

「呂布の息子だか何だか知らねえが、ここじゃ俺がルールだ。生きて帰れると思うなよ」

 天はため息をついた。

「……せっかく穏便に済ませようと思ったのに。これだから大人は嫌いだ」

 天は董の手を握ったまま、引き立たせた。

「おい、董。と言ったか」

「……うん」

「あいつら、解体したいか?」

 天が用心棒たちを指差す。

 董は仮面の奥で、冷たい光を宿した。

「……肉の質は悪そうだけど、数は多いわね」

「よし、採用試験だ。あいつらを全員片付けろ。俺は片手が塞がってるから、サポートに回る」

 天は腰の木刀を引き抜いた。左手一本だ。

「準備はいいか?」

 董は包丁を構え直した。その足取りから迷いが消え、代わりに鋭利な殺意が漲る。

「……命令して。飼い主様」

 天は獰猛に笑った。

「やれッ! 一匹も逃がすな!」


 戦闘が始まった。

 五十人の大人対、二人の子供。

 だが、それは一方的な蹂躙だった。

 董が跳ねる。

 彼女の包丁が閃くたびに、用心棒の手足が宙を舞う。だが、彼女は防御を考えていない。捨て身の特攻だ。

 そこを、天が埋める。

 董の死角から槍が突き出されれば、天が木刀で叩き折る。

 背後から剣が迫れば、天が蹴りで吹き飛ばす。

「右だ!」

 天が叫ぶと、董は振り返りもせずに右へ包丁を投げる。敵兵の額に深々と突き刺さる。

「上!」

 董が叫ぶと、天は跳躍して敵の脳天をかかと落としで粉砕する。

 初めての共闘。

 だが、その連携は恐ろしいほど噛み合っていた。

 互いに言葉はいらない。血の臭いと殺気だけで通じ合う。それは、同じ「獣」としての本能的な共鳴だった。

 十分も経たぬうちに、闘技場は血の海と化した。

 立っているのは、天と董だけだ。

 元締めは腰を抜かし、失禁して震えている。

「ひ、ひぃ……助け……」

 天は木刀を肩に担ぎ、元締めの前に立った。

「金は置いていく。この娘の身代金だ。文句があるなら、次はもっとマシな兵隊を連れてこい」

 天は懐から、太史慈が残してくれたなけなしの金貨袋を投げつけた。

 元締めは何も言えず、ただ頷くしかなかった。


 二人は地上へと出た。

 新鮮な夜風が、血の臭いを洗い流していく。

 月明かりの下。

 董は仮面を外し、それを地面に投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音がする。

 現れた素顔は、驚くほどあどけない、しかし美しい少女の顔だった。ただ、その左頬には、かつて焼印を押された醜い火傷の痕が、ケロイドとなって残っていた。

「……見ないで」

 董が顔を隠そうとする。髪で覆い、視線を逸らす。

「醜いから。化け物だから」

 だが、天はその頬に触れた。泥と血に汚れた手で、優しく。

 董がビクリと身を強張らせる。

 天はニカッと笑った。

「いい傷だ。戦士の勲章じゃねえか」

 董は目を見開いた。

 醜いと罵られ、隠し続けてきた傷。それを見る者は、いつも憐れむか、嫌悪するかだった。

 だが、この少年は違った。

 肯定した。

 傷も含めて、お前はお前だと言ってくれた。

 その時、董の中で凍りついていた何かが、音を立てて溶け落ちた気がした。

 この人になら、私の刃を捧げてもいい。

 私の全てを「解体」して、この人の力に変えてもいい。

 

 グゥゥゥ……。

 

 不意に、間の抜けた音が響いた。

 董の腹の虫だった。

 緊張が解け、極限の空腹が襲ってきたのだ。

 董は顔を真っ赤にしてうつむいた。

「……お腹、空いた」

 天は腹を抱えて笑い声を上げた。

「ハッハッハ! なんだよ、色気もクソもねえな!」

「……うるさい。戦ったら腹が減るのは当然でしょ」

「違いない。安心しろ、帰れば最高の飯が待ってるぞ。ただし、材料を聞くと食欲が失せるかもしれねえがな」

「……肉なら、なんでもいい」

 董は小さく笑った。それは、彼女が生まれて初めて見せた、年相応の少女の笑顔だった。


 こうして、餓狼隊に新たな「牙」が加わった。

 狂戦士・董。

 彼女の加入により、餓狼隊の攻撃力は飛躍的に向上する。

 だが、それは同時に、彼らがより危険な任務へ、より深い死地へと投入されることの予兆でもあった。

 

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